② エッセイを書く理由。
エッセイを書く理由を考えていました。
その理由は①で書くつもりでいたんですが、何やら暗いぐちぐちした泣き言が続くだけで、もうまったくエッセイに触れられませんでした。
なので、今回は「エッセイ」について書きたいと思います。
僕はエッセイみたいなものに憧れがありました。
そういうものを読むのが好きってのもあったし、自分の書いた文章がネット上で不特定多数の人間の目に晒されるっていうのは、間違いなく面白い。
まぁ、こんな暗い、常に日陰の湿った原っぱみたいな文章を誰が読むのか、というとよく分からないんだけど。
庄司薫のエッセイの中で、読者からもらった手紙は全て残している、というのがありました。
例えば街を歩いてすれ違った男の子が読者で手紙をくれていたとしたら、そんな手紙を僕は大事に持っているんだよ、という気持ちになる、と。それを僕は良いなぁと思うんです。
街をすれ違う誰かが、例えば僕の好きな作家で、僕はその作家のおかげで考え方が変わったり、孤独な夜を乗り越えていたりしていて、けれど僕たちは言葉を交わすことなくすれ違っていきます。
上手く言えないけれど、それこそが文章の強みなのではないか、と僕は思ってしまうんです。顔を合わせて話すのでは伝えられないことがあって、その返答もやっぱり顔を合わせては出来なかったりする。
そういう声にできない経験をした時、特定の誰かに伝えようとした時にエッセイっていう場があるのは便利だろうな、と思うんです。
僕の職場の上司や同僚はやたら飲みに行きたがるところがあって、そこで色んな話をします。僕もお酒があればどこへでも行くがキャッチフレーズで生きている部分があるので、ホイホイついていきます。
そこで交わされる話は、なんというか、その瞬間にしか有効ではない言葉たちなんです。もしかすると、翌日くらいまでは効力を持つかも知れませんが、その程度です。
学生の頃の友人との飲み会では、もっと無防備で、意味のあるお酒を飲んでいたような気がするんですが、社会に出るとそういう飲み会はめっきり減ってしまいました。
その理由を考えてみると、社会人の人たちって自分のことを語るための言葉を持っていないんです。会社としての自分とか、男としての自分とか、女としての自分とか、そういう他人の目から見た(見られた)自分像ばかりを語ろうとするんです。
けれど、そういう他者からの目を意識した言葉って配慮がある分、どこか熱意に欠けるというか、傷つかないで良い安全圏から話している感じがあるんです。
それが悪い訳では決してないんです。
自分をさらけ出し合って、喧嘩されても困りますから。ただ、そういう他者から見た自分像で語ることだけに慣れ過ぎてしまいたくはないな、と僕はどこかで思っていました。
他者から見た自分像というのは、いわゆる周囲に与えられた役割なんです。その役割を演じるように酒を飲んでいる訳です。
楽しいかと、問われれば、これが中々と答えます。
中々面白いんです。
だからこそ、危機感を覚えもします。
僕は僕がなりたい自分像というものを持っています。それを飲み会の席で語りたいか、と言われれば首を傾げるんですが、語らないと薄らいでしまうことは確かなのだと思います。
薄らいだ方が社会人としては良いのかも知れませんが、小説家を目指す僕からすると、それはマイナスのように感じます。
僕は僕でいたい、なんて中二病も良いところですが、そういう場を一つ持っていたい。そんな思いもあって、エッセイを始めようと思いました。
誰かの為というよりは自分の為。
と、書くと本当に僕は小説家にはなれないのだと思いますが(人を楽しませるものが商品として並ぶ訳ですから)、中二病な自意識から抜け出せずにいる二十七歳なので、ご容赦いただければと思います。
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