④ 悪と戦うということ。

 高橋源一郎がドン・キホーテの小説を引き合いに出して、戦わない小説は小説ではない、ということを言っていました。風車でも良いから、間違っていても良いからやれ、と。


 小説とは何かと戦うことなのでしょうか?

 翻訳家の柴田元幸が村上春樹の小説は悪と戦おうと言っている、と言っていました。

 世界なり自分なりが、内から外からか分からないけれど、邪悪なものに損なわれようとしている。それと(村上春樹の)小説は戦おうとしている、と。


 その悪はドン・キホーテが戦った風車(間違ったもの)であっても良いのだと言う高橋源一郎の意見を飲み込んだとしても、僕は何かとても難しい問題を突き付けられたように感じました。

 悪を見つけるよりも戦うことの方が難しい。少なくとも僕にとっては。


 僕は人との衝突を常に避けて生きてきましたし、何か自分にとって不利益をこうむっても、それを飲み込むことが大人だと刷り込まれてきました。少なくとも、そういう空気を僕は常に感じてきました。


 出る杭になれば打たれる。

 だから、目立たないように他人の意見には首を捻る部分があっても頷くし、自分の意見が否定されれば潔く身を引きます。納得ができなくても僕の言い方や知識の貧困さが問題で、相手には伝わらなかったんだと思います。


 僕は僕を納得させる為の言葉を多く持っています。

 その方が正直なところ楽なんです。相手を、他人を納得させたり、理解してもらう為には多くの言葉と長い時間が必要になります。僕にはそんな根気も、確固たる哲学もありませんでした。


 戦う、ということは諦めることよりも面倒で、しんどく、不毛なことなんです。少なくとも、僕にとっての戦いはそういうものです。

 それでも、常に白旗を上げ続けて損なわれ、詰まらない奴扱いを受け続けるのに我慢が出来なくなる瞬間がありました。


 戦おう、と思った瞬間です。

 それは二十三歳の頃です。とても仲の良かった友人と決別し、楽しいモラトリアムから距離を置いて、就職をしました。

 就職先では本当に酷い目にあいました。死にたい、と三日に一回くらいの頻度で思ってましたし、そんな僕の声を聞いてくれる人は周囲には誰もいませんでした。


 けれど、それが悪と戦う、ということでした。結局、悪はどこにでもありました。僕の中にも、社会にも。それと戦うとか、戦わないとか、そういう余地なく、悪は目の前に現れて僕たちから何かを損なわせていきます。

 損なわれない為に戦い、損なわれたものを取り戻す為に戦わなければなりませんでした。面倒でも、しんどくても、不毛だと感じても戦わなければ、損なわれ続けてしまうんです。


 戦う為の手段として、僕は小説を選んでいるのかも知れません。少なくとも、戦っている間であれば、損なわれずに済むものがある、と僕は二十三歳の頃に気付いたんだと思います。もちろん、戦うことで失うものもある訳です。


 少なくとも、二十三歳の時に決別した友人とは、もう連絡をとっていません。

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