森の徘徊者
色々と考えるのにも飽きはじめた頃、ふと僕の中にある思いが芽生えてきた。
少しの悪戯心が働き出した僕は彼女が握っていた釣り竿を握り、ある程度の速度と重さを演出しながら勢い良く下の方へと引っ張った。適切な動きで引かれた釣り竿の動きは、竿を通して彼女の腕にも振動として伝わる。
そうして当たりを引いたと勘違いした彼女は、狙い通りにビクッと跳ね起きた。
「……あぁっ、え、あ、あ、当たりひいた?もしかして、釣れたかしら?」
勢い良く立ち上がった彼女はまだ気づかず、周囲を見回しながら慌てて釣り竿を握りしめている。
そんな姿に僕がしばらく笑い転げているのを見てからようやく、彼女は自分の身に一体何が起きたのかを理解したようだった。
「───あぁ、そういうこと」
全てを悟った彼女の顔面からは一切の表情が剥離し、僕は無言で殴られた。
「そういえば、あなたの名前をまだ聞いていなかったわね。私だけ名乗って、あなたが名乗らないのは不公平じゃない?」
ぷりぷりと怒っていた少女が気を取り直して釣り竿を持ち、僕の隣に座り直して尋ねたのは、他ならぬ僕自身のことだった。
すぐに続けて「なんとなくよ、暇つぶし程度にね」なんて付け加えていたけれど。
「いや、僕はまだ君があのレドロネット・ザトラツェニエだとは信じていないんだけど……。まあいいや、僕の名前はアクスウェル、アクスウェル・ヴァン・ギャリックス。歳は十九歳」
「……ギャリックス家?」
僕の名前を聞いた瞬間、彼女の眉がピクリと動いて一瞬だけ妙な表情を浮かべる。あいにく、僕はそのことに気づかなかったのでそのまま話を続ける。
「僕の家のことは知ってるのかな?まあ、その通りだよ。一応本家筋の三男なんだ。もっとも僕は近衛兵団青年隊に入隊したから、今のところ家業にはつかない予定だけどね」
「近衛兵団というのは、軍隊とは違うのかしら?」
「え、近衛兵団って聞いたことない?」
彼女は頭を振る。
「珍しいな、ヴェルウェスト国民なら大抵は知ってると思ったんだけど……ま、要するに王室の護衛係だよ」
そう言って、僕についての話は続く。名前、生い立ち、今の環境について。
僕が話している間、彼女がどんな表情で聞いていたのかはわからない。たださっきまでの緊張状態は薄れ、いつしか自然と話をすることができていた。少なくとも、僕においては。
しばらく話していると、右側の森でふと何かが動いた気配がした。
僕は最初、それを風で枝が揺れただけだと思っていた。だが、断続的に動く木々や枝葉は明らかに大型の何かが移動している。それを見ても、まだ僕はきっと野生動物か何かだろうなんてのんきなことを考えていた。
しかし、いつの間にか立ち上がっていた隣の少女は僕とは違い、一転して険しい表情を浮かべながらそれを見ていた。
「──まさか、ここまで入ってきたというの?」
ぽつりと呟いて歯を食いしばる彼女の姿に、何かただ事ではない事態が起きていることをようやく察する。視線を森に戻す。木々の揺れは段々と大きくなり、こちらへ近づいてくる。
「軍人さん、逃げるわよ」
そう言うやいなや、少女は釣り竿を放り出して反転し、森に向かって急いで駆け出した。僕は少女に裾を掴まれて、わけのわからないままに彼女の後をついていく。
「何が起きてるんだ、一体」
「いいからつべこべ言わず、今は走りなさい」
危険な野生動物か何かにでも行き当たったのかと思ったが、それにしては妙だった。僕らが逃げ出したことで相手もこちらへ気づいたらしく、後ろから追いかけてきたことは気配で感じた。こころなしか速度が増したようにも感じた。
だが、相手は一向に吠えたりせず、また鳴き声も一切聞こえない。ただ無言で、僕達のことを黙々と追いかけてきていた。
「どうする、一旦さっきの家に戻ろうか?」
「ここまで入られた時点で、家に戻っても大して変わらないわ」
まるで、今追いかけてきているものの正体を知っているかのような口ぶりで彼女は言う。
夢中で走っていると、いつしかまた森のなかにぽっかりと空いた木のない空間に出てしまった。視界が広く遮蔽物がないこの場所は、身を隠すには不適切だ。早く森に逃げ込まなければならない。
どの方向へ飛び込むかと考えて周りを見回した時、僕はそこに漂う違和感に気づいた。
その空間には、どうしようもない違和感があった。
例えて言うなら、この森に足を踏み入れた際、同じような空間であの奇妙な木組みのオブジェを見つけた時のあの感覚。
どこか、あの時に似ていた。だけどあの時とは決定的に違う、もっと厭な、根本的にまずいものがそこにあるような気がした。
まずは一度目を閉じて先入観を取り除き、それからもう一度ゆっくりと目を開けて確かめる。
森を構成する木や草があった。
そして、それ以外の何かがあった。
自然には存在しない何か。
緑と茶色を貴重としたはずの森の風景に、随分と様々な色彩が加えられている。
赤色。
水色。
黄色。
紫色。
肌色。
白色。
橙色。
肌色。
……肌色?
最初に目に入ったのは、木に吊り下げられた奇妙な物体だった。
まるで育ちすぎた大根のような細長い物体で、真ん中で折れ曲がっている。先の方は少し膨らんで、先端が5つに枝分かれしている。表面は青白かった。だけど所々に赤黒い差し色が彩られたそれはこの森の色彩のルールから完全に外れた異様さを浮き彫りにしていた。
それは一体なんだろうかと考えた。
まず最初につまらない考えが浮かび、それを打ち消すように幾つかの可能性を検討した。けれど結局最後に残ったのは、最初に思い浮かんだ一番認めたくない答えだった。
僕は更に一歩踏み出してそれを確かめる。
最悪なことに、その予想は正解だった。
僕の目の前には、千切られた人の腕がぶら下がっていた。
見渡せば周囲の枝には、他にも様々なものが吊り下げられている。
腕があった。脚があった。
鮮やかな布の切れ端はどう見ても子供の衣服だ。
おそろしく長いピンク色の何かはおそらく腸だ。三つの木を跨って枝にかけられている。臓器と思われるグロテスクな肉塊は、他にもそこかしこに散乱していた。
地獄絵図だった。
右手の枝にかかった薄い何かの物体に気づく。いくつかの大きな穴が開いていて、一部分からは金色の細長い房が束のようになって地面に垂れている。肌色の布のような何か。でも布にしてはなめらかな表面に、今度は最悪な答えから考え始める。
すぐに答えは出た。
それは、剥ぎ取られた顔の皮だった。
足元を見ると、薄汚れた布に包まれて小さなサイズの靴が打ち捨てられていた。この靴は反則だった。これはどう見ても、このサイズはどう考えても、子供のものとしか思えなかったからだ。
辺りには元は人間の一部だったであろう様々なもの──おそらくは誘拐された子どもたちのものと思われる身体や衣服──がそこかしこに打ち捨てられ、あまりにも凄惨な様相を呈していた。
僕は今まで追っていた相手が、ほんの一瞬で得体の知れない存在となったことを感じた。子供攫いという事件が、とんでもなく深く、暗く、冷たい闇を抱えた穴のように思え、自分の手にはとても負いきれない大きな漆黒に、僕は空恐ろしくなった。
ふと、隣に立つ少女を見やる。この光景を見ても彼女は眉一つ動かさず、いつもの表情を保ったままだった。
彼女は、この光景を知っていたのだろうか?
もしかしたら、やはり彼女が、この光景を……。
不穏な考えが頭をよぎったその時、二人の横合いから突如大きな人影が現れた。
何かの見間違いかと思った。
それは、あまりにも異様なシルエットだった。
それは蒸気機関車のボイラーのような太い胴体を持ち、脚が五本あった。正確には、脚が二本で腕が三本あった。大きな胴体の割に、頭は小柄だった。そして忌々しいことに、手も、脚も、頭も、そのどれもが人の形をしていた。まるで人が呪いで怪物に変えられてしまったような、まるで悪夢のような、僕がこれまで見たこともない程のおぞましい外見をしていた。
最初、僕は森で遭遇して今まで追いかけられていた怪物がついにここまでやってきたのかと思った。だが、それにしてはやってくる方向が違いすぎた。それでは、こいつはなんなのか。そして、あいつはどこにいったのか。
さらに、音が聞こえた。その刹那、僕らの後ろの森をかき分けながら二体目の怪物が姿を表した。
大男のような印象のシルエット。高い背を持ち、やけに長い手足で二足歩行をしている。やはり頭だけは小さく、そのいびつさに不安感を覚える。
──ああ、こいつだ。
感覚的に僕は理解する。
森で見かけた歩く人影。池で遭遇し、僕達をここまで追いかけてきた何か。
この怪物が、そうだったのだ。
それは追われていた時に感じていた気配そのままに、まるで恐怖そのものを具現化したような存在だった。
二体の怪物に囲まれた絶体絶命の状況だった。
それよりも僕の頭の中は、今そんなことより全く別の考えでいっぱいになっていた。
怪物のシルエットは、人型だ。限りなく人に近い。その身体は、むしろ人そのものなのではないかとすら思えてくる。いや、そうとしか思えなかった。そこに、さきほど見た光景が重なった。ばらばらにされた子供たちの体。あそこには、何体分あるのだろうか。そして、何体分そこには足りなかったのだろうか。
その上、これこそが悪夢そのものだが──今対峙している二体のうちの一体、先程から僕らを追いかけてきたほうの身体、その右腕にあるもの。そこに、見覚えのある何かを見つけてしまった。
あれは確か、ミラがつけていたブレスレットではなかったか。
ミラのブレスレット。
友達とお揃いで作ったと言っていた。
その友達、カリクは失踪した。
失踪した子供達。
解体された子供の残骸。
そして、今、目の前の怪物の右半身、なぜかそこだけがまだ真新しい右腕に、そのブレスレットは付いていた。
攫われた子供の体の一部が、怪物の身体に取り込まれている。
いや、違う。もう答えは出ている。正確には、むしろこういうべきなのだろう。
あの怪物は、様々な子供を継ぎ接ぎしてできていた。
あまりにも現実離れした光景に、僕は足元から地面が崩れ落ちていくような感覚に囚われた。
僕が茫然自失としている間にも怪物は近づいてくる。
今や、右手と後方怪物たちに寄って完全に塞がれてしまった。すでに退路はない。この状況から脱出する方法を考える。今まで辿ってきた経路とこの場所、そして相手との位置関係を整理する。
一瞬の後、考えをまとめた僕はすぐさまライフルを構えた。
まずは右手の怪物に狙いを合わせ、弾丸を叩きこむ。ボルトを引いて装填し直す手間すら惜しく、次に腰からリボルバーを抜いて、そのまま後ろの怪物にむけて引き金を引いた。一発、二発、三発。発射された弾丸は怪物の胴体へと吸い込まれるように次々と命中し、三発目でようやく動きが止まる。
二体が動きを止めた一瞬の隙をついて、怪物のいない左手の森へと一目散に飛び込んだ。
今度は、僕が少女の手をひく番だった。
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