第10話 痛み
犬を敵だと思ったことはない。
やらなきゃ、ボクの体にその鋭い牙が突き刺さる。ボクは深く息をついた。
毎日ワンちゃん先輩の散歩をしている。犬の動作、筋肉の使い方はよく知っているつもりだ。
「あの。スイ……」
芝生にうずくまったハラグチがつぶやく。ハラグチの右手が力なく上がり、目標を見失ってだらんと
ボクは犬ににじり寄る。悪いが今ハラグチとおしゃべりしてる暇はない。
ライカはスイではなく、背後にいるハラグチを見ている。飛ぶようにライカはダッシュ。スイは無我夢中でフォークを合わせた。ライカは身をよじるがスイの想定内。フォークを軌道修正しながら犬の首筋に埋め込む。
血煙。
ギャン! ライカは吠えた。ばたつき、やがてそれきり動かなくなった。
ボクは
やれる!
手が震える。
どうしてボクが! ……頭ん中がぐっちゃぐちゃ。
「虚仮がカンジザイを仕掛けた所は大体
虚仮は仮面をかぶっていて表情を見ることはできない。なら。
フラスコにはたっぷり
構えて。これはよけられないよ!
|Kilimanjaro foschiabola《キリマンジャロの霞網》!」
虚仮は仮面の下からバリスタを眺めていた。
いくらなんでもサービスし過ぎじゃないだろうか。こんなうまい話があるものだろうか。
……
心中を全部しゃべっているように見せかけ、致命的な場面で、裏切り、勝負手を放ち、小生を仕留める。
まさか、そんな。深読みしすぎ?
それとも、ジョジョの登場人物のように自己顕示欲が強くて戦闘中にも関わらず懇切丁寧に自分の能力を説明するの?
センチメントは、 多情多感。
自分の感情にもてあそばれる。
だからセンチメントはつい
でも。この女はいくら何でも、話し過ぎ。話していないときがないぐらい。
この女の構える装置から何か発射されるはずだ。
『よけられない』と、この女は言った。
広範囲に効果のある攻撃。もしくは追尾能力を持った攻撃?
なら、
虚仮はバリスタに背中を見せて駆けた。目をきつくつむる。
フタが開きフラスコが傾くと、霧状のコーヒーが噴き出した。それは広範囲にまき散らされ、虚仮は全身びっしょり濡れそぼって上着の完布なきまでコーヒーを浴びた。コーヒーの粒が漂い、その中からぬっとおびただしい数、漆黒の手が現れ、虚仮に伸びた。だが虚仮は距離を取っている。しかし懸命に伸ばしたその中の一つが、ロングカーディガンを
「虚仮は今、目が見えない。おそらく次元の境界も。自分が傷つくのを恐れて動けない。私は、動かなくても攻撃できる」
何かが自分を束縛している。虚仮はとまどう。
見たい。だが目を開ければおそらく目がやられる。
虚仮は太刀を振るった。ばっさり自分を掴んだ黒い手を斬る。
「このチャンスは絶対に逃さない! 本当はローソクを狙いたいけど、|キリマンジャロの霞網が邪魔でよく見えない。狙うは胴体。
また来る! 今度は横に跳ぶ。
コーヒーの粒を感じた。熱い。
「ぐうッ!?」
遅かった。
腹に、何か固い物がぶつかる。おそらくコーヒーカップ。熱さ。それだけじゃない。痛みがやけに後を引く。
「フラスコのコーヒー充填……カップに注いで」
液体が注がれる音。次が来る。
向こうで何かが割れる音がした。鏡か。どうやら向こうの戦況も思わしくない。
まぶたを
覚悟を決めます。
虚仮はぶるぶると犬のように顔を震わせ、水気を切った。そして、目を開ける。
角膜をガリガリとコーヒーが焼く。虚仮は子供の頃。目にシャンプーが入ったことを思い出した。これはあんなもんじゃないけど。
そして、薄目で、バリスタを見つめた。
「見えてるの? 遠かったかな。ああ……ここで戦闘能力を奪わないと」
痛みに虚仮は一度目を閉じる。だんだん痛みは
「逃げ場を作りたい。正確に、次元の境界を把握してるだろうか」
バリスタは前に出る。
逃がさない。
ぼやけたバリスタに向かって、駆ける。
バリスタの顔がひきつる。
「怖いよ。……でも負けない!」
振り下ろされる太刀を右手に持ったコーヒーカップで払いにかかる。
「虚仮は重心が後ろに残るタイプ。体重は乗りにくいが軽快に
ローソクは見える。しかし手足が見えない。やりにくいなあ」
フェイントをお望みで。
「来る! フェイント。これも、フェイント」
暗闘。
「ローソクの動きである程度虚仮の動きはわかる。わかるけど。闇から不意に太刀が降ってくる。押し込まれる! これ、虚仮には暗いのにはっきりと私が見えてる?
虚仮がまた太刀を振り上げて……」
!?
「軌道が……痛っ! あぐっ!」
剣筋が揺れた。虚仮は真上から斬り下ろすと見せかけて横に
「痛い……。ああ、私の指が……ちぎれた」
右手、人差し指、中指、薬指が太刀で斬られ、ポロリ、落ちた。血が噴き出す。
「もう、右手は使えない。
ああ。虚仮の右手、刀と一体化してる。……指がない。
そうだ。虚仮の異名は『刀の子』」
虚仮もまた、脇腹の痛みに耐えていた。動きが硬い。時折、引き
「嫌! 逃げる!」
背中を見せて、駆け出す。闇夜をつんざく高音。ガラスが砕ける音。散り積もる音。
「私の
コーヒーサイフォン、コーヒーミルが壊れ、コーヒーが流れ出る。
「シュート!」
ティアラの声。瓶から液体が
「え!?」
ティアラの声がうわずる。
ジュースが途中で何かによって
「逃げて!」
鋭い声。そして左手にコーヒーカップを持つ。
「ここ一帯はもう入れなくなった。全員でかかっても多分、負ける。犠牲は私一人でいい。おそらく、虚仮がみんなを追うのは難しい。ここら
そうしてコーヒーカップで斬撃を受ける。しかし左手では押し負ける。体幹が崩れ、ふらつく。
遅れてスイも到着した。
「私の命を無駄にしないで!」
バリスタは振り向かず絶叫する。そして虚仮の太刀が持ち上げられるのを目にした。
「嫌だ!」
スイは駆け出す。しかし切り傷を負って立ち止まる。なんだこれ。フォークを振り回す。何かに跳ね返される。こっちも、あっちも。
なんだこれ。
見えない、鋭い、壁。いや、牢屋みたいな。
マントを広げる。ダメだ。飛べない。穴が開いてるからか。
「撤退するわよ」
「嫌だ!」
!? いやちょっと……待ってくれ。
ボクの足は勝手に走り出した。後をヤマザキ、フミョウ、ハラグチがそれに続いた。
献身的。美徳。ああ素晴らしい。ふーん。
どうやらこの女、本当に思っていることを話してしまうらしい。こんなに息が上がっていて苦しそうなのに。
動きもだんだん鈍っている。顔色も悪い。おそらく酸欠状態。そして大量の出血。治療できなければいずれ死ぬだろう。さっさととどめを刺し、可能であれば残りを片付ける。
「弱者に生きる資格はありません」
虚仮が無遠慮に前に出た。
「もう私は脅威じゃないってこと? くやしい! でも、事実だ。逃げ場がない! ねえ、助けて! ホントはやだよ。痛いよ! 戻ってきて! 助けて! もう死んじゃうよ。もうダメ! ねえ、スイくん、聞いてる? 好きだよ。彼女になりたいよ。助けて! ダメ! 逃げて! ああああああああああ!」
ひゅうひゅうと、バリスタの声に変な音が混じる。
「急ぐわよ」
するとボクの足が全速力で応じた。
「人でなし!」
ボクは叫ぶ。ティアラは
「痛い痛い痛い痛い! ……いたい」
……静まりかえった。
「私情は捨てなさい」
ティアラは背中で語る。
黒光りする車。ぶわっとゆらゆらやけにぼやける。目が熱い。
「人間だボクは。あるんだ心が。そ……」
「黙りなさい」
「ちくしょう!」と叫、ぼうとした。
それすら、ボクには許されなかった。
口は動くのに声が出ない。
「お疲れ様でした」
迷彩服を着た二人の男と一人の女がボクらを迎えた。
「治療の準備をお願い」
黒いワゴン車のドアが開く。ティアラが車に乗り込む。
「もう、話してもいいわよ」
ボクも乗るように
「まだ戦ってるんです、あの……バリスタが。助けてください!」
ボクの肩にティアラが手を置いた。
「協定があるの。センチメントを攻撃できるのはあたしたち、センチメントのみ」
「血だらけなんで。あの……ボク」
「構いません」
無表情。この人は自衛隊かな。長い銃を持ってる。ボクはティアラの手に引かれて後部座席に座る。座り心地はいい。中の設備も立派。絶対高級車だ。でもそんなことどうでもいい。
「まだだよ」
ゾクっ。
虚仮は顔をしかめる。バリスタの腕から血煙が吹く。
この女の右手は斬り落とした。もう長くはない。コーヒーを淹れる機材もない。
「これが私の最後の手段!
太刀の手応えが、ない。虚仮は目を見張った。
バリスタが、かき消えた。
逃げられる!
遠く。車のエンジンがかかる音。車の発進音が遠ざかる。
そして。
小さな小さな声がする。虚仮はため息をついた。目をこらす。目の前が
真っ黒な霧だ。
「
太刀が空間に線を引く。やはり手応えはない。耳を澄ます。
「くうきのながれをよめ」「にげろ、にげるんだ」「じげんのきょうかいのあいだをぬけろ」「にげきれー」
ごく高い声があちらこちらから聞こえる。
「貴女はまだお喋りを続けるんですか」
しぶい顔して。
「小生も
車は動き出した。ボクは見えるはずもない闇の向こうを見つめる。
「さ、口を開けて」
ティアラが瓶を差し出す。
ボクはそっぽを向いた。
「そこに横になりなさい! あなたは戦わなきゃいけない。回復しなきゃいけないの!」
バリスタは。
ボクは勝手に口が開いて。
ティアラは左手を
「
瓶から白っぽい液体が溢れ出て、あお向けになったボクの口に注ぐ。ドロドロしてる。くやしいけど、おいしい。果物……これは、桃の味がする。飲もうとしなくても、のどにすっと入っていく。
ボクはむくっと起き上がった。傷を触る。痛みが治まっていた。
「どうしてボクらは戦わなくちゃいけないの? そもそもさ」
ボクはティアラを見つめた。ティアラはボクから視線を外す。まもなくティアラはうなだれた。
その手から、何かがこぼれる。ボクは手を伸ばす。
灰。
ティアラの手には数枚のカードが握られている。その一番上でボクが顔をゆがめてフォークにしがみついている。
灰になったのは、おそらくバリスタのカードだ。
ボクは、右手を振り上げ、ティアラに向け振り下ろした。ボクの中の理性のようなものがボクの手にしがみついて、その勢いを弱めた。ボクは荒い息をつきながらティアラの肩を掴んでティアラを座席の上に押し倒す。
「好きにしなさい」
ボクは、ティアラが憎くてたまらなかった。でも。ここでティアラをぶん殴って何かいいことがあるのか? ボクの気持ちの問題じゃないか。
でも。でも、このやるせない気持ちを何にぶつければいい?
ボクは上を向いて。こらえきれない衝動がせり上がる。
吠えた。
敗軍の将。
それがあたしだ。
刀の子『
情報はある程度あった。
想定をはるかに超えていた。
「バリスタは
もともと、バリスタは遠距離から援護するセンチメントなのよ。先頭に立って殴り合いをするタイプじゃないの」ティアラは続く言葉を
あたしは、バリスタを見捨てた? それは……。
違う。
深呼吸。……あたしを見つめるスイに心をのぞき込まれた気がする。ああ、体が震える。心臓の鼓動が大きくなる。
まさか。そんな。違う。……同調してどうする。
叫びたい衝動をこらえる。
ボクは正面に座っているハラグチを見た。? 隣に座っているヤマザキの顔がなんか変だ。
「見ないで……」
か細い声。ヤマザキは顔を背ける。
「ああ……うん」
スマホを取り出す。戦闘時間は10分足らず。
もっとやりようはあった。
例えばボクも虚仮に向かっていたら? でも、ヤマザキやハラグチの相手は強かった。ボクが行かなかったらどうなっていたかわからない。
「バリスタを見殺しにした。ボクは」
涙が止まらない。
仕方ないよね。
センチメントだから。
ティアラは真っ暗な車の天井を見上げた。
「よろしくお願いします」
3等陸曹がファイルを差し出す。ティアラは起き上がると唇を結んでペンを握る。
落ち着くと、ボクらはティアラに戦闘の経緯を根掘り葉掘り
まったく楽しい作業じゃない。
ティアラのペンはボクの体をくまなく刺し続ける。
よろよろと車を降りる。
ボクの家。テイアラは鍵を開けて「報告書をまとめるわ」と階段を上がる。「遅く立ち直ってね。明日、また夕食が来ないとも限らないのだから」
ワンちゃん先輩がボクのにおいを嗅いで不思議そうな顔をしている。
ボクは浴室に入って血を洗い流す。
傷は
ポスポスポス。近づいてくる。階段を降りて来る。
重み。嫌じゃない重み。
ティアラがボクにのしかかり、抱きしめる。
「ごめん。少し、このままでいさせて」
バリスタ。ねえ、バリスタ。
一旦、今作は休載します
新しくコメディを書くつもりです
眠れない森の美女 幼卒DQN @zap
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