【プロローグ】『新・人類史』最初の一頁、あるいは僕ことアクスウェル・ヴァン・ギャリックスについて

物騒な世の中、物騒なお仕事。


【人民歴百四十五年 五月十八日 帝政ヴェルウェスト首都ローセルト南行政区】



 頭上に広がる空模様は、今日も水銀のこぼれた大理石のような色をしていた。


 この街の特徴として真っ先に思い浮かぶことといえば、街中から吐き出された蒸気機関の煙に覆われて、一年中霧がかかったように薄暗いことがまず挙げられる。


 建設当時から変わらないレンガ造りの建物が連なった街並みは、本来ならその由緒ある歴史に裏打ちされた荘厳さと、時の名君が自ら指揮したと言われる高度な都市設計によって洗練された印象を与えるはずなのだが、今となっては街中を覆う煙と煤によって、どうにも退廃的な印象が拭えない。


 そんな薄墨色の霧の向こう側、まだ視界には届かないほどの距離から、大勢の人が張り上げるような声が聞こえてきた。


 ここに立ち続けてそろそろ二時間半、声が聞こえ始めてからは約十分。


 僕は今、身体を震わせている。

 肩に背負ったマスケット銃が制服の装身具と当たって、さっきからカチャカチャと軽い音を立てている。季節外れの寒さに身を震わせたものと思っていたけれども、本当は慣れない任務に緊張しているからかもしれない。


 そんなに固くなるなよ、と隣で同じように立っている同期の准尉に茶化された。

 黙れよ、と彼に軽い目配せする。だが、僕がよこした視線の意味にも気づかずに彼は言葉を続けた。


──お、今の女郎屋に初めて入った時に言われそうなセリフだなアハハなんだよ笑えよお前行ったことないのかもしかしてアレかかわいそうにいや待てお前確か許嫁がいたはずだよなそうかじゃあもう金を払わなくてもヤリまくりだな羨ましい云々、云々、云々……。


 同期達のまるで知性も品性も感じない会話に溜息をつき、僕は黙って視線を前に戻す。


「形式上とはいえ、僕らも任務中の軍属だよ、一応。私語は慎んだほうがいいんじゃないかな」


 彼らを窘める僕の言葉に対し、さっきまで馬鹿笑いしていた右隣のボンクラが応える。


「でも、貧乏人が寄って集まったところで何にもなりやしないだろう?一人でも十人でも百人でも、雑魚は雑魚のままさ。我々近衛兵団の敵じゃあないね。どっからでもかかってきやがれってんだ」


 そう言って、勇ましく手に持ったマスケットを振り回した。真面目に聞いてくれるとは思っていなかったが、それにしても僕は彼との会話が随分と噛み合っていないことがえらく気になった。どうしてこうなったんだろう? 多分、僕は悪くないはずだけど。


 そんな僕の悩みを無視するかのように、もう一人の同期も口を開いた。


「全くだ。なんだっけ、今回の任務?えーっと『首都で行われる市民団体の抗議行動に関して、治安維持の観点より諸君ら近衛兵団青年隊に警備行動を一任したい』……要するに愚劣な平民が暴れそうだからぶっ飛ばして懲らしめてやれって話だろう?そんなことを俺たちにやらせるかね、普通。由緒ある近衛兵団青年隊といえば、将来の大佐や将軍、司令官が集まっているんだぞ。国の未来を担う優秀な若者たちに、よくもこんなつまらない任務を押し付けたもんだ。こんなのは兵卒にでもやらせておけばいいんだよ。まったく、お父様が聞いたら呆れるに違いないよ」


 彼の十八番である、全然似てない上に阿呆面が二割増になる上官の口真似を挟みながら滔々と不満を述べている。

 君のお父様が呆れる前に、まず僕が呆れていることに気づいてくれはしないだろうか。多分、死ぬまで難しいと思うけれど。


「……彼らも同じ帝国民だよ。そして、僕らは彼らを守る立場にある。そもそも、敵じゃない」


 そう、今から対峙するのは敵じゃない。僕らに与えられた任務は、彼らを倒すわけではなかった。


「……お前、ギャリックス家の人間なのに平民の肩を持つのか?やっぱり生まれが違うと考えることも一味違うんだな。所詮成金貴族、ちょっとくらい金だけは持ってても、やっぱり百姓や町民と根は同じかい」


 そう言った誰かの言葉に続いて、下品な笑い声が響いた。残念なことに、両隣の雑魚には人間の言葉が通じないようだった。あまりにも出来の悪い同期達の言葉に、僕はこの国の将来を真剣に憂いて、また溜息を一つ。


 大通りを挟んだ向かい側には、この街を一望できる高さを誇る高層建築が聳え、その壁面に据え付けられた大画面の蒸気映像キノトロープが最新の映像を垂れ流していた。


 キノトロープは、色のついた小さな木片を金属の軸に通して巨大な額縁の中に敷き詰め、蒸気の力でそれを動かすことによって予め設定された映像を流すことができる、いわば動く絵看板だ。


 見上げると、ちょうど画面が切り替わるところだった。

 張り巡らされたパイプを高圧のスチームが通るシューという音に続いて、いくつもの木片がカタカタと鳴って回り、映写設定プログラミングされた映像を次々と描き出していく。


 勇ましく行進する兵隊の記録写真。ディフォルメされた兵隊がディフォルメされた敵をやっつけていく。小高い丘に立つ少女。荘厳な城。戴冠式。大都会の街並み。笑顔の男女、親子、子供、兵士。たくさんの市民の顔。最後に出るメッセージはこうだ。

『戦勝百五十周年記念式典、開催迫る! “人の世は永遠なり”』


 キノトロープから目を戻すと、先ほどからこちらへ向かっていた団体が、いつの間にかそれぞれの顔を認識できる距離まで近づいていた。性別も年齢も装いも様々な人々が列になって街道沿いにやってくる。

 その姿はまるで、霧を切り開きながら歩いているようだった。


 音の塊にしか聞こえなかった声の内容も、今は一語一句正確に聞き取れる。集団は口々に声を荒げている。


 曰く、“機械に支配される世界を許すな、人の世をあるべき姿に”。


 彼らは、急速に工業化する社会に対して反感を抱く者たちが集まって組織された市民団体だ。主に労働者階級の市民層が中心となって、工業化によって激しく移り変わり、先行きの見えない彼らの暮らしへの不平や不満を口々に訴えている。


 僕らに与えられた任務は首都治安保全出動といって、要するにいま目の前を通っている団体が予期せぬ衝突を起こすことがないように監視する、いわば警備員のような役割だ。


 今回のような市民によるデモンストレーションも最近では珍しくなく、毎日のようにこの街のどこかで何かしらのことが起きている。平時であれば警備活動で出動するための部隊は別にあって僕らが担当することはないのだが、あいにく今回は全て別件で出払ってしまっており、そこで即応できる部隊として僕ら近衛兵団青年隊にお鉢が回ってきたというわけだ。


 物騒な世の中、物騒なお仕事。


 でもきっと、今日はもうしばらく立っているだけで終わるだろう。そう考えると、さっきまでの体の震えもいつの間にか収まっていた。


 人々の群れを眺めていると、行進の中に一人、赤い服を着た子供が大人に囲まれるようにして歩いているのが目に留まる。僕がそちらへ顔を向けると同時に、その子も僕の方を見た気がした。年の頃はおそらく十歳になるかならないかというところで、おそらく女の子。きっとまだ遊びたい盛りの年頃だろうに、この隊列に一体何を思って参加しているのだろうか。そんなことを考えながらもう一度目を向けと、また目が合った。


 もしかしたら、ずっと僕を見ていたのかもしれない。僕と少女の視線が交錯し、彼女が何かを言いかけて口を開いたその瞬間──


 集団の中で、何かが光った。


 眩いばかりの閃光。目を焼きつくすような明るさが一帯を支配し、続いて凄まじい爆風と壁のような轟音が僕の身体を、耳を、全身を貫いた。僕は前後不覚に陥る。


 荒れ狂う視界のなかで、瓦礫と煙と人の身体が爆風に煽られて襤褸切れのように吹き飛んでいるのが辛うじて見えた。視界の端ではあの赤い服の子が、頭を抱えるようにして伏せている。


 僕は反射的に駆け出し、無我夢中で赤い服の子を抱きかかえた。気を失ってはいるが、幸い目立った外傷は見当たらなかった。よかった、生きている。


 ほっとしたのも束の間、立ち上がろうとした僕は何かに滑って足を取られる。

 足元をよく見ると、そこには赤黒いどろっとした水たまりが地面に広がっていた。その先には、動かない人の身体。辺りを見渡すと、他にもたくさんの人。人。人。


 酷い有様だった。さっきまで動いて歩いて喋っていた人たちが、今は打ち棄てられたゴミのように物を言わず、ただそこらに横たわっていた。僕以外の兵士たちはみな、魂を抜かれたように呆けて立ちすくんでいる。


 最低の光景が、そこには広がっていた。


 一拍遅れて聞こえてくる耳を覆うような悲鳴の数々に、散り散りになっていた意識は研ぎ澄まされ、一点に収束していく。


──ああ、そういう日か。


 物騒な世の中、物騒なお仕事。


 すぐに帰れるなんて、どうやら甘かったみたいだ。きっと今日は少しばかり忙しくて、長い一日になるだろう。


 僕は舌打ちを一つし、肩に背負ったマスケット銃を握り直す。


 まずはこの混乱をどうやったら収められるか、その最善策について考えることからはじめよう。



* * *



 人類の変革を促すきっかけとなった技術革新の大転換点金属革命から三百年、そして人の世に光を差し込んだ《魔女狩り》の終結から百五十年。


 今や世界を牽引する大国の一つに数えられる帝政ヴェルウェスト。

 その首都として、世界中の人々と財と文化が行き交い混じりあって華々しく栄えるこの街ローセルトの裏側では、積み上げた長い歴史と急速な発展を遂げた社会との間に生じた歪みと軋轢が街中を覆い尽くし、人々を蝕んでいた。

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