魔女の家
僕は遂に、魔女の家へと乗り込んだ。
だが拍子抜けしたことに、家の中にも特に変わったところは見受けられなかった。
いくつかの扉を開けて中の様子を探ってみたが、どうやら現在この家の主は不在のようだった。ただ、どの部屋を覗いても生活感は感じられない一方、それぞれの手入れは細かい所まで行き届いているようで、埃一つ落ちていなかった。そのことがこの家には確かに住人がいて、今も住み続けていることを伺わせた。
一階の部屋をあらかた探り終えた僕は、二階へと上がることにした。
キッチンや食堂、倉庫などが大半を占めた一階と比べ、上の階は書斎や客間など、より私室といえるような部屋が多かった。
僕は書斎に入り、本棚に並んだ背表紙をざっと眺める。『ヴェールヌイ地方の民話』『薬草学』『博物綱目』……これといって変わった内容の本はなさそうだ。
なんというか全体的に、ここは普通の家だった。いや、普通すぎた。
僕は違和感を覚える。
ここは本当に、魔女の家なのだろうか?
三階に上がると、部屋はもう二つしか残されていなかった。
まずは階段を上がってすぐにある手近な方の部屋から開ける。するとそこは一面の緑に包まれていた。床から棚まで大小様々な鉢植えが置かれており、それぞれに種類の違う植物が植えられていた。
大切に育てられているらしく、思い思いに生い茂っているような植物も、よく見ると互いの葉が邪魔しあわないよう、絶妙な位置で置かれていた。採光を意識したのか、部屋の壁と天井は一面のガラス張りとなっており、それまで入ったどの部屋よりも明るく、開放感に溢れていた。
この森に入ってからしばし忘れていた、穏やかな雰囲気にようやく戻った気分だった。ここには用がない気がしたので、僕は扉を後手で締めて退室する。
残る最後の部屋に行こうとした瞬間、階下から物音がした。
何かがきしむような甲高い音に続いて、何かがぶつかったような固く重い音が響く。聞き慣れたその音は、僕の耳には扉を開けた音のように聞こえた。
ほんの一瞬前までの穏やかな心地は鳴りを潜め、今は全力の警戒心が顔を覗かせていた。
家の主が、戻ってきたのかもしれない。心臓が高鳴り始める。
咄嗟に背負っていたライフル銃を手に持ち替えた。
弾丸の装填を確認し、構える。
自分でも信じられないくらい緊張していた。銃把を握る手が汗ばんでいる。階段を素早く、だが音を立てないように降りていく。焦らず、慎重に。三階、階段、踊り場、階段、二階、階段、踊り場……。一歩踏み出すごとに相手との距離は着実に縮んでいく。
時間にして数秒のはずの出来事も、今は何十秒にも長く感じられた。
とうとう一階と二階の間にある踊り場まで来てしまった。あと一歩で闖入者と対面する。心臓の鼓動は極限まで高まっていて、痛いくらいだ。足元のペースは崩さないまま一定の歩幅で進み、構えたライフルは進行方向を向けたまま固定する。
息を整えて、それから一気に前へ出た。
階下の様子が視界に飛び込んでくる。すかさず上下左右、把握できるかぎり全ての範囲に目線を動かして様子を探る。
すると階段の下、玄関の扉を開けてすぐの辺りに佇む人影が目に入った。
「動くな」
反射的に声が出た。自分でもびっくりするほどの大きな声だった。
銃口を相手に向け、照準越しに覗き込む。灯りに乏しい今の状況では相手の顔までは見えないが、背丈はあまり大きくなさそうだった。むしろ小柄と言ってもいいくらいで、もしかしたら子供かと見紛うほどかもしれない。女性だろうか。
両者睨みあう状況がしばらく続いた。相手の顔が見えないということは表情も見えないということに、今更ながらに気づく。こちらが得られる相手の情報が何もないという状況に、不安はどんどんと高まってくる。
ふいに、声が聞こえた。
「──いきなり人の家に踏み込んで銃を向けるだなんて、ちょっと無礼もいいところなんじゃないかしら?」
幼くもどこか凛とした雰囲気のある、不思議な少女の声だった。僕は一瞬、その声が一体どこから聞こえてきたのかわからなかった。
「……今の言葉は、お前か?」
すると階下の人影は、頭を二、三度横に振り回し、それから(おそらく)僕の方を見てこう言った。
「私とあなた以外、この家にはいないみたいだけど」
人を喰ったような返答に調子を狂わされそうになる。相手のペースに巻き込まれるな。戦場の鉄則を思い出し、自分のペースに戻すために先手を打つ。
「私はヴェルウェスト陸軍だ。首都近郊で起きている事件の調査でここにやってきた。この家は事件に関係する嫌疑がかけられている。お前は何者だ、名を名乗れ」
僕の言葉に、相手は一瞬虚を突かれたように固まった。それから肩を落としてため息を付き、もう一度僕を見据えた。
「……それ、私じゃないわ、無実だもの。だからここを調べても何も出ないわよ、軍人さん」
「お前は今まで外にいたのか?森のなかに?」
「ええ、そう。でもこの家の先と言ったら、森しかないと思うけどね」
先ほどの光景がフラッシュバックする。開けた空間。吊り下げられたオブジェ。そこで見た、森を歩く謎の人影。銃を握る手に自然と力が入る。相手にゆっくりと問いかける。
「そこを動かず、名を名乗れ」
しばし睨み合う格好。断固とした姿勢を崩さない僕に、相手は根負けしたようにしぶしぶと口を開く。
「私の名前は──」
彼女がその名前を口にした時。
その瞬間、玄関の扉が風に煽られて急に開いた。
陽の光は暗がっていた室内を照らしだし、朱塗りの壁を、磨き上げられた床を、控えめな調度品を一斉に浮かび上がらせる。
だが、差し込んだ光が照らしたのはそれだけではなかった。
舞い上がった埃の反射が燦めいて幻想的な空間を作り上げる中、僕はさっきまで何者と対峙していたのかを目の当たりにする。
そこにいたのは、一人の美しい少女だった。
まず最初に思い浮かんだのは──非常に場違いなのは承知の上だけど──綺麗だ、という率直な感想だった。
年の頃はまだ幼く、十二、三歳くらいといったところか。だが年齢の割に大人びたその顔は、まるで古代の彫刻のように美しく、高貴さすら感じさせる。赤い色のスカートに白いブラウスを着て、腰まである長い髪はスカートとお揃いの色で誂えた大きめなリボンでまとめている。
その姿は一見愛らしく、気を抜けば森に迷い込んだあどけない少女のようにしか思えなかっただろう。
だが、違った。
彼女は人ではなかった。
彼女が持つ、普通の人間であれば有り得ないはずの特徴が目に焼き付いて離れない。シルクのように透き通った艶のあるなめらかな白銀の髪の毛と、まるで覗きこむだけで吸い込まれそうな魅力を持つ金色に輝く瞳。
僕は、人の身でこんな色を持った者を他に知らなかった。聞いたこともなかった。
彼女は、確かに、人ではない何かなのだった。
そして、僕が今対峙している少女の正体。
何事にも興味がなさそうでその実、今この瞬間の駆け引きすらもゲームのように楽しんでいそうな、無限の感情を奥底に隠した計り知れない表情を湛えたその少女は、
「──レドロネット・ザトラツェニエ。ところで、あなた誰?」
聞き間違えでなければ、彼女は確かにそう言った。
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