13.黒蝶よ、こことまれ

 これぐらい冷え込むと、サビエル聖堂の丘も、瑠璃光寺の五重塔も朝靄にけぶる。

 こんな朝。隣に妹がいると、いつまでも眠っていたい心地よさから抜けられなくなる。

 でも、今朝はそれがない。豊浦での独り寝と変わらない。妹の部屋に残る柔らかな匂いだけが癒してくれるだけの――。


 目が覚めると、まだ部屋は薄暗かった。ナイトテーブルにある置き時計を見て、『カナにとっていつもの時間』であることを知る。

 ―― 『火入れ』の時間に、俺も目が覚めてしまうだなんて。

 ついに、この家では義妹のサイクルに合わせた身体になってしまったと耀平はため息をついた。

 せっかくの山口の家での週末だったのに。肌寒い目覚め。この部屋にある花南の匂いだけで眠った。

 なのに、妙にしっとりした鮮烈な香りが漂っている。嗅ぎ覚えのある、濡れた匂い。そしてどことなく、側に温まった空気が漂ってくる。

 そっと起きあがって、耀平はやっと気がつく。いつも花南が横になるベッドの縁に、素肌の花南が腰をかけていた。

 裸の、素肌の背が見える。そして、濡れ髪。妹はその黒髪を、ゆっくりとタオルで拭いているところだった。

 鮮烈な香りが何か、やっと判った。なにもせずに眠ってしまった花南は、いまシャワーを浴びて汗を流してきたのだと。

「カナ」

 呼びかけられ、やっと花南が肩越しに振り返った。

「お帰りなさい、お兄さん。ごめんね、昨日は気がつかなくて」

「いいや。いつものが始まっていたようだったから、俺達は勝手にやっていたよ」

 花南が、少し申し訳なさそうに笑う。

「航も来ていたんだね。本当に気がつかなかったし……。ヒロも知らせてくれなかったから、兄さんも航も気遣ってそっとしてくれたの」

「ああ。おまえには知らせずに連れてきたから、航も理解してくれていたよ」

「おにぎり、驚いちゃった。でも、やっとお腹が満たされて、それだけで直ぐに眠くなっちゃった」

 いつもの花南の顔、妹の雰囲気に戻っている。それで耀平も悟った。

「終わったみたいだな」

 花南も微笑みを静かに湛え、こっくりと頷く。

「できました『黒蝶』。連作です。後ほど仕上がりを見極めてください、社長」

 いつもの艶やかな朝の裸体の女なのに。顔は職人。花南の眼差しが、漆黒にきらめいて。

 そんな彼女を、耀平は後ろから抱きしめる。熱くほぐれた肌から石鹸の匂い、そして柔らかに濡れている黒髪にくちづける。

「カナ、待っていた。こっちに帰ってくるのを」

 花南が肩越しに笑う。

「航、拗ねていた?」

 最初は寂しそうだった。そう言いたかったが、耀平は『男の気持ち』を思ってそこは伏せる。

「いいや。これからそんな職人の母親と暮らすんだと、気がついたみたいだ」

「そう。ちょっと気にしていたんだよね。航が来る日は没頭しないようにしておこうと」

 花南の枕に、いつも愛用しているサテンのガウンが丸まったまま。それを手に取り、耀平はそっと湯上がりの肌に羽織らせた。

「ありがとう、兄さん」

「もう少し、休んだらどうだ」

 そういいながらも。せっかく羽織らせたのに、肩だけはだけさせて耀平はそこにそっと口づけた。花南がいつも敏感に反応するところに……。

「優しいと思ったら……もう、」

「優しいだろう。これで我慢してやっているんだから」

「そこ、好きだよね。兄さん」

「カナが好きなんだろう。ここだと……、素直になるよな」

「……だから、やめて。……」

 我慢できなくなるから。そういいたそうに花南が俯いてしまった。耀平だって同じだ。

 押し倒して、温まっている肌を抱きしめたい。でも我慢している。疲れているだろうから。

「あとで航と一緒に聞いて欲しいことがある」

「わかった。じゃあ、もう少し眠るね」

 振り返った花南が、耀平の頬を包みこむ。甘い眼差しでじっと見つめられる。またどうしようもない気にさせられたが、ぐっと堪える。

「カリヨンの鐘が鳴ったら起こして」

 頬を柔らかにつつんでくれている花南が、そっとキスをしてくれる。

 もう我慢することしかできないから、もう何も言えず、ただ頷くことしかできなかった。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


「航、ベーコンを三枚な」

「三枚ね」

 日が昇り、休日の遅い朝食を息子とつくる。

 豊浦の本家にいる時は、航とは時々こうして料理をしてきた。

 義母がいなければ、本当の『父子家庭』で二人だけで生活を営んで行かねばならないはずだった。

 そしていつかその日が来るかもしれないという気持ちもあり、航が中学生になった頃から、休日にはこうして料理をする機会を持つようにしていた。

 ほとんどは男の簡単な手料理ばかり。

「カナちゃんは、紅茶でいいよな」

「たっぷりミルクを温めてな」

 エプロンをしているお父さんと息子が、叔母さんのキッチンでいったりきたり。


 


 カリヨンの鐘が鳴る頃、耀平が起こした花南もリビングにやってきて、三人で食事を迎える。

 いただきます――。三人で、穏やかな休日の食事。

 花南と耀平は向かい合う席で、航は花南と隣り合う席を選んでいる。

「ねえねえ。どうしちゃったの。そのエプロン」

 夏に山梨から帰ってきたばかりの花南は、航のエプロン姿を見るのは初めてだった。

「いいだろ。お祖母ちゃんが料理を始めた俺と父さんにお揃いで買ってきちゃったんだ」

「お母さんったら。もっと可愛いエプロンにすれば良かったのに」

「はあ? やだよ。最初はエプロンするのもいやだったんだからな」

「でも、使ってるんだ。お父さんとお・そ・ろ・いで!」

 うるさい――と、航がむくれる。

 若い二人はいつもじゃれ合うような会話をして笑っている。それを向かいの席で、お父さんは、お兄さんは、静かに笑って見つめている。

 これが、欲しかった。ずっと、欲しかった。

 それがもうすぐ、ようやっと耀平のものになる。


「カナちゃん。こっちに来て」

 食後の紅茶を味わっている花南を急かし、航は風呂敷を置いてあるソファーへと誘っている。

 ついにその時が来たかと、耀平も珈琲カップを手放して、ソファーへと向かう。

「なに、航。これ、なあに」

 花南も不思議そうだった。

 風呂敷を開けたのも、たとう紙の紐をといたのも、航だった。

 耀平はそのまま黙って見守っているだけ――。

 開かれたたとう紙から現れた黒い着物を見て、花南が驚きで固まった。

「え、これって……。お母さんの……」

「そうだよ。お祖母ちゃんが、カナちゃんにって。頼まれて父さんと持ってきたんだ」

 後ろに立っている耀平へと花南が振り返る。そしてどうしてこのようなことになっているのか教えて欲しいという目をしている。

 だから耀平も、花南のそばに座り着物へと目線を馳せる。

「これからおまえに大事にして欲しいとお母さんが。いい仕事をしている友禅だから、おなじ職人のおまえなら大事にしてくれるだろうと。他の着物も。これから『妻』になって、着る機会も増えるだろうからと気遣ってくれたのだろう」

 それを聞いた花南は、黒引き振袖にそっと触れる。手にとって、裾にある絵柄を眺めている。

「これ、覚えている。わたし、子供の時にお姉さんと一緒に見たことがある」

「お義母さんもそれを覚えていた。美月はドレスを着たいと言っていたが、おまえはなにも言わずにただじっと着物をいつまでも眺めていたと」

「素敵な絵柄だったから。綺麗な糸で縁取られて。わたしには絵本みたいだった記憶がある」

 花南も恭しい手つきで、着物をテーブルの上に広げた。綺麗な染めの花模様を、静かに指先でなぞっている。愛おしそうに、微笑みを浮かべて。

「こんな素敵な着物が一度きりなんて、凄いな……と、思った」

「袖を切っても、柄が花嫁の柄で、既婚者に似合うものではない。俺も立派な花嫁衣装で贅沢品だと思っている」

「それを。お母さんが……?」

「娘になら、もったいないとも思わないのだろう。たとえ、着てくれなくても」

「もしかして。お母さん、わたしにこれを着て欲しいの」

 さあ、どうしようか。耀平は出方に迷った。正面から突きつけると、この天の邪鬼が意固地になって拒否をしそうだし。遠回しに言えば、『気持ちだけもらっておく』で済ませてしまいそうだし……。この天の邪鬼、本当にどう攻めてやろうか、と。

「着て欲しいに決まっているじゃん。俺も着て欲しい!」

 お父さんが迷っているのに業を煮やしたのか。息子が真っ正面から、天の邪鬼叔母に突っ込んでいった。耀平にはできなかったので、仰天してしまう。

 そして花南も、そんな甥っ子に何かを言い返そうと口を開いた。

「あのね、わた・・」

「俺の母親になるんだったら、ちゃんと花嫁衣装を着て父さんと結婚してくれよ!」

 見事に叔母の言葉を遮った。

「だからね、わた・・」

「俺は死んだ母さんのことは少ししか覚えていない。カナちゃんとも離れている時があった。でも! 俺のいままでは、カナちゃんと父さんとの思い出ばかりだから。だから、ちゃんと父さんの『妻』になって、今度こそ、倉重の家と宮本の家で親族になるようにしてくれよ。それにはちゃんと、食事会だけでもいいから、家族揃って挨拶する場と、父さんとカナちゃんがきちんと『結婚しました』とお披露目する場を作るべきだよ。いままでの付き合いを誰もが知っているからって、そのままいつのまにか『妻』と『母親』になっているようなことにしないでよ!」

 今度こそ、花南が口を閉ざした。そして言い返さない。そして耀平も圧倒されていた。

 至極真っ当なことを、息子が言いきってくれて……。まったくその通りのことを、天の邪鬼に言いきってくれて……。

「カナちゃんがそれで良くても、俺は良くない。きっとお祖母ちゃんも、お父さんも。カナちゃんをちゃんと奥さんにしてもらいたいし、奥さんにしたいんだと思う。仙崎のお祖母ちゃんだって、やっと息子が再婚するんだから、今度こそと思っていると思う」

 花南が俯いた。そしてそっと立ち上がる。航の目の前に立つと、じっと見つめている。

「航。ごめんね……。叔母さん、間違っていたね」

 耀平にもそうしてくれたように、花南は柔らかい手つきで航の頬を包みこむ。

 でも息子はまだ不満そうにむくれている。

「もう叔母さんじゃないから。……母さんになるんだ」

 気恥ずかしいのか、花南の手をぷいっと払って瞬く間にリビングを出て行ってしまった。

 息子に全部もって行かれてしまい耀平はしばらく唖然としていたが、でもそのうちに笑いがこみ上げてしまった。

「あーあ。俺が天の邪鬼にいいたこと、ぜーんぶ言われてしまった。間抜けな新郎になりそうだな」

 そして花南も、呆然としていた。

「母さんって言われた、みたい?」

「そうだな。航は、ずっとそのつもりだったのだろう。本当は言ってみたかったのかもしれないな」

 だが花南はそこのソファーに力無く座り込むと、急に顔を覆って泣き出してしまう。

 その花南に、耀平は改めて、そして初めて問うた。

「カナ。もしかして、俺と美月の結婚式を大事に取っておこうとしてくれたのか。航のために……。本当の母親の結婚式の方を、航に覚えておいて欲しいと思ったのか。おまえの結婚式をしてしまったら、見た方を鮮烈に記憶する。それを避け、生まれる前でも写真で残っている式の方を息子の記憶に留めようとした。違うか」

 花南は頷かなかった。でも、なにも返答はない。おそらく、そうなのだろう。

 どうしてあれほどに、姉の結婚式を大事にするのか。それを耀平もじっくりと考えた。そして見えた答がそれだった。

「俺も、『夫』としての憶測でしか言えないが。美月は他の女に航を任せるよりも、妹のおまえに任せられて安心していると思う。どうして夜中に出て行ったのかもう判らずじまいだが、美月はその日まで航を大事に育てていた。美月には大事な息子だった。美月はおまえを信頼していた。そうだろう。姉妹だけにしかわからないことがたくさんあっただろう。残された妹のおまえが、俺と航を大事にしてくれたじゃないか。美月は自分になにかあっても、おまえが大事にしてくれると思っていたのかもしれない。だから、」

 思っていて、言えなかったことを。耀平は結婚をするこの時に、初めて『妹』に言う決意をする。

「花南。もう美月に縛られるのはやめないか。美月も縛られている妹を知ったら、哀しむと思う。おまえに詫びている気もする。姉が『女』として手にしたものと同じ分、妹も手に入れるべきだ。夫も子供も家庭も、母として女として、そして……男も。もう美月に遠慮は要らない」

 ますます花南が泣きじゃくった。少なからずとも、耀平が言うことに思い当たるものがあったのだろう。

「もう義妹じゃない。叔母じゃない。妻になる母になるけじめを、俺と航にみせてくれ」

 テーブルに置かれたままの黒引き振袖を、耀平は手に取る。そっと広げて、それを隣に座る花南の肩にかける。

「黒。花南に似合う色だな」

 涙顔の花南がやっと顔をあげた。

「下関のお祖父さんとお祖母さんが、倉重にお嫁に行くお母さんのために奮発して作った着物だったと言っていた。お母さんの宝物だったと思う。時々見ていたから、倉重の嫁として辛いことがあってもこれを見てお母さんは頑張っていたんだと思う。倉重を守ってきたお母さんが、倉重を守る娘になるわたしに託してくれたと思うことにします」

 花南は着物を肩にかけたまま、すっと立ち上がった。その横顔が凛としている。

「母のように倉重を守っていきます。そう決めたのだから」

 母から娘へ。花南にとっての結婚は、その重責を担うための儀式になるのかもしれない。

 そんな黒い振袖を着ることは、その重厚さと荘厳さを映しているようだった。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 その作品は、まるで『高畠華宵』か『竹久夢二』か。当時の美人画の美女が着ていた着物の絵柄を思い出す。そんなモダンな日本画の色彩を思わせる。

 『黒蝶』は半月形の皿が三作。色彩鮮やかな山吹と瑠璃という対照的な色合いのものと、重厚な瑠璃の花に静かにとまる藍の蝶という濃淡の色合いのものと。そして、とても特徴的なのは最後の一枚。元は紺碧一色だった皿のほとんどをサンドブラストで削り取り、紺の線画だけになった蝶が何匹も連なって、儚く白空に消えていくというものだった。

 華やかな恋、静かで重みのある恋、そして力を振りしぼって消えていく恋。耀平はそう感じた。

 特に、『力を振りしぼって消えていく恋』。そこに花南が奥底に深く刻み込んだ『死んだ義兄』を思っているような気がした。

 力尽きるほどの想いで逝ってしまった男が、どんな恋をしていたのか。花南だけが知っている。

 花南の出来上がった作品を見た航は、若いだけあって色鮮やかな山吹空と瑠璃蝶の皿を『これが綺麗』と気に入っていた。

 反して『どうしてこれはこんなに真っ白にしちゃったの』と、自分の父親が描かれているだろうに素っ気なかった。

「蝶は人間よりずっと大昔から生息している生き物だよ。生まれて、雌を探して、交尾をして、そして死んでいく。短い季節の間にね。他のことは一切せず、それだけの営みをずうっと人間より長く続けてきたんだよね。『それだけのこと』を、疑わずに脈々と受け継いできている。次の子を残すためだけに、綺麗な羽をひらひらさせて。羽の美しさの意味さえも、子孫を残すためにある柄で色合い。人間も違うようで同じだよ。その為に、ただその為に。航もそうだよ。お父さんのその本能で生まれたの」

 生物でわかりきっていることを、まだ中学生の少年に生々しく『お父さんが交尾して出来たの』と叔母が言うので、航は面食らっていた。

 だが耀平には花南の言いたいことが通じていた。『父親が誰であれ、航は生物の生殖という当たり前の理で生まれた。蝶のようにシンプルに生まれただけのこと』と……。いつか、彼が父親を知ってしまった時に、この儚い作品を思い出し叔母のこの言葉を思い出してくれたらいいと願って伝えているようにも見えた。

 花南はその作品のひとつひとつを写真に収めている。それを、見せたい人がいると。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 金沢のとある美術館にて、ガラス作品展の授賞式と展示が催される。一年に一度、創作に取り組むガラス職人が目指す、国内で一番大きなコンテストだった。

 授賞式は午後に行われる。午前中はカナと一緒にじっくりと他の入選、入賞作品を眺めた。

 薄暗い照明の中、ガラスが映えるようにガラスケースの中でライトアップされているものが多い。

 そしてついに耀平はそれを見つけた。

【銀賞】

【瑠璃空 芹沢工房 倉重花南】

 とても大きな皿だった。そこに瑠璃の空がいっぱいに広がっている。そしてほんの僅かに水色の流線。中心から弾けるように散っていく雲母の煌めき。

 圧倒的な存在感だった。静かな構図なのに、確かに押し迫るものを感じる。花南が『ひとりでいきていた』時の渾身。

「これ。本当に花南、おまえが造ったのか」

 女ひとりでは決して造り出せないダイナミックさ。でも、女らしい繊細な雰囲気も色濃く出ている。

「そうだよ……。これだけの嘘ついてきたから」

 ノーブルな濃紺のスーツ姿の花南が、そこでそっと俯いた。

 いや、違う。耀平は隣にいる花南の手を握った。

「その嘘が、俺と航を守ってくれていた。花南、おまえの想いだった」

 それがこの瑠璃空。花南も嘘はついたけれど、それも厭わない想いでこの空の下でひとり……。

 そんな義妹の手を握りしめたまま。耀平はそこから動けなくなる。

 ふたりは、瑠璃空をいつまでも見つめていた。


 観覧を終え、美術館のティールームへ。花南は、その人を待っている。

 同じく、花南の付き添いでついてきた耀平も濃紺のスーツに合わせて、おなじくその人を待っている。

「うーん、この時間にと待ち合わせのメールをもらったのに」

「でも、そろそろだろう」

 銀の腕時計を見たが、花南が言う時間から少しが過ぎた。

 ――花南!

 その声が聞こえ、揃ってティールームの入り口を確かめる。そこには見たことがない男性が手を振っている。でも花南は満面の笑みになり、こちらも手をまっすぐに伸ばして精一杯降り始める。

「勝俣さん!」

 話で聞いていた『兄弟子』だった。

 黒いスーツ姿の彼がこちらのテーブルに近づいてくる。彼の後ろに『その人』がいた。

 その人もスーツ姿で、あの時と変わらない硬い面持ちでこちらにやってくる。

 笑っていた花南が緊張したように真顔になってしまった。

「どうした。親方に『黒蝶』を見せるんじゃなかったのか」

「そ、そうだけど」

 宿泊先のホテルで、花南は何度も撮影をした写真を見て楽しそうにしていた。なのに、ここに来て緊張をしている。

 兄弟子がやってきて、花南と耀平は椅子から立ち上がる。

「花南、久しぶり。元気そうだな」

「勝俣さんも、お元気でしたか」

 兄弟子とは気がおけない関係のようで、『ヒロみたいな人』と教えてくれたことに耀平も納得してしまう。

 その兄弟子が、花南のそばにいる耀平を見た。

「あ、もしかして」

「あ、そうです。倉重の義兄です」

 花南がちょっと恥ずかしそうに耀平を紹介した。瑠璃空を一緒に造っているうちに、花南が想う男は『義兄』だと知れてしまったことも聞かされている。

「義兄の倉重耀平です。義妹から、大変お世話になった聞いております。瑠璃空は勝俣さんがいなくては出来なかったとも」

「いえ……。こいつが来るまで、できっこないと思っていたことに真剣に取り組むようになりました。花南は、最初から賞とかは狙っていないんですよね。その時に『絶対にこれを造りたい』という信念みたいなもの。それにつられました。自分の今回の入選作も、そんな花南にひっぱられるようにして、ギリギリまで追い込んで造れたと思っています」

 兄弟子の表情も、険しい職人の目になった。

 その兄弟子に遅れて、その人も花南の前に向き合った。

 富士の工房では朴訥とした職人親父という風貌だったのに、今日はきちんとスーツを着こなしていた。グレースーツにブロンズ色のネクタイと季節を意識した配色は渋めで、彼の密やかでも品の良いセンスを感じた。

「芹沢親方。お久しぶりです」

「元気そうだな。今日は、おめでとう。花南」

 それだけで、花南の目に涙が滲むのを見てしまう。

 そんな芹沢親方と耀平も久しぶりに目が合う。

「お兄さん。本日はおめでとうございます」

「ありがとうございます。花南を二年、指導してくださった親方のおかげです」

 それらしい挨拶をして、それきり。お互いに言葉が続かなくなる。

「花南はお二人に会えると昨夜もずっと嬉しそうにしておりました。話したいことがあるそうです。どうぞ、時間がありますから聞いてあげてください」

 そういって、耀平は席を立ってしまう。

「外で待っている。ゆっくりな」

 花南にも『親方と勝俣さんとゆっくり話せばいい。その時は席を外す』と伝えていた。

 親方と兄弟子は戸惑っていたが、耀平は構わずにティールームの外に出て行く。

 二階にあるティールームを出て、回廊になっている絨毯の通路をゆっくり歩く。回廊のところどころに一階のエントランスを見渡せるソファー椅子が置かれている。そこで一人腰を下ろし時間を潰すことにする。

 スマートフォンを取りだし、留守の間に会社になにかないか、息子からなにかメールが来ていないかチェックをする。

【 カナちゃん、親方に会えた? 親方によろしく伝えてよ 】

 航からそんなメールが届いていた。耀平も早速返信を打ってみる……。

「お兄さん」

 送信を済ませた途端、そんな声がして耀平はびくりとする。すぐそばで芹沢親方が見下ろしていた。

「そちら。よろしいですか」

 向かいのソファーへと、芹沢親方が座ってしまった。

 まだ花南を置いてきてから、十分も経っていない。

「あの、花南とお話しされましたか」

「ええ。しましたよ。しっかりダメ出しをしておきました」

 ああ流石、花南の師匠――。耀平は絶句する。『ダメ出し』とは、花南が師匠に見せたいとはりきっていた『黒蝶』のことだと判った。

 その欠点をずばっと指摘して、話は終了――。となったのだろう。

 その親方が、花南が持っているはずの黒蝶皿の写真を、二人の間にあるガラステーブルの上に広げた。

「お兄さんは、工房主であって、工房商品の営業マンだとも聞いております。花南の話では、駄目なものは駄目と判断をして決して売りに出さないと。兄が認めたものは必ず売れると聞かされています」

 義妹が親方のためにと撮影してきた作品の写真を、耀平へと向け、険しい眼で彼が尋ねる。

「売り手のあなたは、これをどう見られたのですか」

 嫌なところをつっこんできたな――と、耀平は顔を背けたくなった。

「花南も言っていましたよ。義兄さんは今回は『売る』とは言ってくれなかったと。ですから、私からもダメ出しをしておきました。ですがどこが悪いと私がそれを伝えて直すようでは完成品を生み出せる実力はないということになりますから」

「わかります。そしておっしゃるとおりです。三点で連作と花南は言っておりますが、私には三点どれもバラバラに見えます。特にこれ、奇抜すぎて学生時代の妹の作品を思い出します」

 それは耀平が『これで十二分に美しい』と思えたはずの、日本画的な山吹と瑠璃の皿だった。

「むしろ失敗作で割ったものの方が素直で美しかったです。花南がこれを完成品としていましたが、力みすぎたのか懲りすぎたのか」

「そうでしたか。割ったものの方が売り物になりそうでしたか。創作的にはいかがですか」

「同じ事です。素直な方が人に伝わることもあります。創作であるならば奇抜な方が良いはずだなんて、愚論です。親方もそこに気がつかれたのでは」

 そのようで、親方も静かに頷いてくれた。そして次には、あの真っ白に削りまくった紺線画の皿を指さした。

「これこそ花南らしい。気迫を感じます。どんな顔で目でサンドブラストをしていたか目に浮かびます」

 この人はやはり花南の師匠だと、再度驚かされる。まったくその通りだった。花南が最後に根を詰めて削り続けていたのは、この儚い蝶の皿だったから。

「あとの二点は迷いと力みと、昇華され切れていないものを感じます。連作だなんてまだ生意気だ、一作に絞れと叱っておきました」

 はあ。なんとも手厳しい親方だ。これでは花南もぐうの音がでないことだろう。しかし、有り難いことだった。

 そんな親方に。今度はこの制作を見守ってきた工房主として伝える。

「恋――。そう思いました」

 親方も『恋?』と面食らっている。

「花南が本当に表現したかったのは、死んだ男の恋だったんだと思います。だからこの素っ気ない皿にだけ気迫を感じるのだと思います」

「死んだ男の恋? ……失礼ですが……」

「いえ、花南の過去の恋ではなく。壮絶な死を遂げた航の血の繋がった父親のことです」

 親方が目を大きく見開き固まってしまった。

「造りはじめた頃。花南は生意気な妹の顔で、男は黒蝶だと言っておりました。『男』を表現すると言っていたのに、結局は『恋』にすり替わっている。この皿は恋の華やかさ、この皿は恋の重み、そして最後に取りかかった儚い恋。自分の中で思いつく恋をそれぞれ表現したかったのでしょう。恋もいろいろあります、ひとつに絞れずに連作にしてしまったのでしょう。でも、いまの花南が感じていた強烈な恋は、自分が引き止めることが出来きずに死んでしまった『もうひとりの義理の兄』が秘めた想い。それしか表現できなかった。そう感じました。とてもではありませんが、こんな強烈なもの他人様には売れません。花南もいつもなら、こんなに想いを塗り込めた作品は割ってしまうはずなのです。もっとそれらを削ぎ落として出来るもののはずなのに」

 耀平の今回の作品への見解を述べる様を、親方もじっと黙って聞いてくれている。そして、最後に強く頷いてくれた。

「……失礼ですが、想いある義理の妹のためだけに工房を開かれたと思っておりました。違いましたね。お兄さんも、もしかして『物』に惹かれてしまったお方ですか。作り手の私達とは反対側にいる『見極める、観る』人種の」

「そう……だと思います。花南の父親とはそれが縁で養子になったようなものですから。造る才能はありませんでしたが、職人が手がけたものにとても惹かれます。良い仕事だと感じたものに触れた時には、血が騒いで困ります」

「はあ。道理で。ベストカップルだったというわけですか」

 今度は親方が額を抱え、大きな溜め息を落とした。話の趣がいきなり変わったようで『ん?』と耀平も眉をひそめてしまう。

 そんな親方が、藍の濃淡で花と蝶を表した皿を指さした。耀平が『静かな重い恋』と感じた皿。

「おそらく。花南があなたを想って造ったのはこれでしょう。私に止まって欲しい。ずっとどこにも飛ばずにここにいて。そして厳かで清楚な藍色。自分の恋を想ったのはここだったのでしょう」

 言われて、花南は俺のことも表現してくれていたんだと初めて知る。今回はどこにも俺はいないと思っていたから。

「しかし、とんでもない皿を造ったもんですね。しかも『恋』だの『男』だの。客観的に捉えるのは非常に難しいテーマで、一歩間違えれば『愚かな題材』です。ですが表現は何事も表裏一体。愚かさも突き抜ければ、それも立派な表現と化します。いちばん難しいところ、挑んできましたね。気持ちが止まらなかったのでしょう」

 ダメ出しをしたものの、親方にも惹かれるものはあるようだった。だがまだ磨き切れていない。不純な不快さが残ると親方は言う。

 なのに親方が徐々に楽しそうに笑みを滲ませ、多弁になってきていることに耀平は気がつく。

「相変わらず生意気だ。私が先に造って見せますよ。花南が男にこだわるなら、私は女でいってみましょうかね」

 え。今度は親方が『女をテーマに挑戦』? しかもなんだか花南と張り合っている?

「だから。花南にもう一度良く考え直すように、工房主のお兄さんからも言って頂けますか。『サンドブラスト』はガラスの上で絵画をするためにあるのではない、ガラスの特性を引き出す技法であることを思い出して欲しいと。これでは安直すぎる、気持ちが出過ぎていると」

「わかりました」

 同意見だったので耀平も頷いた。写真も親方から返されてしまう。

 そこでちょうど、花南も兄弟子とティールームから出てきた。案の定、しょんぼりした様子で兄弟子に慰められているようだった。

 もう少し花南とお話を――とお願いしたかったが、花南と親方の目が合いそこで暫く二人が見つめ合っている姿を見て、耀平は諦めた。

 目だけで険しさを伝える父親のような親方と、その師匠に畏れを抱いて険しい眼差しを真摯に受け止めている弟子の花南。それがこの二人の関係なのだと思えたから。

 師匠と会っただけで、弟子には伝わるものがある。決して甘いものは一切ない、そして妥協のない関係。厳しいけれど、それはそれで耀平は羨ましく思う。男としてではなく、職人達のそんな関係に。

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