空耳
川林 楓
空耳
河川敷を走っている。朝の淀川の河川敷は気持ち良い。人間らしい時間の使い方だと思う。二週間ほど前から毎朝走っている。秋の太陽は僕に優しい。
遠くに橋が見える。寝屋川市と茨木市を結ぶ橋だ。ミニカーのような車がたくさん行き来している。平日のこの時間、何の目的もなくドライブしている人はいないだろう。目的のある行動をするならば、車のほうが便利だ。将棋の名人が人工知能に負けたというニュースを最近見た。もうすぐ目的のある思考は人工知能に乗っ取られるかもしれない。
二週間ほど前に職場が移動した。京都支社から大阪本社に移動した。会社は変わっていないから場所が移動しただけだ。職場というよりオフィスと言ったほうが自分的にしっくりくるが、何か恥ずかしさが勝ってまだオフィスと人に言ったことがない。
朝の淀川の河川敷は案外人が多い。皆それぞれの時間を慌てることなくのんびり過ごしている。人生に直結する時間ではないのかもしれないが、現代社会ではそういった時間が必要なのだと皆が自己主張しているような気がする。僕はダイエットのために走っているが、現代社会の象徴な行為だなあと我ながら思う。本来動物は必要以上にものを食べない。食べたら無駄にエネルギーを使わないようにするのが動物らしい行動だと思う。動物園のライオンのように。馬鹿みたいに食べ過ぎて慌てて走る。それが自然な行為とはとても思えない。
ドローンを飛ばしているおじさんがいる。ドローンは空中に自分の居場所を見つけたようで得意気に飛ぶ。その横の木に引っかかった赤い凧が、寂しそうにその様子を見ている。人の手から離れて一人ぼっちの凧。自由を得たのか不自由になったのかそれは本人に聞いてみないとわからない。
ウォーキングをしている太ったおばさんがいる。手をしっかりと前後に振ってやる気がみなぎっている。でもそのやる気が継続しているのならば、きっとその体形はしていないだろう。つい心の中でつっこんだが、そんな邪念もスッと空の中に消えていく。
空は青い。いや、正確にはその四分の一くらいの面積を白い雲が占領している。いや、正確にはまたその二分の一くらいの面積は白ではなく灰色の雲が占領している。日が当たらないから灰色なのか、雨が降りそうだから灰色なのかは僕にはわからない。白い雲も灰色の雲も占領している領域が狭いためか、どちらも少し自信なさげに佇んでいる。
空に二羽の鳥が羽ばたいてる。一匹は先程のドローンよりもっと上。大空を翔けている。名も知らぬ茶色の綺麗な鳥だ。空が自分の居場所だと自己主張するように優雅に羽を広げる。もう一匹は地面近くを気忙しく飛ぶカラスだ。餌を探すその姿は、昼休みのオフィス街のサラリーマン達を思い起させる。近くの定食屋やカフェに急ぐ人々。お腹が空いているためか時間がないためか皆少し早足だ。食べることの意味などとっくに忘れたように見える。ただそれを不幸だとかはとても思えない。そんな人間よりもこのカラスのほうが頭は良さそうに見える。
僕はゆっくり走っている。有名スポーツメーカーの赤いジャージ、オレンジのランニングシューズには申し訳ないぐらいのスピードでゆっくり走っている。ランニング馬鹿な上司に教えてもらったスロージョギングというのを実践している。つもりである。人と会話できるくらいのスピードで走るというランニング法である。歩くのと変わらないスピードでも良いとのことだ。そんな速さでも歩くよりも多くのカロリーが消費されるらしい。この提案者が言うには、太古の我々の祖先はこの走り方をしていたということだ。獲物を捕らえるためにだ。いや正確には他の動物が捕らえた獲物の残りをもらうために。ライオンが食べた残りをハイエナやハゲワシや人間が食べるというのがその時代の常識だったようだ。あくまでその人の説なので本当かどうかわからない。それはとても不自然な光景に思えるが、飽食の現代日本よりは自然な姿なのかもしれない。僕の祖先もさっきのカラスと死肉の取り合いをしたのだろうか。
人間が二足歩行をして両腕を使えるようになったのは、雌にモテるためだという説がある。プレゼントをたくさん贈る雄がモテたらしい。プレゼントを沢山持てるように腕を歩くことに使わなくなったということだ。両腕にたくさんの肉や木の実を持ってにやけて歩く自分の祖先を想像する。自分のことではないのに、軽い自己嫌悪におちいる。とにかくダイエットのためのスロージョギングで自然の中を走っているのだ。
いや、河川敷が自然かどうかも怪しい。周りはコンクリートに固められているのだ。その上に草木が生い茂っている。都会の中では自然に見えるが立派な不自然である。不自然なランニングを不自然な河川敷でおこなう。汗をかいてお腹が空くとなぜか達成感がでるので真実などどうでも良いのかもしれない。
この河川敷の周辺は北河内という地域だ。僕は子供のころから住んでいるこの土地が好きだ。実家を出て一人暮らしをするのも結局実家近くにしてしまったほどだ。江戸時代、淀川のこのあたりの河川敷では、くらわんか餅というものが名物だった。船で大坂から京都に移動する旅人に河川敷から餅を売る。買わない者がいたら「アホ、早く行きさらせ」と暴言を吐くという商売だ。これより低俗な商売を僕は今まで聞いたことがない。
そんな下品なところが好きというか、肩に力をいれないで良いその雰囲気が好きなのだ。大阪らしさと京都らしさが共存しているようで好きだ。まあ自分の中の大阪らしさと京都らしさが一般の解釈とあっているのかは知らない。
少し南のほうに成田山不動尊がある。まだそんなに歴史は古くない。昭和になってからできた。なぜできたかと言うと、住宅地として売り出していこうとしたが、大阪の北東の方角にあるため家を建てるのを嫌がる人が多かったためらしい。北東は鬼門の方角だからだ。鬼門の方角でも護ってくれているから大丈夫だと示すためだ。そんなことをたくさん信じる人がたくさんいたことに驚きだ。
北東がなぜ鬼門の方角なのか。疑問に思ってネットで調べたことがある。諸説あるらしいが、この説がたぶん正しいと僕は思っている。
古代中国では再三モンゴル地方に住む匈奴の攻撃に苦しめられた。そのため北東が不吉な方角になったというのだ。それが正しければ大阪の鬼門は北東になるはずだと思う。でもそんなことを言ったら非常識だと思われるだけだ。
そもそもそんなことを言ったら神様がいるかどうかという疑問も自分の中にある。先程言ったずっと昔の狩猟をしていた人類。まだ文化を持たなかったその時代には天国や地獄は今のようにあったのだろうか。それとも人間が言葉を使い文字を使い建物を建てる。そうやって文化の発展と同時に天国や地獄も改築改築をしていったのだろうか。それならば天国も地獄も作ったのは人間ではないかとか思うのである。本能の善と人間の善は違うと思う。というか、初めから本能に善などという定義などないのだろうか。別に宗教を信じる信じないという話でなく、「どうして太陽って熱いの」という子供の疑問ぐらい純粋なものである。
人類の叡智を超えた存在を否定するつもりは全くない。子供の時にはそういった存在を日常で見ていたので、それを疑うつもりも毛頭ないのだ。ただ少し前に神も仏もないと感じた経験をしてひねくれているだけだと自分では思う。
一カ月前、付き合っている彼女にサプライズプロポーズをしたのだ。1LDKの僕のマンションの十六畳のリビング。そこで僕の友達と彼女の友達五人を呼んでのホームパーティーでだ。付き合って二年。僕が三十四歳で彼女が二十九歳だ。ちょうど良いタイミングだと感じていた。
友達らに協力してもらい彼女に内緒でサプライズプロポーズを敢行した。当然自信はあったのだ。彼女と二年間しっかり愛を育んだと思っていた。
指輪を見つけた彼女。僕は即座に言った。「結婚しよう」と。
さあ歓喜の涙だと全員が期待したところで予想外の言葉が彼女の口から発せられた。
「え、私らそんな付き合いではないやん」
あまりに驚き、僕は反論する。
「なんでなん。何度も朝まで抱き合って将来を語り合ったやん」
「いや、それぐらいするやんか」彼女は困ったように言う。
もう言葉はなかった。絶対いけると自信をもっていたのは僕だけではない。周りの友達も大丈夫だと信じていたのでこの状況で皆の顔がひきつる。場が凍りつく。空気が固まったリビングで一か所だけ小刻みに揺れている。ふと見ると、中学校からの親友である山田が一人肩を揺らして笑いをこらえていた。
あの瞬間、僕は最愛の彼女と親友を失った。
あれから一カ月。仕事以外でほとんどスマホを見ていない。慰めの言葉も同乗の言葉も辛くなるだけなので。一度だけチラッとFaceBookを見ると、彼女は何事もなかったように会社の同僚といったバーベキューの様子を上げていた。彼女の笑顔から恐怖すら感じる。
嫌なことを思い出した。思考を止めようとしたが、脳みその血流がサプライズの指輪を準備をするにやけた自分を想像させる。完全に自己嫌悪に陥る。走る気力を失った。そろそろ家に帰ろう。河川敷から家までは徒歩で十五分ほど。ゆっくりと歩いて帰る。左手にあるマンション二階で洗濯物を干す若奥さんが視界に入った。あの日望んでいた未来が頭をよぎる。見えないふりをして少し大股に歩いた。
家に戻る。すぐに風呂でシャワーを浴びた。熱いお湯が少しかいた汗を何事もなかったように洗い流した。何かがリセットされた。その感触が気持ち良い。股に汗が溜まるので丁寧に股間を洗う。恥部周辺にシャワーの刺激が広がる。それに反応してアソコが大きくなった。失恋のショックで性欲がストップしていたので、この無意識の反応に少しびっくりする。失恋での心の落ち込みが少しマシになったのだろうか。アソコの変化でそれを感じるのが少々情けない。でも生きていると強く実感した。何かリアルだなあと思う。
バスタオルで髪を拭きながら、冷蔵庫と開ける。紙パックのまま牛乳を飲む。乾いた体に牛乳が染み渡る。食道から胃にかけて白く変色していく。そんな気がしてならない。牛乳は体に良い。インターネットを調べるとそんな記事がたくさんある。それを思い浮かべながら飲むと気持ち良い。体に良いと思って飲むと吸収力が違うように思う。
だがしかし、『牛乳 体に悪い』とネット検索してもこれまたたくさんの情報がでてくる。以前、牛乳を飲みすぎて下痢になった時、なんとなしに調べたがびっくりした。情報の取捨選択が大切だといろいろなところで聞くが、そんなことをどうやったらできるのだとつっこみを入れたくなる。体に良いと信じるか体に悪いと信じるかは、もはや丁半博打のようなものだ。
世の中、科学が進歩しても悲しみは少なくならない。悪魔の仕業なのだろうか。悪魔を退治するコンピュータとかはできないものなのだろうか。そもそも悪魔とは何なのか。狩猟をしていた祖先の時と今の悪魔は同じ価値観をもっているのだろうか。誰が答えを持っているか知らないが、誰か詳しい人がいたら教えて欲しい。
テレビをつける。朝の情報番組をやっている。ちょうど天気予報だ。かわいいお天気キャスターが屋外で明るい声で伝えている。自分が知らないうちに、「朝の天気予報はかわいい女の子が読まなければならない」とかいう法律でもできたのだろうか。どのチャンネルも軒並みかわいいお天気キャスターだ。当たらなかった時の苦情がそのほうが少ないのだろうか。つまらない判断だなと思う。
そろそろ出勤の時間だ。スーツに着替えて家を出る。河川敷とは違い、忙しい朝が街中にはあった。朝は二つの顔を持っている。
駅まで徒歩十分。最寄り駅は京阪香里園駅だ。駅の周辺にはやたらと焼き鳥屋が目立つ。それらの店は飛ばない鳥を調理している。飛ばない鳥は美味しい。空を見上げることはない。飛ぶことを忘れた鳥たちだ。
地上で生活する動物は空を見上げて綺麗と思わないのだろうか。先程河川敷で確かに空の広さに感動した。その行為自体が不自然なことなのだろうか。必死で生きていると明るい空など見ないのだろうか。
香里園駅に着く。階段をあがり改札を通る。職場は大阪方面の京橋だ。改札からホームへ降りる階段は前と後ろの二つある。前に行くのは、大阪方面に降りる階段。反対の後方に降りる階段。僕はいつも後方の階段を降りていく。どちらに降りてもさほど変わらないが、なんとなく習慣になっている。
この時間、ホームも電車も人でいっぱいだ。列に混じって急行電車を待つ。ここでいつも想像する。何百年か後の未来。どこかの国のおばあさんが自分の孫に話をする姿。
「昔むかし日本という国ではな。仕事場に行くために電車という乗り物を使ったのじゃ。朝決まった時間にたくさんの人たちが電車に乗る。」
「何か楽しそう。その乗り物って速いの」孫の男の子が無邪気な目で話す。
「そうじゃな。それなりに速いかな。まあ今の乗り物と比べるとずっと遅いがな。でも楽しいことなどないぞ。朝の電車はぎゅうぎゅうに人が詰め込められるのだ。もう全く余分なスペースなどないくらいにな」
「えぇ。かわいそう。その人たちは無理やり働かされているの」また無邪気な目の孫が質問する。
「いや、無理やり働かされているのではない。と、皆は思っておる。自分の意志で働いているとな。でもそもそもそれが正しい行動かどうかなどほとんどの者が考えてもいなかったんじゃ。自分の意志でもなんでもなく何となく流されていたんじゃな。そして皆働く時間を決められている。だいたい九時から十七時まで。その時間を働くよう命令されている。でもその命令通り働いても誰からも評価されないのじゃ。何も言わずその後の時間も黙々と働く者だけが褒めてもらえる世界だったのじゃ。」
「ルール通りにやっても評価されないなんて馬鹿みたい。不平不満とか言わなかったのかな」
「不平不満なんて言わないよ。それが当たり前だと思っておるからのう」
ホームに急行電車がたどり着く。このおとぎ話はまだまだ続くのだが、電車が到着するとそこで話が終わる。というか、そこでそんな時間潰しは終える。ぎゅうぎゅう詰めは嫌だなと思う。不自然の境地だ。でもこれを嫌がって職場に行かないことのほうが、この世界では不自然きわまりないのである。それが常識というものらしい。
電車の扉が開く。皆、行儀よく降りていく人を見守りそれがなくなってから入っていく。当然、おとぎ話と同じ状況で空いているスペースなどないくらいの状態だ。電車に乗ろうとすると後ろからやんわり押される。この流れに逆らわず中に入っていく。いつも通りの光景だ。空いている空間を埋めるように中に入っていくと、背中を向けたかわいらしい女の子と密着するような状況になった。真後ろを向いているわけでなく斜め後ろを向いているので顔がよくわかる。薄手の白いシャツと黒いミニスカート。年は二十歳そこそこだろうか。目が大きく垂れ目で鼻筋が通っている。思いっきり自分のタイプだ。背が自分より少し低いので、腰骨のあたりに自分の股間が当たる。ダメだと思い、姿勢を変える。その時、右手が彼女のお尻に触れた。とても柔かい。
今朝、ひさびさに湧いた性欲が、また目を覚ました。もっと触りたい。性欲が自分に語りかける。
その時だ。奇跡が起きた。いや、天使と悪魔が降り立ったのだ。スッと上から頭の少し上のあたりに降りてきた。どちらも大きさは三十センチくらいだろうか。左目の上あたりに天使。右目の上あたりに悪魔だ。天使が堅苦しそうなおじさん。白髪がちらほらあるスポーツ刈りだ。スポーツマンというよりは昔スポーツをしていましたという感じだ。紺色のジャージを着ている。悪魔は綺麗な女性。豊満な胸を強調するようなワンピースだ。胸の谷間はざっくり開いており、スカート丈は短い。生足が艶めかしい。奇跡といったが、これを奇跡と言うのは世間一般の考え方で、子供の時の自分には当たり前の光景だった。日常見ていた光景だった。本当に久しぶりの再会だ。
天使と思われるのは天さん。悪魔と思われるのは悪ちゃんと僕は名付けていた。はじめて彼らが出てきたのは、幼稚園の時だろうか。砂場で遊んでいる時、友達のマサオ君が持っている新しいスコップがとても羨ましくてそれを盗んでやろうと思った時だ。今と同じようにすーっと上から降りてきたのだ。天さんは今より若かった。おじさんというよりお兄さんという感じだった。ジャージの襟もしっかりしていたように思う。悪ちゃんの年齢は同じくらいか。好きだった幼稚園の先生に少し似ていた。
天さんがまず僕に話しかけた。
「こら。人の物を盗んではダメだ。そんな事は許されないぞ」と。
続いて悪ちゃんが可愛らしい声でささやく。
「いいじゃない。とても素敵なスコップよね。これは欲しくなるよ。マサオ君のお家はお金持ちだから盗んでも悲しまないし。いいじゃない」
悪ちゃんの言葉は妙に説得力がある。
「いや絶対だめだ。泥棒は犯罪だ。絶対に許されない行為だ」
天さんの声には強さがある。
「うーん。でもこれ欲しいなぁ」
五歳の僕は無邪気に答えた。
「絶対ダメだ」と厳しい言葉と一緒にばっと天さんは動いた。いや天さんの手だけ動いた。手がグーンと伸びた。手のひらだけ普通の人間ぐらい大きくなった。わっとびっくりしたと同時に左の頬に強い衝撃を感じた。天さんに思いっきりビンタをされたのだ。
すごい痛い。驚きと痛みに泣き出しそうな僕に天さんは強い言葉をかけた。
「泣くな。男だろう」と。
スコップは盗まなかった。ダメなことだとちゃんとわかったからだ。
それから小学六年生まで何度も出現した。二人は親のような先生のような友達のようなそんな感じだった。。天使と悪魔というよりも僕の中ではもっと近い存在だった。だから天さんと悪ちゃんと名付けたのだ。いつも僕が悪さをしようとした時に二人は出てきた。駄菓子屋で万引きしようと思った時、女の子のスカートをめくろうとした時、お母さんの財布からお金を盗もうとした時、クラスの友達を仲間はずれにした時、何度も何度も二人はでてきた。
いつも悪ちゃんの甘いささやきに心が動きそうになるのだが、天さんの厳しい言葉と最後のビンタで思いとどまるのだった。子供ながらに天さんのビンタには強い覚悟を感じたのだ。そして大きな愛情を感じたのだ。しっかりと僕を見守るのだという覚悟と愛情を。悪ちゃんは自分のビンタをされて悪さをすることを控える僕をふくれっ面で見てた。
何度も何度も出てきてくれていたのにある時すっと出てこなくなった。小学六年生の冬にでてきたのが最後だった。
ちょうどあそこに毛が生えてきたからか。声変わりをしていたからか。反抗期に入っていたからか。あの年、世の中もいろんな事が起きた。地下鉄サリン事件、阪神大震災。ウインドウズ95の発売など。一体何が原因なのかわからないけれど、全く出てこなくなった。残念だけどどうしようもなかった。寂しかったけど、成長していくとやることが多くありすぎて、二人の事を考えることなどなくなっていた。
最後に二人を見てからもう二十年以上たつ。僕はすっかり大人になった。なぜ二人は今こうやって出てきたのだろうか。とても不思議だしとても嬉しい。
「お前それはあかんやろ」年をとっているが、天さんはあの時と同じように強い声で僕に注意する。
「いいじゃない。少し触れるくらいならその娘も気が付かないわよ」懐かしい。悪ちゃんが甘くささやく。
子供の時と同じだ。僕はニヤリとする。当然、周りの人達には二人は見えていないし声も聞こえていない。僕がニヤリとしていることだけが現実だ。いや、痴漢をしようとしているこの状態だと、このニヤリはリアルすぎる。
「絶対にだめだぞ」天ちゃんが言葉を続ける。嬉しい。僕のことをしっかりと叱ってくれる。でも僕は女の子のお尻に手を近づけようとする。天さんのビンタを久しぶりに受けたいからだ。
「いや、本当にダメだぞ。何を考えているのだ。お前はそんな奴じゃなかっただろ。やめろ。手を止めろ」天さんが慌てる。
いやいや天さんいいから早くビンタしてよと僕は手をもっと前の女性のお尻に近づける。
「やめろー」天さんが叫ぶ。
あれ、おかしい。手の早い天さんはもうこのタイミングでは絶対にビンタをしてくれていた。怪訝な顔で天さんを見上げると、天さんが悲しそうに呟いた。
「もう昔とは違うから」
天さんはとても寂しそうに下を向いている。なぜか悪ちゃんも落ち込んだ顔をしている。
何が違うのだろうか。僕が大人になったからか。天さんが年をとったからか。昔の天さんは僕に本気で向き合ってくれていた。だから厳しい事を言われてもビンタをされても僕は怒りなど感じたことは一度もなかったのに。天さんはもう僕に対する気持ちがなくなってしまったのだろうか。昔と違うのは何なのだ。
寂しさと悲しさと少しの欲望で僕の手は止まらない。もう前の女性のお尻に手が触れる。という瞬間に大きな声が響いた。
「痴漢!あんた何してるねん」
前の女性の声。ではない。二メートルほど向こうのドア近くにいる三十歳ぐらいの女が声をあげた。
「ち、ちがうわ。誤解や」
その後ろにいる大学生ぐらいの若い男が言う。
「あんた思いっきりお尻を触ったやろ。京橋ついたら一緒に駅員のところ行くで」
満員の車内で女の声が響く。
いつの間にか天さんと悪ちゃんもいなくなっている。もっと二人の声を聞きたかったのに。もっと二人を見ていたかったのに。甲高い女の声がそれを許さない。痴漢をしようという欲望もふっとんだ。
誰も言葉を発しないが、皆の興奮を感じる。傍観者が車内に溢れかえっている。電車は車内のそんな出来事を知ってか知らずかものすごいスピードで京橋駅を目指す。
僕は呆然とする。ビンタをしない天さん。甘い悪ちゃんの声。河川敷で見たカラス。お伽話を話すおばあさん。肩を揺らして笑いを堪える山田。たくさんの登場人物が僕の脳みその中でグルグル回る。なぜか空を見たいと思ったが、満員電車には大きな空はない。
電車が京橋駅までたどり着いた。大きなビルに電車が吸い込まれる。スピードを緩めてホームに到着する。
ドアが開くと、被害者の女性と痴漢が一緒にホームに出る。
「さあ行くで」
多くの傍観者の目など何も気にしないように女性が言った瞬間、男が走った。電車の進行方向、大阪方面のホーム一番前方の階段に向かって走った。物凄いスピードだ。ホームがまだ人であふれる前に男は疾風のように走った。
被害者女性がポカンとしている。傍観者たちもポカンとしている。僕も唖然と口を開けてその光景を眺める。何が起こったかわからないように皆で走る男の後ろ姿を見つめている。
十秒ほどだろうか。皆が止まっていたが、ぞろぞろと現実に戻る。皆、自分のための時間に戻る。JRとの連絡口側の階段を降りていく。皆、あの状況に興奮したが、特に何も声を発しない。京橋駅のホームは三階建ての三階にあって、一階の改札まで結構な距離がある。僕は興奮のためか禁スマホを忘れていた。スマホを取り出してツイッターを開けてみた。
ツイッターの検索画面で「京阪 痴漢」と打ってみた。最新のつぶやきがいくつか出てきた。
「やばい、痴漢が捕まったwww女の人が大声で叫んだ。#京阪電車 #痴漢」
「京阪電車。おばさん、恥ずかしないのか。めっちゃ痴漢に怒ってる」
「京阪!!痴漢された怖い不細工なおばさん。こんなん痴漢してくれと言われても嫌やわ笑」
今さっき起こった出来事が文字になっていっぱい出てくる。文字がうるさい。情報がうるさい。何も言葉を発さなかった傍観者の文字がうるさい。現代社会は本能と人間らしさとかそんなものは全てふっとんだようだ。文字がうるさい。たくさんの言葉が溢れて、聞きたいものも感じたいものも手に入れることができない。
改札を出てビルの隙間の空を見上げてみる。大きくないが、河川敷と同じ空が見える。でもその空は見るためのものではないようだ。いっぱい人がいるけども上を見る者など誰もいない。
会社に行きたくないなと思ったが、これこれこんなことがあったのでと理由になるようなものは何もない。理由もなく会社を休む勇気は僕にはない。いやいや足を前に出していく。
コンビニに寄って栄養ドリンクを買う。なんとも言えない人工的な味だ。栄養が体を蝕む。少し気持ちが落ち着いた。
気持ちは沈んだが、今朝は悪いことばかりではない。良いものを見れたのだ。そうだ、久しぶりにあの光景を見れたのだ。子供の時の自分と大人の自分は全く別の時間、別の世界に住む生き物だと思っていたが、そうではないと感じることができた。子供の時の思い出と経験の延長に今があるのだ。あの光景はそんな当たり前で素晴らしいことを気づかせてくれた。
本当に久々にみた。全力で走る人を。
空耳 川林 楓 @pma5884
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