『夕焼けの子供攫い』と囁かれる噂
──一人の少女が、人通りもまばらな道を歩いていた。
親に言いつけられたお使いは存外に時間がかかり、昼過ぎには終わるはずだった予定を既に大幅に超過してしまっていた。少女は日が傾き始めてしまったことに焦り、家路へと急ぐ。夕焼けに照らされて赤く染まった道に、少女の影が真っ直ぐに伸びていた。
ふと背後に何かの気配を感じ、少女は足を止めて振り返る。そこには今通ってきた風景が広がるばかりで、自分以外には誰もいない。思い過ごしかと前を向き、再び歩き出す。
すると、今度は声が聞こえてくる。耳を澄ませると、風の音に紛れるようなか細い声で、助けてください、助けてください、という声が聞こえてきた。
まるで誰かを呼んでいるようなその声に、少女はもう一度振り返る。そこにはやはり誰もいない。地面にも、自分の人影だけが伸びていた。
何か変だな、少女はそう思い、知った道がなんだか急に怖くなった。振り返った頭を戻そうとすると、いつの間にか少女の真横に女が一人立っていた。影が濃くて印象は希薄、まだ若いようにも見えるし、老女に差し掛かっているようにさえ思える。掴み所のない女だった。
いつからそこにいたのか、どうして気づかなかったのか。少女の背後に嫌な汗が伝う。さっきまでは確かにいなかったはずの女に訝しみながら、少女は声をかけた。
「どうかされましたか」と。
すると、女は答えた。
「私は、探しものをしているのです」
不幸なことに、少女は心根が優しかった。心の奥底で感じる不穏さを押し込めて、今出会ったばかりの女に手を差し伸べる。
「何か落としたのですか、私も一緒に探しましょう」
女は顔を上げ、少女の方を向いた。女の長い髪に隠れた奥に潜む目が、細められた気がした。そうして少女を真っ直ぐに見据えて、女はこう言う。
「ええ、でも今見つかりました」
道の向こうに見える工場から立ち上る煙のように重く、全てを侵食しそうな暗さを孕んだ声だった。
少女は言いようのない不快感を覚える。少女は心の底から後悔していた。
早くここから立ち去りたい。
家に帰りたい。
この場所は、
この空気は、
この人は、
何かがおかしい。
だが、女は段々と近づいてくる。少女の呼吸が荒くなる。すぐ近くまで迫っているはずなのに、やけに遠くにいるようにも感じられる。この異質な存在は一体何なのかと少女は思う。
私は、何かを、どこかで間違えてしまったのではないか。
彼女の脳裏にそんな思いがよぎったその刹那、一つの言葉が少女の頭に飛び込んできた。
『探していたのは、あなたなのです』
少女は寸前まで自身を取り囲んでいた世界がまるで泥のようにぬかるんだ錯覚に陥って、そして──辺りに、静寂が訪れた。
先程まで少女が立っていたはずの道には、今はもう誰もいない。
* * *
今のはあくまでメイに聞いた噂話。だが、『夕焼けの子供攫い』と呼ばれているその噂は、実際の怪事件が元になって広まったのだった。
最近、毎日一人ずつ子供が消えているという事件が首都近隣で起きているのは事実だった。
事件現場は様々で、それぞれの位置関係も近かったり離れていたりとまるで一貫性はなく、また消えた子どもたちに関しても性別や年齢に共通点は見当たらなかった。
近頃では市民が自発的に見廻りを行うなどの対策を講じてはいるが、犯人はその目をすり抜けてやってくる。
目撃談も一切なく、犯人に見当もつかない。
手がかりはまるでなく、手も足も出ないまま時間だけが過ぎていく。
被害は広まる一方だった。
あまりにも不可解な状況に、いつしか話はおかしな方へ進んでいく。
「消えた子供は、魔女が攫っているのだ」人々はそう噂した。
人々にとって、得体のしれない恐怖とは触れざる者達と同義なのだ。それは、魔女狩りから百年以上たった今でも変わらない、太古の昔から人々に刻まれ続けた本能の感情なのかも知れなかった。
とにかく、毎日子供が一人ずつ実際にこの世界から消えているということ。それから、その事件が起きるのは決まっていつも夕方頃だということ。その二つだけは、確かな事実なのだった。
そういえば、と言ってメイが話題を急に変えた。
「さっきそこで少佐に会ったのだが、お前のことを呼んでいたぞ。話があるらしい」
僕は頷いて席を立つ。十五分ほど話した割に、有益なのは最後の一言だけだった。
* * *
目指す部屋は隊舎の四階にあった。
教官室と書かれた扉は下階の部屋とは違い、重厚な造りをしていた。軽く扉を叩いて真鍮製の把手に手を掛ける。中に入ると、すぐに声をかけられた。
「先日は災難だったな、アクスウェル」
部屋にいたのは青年隊の指導教官、ジャック・レーザー少佐だ。引き締まった身体と鋭利な風貌、それに皺一つなくきっちりと制服を着こなした姿は、四十歳を過ぎているとは到底思えない、若々しい印象を与えている。
厳しい人だが、理不尽ではない。この隊で尊敬している人を挙げろと言われれば、僕は真っ先に少佐の名前を出すだろう。
「はい。私含め、警備にあたった者に誰一人怪我がなかったのは幸いでした」
「お前の手柄と言っても過言ではないだろう。迅速で的確な指示による人員の再配置と退避行動への市民誘導、見事な手際で被害を最小限に抑えたではないか」
少佐が人を褒めたり持ち上げたりおだてたりすることは滅多にお目にかかれない。僕はなんだか嫌な予感がしてきた。
「はあ……どうも」
「なんだ、気に入らんのか」
事件の結果を考えると、素直に喜ぶわけにもいかない気がした。結局五十人近くの民間人が犠牲となっており、それを未然に防ぐことは出来なかった。僕がやったのは、いわば後始末に近い。
「当然のことを積み重ねたらいつの間にか終わっていたと言いますか……どうにも実感が無いので、なんだか他人の話を聞いているようにしか思えません」
「もっと素直に人の言葉を受け取らないと、後々苦労することになるぞ」
「まあ、出世とかはしたい人がすればいいかと」
本心から答えたつもりだったが、僕の言葉に少佐は深い溜息をついた。
「アクスウェル、客観的に見てお前は優秀だ。成績もいいし、現場での判断力もあった。個人的な主観でしかないが、特異な環境にあるこの隊の中でも周囲に流されず、凝り固まった考えに支配されていない。だが、まだ卒業後の配属が決まっていなかったな。それはなぜだかわかるか?」
「どうしてでしょうか。どこも定員が埋まってしまっているのであれば、私としては炊事係も大歓迎なのですが。これでも意外と上手いですよ、料理とか」
少佐の深い溜息、再び。
「そういうところだよアクスウェル。その態度だ。また個人的な話をするが、私はお前を目にかけているし、人を見る目もあるつもりだ。だが、その私から見てもお前はやる気があるのかないのかさっぱりわからん。そつなくなんでもこなすことは見て取れるが、一方でお前が何を得意とし、何を苦手としているのかもわからない。適性がわからないから、実力も見えにくい。だからお前を評価しづらい。一兵卒ならそれでもどこか適当に放り込めばいいだろうが、仮にも近衛兵団青年隊出身の士官だ。私はあんまり家柄について言うのを好まないが、それもあのアクスウェル家ときている。こちらとしても、早々適当な人事をしてお前を腐らせておくわけにもいかないのだよ。そういうわけで、いつまでたっても配属先が決まらないのだ。ついでに言うと、どこも慢性的な人手不足に悩まされているから炊事係はなしだ」
褒められながら叱られた。少佐が僕のことを買ってくれているのは嬉しいしありがたいと思うが、要するにただの説教じゃないか、これ。
そんなことを考えながら聞いていると、少佐が改めて向き直り、僕の目をじっと見ながらこう言った。
「そこで、一つ提案がある。最近このあたりで事件が起きているのは知っているか?」
これから続く言葉が、僕の運命を変えた。
この先どうなるのかなんてことは、この時にはまだ欠片も想像できなかったけれど。
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