11.いつまでもお兄さん
山口の家で療養している内に、西の京も秋の色合いへと移りゆく――。
捻挫していた足の痛みもなくなり、耀平は日常を取り戻していた。
とっておきのワイシャツを羽織り、とっておきのネクタイを締める。仕事用ではなく招待用のイタリア製のスーツを着込んで、耀平は身だしなみを整える。
やっと車を運転できるようになった。事故で破損した車は廃車になり、新車に。だが、またお馴染みの『黒いレクサス』。今度は前回躊躇ったスポーツタイプを選んだ。
今日はアルコールを飲むだろうから運転が出来ない。この車は置いていく。なのに耀平は落ち着きなく新しい相棒の手入れをしたり。車のガラスに映った自分を見て、花南が揃えてくれていた『エルメネジルド・ゼニア』のネクタイの結び目を締め直したりしている。
さて。気難しい義妹はどうなったのだろうか。
まさか。パーティーの当日になって『わたし、やっぱり行かない』とか言い出さないだろうなと、耀平は密かにヤキモキしている。
普段、着飾って人目につくことは苦手としている花南だから、少し前から『ああ、面倒だなあ。行きたくないなあ。ねえ、兄さん、もう取りやめられないよね』なんて何度か口にしていて、耀平はその度に『俺の妻になる以上、最初ぐらいは付き合ってくれ』と念を押して承知させたりしていた。
パーティーだけではなく、結婚する時に何を着るかでも、耀平と義母と一悶着したばかりだった。『教会で結婚式とか、神社でお式とか。仰々しいことはしたくない。入籍したその日から兄さんの妻になれるだけでいい』と言いだして、義母の静佳と喧嘩をしたばかりだった。
――『まったく、あの子は何を考えているの。もう、耀平さん、あの子の本当の気持ちを聞き出しておいてくれるかしら』と、頼まれてしまった。
だからとて、すぐに聞き出すには花南もまだ頭に血が上っている様子だったので、そっとしている段階。そのうちに聞き出そうと思っている。
でも、耀平はうすうす気がついている。『俺と美月の結婚式を、鮮明に覚えているのだろう』。あの日、幸福に満ち足りていた美月と耀平のそばに、二人を祝福してくれた花南もいた。『三人で写真を撮りましょう』。美月の手招きに、まだ少女のようだった花南が嬉しそうに駆け寄ってきた。『これから私達、兄で姉で妹よ』。美月は、姉と兄に囲まれるようにと、花南を真ん中にして従姉に写真を撮らせた。
花南はまだ、その写真をクローゼットの奥に忍ばせていて、時折、眺めている時がある。しかも、最近もそれを見ているところを耀平は目撃してしまった。
これから結婚する男は、夫になる男は、既に盛大な式を経験している。『姉夫妻に恋をしていました』。花南にとってあの日の姉と義兄は、ずっと綺麗な憧れのままなのだろうか。その片割れの男と『同じ事をする』。それが花南にとってはどのような心境であるのか、耀平はまだ推し量れない。それでも『平気ではない』ことだけがわかる。
『気難しい』なんて喩えたけれど、本当のところは『思慮深い』のだとも思っている。
男の支度はすぐ済むけれど、女性はそうではない。そう思うことにして、耀平は花南の支度が終わるのを待っているのだけれど……。
どうしても落ち着かない。だからこうして、自分の姿を何度もチェックしたり、今日は乗りもしない車の手入れをしたりして気を紛らわしている。
痺れを切らし、ついに耀平は花南が支度をしてる寝室のドアを開ける。
「もうできたか」
ドアを開けた途端。覚えのない匂いに包まれた。いつもは濡れた森の奥に潜む小さな花のような、ささやかな香りを漂わせている義妹が。今日は珍しく甘い華やかな匂い。
ドレッサーの前に、黒いドレス姿の義妹がいる。アメリカンスリーブの、柔らかいシフォンドレス。首の後ろ側に大きなリボンを結ぶドレス。
「兄さん。おまたせ」
カナが立ち上がった。
今日はきちんと美容室でセットをしてもらったのか、黒髪の毛先にゆるいカール。
大人っぽく落ち着いたひざ丈のドレスだったが、裾に細かいビーズの刺繍があり、裾が揺れるたびにキラキラときらめいてそれだけで品良く華やかだった。
やはり、花南は黒が似合う。俺と一緒だな。どうしてだろう。ふとそう思ってしまった。
アメリカンスリーブは肩は丸出しでも、胸元は首元まできちんと覆い隠されているデザインが多い。なのに花南が立ち上がっただけで、妙に官能的な空気が流れる。
「どうしたの、お兄さん」
「いや。いつもと違う匂いだから」
「とっておきにしてあるの」
花南がいつもの悪戯っぽい笑みを口元に浮かべ、胸元から耀平をにんまり見つめた。
「兄さんだけ、ね」
俺だけ? 首を傾げた。パルファムをまとうということは、いまから会う誰もが花南のそばに行けばこの匂いをかぐことになるだろうに。
「肌にはつけていないの。気分。ドレスを着る前に、この部屋にちょっとだけ香水瓶からプッシュしただけ」
「は? どういうことなんだ」
また不思議なことをするなあ、と耀平はさらに首をひねった。そういう花南の悪戯の意味がすぐにわからなくて、でも、『兄さんのため』と言われると密かにドキドキしている。
そんな花南が、素肌になっている長い腕をしとやかに耀平の首に巻き付けてきた。
「今夜はここだけ、この匂い。覚えておいてね」
花南からぴったり抱きついてキスをしてきた。柔らかいくちびるが、優しくゆっくりと男の唇を包みこむ。品があるのに妙に妖艶な空気をまとう女が、あからさまに甘く官能的な匂いの中、男の唇を熱く濡れらした。もう、それだけで……。
完全に誘われている。男の熱が耀平の身体の奥から一気に沸いてくる。いつもなら男の力で、華奢な義妹を抱き上げてそこのベッドに放り投げているところ。でも、義兄さんはここではまだ兄貴でいなくてはならない。
「だから。そういうことは、先には駄目だ」
「いま欲しいなんて、言ってないよ。お兄さんが勝手に……」
生意気なその口を、耀平はつまんで閉じた。指先に艶々としたローズレッドの口紅がついてしまう。
「俺が勝手にそう思っているだけ――、なんて言わせないからな。まったく、毎回、おまえから煽っておいて俺のせいばかりにして」
「ああん、もう。せっかく久しぶりに綺麗に口紅を塗ったのに」
花南が慌ててドレッサーに向かって、つままれた唇を確かめている。
なんだ。やっぱり女らしいことはちゃんと忘れていなかったと、妙に安心してしまった。
指についた口紅の跡を拭い取ってしまうのが、なんだかとても惜しかった。
―◆・◆・◆・◆・◆―
今夜は、朧月。瑠璃光寺の五重塔にさしかかる夜。
湯田温泉にある旅館のホールで、この日は舞の父親である岸田県会議員のお誕生日会が開かれていた。
『ごく内輪』とは知らされていたものの、岸田氏が特に懇意にしている政財界のご夫妻が招かれている。それでも小さなホールがいっぱいになるほどだった。
月夜の日本庭園から夜風が入ってくるホールで、立食のパーティー。よくある光景。
倉重の義父も義母も来ていて、もちろん娘の舞もいるし、夫になったヒロもいる。
ヒロも立派なスーツを着て、県会議員の岸田氏と談笑している。
もともと人懐こいヒロだから、少し時間はかかったようだが、義父の岸田氏となんとか打ち解けられたようだった。岸田氏も、いまとなっては可愛い末娘が惚れたガラス職人として、周りに自慢しているほど。
今回の誕生日会は、そんな末娘と夫になったヒロの『結婚お披露目』も兼ねているようだった。
当初は大騒ぎだった岸田家だったが、耀平と倉重の義父である雅晴が説得役として間に入り、親戚にはなれませんでしたが『ヒロと舞さん』を通じて今後は懇意に致しましょうという交流を深めたことで、徐々に気持ちを収めてくれるようになった。
最初はぎこちない義父だった岸田氏だったが、雅晴の薦めでヒロの職人姿に親方としての采配を一目見たら少しだけ態度が変わったように見えた。
それから舞は、倉重ガラス工房のショップの手伝いをしてくれるようになった。耀平と花南の家に出入りをするようになり、職人の世話を花南としてくれている。やがて、彼女の母親まで出入りするようになった。
舞の母親は、どういうわけか花南をとても気に入っていて、花南を間にして舞と一緒に午後のお茶をしてくつろいでは帰っていく。『こちらのお宅、なんだか居心地がいいのよね。どうしてかしら』なんて言っているとのこと?
そんな舞の母親の薦めもあって、今夜のパーティーにはヒロと花南が造ったガラス製品を会場の片隅に置いてもらえることになった。
「私のいちばんのお奨めは、このビールグラスなのですよ」
そこでヒロが造ったグラスを、招待客にしきりに勧めていたのは岸田氏自身だった。
「まあ、お嬢様を職人さんに嫁がせたというお話は本当でしたのね」
「倉重さんのところの工房ですからね。間違いありませんよ」
「そういえば。倉重さんのところのお嬢様もガラス職人でしたよね」
岸田氏を取り囲んでいる友人知人の夫妻が、ヒロのビールグラスに花南の切子グラスを眺めながら、ガラス職人二人の話題へと集中する。
「そうなんですよ。お嬢さんの花南さんは、今年のガラス展覧会で銀賞をとられたほどですからね。婿はそこ工房の親方をしていて、いまは若い職人を育てる立場なんですよ」
なんて。自分のことのように岸田氏が工房のことを話してくれるので、耀平はそばで微笑んでいるだけ済んでいた。
「こちらの切子、とても手間がかかっておりますね」
「こちらの帯留めも素敵……」
スーツ姿の紳士も、着物姿の奥方も、次々と手にとって真剣に眺めてくれる。
「耀平君。ヒロと花南さんを呼んできてくれないか」
やはり本人達が説明してくれたほうがいいと岸田氏は思ってくれたようだった。
『そうですね』と耀平も辺りを見回して、二人を探した。
ほのかな月明かりが降りそそぐ庭園が見えるそこに、黒いドレス姿の花南と、グレーのスーツ姿のヒロ、そしてお腹が丸く膨らんできた白いドレス姿の舞がいた。
三人でならんで、庭を見て笑っているところ。
「兄姉妹(きょうだい)のようですね」
耀平はつい呟いていた。在りし日の自分たちのようにも見えてしまったが、そこにはまったく違う空気に三人が包まれていた。でも揺るがない和みに身をゆだねている永遠の穏やかさを見せつけている。
年月を分かち合ってきた三十半ばの男と女が肩を並べて笑っていて、その傍らに年若い二十代のお嬢さんが一緒に微笑んでいる。こんな席は好きではないと今夜の会に気構えていた職人同期生の二人が楽しそうにしている。かつて、黒いドレスの女はその男の恋人で、いまは白いドレスの年若いお嬢さんがその男の妻だった。なのにそんなことはまったく気にせず、仲の良い友人同士のようにして笑っている。長く見つめていると兄妹にさえみえてくる。
岸田氏も目を細めている。娘が幸せならばそれで良いと落ち着いた父親の眼差しだった。
「うむ。なんか声をかけるのは惜しい気もする」
「職人の二人を呼んでまいります」
と、耀平が一歩踏み出した時。花南がこちらに振り返った。耀平を探しているようで、すぐにこちらに気がついて花南から向かってくる。
ガラスを並べたテーブルには、徐々に紳士と夫人達の輪が広がってきている。主人に帯留めを見せる夫人や、男同士でグラスや切子を眺めて品評談話を始める中、そこに黒いドレス姿の花南が現れたから、一同がそこでふと花南へを視線を集めてしまった。
「お義兄さん。あちらの素敵なお庭なんだけれど……」
花南も、他のおじ様方おば様方から視線を集めていることに気がついてしまった。
「庭がどうした」
「……あの、お庭を撮らせて頂いてもいいかなと思って」
花南の手にはいつもの一眼レフのカメラが既にあった。今日はこの旅館に行くと判っていた時から、花南は『あそこの庭園は素敵だし、今夜は月夜だから』とカメラを準備していた。もともと花南はでかけ先には必ず一眼レフのカメラを持っていく。すべてが、ガラスへのインスピレーションの準備であって、イマジネーションの訓練でもあって、そしてメディテーションの素材の為だった。
岸田氏が花南に微笑んだ。
「よろしいですよ。花南さん。貴女のような表現者の刺激になる庭で、ここの旅館のオーナーも喜ばれるでしょう」
岸田氏本人からの言葉に、ようやっと花南らしい気構えない笑みを見せた。
「ありがとうございます。では、耀平兄さん。わたし、お庭にいますね」
なによりも嬉しいとばかりにカメラを掲げて笑った花南を、そこにいる誰もが黙って見ている。
なのに花南はそこで誰がどんな気持ちで自分を見ているかなんて、もうまったく気にならない様子で、ビーズの裾をキラキラと翻してカメラ片手に庭に行ってしまった。
「ふふ。まだお兄様なのですね、花南さんにとっては」
夫人の一人が笑ったので、耀平もちょっと気恥ずかしくなって頭をかいてしまう。
「はあ。なかなか兄貴と妹が抜けないままです」
耀平が照れると、それまで義兄妹が夫妻になる紹介に構えていた人々が微笑ましい反応をやっと見せてくれた。
パーティーが始まった時、会う人会う人全てに『妻になる花南です』と紹介して廻った。花南はいつもの静かな面持ちで『花南です』と僅かな挨拶しかできないほど硬くなっていた。
紹介した誰もが『次の奥様は、前の奥様の妹さん』とは口にはしなかった。だが明らかに、花南を前にしただけで、どうにも言葉にしにくいといわんばかりのぎこちなさを誰もが漂わせ戸惑いを見せていた。
挨拶が終わると、花南はさっと耀平から離れてしまう。耀平といると誰に話しかけられるかわからなかったからなのだろう。気が楽になる場所が、同じく緊張して硬くなっている同期生のヒロと舞のところだったようで、それを知った耀平は『夫といれば落ち着く、大丈夫』にはまだ程遠いのか――と、肩を落としてしまったほどだった。
こういうところが、耀平と花南の違いというべきか。ビジネスマンと職人の人と人の間を渡り歩く感覚の違い。
だからとて、花南は決して、父親と母親が夫妻で他の客と談笑しているところには逃げはしなかったし、両親も知らぬふりをしていた。
そして人々も、職人二人は別世界の人間のようにして『いないふり』をしている空気があった。
それが、少し変わろうとしている――。
花南が月夜の庭にカメラを構えると、また皆が固唾を呑むようにして眺めている。耀平にとっても、それは不思議な光景であって、予想もしていなかった大人達の反応だった。
ヒロが指さした方向へと花南が頷いてレンズを向ける。職人の二人がその庭で『なにかを見つけて、ガラス工房に持って帰ろうとしている』。人々は二人が目で追っているものが、いま手にしているガラスに含まれていることに気がついたようだった。
そのうちに、一人の紳士が庭にいる花南とヒロへと近づいていく。花南がカメラで撮影している様子を後ろからそっと眺めている。その紳士の横に、また一人二人と歩み寄っていく。
耀平のそばで同じく黙って見守っていた岸田氏がふと頬を緩めた。
「耀平君は、いまハラハラしていただろうけれど。きっとあのようになるとわかってたのだね。まったく動じず、ここで見守って」
「はい。妹はあのままでいいのです。きっと、私達のようなビジネスの世界で生きていく者達にはないナチュラルな空気に惹かれるはずだと思っておりました。花南だけではありません、妹と同期生として歩んできた徳永もその魅力を持つひとりです」
そんな岸田氏が耀平を見上げた。こんなに真っ直ぐに目を合わせてくれるのは初めてというくらいに。
「頼みましたよ。倉重君。娘と婿を」
これからガラス工房を通して、肩を並べて生きていく者同士。そして耀平はそこの長でもあった。
少し前は婿殿として望まれた耀平だったが、いまは娘と同じ世界で生きていく男として託されている。
「こちらこそ。徳永の技量と、舞さんの協力がなければ既に成り立たない倉重ガラス工房になっておりますから、今後ともよろしくお願いいたします」
岸田氏と握手を終えると、花南とヒロの周辺には人が集まっていて、花南のカメラを覗いている。やがて、一人の夫人が花南の手を引いてやや強引に、こちらのガラス展示テーブルへと連れてきてしまった。
「倉重さん。しばらく奥様をお借りしますわね」
奥様と言われ、花南が頬を染めたのがわかった。
「ねえ、ねえ、花南さん。私、この帯留めを気に入ったのだけれど、もうちょっと軽い色で造ること出来ないかしら」
着物姿の夫人が花南の帯留めを手にして、希望の帯留めをオーダーしようとしていた。
「出来ます。どのようなお色がお好みですか。暖かいお色とか、涼しいお色とか。モノクロで水墨画風とか」
「あのね、合わせたい着物があるのよ。今度のお呼ばれまでに間に合うかしら」
「どのようなお着物ですか。お日にちは……」
花南の周りに夫人達が集まりだす。花南はガラス職人として囲まれ、なんとかこの日の夜は奥方達と楽しめたようだった。
―◆・◆・◆・◆・◆―
「はあ……。疲れちゃった」
帰るなり花南はバッグをベッドに放ったかと思うと、そこで横になってしまった。
花南のお披露目は大成功だった。婿殿のヒロをよく見てもらおうと舞の母親がガラス製品を展示してくれたことを感謝したい。
ガラスを通して話せば、花南もヒロも立派に社交的だった。
耀平もネクタイを緩めながら、花南が足を伸ばすすぐそこに腰を下ろした。
「兄さん……。やっぱりヒールがある靴はわたしダメ」
その疲れているだろうつま先で、そこに座る耀平の腰をつついてきたから呆れてしまう。
「まったく、悪い足だな」
「もう、歩けない」
これって誘っているんだよな。と、耀平はネクタイを衿から引き抜きながら、でも素知らぬふりをする。
「シャワーでも浴びてきたらどうだ」
また花南のつま先が、耀平の身体をつつく。
「だから、歩けないって」
だから? 兄さん連れて行け? それとも? どちらでも同じ事だった。だから耀平はネクタイを床に落とすと振り返り、花南の足首を掴んだ。
「シャワー後、シャワー前、どちらがお望みだ」
「兄さんこそ。どっちがいい?」
「俺の好きにしていいのか」
花南はいいよともダメとも言わなかった。ただ微笑み耀平を見つめている。
義妹はいつも『義兄さんはズルイ』というが、花南も充分にこういうところは狡いと耀平は思っている。
「俺の答は決まっている」
ネクタイを外した耀平は、そのままベッドに上がり、寝そべっている花南のカラダへ覆い被さる。
どちらかというと、汗をかいている花南の方が耀平は慣れている。窯の火に向かった後の花南を羽交い締めにして、なんども強引に自分のものにしてきた。
綺麗なカラダの花南よりも、きっとそんな花南を愛した数の方が多い。それが耀平には染みついている。
そして花南も、嬉しそうに笑ってくれた。
「そうだよね。義兄さんはわたしの、そのままを本当に愛してくれた。ずっと……。汗をかいている職人のわたしを……」
いつにない感極まった素直な声に、耀平は違和感を持ち首を傾げる。
「カナ?」
素肌の長い腕が、耀平の背にきつく抱きついてきた。
「わたしのリボン。ほどいていいの、兄さんだけだから」
シーツから少し浮いた頭と首のそこに、ふんわりとした大きなリボンがある。
それをほどける男は、耀平だけだと言ってくれている。
「そうだな。天の邪鬼のリボンがほどけるのに、随分と時間がかかったな」
そう笑いながら、でも耀平はそのリボンはまだほどこうとせず、ドレスの裾を白い足に添ってたくし上げる。
どうしたことか。花南が少し緊張した顔をしているような? ビーズがきらめく裾を上までめくって、耀平はその訳を知る。そして耀平も驚いて目を見張った。
スカートをめくった途端に、花南が肌にはつけていない『兄さんだけだよ』と言っていたパルファムの香りが微かにした。
もう帰宅した時点では、この香りは気化してしまい部屋に帰ってきても匂いはしなかった。
パルファムは肌についていれば、そのまま香りを変化させていく。最初にかいだ匂いよりも柔らかな花の匂いになっている?
つまり。花南は、やっぱり肌につけていた?
「……カナ、どういうつもりだ」
「えっと。そこもリボン?」
訳のわからないことをまた言いだした。いったいなんなんだとさらにスカートをめくってみたが、リボンなんてどこにもない。耀平が見つけたのは、『純白』の小さな小さなランジェリー。
官能的な空気を漂わせていた黒い女だったのに。その彼女がつけているランジェリーが『純白』なのは意外だった。しかもその足の付け根、耀平しか触れないようなところにだけ、かすかに、パルファムをつけていた。
誰にも気がつかれない程度の、かすかな香り。ここまでしか触れない来られない男だけが知る香り……。それが花南の『兄さんだけだよ』という意味だとやっと知る。
だけれど。正直言って、耀平はそんな義妹をとても気に入っている。今夜もここで一発でやられた気分。
そう、義妹はこうして一カ所だけ『隙がある』。
真っ黒なドレスで冷めた顔をして、他の男には容易く微笑まない。今日のドレスはアメリカンスリーブで首元まで覆われていて、胸元など一切ちらつくこともなかったけれど、花南はその名の通り花の香りをなんとなく漂わせている。隙がないように見えて、あの女はなんだか誘っている? そう感じた男は花南の隙を探そうとする。そして花南も無意識に、男が一カ所だけ入ってこられる『隙』を作っている。でも、男達はそれをなかなか見つけられない。そんな男は花南も相手にしない。ただ、奥底に持っている隙を見つけた男には、花南はその隙につけいることを許してしまう。
今夜、花南がお堅いふりをして隠していた『大きな隙』はここだった。ここから女の匂いを放っていた。
男としてこんなに射抜かれたから怒れない。
今日の耀平は頬が熱くて、もうのぼせそうだった。
「俺だけしかわからないと思って?」
「当たり前じゃない。兄さんしか見ないところでしょ」
花南は男を誘い込むようにして着々と準備をしていた。あの甘くて官能的なパルファムで男を包みこんで、そして最後の隙に吸い寄せる――。
それも『俺のためにとっておいた隙』。そこに入ってきたら、わたし、その男に溶かされてもいい。そんな目で花南が耀平を見ている。
そんなふうに、ベッドに寝そべって男に捧げる心積もりを整えてまっている義妹。そんな花南の手をとって、耀平は彼女を起こしてしまう。
「にいさん……?」
せっかくそのつもりだったのに、どうして? 花南が訝しそうに耀平を見上げている。そんな花南を、黒いドレスの花南を、耀平は抱き上げ、自分の膝の上へと座らせる。横座りに抱き上げられ、義兄にだっこされた形になった花南がギョッとしていた。
「悪い妹だ。いつも、こんなことをして」
でも。いいんだ、カナ。いつまでもそんなカナでいて欲しい。耀平も素直にそう言いたい。けれど、またいつか今度はなにをされるのか、危うい誘惑を思いついて、他の男にもわかるような隙をつくってしまわないか、心配で言えない。これは本当に俺だけにされることなら、ずっと兄貴の心を弄んでくれたっていい。でもきっと、カナのことを敏感に感じ取ってしまう男が他にも現れる。その男達には絶対に隙を見せて欲しくない。義妹の隙を見つけて欲しくない。
「ねえ。兄さん……。もう、妹じゃないから」
熱い吐息混じりに、カナが呻いた。
「ねえ、兄さん……。今夜をわたしの初夜にして」
は? また変なことを言いだしたと、耀平は優しく膝に抱いている花南を見下ろした。
花南も頬を染めて、目が潤んでいる。まだリボンもほどかれず、ドレスを着たままの花南が、甘い目つきで耀平に懇願する。
細い腕で耀平の首に抱きついて、艶やかなに彩られた唇で静かに囁く。
「はじめて『倉重の奥さん』……て、言われた。だから、今夜。奥さんにして」
この義妹には。花嫁衣装も、入籍した日も関係ないのだと初めて悟った。そして、やはりそれが『カナらしい』。なににも囚われない自由な感覚で、でも純真な芯を剥き出しにして決してそこだけは忘れず、揺るがない。『その時』が、カナのその時。
それがわかるのも、義兄の耀平だけ。で、ありたい。
そして耀平も、もう『義兄』ではない。
「わかった。今夜から俺の妻だ」
「うん。ほどいて……、兄さん」
泣きそうな顔で抱きついてこられたから、もう耀平も……。黒いドレス、大きなシフォンリボン。そっとほどきながら、花南の揺らめく黒い目を見つめる。
――黒い蝶。花にとまって蜜を吸うでしょう。男はそうだよね。
その通りに。耀平は花南という花が自ら見せた『隙』へと唇を寄せる。そこに滴る蜜を吸うのが男の仕事。
翌朝。裸で目覚めた花南が気怠そうに黒髪をかき上げ、隣にいる耀平を見て言った。
「おはよう。お兄さん」
いつもの花南の顔。アンニュイな横顔、でも甘い声の挨拶。だが……。
耀平も裸のまま起きあがり、しかめ面で乱れた黒髪の花南を見下ろした。
「おまえ。ゆうべ、俺の妻になったんだよな」
「あ。えっと、よ、耀平、さん? え、なんか変!」
「もういい。兄さんのままで。俺も変な気分だ」
駄目だ。気持ちは妻でも、きっとこれからもずっとお兄さんなんだ。
そして耀平も首をひねる。花南に『耀平さん』と呼ばれても、嬉しくないなあ、どうしてなんだ――、なんて。
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