③ かいぶつが、あらわれた。
世の中には凄い本がいっぱいあって、それを超えることなんて僕には出来ないと思います。
それこそ、ちはやふるの太一がぼやく「青春ぜんぶ懸けたって新(あらた)より強くなれない」という気分に近いものです。
僕は人生のぜんぶ懸けても、世に出た凄い本よりも面白いものは書けない。
だとすれば、そこから続く原田先生が言う「懸けてから言いなさい」という結論に至るのでしょう。僕は言ってしまえば、まだ十年ぽっちしか懸けていない訳です。
八十歳くらいまで生きるとして、あと五十年とちょっとくらいの時間を僕は小説に懸ける必要があります。それでも、世に出た凄い本を超えられるとは到底、思えない訳ですが。
だいたい世に出た凄い本ってなんなんでしょう?
新潮という文芸雑誌の広告にトマス・ピンチョン全小説のものが載っていて、そのキャッチフレーズが「かいぶつが、あらわれた」でした。
そう、凄い小説を書く作家を表すなら「かいぶつ」なのだと思います(トマス・ピンチョンは「かいぶつ」と言われるに値する作家だと断言できます)。
例えば、池澤夏樹という作家がいます。彼は個人編集で世界文学全集を全三十巻を刊行し、その後に日本文学全集も全三十巻で刊行しました。全集を選ぶだけの読書量を個人が持ち得ている、という事実はそれだけで「かいぶつ」の名にふさわしいように思います。何より、池澤夏樹の小説は文句なく面白いんです。
あるいは、瀬戸内寂聴が1999年で出版した単行本は三百冊を超え、あるイベントで壁一面に自分の本を並べると眩暈がした、と対談で語っています。全部合わせて原稿用紙で一千万部を超えた文字を書いた瀬戸内寂聴のエネルギーは、軽く僕の想像を超えています。
人間の領域って原稿用紙で一千万部超える文字を書けるんだなぁ、しかもそれを出版レベルで。いや、もう「かいぶつ」って言うしかないじゃないのか、と。
そういう人たちを知っていく度に、ちはやふるの太一の気持ちがむくむくと浮かび上ってきます。ぜんぶ懸けても、と。
僕には原田先生のような言葉をかけてくれる人は残念(?)なことにいない訳ですが、それ故に自分で思ってしまいます。
「かいぶつ」のような人たちを見上げて、諦めるような人間で良いのか? と。
そういった問いの前で、僕が思うのは、諦めて良いのではないか? です。実は。
あくまで僕の人生を選ぶのは僕な訳だから、小説を諦めるという選択肢は常にあって良いはずなんです。問題があるとすれば、その選択をした時、後悔をしないかどうか。
僕は十年懸けた時間とかとは別の部分で、小説を止めることで、自分の中に開くだろう穴について考えてしまいます。もしかすると、あと二十年懸けていれば「かいぶつ」にはなれなくとも、小さな「かいぶつ」くらいにはなれたかも。
そういう可能性を後の人生で抱え続けることと、「かいぶつ」にはなれないと思いながら、でもだけど、と続けるの、どちらが良いのだろう。
答えは決まっていて、何はともあれやってみる。
立ち止まって諦めるよりも、あれこれと考えながらやる自分の方が一ミリくらいの差で好きになれる気がするんです。
ポジティブというよりは僕はある角度から見ると、絶望的なほど考え足らずな部分があって、その部分によって十年やってきていて、多分これからも小説を書いていくのでしょう。
十年後とか、二十年後の自分が過去の自分を顧みて「小説とかマジ書いてんじゃねーよ」と言うのだとしたら、今の僕からすると、「いや、ほんとバカでごめん」と謝る他ないのでしょう。
という訳で、今の僕が出来ることは小説を書くことで失ってしまう何かを最小限に留めながら、自分の時間を全て小説に注いでいくことだけなのでしょう。
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