12.母は職人さん

 秋を迎えても、豊浦の倉重リゾートホテルは常夏のように爽やかな青い海はそのまま。

 古い会議室で、各事業所の重役が集まっての会議があった。

 終わると、各地へ帰る責任者がグループ社長である雅晴に挨拶をしていく。

 すべての重役が去ると、大きな椅子に座っていた雅晴が伸びをした。

「あー、疲れたよ。耀平、今日は蕎麦を食べに行こう」

「いいですね」

 季節的にも新蕎麦の頃。耀平もすっかりその気になった。

 新しいレクサスに義父を乗せて、義理の親子で昼休み。近場にある蕎麦店で義父と向き合い、シンプルなざる蕎麦を注文。

「花南はどうかな。花嫁衣装を着る気になったのかな。母さんが、毎日ぶつぶつ言っているんだよ」

 義父が辟易した様子で、冷水を飲んだ。

「カナも一度頑なになるとなかなか」

 耀平もまだ、花南の奥深くに踏み込むに至らず――だった。

「もう、別にさ。いいんじゃないかな。娘本人が『着たくない』と拒否しているんだから」

 このお父さんの恐ろしいところと言うか、性質というか。社長としてこの合理主義を持ち出してくれると助かるが、時に家族にもこの感覚だからちょっと考えてしまう。

「お義父さんは、カナの花嫁姿を見たいとか思わないのですか」

「うーん。なんか虚しいんだよね。これは立派な花嫁だとだいぶ前に喜んだ記憶があるけれど、綺麗な花嫁が幸せになるとも限らず、なんというか虚像のようで」

 耀平は眉をひそめる。このお義父さんも、時々花南のように妙な感覚で世間離れしていることがあるんだよな……と。

 しかも花南と同じようなことを感じている気がした。それならと、耀平も思いきって。

「まだ本人から聞いたわけではありませんが、カナも美月の花嫁姿が忘れられなくて、その時新郎だった男と同じようなことをすることに違和感を持っているのではないかと」

 義父の雅晴も腕を組んで唸った。

「うん。私もそうではないだろうかと思っていた。でも、母さんはそうではないだろう。美月と花南は別々で、育てた娘の花嫁姿は見てみたいんだよ。そこなんだよ、そこ」

「自分だけの結婚式ではないと説いてみましょうか。お義母さんへの感謝も込めてするものだと」

「そうだね。それがいいかもしれない。あ、私だって見られるなら見てみたいからね。頼んだよ、耀平」

 耀平も頷く。でも義父がまだ唸っている。

「なんだかおかしいな。あの子は白いウェディングドレスって可愛らしい感じじゃないんだよな。なんかこう人を喰っているようなドレスとか似合いそうだろう」

 この人やっぱり花南の父親だと、耀平は密かに喫驚……。自分以外に、花南は黒が似合うと思っている男がいたなんて。

 しかも人を喰っているようなドレスとまで喩えられて、先日の『隙を隠していた黒いドレスの花南』を思い出した耀平は、その全てを雅晴に覗かれたような錯覚に陥り冷や汗を滲ませていた。

 蕎麦が来て、義父と昼食を味わう。

「はあ。帰ったら今度は書類の整理か。明日はまたでかけなくてはならないし」

 義父はいつもいまからの予定を言い並べながら食べる癖がある。そうして頭の整理をしている姿は日常であって、養子である耀平の前でしかみせてくれない面倒くさそうな顔でもあった。

 そういういつもの義父を前にしていると、耀平も落ち着く。こうしてなんとなく、父と息子を積み重ねてきた。

「ところで。花南の銀賞作品『瑠璃空』が作品展から帰ってきたら、是非、当ホテルのロビーに展示したいと思っている。花南にもそう伝えてくれ」

 今度は義父が言いだしたことに、耀平は目を丸くする。

 いつもは何か言いたいことがあっても、ひと息おいて言葉を選んでからものを申すようにしている。だが、こればっかりは!

「いえ。申し訳ありませんが、カナの『瑠璃空』は、ガラス工房の萩本店にて展示する予定です」

 雅晴も目を丸くした。そして負けじと向かいの席から身を乗り出して耀平に詰め寄ってくる。

「萩の本店など、一握りの観光客がくるだけではないか。素晴らしい芸術作品は、大勢の人目についてなんぼのもの。ホテルのロビーの方が人目がある」

「人は多いでしょうが、素通りの可能性も多いでしょう。ガラスに興味を持って大事に観てくれるのは、ガラス工房だからこそです。しかも身近で観ることが出来ます」

 いつもは聞き分けの良い養子の耀平がいつになく対峙するので、また雅晴が喫驚の表情をゆっくりと滲ませおののいている。

「む、娘の作品だ。父親の私が――」

「妹の、いえ、妻の作品です。しかも私は『花南』という作家を守っている雇い主です」

 親バカじゃないか、と言いたいが。そこで耀平も思い改める。自分だって……。そして雅晴の前で、ふっと笑い始めてしまう。

「俺達。親バカと兄バカですね」

 義父もいつになくムキになってしまったようで、珍しく頬を少しばかり赤くしている。

 そんな雅晴も白髪の頭をかいて、笑顔になる。

「花南がいまのを目の前にしていたら、くだらない――というのだろうね。あの子なら」

「そうですね。どこに飾ってくれてもいいと言いそうです」

 それでも雅晴は、ロビーに飾りたくて仕方がないようだった。これも親孝行か。跡取りになれと強制せず、ガラス職人として歩むことをじっと黙って見守ってきた父親でもあった。

 その娘が三十歳を超え、その才能を開花させたことは、表に出さずとも父親の雅晴が密かに喜びを噛みしめていたことは、耀平も側で感じていた。

 跡取りのことばかり押し付けられきた倉重の人間。祖父も、父親の雅晴も、そして姉の美月も。そんな枠から出られない生き方の中、表現する世界にある美術品に工芸品を愛でることで職人に憧れていたところがあったのかもしれない。そんな中、末娘が工芸職人の道を歩み始めていた。

 職人のゆく道も険しい。挫折して去っていくものが大半の中、花南はなんとか生き抜いてきた。末娘がその道で掴んだもの。銀の印。それが父親にはどれだけ喜ばしいことか――。

「そうですね。いずれは工房にも置かせてもらうことにして、まずはロビーで人目に触れた方が作品にとってもよろしいかもしれません」

 耀平から折れると、雅晴がこのうえなく嬉しそうに微笑んだ。

「ありがとう、耀平」

 これまたいつになくぎゅっと両手を握りしめてくれて、耀平は戸惑った。

「花南と金沢に行くのだろう」

「はい」

 もうすぐ『瑠璃空』の展示会が開かれる。金沢の美術館で受賞作が展示される。そして授賞式もある。花南の『お義兄さんに見て欲しい』という願いもあって、耀平も付き添うことになっていた。

「私も行きたいなあ。でも、駄目なんだよな。悔しいな」

「スケジュール、なんとかならないのですか」

「花南を職人として磨きをかけてくれた湖畔の芹沢親方に是非お会いしたかった」

 湖畔の工房からは、銀賞と入賞が出た。そこの工房主として、芹沢親方も金沢にやってくるとのことだった。

 花南が山口に帰ることを決めたその日に、親方は工房を辞めさせ突然の離別になってしまった。あの日から、初めての再会でもあった。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 豊浦の自宅に帰宅する。帰宅したらまずやることは、息子に『ただいま』とひと言でも伝えに行くこと。

 二階、耀平の寝室の隣にある航の部屋へと向かう。ドアをノックすると、息子の返事が聞こえた。

「ただいま。いま帰った」

 眼鏡の横顔が机とノートに向かっていた。時々集中していると、無反応なことがある。

「おかえり。待って。いま終わるから」

 シャープペンシルを止めず、振り向かないままひとまずの返事があった。

「いや、そのままでいい。またあとでな」

 ドアを閉め、そっとしておこうとした。

「待って。父さん」

 はっきりとした声で止められたので、耀平も足を止めた。

「ちょっとここに来て」

 机の側へと望まれ、耀平もそのまま部屋に入った。

 航の机の横には、いつも椅子がひとつ置いてある。そこに祖母の静佳が腰をかけたり、ほとんどは父親の耀平が、時には祖父の雅晴がおじいちゃんの顔で座ることもある。

 そこは航をこの家で守ってきた大人が、いつだって彼の側にいる、話を聞いてあげようとした結果、出来た場所だった。

 その椅子に耀平は、いつも通りに腰をかけた。

「どうした」

「ここがわからないんだよ」

 数学の問題をいくつか差し出された。

「どれ」

 まだスーツ姿のままだったが、耀平は息子が差し出した問題をひと眺めして自分も解いてみる。

 終わった問題を、そのまま息子に返した。

「ここでひっかかっただろう」

「あ、そこだったのか。正解の数字にならなくて困っていたんだ」

 眼鏡の息子がホッとした顔になる。徐々に父親金子の顔つきになってきても、そんな微笑みを見せられるとやはり耀平は嬉しくなる。この子はこのままでいて欲しい。

 だけれど心の中で、父親も母親も特殊な性癖の持ち主だったから、いつかこの息子もどうしようもない欲情に縛られて苦しみやしないか不安に思うこともある。

 この息子にはそんな性質が浮上してこないことを祈りたい。

「俺、父さんの子で良かったな」

 もの思いに囚われているところで急に言われ、耀平は我に返る。

「どうしたんだ。急に」

「父さん、頭良いし。忙しくても勉強も教えてくれる。それに再婚もせずに、ずっと俺のそばにいてくれたからね」

「当たり前のことではないか。いや、それを言うなら、父さんよりお祖母ちゃんだ。俺は仕事でいないことも多かった。夜も遅かった。そんなおまえのそばにいてくれたのは、母親代わりのお祖母ちゃんだっただろう」

 それでも航は、耀平の目をいつになくじっと見つめている。

「うん。俺、誰よりもきっとお祖母ちゃんを大事にすると思う。でも、父さん。本当は再婚話もいっぱいあったんだろう。カナちゃんとどうこうはともかくとして。小学校の高学年になってから、この街では知れた家の奥さんということで、お祖母ちゃんがPTA会長もしていただろう。でも年寄りだから保護者としてのお勤めがきつくなってきた代わりに、父さんがPTA会長をしてくれたじゃん。あの時、父さんすっごいモテモテだったもんな」

「そうだったか。全然気がつかなかった」

 嘘だった。あの時は本当に参ることが多かった。特に『独身同士』となると非常に気を遣った。

 こちらは倉重家の跡取り婿養子ということ、父子家庭であることで、なにかと男と女に持ち込まれそうになったことも一、二回はあった。

 田舎だから、変な噂にならないよう神経を尖らせた。だがそこは、さすが『倉重家』というか。一番大事な時には、義母が目を光らせ不埒な空気にならないよう影で上手く取り締まって撃退してくれたものだった。

「義妹とつきあっているだなんて言えなかったんだよね。大変だったよな、あの時は」

「忘れたな」

「俺、そのオバサンに『父には他に見合い話もたくさん来ているけれど、俺と血の繋がりがある叔母と結婚してもらうつもりです』と言ったことがある」

 はあ? 耀平は目を丸くし、唖然とさせられる。

「そ、そんなことを」

 小学生の時に、この息子は既に冷酷な行動を起こしてた。それでも航は、当然だとばかりに遠くを睨んでいる。

「父さんと結婚したって俺の為じゃないくせに。図々しいんだよ。倉重の家になんとか入り込もうって魂胆が見え見えなんだよ。『叔母は父よりずっと若いし、母に似ているから父もお気に入りだ。祖父の娘である叔母が相続した方が平和』とも言ってやったかな。その後だったかな。その人がここを引っ越していったのは」

 なんということを小学六年生で言い放っていたことか……。父親として目眩がしそうだった。いや、思春期前の子供だからこそ言えたのかもしれない。

「その後、父さん気が楽になっただろ。鬱陶しそうにしてたもんな」

「いや、だからってなあ……」

 確かに急に彼女親子が出て行ったのは覚えている。義母も逆恨みや荒そうにならないようにと細心の注意を払い手痛くしたはずもないのに。耀平もソフトに遠ざけていたつもりだったので、相手にしなかったとはいえ『それほどのことだったのか』と眉をひそめたものだった。

 そうか。航が原因だったのか? 最後のひと押しだったのか。

 それでも航は悪びれず、その細い眼差しで遠くを鋭く見据えている。

「この家に他の血は要らない」

 育ててきた父親とはいえ、ややゾッとした。花南が言っていた。父親の金子も本気になると冷酷な目になると。この息子には間違いなく彼の血が流れている。

 しかも。教えてもいないのに、いつのまにか父親の耀平と同じ考えを備えていたという驚き――。

 もしかすると、そんな耀平が『他の女は要らない。義妹の花南が正当』と貫いてきた想いを、息子はいちばんそばで見てきたからかもしれない。

 やはり息子だ。そばで一緒に過ごしてきた男同士。耀平は、航の頭をそっと撫でた。

「頼もしいな。カナとお祖母ちゃんを守っていこうな」

「いつかよぼよぼになる祖父ちゃんもね。あ、父さんもか」

「おまえに面倒なんかみてもらうつもりはない」

「あ、そっか。カナちゃんに面倒をみてもらうんだっけ。よかったな。嫁さんになる妹がずっと若くて」

 どうあっても生意気な物言ばかりなので、ついに耀平も男同士のたわむれでよくする、首に腕を巻いて軽く締め上げる真似をする。また航がいつものように『あはは、やめろよ、やめろ』とはしゃぎ始めた。

「まあ、賑やかね。お勉強をしているはずなのに」

 義母の静佳がドアを開け、顔を覗かせた。

「耀平さん、お話があるの。いいかしら」

「はい」

 神妙な面持ちだった義母の様子に、耀平は首を傾げた。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 祖母のいつにない様子が気になったのか、航までついてくる。

 おまえ、勉強の続きをしろよ――と言いたいが、義母の静佳がなにもいわなかったので、そのまま航も連れてきてしまった。

 連れてこられたのは、義母の部屋だった。衣装部屋と言ったほうが良い。義母の洋服に着物が多くしまわれている部屋であって、義母が着替える部屋でもあった。昔懐かしいが立派な職人づくりの『鏡台』もある。

 その畳の部屋に、いくつかの『たとう紙』が揃えられていた。

 着物をしまっている『たとう紙』の側へと、義母が正座する。そこで静かに義母はたとう紙の紐を解いた。

 中から、黒い着物が出てくる。豪華絢爛な花模様、金糸銀糸に彩られた『友禅』だと耀平も一目でわかった。

「素晴らしいですね」

 義母の向かいに、耀平も正座する。航も静かに隣に座った。祖母の様子と、着物の厳かさ。いつもと様子が違うから大人しくしているのだとわかった。

「京友禅ですか」

 金糸銀糸の扱い方から、そう判断した。

「そうよ。私がお嫁に来る時に実家が作ってくれたのよ。お父さんと結婚した時に着たの。私が結婚する頃でも、こんな田舎の古くからある家ではまだ着ることがあってね」

「では。『黒引き振袖』ですね」

 恭しく着物に触れた義母の様子を見て、耀平も察した。そして義母も。

「これを花南に持っていってください。あの子に着て欲しいわけではないけれど……。いい仕事をしているお着物だから、『作り手』のあの子ならきっと気に入って大事にしてくれると思って。袖を切ってもいいんだけれど、柄が若すぎるかしらね」

「そうですね。まさに『花嫁衣装』のためだけの柄ですね。贅沢品です」

「いつだったか、花南にも美月にも見せたことがあるのよ。美月はドレスを着るんだと言って、花南は何も言わなかったけれど。でも『素敵な着物』だと美月よりも長く眺めていたのを思い出して」

 他にもいくつか『たとう紙』を差し出される。

「他にも歳を取って着なくなった訪問着や帯があるから、持っていってください」

 ひとつひとつ『たとう紙』を広げて見せてくれたが、どれも見事な品だった。

「すごい綺麗だね、お祖母ちゃん。カナちゃんにも似合いそう」

 そして耀平もそっと、黒引き振袖を手に取ってみる。『正絹』のひんやりとした手触りも、なめらかさも本物。触っただけで、男の耀平でも血が騒ぐ。『いいもの』に触れた時の、熱い気持ちが湧いてくる。

「これです。きっと、カナに似合う花嫁衣装は、きっとこれだったんです」

 思わず興奮気味に言い放っていた。

 なのに、息子の航まで真顔で頷いている。

「カナちゃんも、日本の職人さんという感じだからぴったりだよね。日本のガラス職人さんが、日本の友禅職人さんの着物を着るって」

 その通りだと、耀平も息子の言葉に笑顔で頷いてしまう。

「そうだ。航が言うとおり、それだった気もする。そうだ。花南もいい仕事の着物なら気に入ってくれるはずだ」

「そうだといいけれどね……」

 義母はまだ娘が素直に花嫁衣装を着ないことに、気持ちが晴れないようだった。

 義母も既に、娘の本当の気持ちを悟っている気がした。お姉さんと同じ事をしなくてもいいでしょう。そして、お姉さんの結婚式が忘れられないという妹としての気持ちを。

「週末は山口の家に帰りますので、カナに渡します」

「お願いします、耀平さん」

 正座の義母に頭を下げられてしまう。そこに『貴方から着るように言っていただけませんか』という願いが暗に含まれているような気もした。

「父さん。俺も行ってもいい? 俺もカナちゃんにこの着物を着て欲しいと言ってみる」

「いや、でもなあ。おまえは受験生だからあまりふらふらしてもなあ」

「向こうでもちゃんと勉強するから」

 航から言えば花南も少しは頑なな心を緩めてくれるかもしれない。

「いいわよ。つれていってあげて、耀平さん」

 義母までそう言うので、連れていくことになってしまう。

 可愛い甥っ子の勧めでも天の邪鬼が素直になってくれなかったら。もうどうしようもないなと、耀平も覚悟を決めた。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 週末、息子をつれて山口に帰る。後部座席には風呂敷に丁寧に包まれた着物の数々。

「カナちゃん、俺の話でも聞いてくれるかな」

 あんなに張りきっていたのに。いざとなると隣の助手席で少し自信がなさそうな子供の顔になっている。

「聞いてくれるだろう。航の話なら」

「カナちゃんってさ。職人らしく、わりと意固地なところがあるもんな。女性なら誰もが着たいものだと思っていたけれど。でもカナちゃんらしくて面倒くさい」

 その通りなので、耀平はハンドルを握りながら笑ってしまう。

 花の彩りがなくなった庭先に辿り着く。花は終わったが、木々の葉が燃えるように紅く染まっている。そして今日も工房の入り口には、熱風渦巻く陽炎が揺らめいている。

 いつもの通り、航は助手席を降りるとすぐに工房へと向かっていく。

「社長、お帰りなさい。お、今日は航も」

 そして作務衣姿のヒロが迎えてくれるのもいつものこと。

「カナちゃんは、グラインダー?」

 航は工房を見渡し、吹き竿の作業をしていない花南がどこで作業をしているか探している。だが今日はヒロが、そんな航を工房の中に行かないよう引き止めた。

「今日はダメだ。航」

「どうして、ヒロ君。俺と父さん、今日はカナちゃんに大事な話があるんだよ」

 それでもヒロは首を振り、花南に近づくことを阻止しようとしている。しかし耀平はどうしてか察した。

「また、のめり込んでいるんだな」

 ヒロが静かに頷く。

「はい。ここ三日、ずっと『黒蝶』の仕上げに取りかかっています。一昨日また完成品を割って、いま三度目の挑戦に入っています。今日は朝からずっと『サンドブラスト』に集中しています」

 ここ数ヶ月。花南の創作のテーマは『黒蝶』。ショップ商品生産の傍らで進めてきた。その『生産』を放って、取り憑かれているらしい。

「カナが抜けて生産ラインは大丈夫なのか」

「はい。自分のノルマはもうこなした後なので、今月の残りは黒蝶に専念しても良いと伝えた途端にこれですから」

「それなら、暫くは声をかけない方がいいな」

「そうしてください。航がせっかく来ているのに申し訳ないけれど」

 耀平の隣で、航が残念そうに工房の隅で『サンドブラスト』の加工に熱中している叔母を見つめている。

「航。カナの作業が終わるまで待っていよう」

「うん。わかっている」

 いつだって笑顔で迎えてくれた叔母の『本気の姿』を目の当たりにしたのは、これが初めてだったのか、航は寂しそうな顔をしている。

 そんな叔母がいますぐに自分に気がついてくれないかと名残惜しそうにしていたが、もう一度声をかけると、やっと諦めたのか耀平の後をついてきた。


 家の中に入ると、リビングのテーブルには花南のスケッチブックが広げたままだった。

 黒い蝶ばかりが何枚も描かれているスケッチと、最終的にガラスに『砂』でエッチングをする『図案』が何枚も何枚も床にまで散らばっている。

「すごいな。まさか、一人で留守番している間、ずうっとカナちゃんってこれに取り憑かれているってこと」

「そうだな。いままでは、航が来る日にはそうならないようカナもモチベーションをコントロールしてくれていたんだろう」

 独り住まいの間に没頭してしまうと、この家から生活感がなくなるのは以前から良くあることだった。

 家事の一切を放棄しているせいか、キッチンは逆に綺麗なままで、食事をした痕跡もない。テーブルの花は飾られていないし、ベッドルームを覗くと服などは着替えたぶんだけ脱ぎ捨てられたままという状態になる。

 だが、その状態になると、花南は異様に鋭い感性を発揮する。

「父さんは、こんなカナちゃんを何度も見てきたんだ」

「そうだな。だけれど、あの状態になるとだいたい素晴らしいものを造り上げる。それだけ全精神をガラスに傾けているのだろう」

「俺、初めて見た気がする。子供の時も見ていたのかもしれないけれど、気がつかなかった」

 そうか。叔母の鬼気迫る背中を感じ取れるほどに、大人になったということかもしれない……。と、耀平は微笑んでいた。

 花南がそのまま散らかしているスケッチを、耀平はゆっくり拾い上げ束ねる。

「航。これからそんなカナと一緒に住むようになるし、そんな職人がおまえの母親になる。これからもカナは何度もこんな状態になるだろうが、大丈夫だな」

 少し相手にしてくれないぐらいでへそを曲げるようでは、職人の母親とは暮らせない。航はこの日、それを初めて体感している。

 しばらく黙っていたが、やがて航も静かに花南が散らかしたままの色鉛筆やコンテを一緒に片づけ始める。

「わかってる。じゃあ、そんな時は、俺と父さんが協力しなくちゃな」

「そうだな。俺は豊浦からの通いになってしまうからなおさらだ。そんな時はヒロと舞さんが助けてくれる。あと、お手伝いさんも来年は雇うつもりだから安心しろ。でもな。夜はおまえとカナの二人だけになる。叔母さんが、こんなふうになっても頼んだぞ」

「うん。わかった」

 いつのまにか頼もしい男の顔になっていた。先程まで、叔母さんに微笑んでもらえなくて子供のような顔をしていたのに。

 そんな航が、花南のスケッチの一枚を手にとってじっと見つめている。

「カナちゃんは本当にガラスに賭けているんだな……。カナちゃんの『こうなりたい』はガラスにあるんだ」

 そして航がしんみりと、そしてどこか達観したように呟く。

「花嫁衣装なんて、どうでもいいって……わかった気がする。ガラスが造れて、ガラスのことをわかってくれる家族がいれば。それだけでカナちゃんは幸せなんだ」

 近頃は、大人ぶったことを良く口にするようになった息子。だが、彼のこんな言葉に、父親の耀平は胸を打たれてしまう。

「航の言うとおりなのかもしれない。でも、花嫁衣装を着ることは自分のためだけではない。育ててくれたお祖母ちゃんが望んでいる以上は、カナにも少しは考えてもらわねばな」

「いつ戻ってくるんだろう。俺、勉強して待っているよ。どうせ夜遅くまで起きているから」

 そうして父子で、叔母の集中力が切れるまで待つことにした。

 それでも、花南は夕になっても、食事の時間になっても、航が入浴を済ませても、家の中には戻ってこなかった。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 『サンドブラスト』は、研磨剤になる細かい砂をガラスに吹き付け、削れた部分が白い磨りガラスのようになるエッチング加工。

 切り絵にしたマスキングシートを貼りつけ、コンプレッサーの空気圧で砂を吹き付け削る原理で彫刻をするように模様を描く。

 食事が終わった後、耀平は花南だけになった工房に様子を見に行ったが、花南は工房の奥でひとり、砂をガラスに吹き付け、細かいエッチングに集中しているまま。

 割られたガラスを集めているコンテナを覗くと、まっぷたつになっている『黒蝶の皿』を見つけた。

 まるで日本画のような色合いの半月形の皿だった。瑠璃と山吹のグラデーションの皿。山吹は空、瑠璃の色域にサンドブラストを施し、黒蝶の羽を彫刻している。どのような手法なのか。黒蝶の羽、瑠璃色の下にはほんのり紅色が見え隠れして、まるで鱗粉をまとっているよう。

 割られた皿も、十二分に美しく仕上がっている。それでも、花南という作家にしてみれば『まだまだ』のようだった。

 これは、花南がそれまで得意としてきた『一発で勝負する吹きガラス』とは異なるチャレンジだと耀平は感じた。

 これなら吹きガラスでベースの皿を作ってしまえば、あとは数日かけて絵つけに取りかかれる。だが、それが上手くサンドブラストで描ききれるか。その細やかさと花南は戦っているところ。

 耀平もそっとしたまま、家の中に戻った。

 息子は自室で静かに勉強をしていて、耀平は書斎で仕事の続きをする。そのまま夜が更けていく。

 そろそろ入浴をして、もう今夜は花南と話すことは諦めようと思った時だった。書斎のドアからノックの音。花南が戻ってきたのかと思ったが、開いたドアから覗いた顔は息子の航だった。

『ちょっと、父さん。きてきて』

 囁くような小声で手招きをしている。なんだろうと書斎を出てみると――。

 航にリビングへと連れて行かれ、耀平は驚く。花南がソファーでぐったりしたまま眠っている。

 い、いつのまに? 戻ってきた気配もなかった。勉強を終え、喉が渇いてリビングに来た時に航が見つけたらしい。

 煤(すす)けた工場用のエプロンもつけたまま、うつぶせて眠っている。

『どうする、父さん。ベッドに連れていったほうが……』

 耀平は首を振った。動かせば目を覚ましてしまうから。

 ベッドルームから持ってきた毛布をかぶせて、そのままにしておくことにした。

 汗をかいたまま疲れ切って眠っている。そんな妹の黒髪をそっと撫でても、花南はぴくりとも動かない。

 そんな父の愛おしい手つきの労りを眺めている航が、にやついた顔。それでも耀平はかまわずに何度も花南の黒髪を撫でる。

『父さん、みてみて!』

 航が何かに気がついた。嬉しそうに彼がとびついたのは、テーブルの上にある空っぽの皿。

「カナちゃん。俺が作った『おにぎり』、食べてくれたんだ」

 父子だけの簡単な食事をした後、航が叔母の食事を気にして作ったものだった。皿の下には『カナちゃん。食べてください』のメモも置いていた。

「おまえが来ていること、気がついてくれたんだな」

 初めて叔母の役に立てたかのようにして、近頃は生意気なばかりだった息子が嬉しそうに頷いた。

「はやくカナちゃんと話したいよ。はやく着物を見て欲しい」

 その顔はもう職人の母親を見守る気持ちを備えた息子の顔になっていた。

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