10.いつから好きだったの?
無事に退院の日を迎えた。
レンタカーを手配した花南の運転で、耀平は山口の家へ戻ろうとする。
暫くは、花南の世話で山口にて療養することになった。
帰る前に、仙崎の実家にいる家族を安心させようと少しだけ顔を見せにいくことにした。
その時、また『あの道』を通らなくてはならない。でも、花南はなんともない、でも神妙な面持ちでハンドルを握り少しスピードを落として運転しているのがわかった。
「なあ、カナ」
やっと気持ちが落ち着くスーツ姿に戻れた耀平は、助手席から運転している義妹の横顔をみつめる。
「なに」
もうすぐ美月が沈んでいた場所。やはり花南の声は硬い。
「お義父さんの話、おまえはどう思った」
「どうって。お父さんらしいな……と思ったけれど」
雅晴が帰った後、耀平は花南にも包み隠さず父親が隠し持っていた秘密を伝えた。
やはり花南も同じだった。『お姉さんの裏切りはあの日だけ』だと姉の言葉からもそう信じていたから、『お姉さんは、その前後も金子さんと会っていたの』と、驚いていた。
そして『航』があの忌まわしい日に息吹いた命ではない『かもしれない』ということだけでもわかって、花南は涙を流して安堵したようだった。
『本当に最悪の秘密』を知っている耀平と花南が、航にとっていちばん知られたくないこと、いちばんそうであってほしくないと思っていたことが、少しでも回避できたから。
少なくとも、男と女が惹かれあって生まれたんだよ――と、歪(いびつ)であったとしても、美月と金子の関係から生まれたのだと言える。
「俺は、やっぱり怖い人だと思ったよ。たとえば、あのような人が父親だと娘のおまえはどんな気持ちなのだろうなと……」
花南が黙ってしまった。無粋な質問だったかと耀平は少し後悔する。娘にとってはいつまでも『パパ』なのだろう。どのような親でも。
「どうして跡取りが必要なのかなと、最近は不思議に思っている。うちの資産を守るためだっていうのもわかっている。でも、お父さんもお母さんも、そしてお姉さんも、跡取りのために苦しんできたんでしょう。正統に夫妻になればそれが叶うのかといえば決してそうではないでしょう。わたしはお祖母ちゃんがいなくなってから知ったんだけど、お母さんが女の子しか産めなかったことで苦しんだことは知ってたよ。正妻が産めるとも限らないことはお母さんがそうだったし、昔なら愛人に産ませてでもが許されたんでしょう。でも、お父さんはそうしなかったみたいで、お母さんはそこでは傷つかなくて済んだんだと思う。でも、やっぱり『これが決まり』となると、思い通りに行かなくなった時に『曲がってしまう』んだなって思った」
また耀平とはちょっと違う思考で切り込んでこられたので、すこし眉をひそめた。
『決まり事』があるから『曲がってしまうんだ』というところ。そういうところが、工芸職人らしいのかなと。
でもわかる気がした。そこを通過しなくてはいけないのに、通過できそうにないから、道を曲げた――と考えればいいのだろうか。
「だから。姉さんが曲がったんだと思う。お父さんも曲げてしまったんだと思う。結果、航が生まれたんだと思う。それを否定するなら、航を否定しなくちゃいけないから、わたしは誰も否定しない」
「なるほど……」
花南の目線が恐ろしいほど真っ直ぐに、萩の海辺を見据えていた。
もうそこは美月が落ちた場所。そしてもうすぐ、耀平が事故に遭った場所。
それでも花南はまるで、その真っ直ぐな眼差しを魔除けのようにして、何ともない顔で通り過ぎた。
―◆・◆・◆・◆・◆―
山口県 仙崎。金子みすゞの生誕地で知られている。
漁業がさかんで、上質な『かまぼこ』が特産。
耀平の実家は代々その『かまぼこ事業』を受け継いできた。
「お兄さんの実家、久しぶりだね」
「そうだな」
慣れない助手席にいた耀平もシートベルを外して、車から降りた。
ぎこちない片足を見て、花南がすぐに運転席からやってきてくれる。
「大丈夫。お兄さん」
「大丈夫だから」
花南より重い身体を負担にさせまいと、耀平は意地を張って花南の手をそっと押しのけた。
それほど痛くもないのに、少し引きずる程度なのに、急な事故であまりにも心配させたせいか、花南は過保護気味になってしまった。
立ち上がると、花南がドアを閉めてくれる。
すぐそこに港が見える。そして潮の香り。古い港町。
その潮風を満喫していると、後ろでドアを閉めた花南が笑っている。
「兄さんは、この濃い潮風で育ったんだね」
「それはカナもおなじだろう。海育ちだ、俺達は」
花南もおなじように目を閉じて、潮の香を深く吸い込んでいる。
「でも豊浦の方が、甘い匂いかも」
「ああ、それわかるな。俺の育った海の方がちょっとしょっぱいかんじがするな」
「でしょ。わたしもそう思った!」
花南がかまわず耀平の背中に抱きついてきた。
そんな花南が後ろから回して腰に抱きついている手に、耀平もそっと手のひらを重ねた。
「カナ……」
兄さんが大好き。いつもこうして抱きついていたい。帰ってきてから花南はそういって、耀平を求めてくれる。
会話も気取ったものではなくて、仕事のあれこれを議論するばかりではなくて。こうして何気ない瞬間を一緒に感じる言葉を花南は与えてくれる。
美月とは……なかったものだった。
「航も連れてきたかったね」
「そうだな。また三人で来よう」
背中に伝わる花南の体温が、今日は悩ましい……。
不自由な足でも耀平は振り返り、車の前にいる花南を見下ろした。伸びた黒髪が風にそよいで、花南の頬を隠してしまう。その黒髪を耀平は大きな手でそっとのける。そしてじっと見下ろした。
「やっとカナの肌を感じた」
「……わたしも、ずっと、待ってるんだから……」
それが何を意味するのか、耀平も直ぐにわかって少し面食らった。でも花南はあの生意気な義妹の目で悪戯げに、でも、艶めかしさに誘う濡れた眼差しで耀平を見つめている。
そんな花南に抱きつきたいところ、足に力が入らないので、耀平は車のルーフに手をついて義妹を囲った。
「俺を誘ったな」
花南はさらに意味深な笑みを見せて。
「誘ってないよ。兄さんが勝手にそう思っているだけ」
生意気な妹の顔で意地悪く笑っている花南の顎を耀平は掴んだ。花南は、こうされると大人しくなることが多い。兄さんが顎を掴んで上を向かせたら、いうことをきかそうと本気になる時――と思っているようだった。そしてそれが、合図でもあって。
「誘っただろ。天の邪鬼……」
車体に押し付けたまま、花南のくちびるを久しぶりに吸った。
やっぱり大人しくなった。しかも、ちょっと泣きそうな顔で目を閉じて、耀平の唇を花南も愛してくれる。
「怖かったよ。兄さんが……事故に遭って……。いなくならないで……。兄さんまでいなくならないで……」
やっぱりもう天の邪鬼は続かないんだなと思った。花南の睫毛の影から、熱い粒がひとつ落ちてきた。
そんな花南を耀平はやっと両手で抱きしめる。
花南も耀平のワイシャツを握りしめて、ネクタイの胸元に頬ずりをしてくる。
「誘ったよ。今夜は兄さんと一緒に眠るの」
そんなかわいらしい妹の黒髪を撫でて、耀平も静かに頷く。抱きついてくれた花南のカラダが暖かくて、耀平もなかなか腕をほどけなくて困っている。
―◆・◆・◆・◆・◆―
「あれー。わざわざ来てくれちょったん!」
実家宅と併設している店舗に向かうと、そこで母親が店番をしているところだった。
「お義母様、こんにちは。お邪魔いたします」
花南が楚々と挨拶をすると、母がびっくりしてカウンターから出てきた。
「あはは。『お義母様』なんて呼ばれたの、ひさしぶりだね。美月さんに呼ばれた時も、ちょっとくすぐったかったの思い出したわ」
平気で、姉と妹を同時に口にしたので、耀平はびっくりしてしまう。そういうところ、耀平と花南の周囲の人間は『わかっていて、なるべく避けている』のに。
「耀平、先にあがっていて。もうちょっとしたら、お昼からパートの人と交代なんよ」
「わかった」
久しぶりの実家宅へと花南を案内する。
「お義兄さんは、営業廻り?」
「うん。兄貴は昼間は営業だな」
「本当に家族経営なんだね。わたしは実家の仕事なんて、手伝ったことない」
「業種が違うだろう。自営業とはまた違うからな」
古い建て付けになった玄関を開けて、花南を実家宅に招き入れた。
花南は滅多にこの実家には連れてくることはなかった。花南がこの実家に挨拶に来たのは数えるほどで、その時は必ず航がいた。夏休みや連休の行楽で、『航のための海釣り』に来たついでに、『孫の顔を見せる』のが目的で叔母として連れてきた。
耀平の母も兄も、花南と耀平の関係はもう知っている。耀平がガラス工房を始めて、そこの職人として花南を雇って住まわせたことも、その時から男と女の関係で暮らしていることも知っていた。
だから。母は花南が挨拶に来ると、いつもぎこちなかった。むしろ、花南の方が堂々としていた。勿論、花南もそれは強がりだったのは、耀平もわかっている。
それでもやはり『航』だった。航には無意識の血縁感覚があったのかもしれない。仙崎に来れば、航にとって血の繋がりがあるのは、本当は『花南』だけ。真実を知らない者同士とはいえ、母もなんとなく、たまにしか会わない遠い祖母より、母親代わりのようにそばにいる若い花南にとても良く懐いている感覚を悟っていたと思う。
だから耀平も、花南を連れてくる時は『航』も絶対だった。
それでも。母にとっては可愛い孫には違いなく――。航がそれだけ懐いているのだから、花南と耀平が共に守っているのだという形で納得していたようだった。
古い居間に通して、客間で花南と待っている。
花南も少し落ち着きない。花南は敏感なところがあるから、もう母の空気を感じ取ってしまっている気がした。
「おう、耀平じゃないか。無事に退院できたんだな」
来たのは母親ではなくて、営業廻りから帰ってきた作業着姿の兄だった。
「お義兄様、お邪魔しております」
また花南が楚々と正座でお辞儀をした。この妹も『きちんと』すると、本当に美月に負けず劣らずお嬢様だなと思わせてくれる。
「ああ、花南さん。いらっしゃいませ。耀平が入院中、看てくれてありがとうございました」
そして兄の昇太郎(しょうたろう)は、母ほどは深く考えないよう努めてくれているようで、いつも花南が来てもあっけらかんと対応してくれる。
「兄貴。母ちゃんが店番していてそのままなんだけれどな」
「そっか……」
急に兄の顔が曇る。嫌な予感がした。
兄がそのまま、客間に入ってきてどっかりと座ったかと思うと、耀平ではなく花南を見た。
「わかっちょるよね。花南さんも」
そう言われて初めて。花南が残念そうに俯いた。
でも、すぐに顔を上げて笑顔を見せる。
「はい。わかっておりますし、義理のお兄さんと結婚すると決めた時から覚悟をしておりました。姉の次に妹では、お義母様もすぐには受け入れがたいことでしょう」
――知らなかった。花南がそこまで考えて、覚悟していたことを。
「まあ、それもあるけどね。うちの母ちゃんは、お嬢様育ちの貴女達に気が引けているところもあってね。さっきも、お姉さんのことは言うべきではないのに、花南さんの前で言ってしまったと。後先考えずにぽろっと言ってしまうから、会って花南さんを傷つけるんじゃないかと怖いんだと思う」
「そんな。わたしは先に妻だった姉のことを言われても、まったく気にしません」
でも兄は渋い顔で俯き、小さく呟いた。
「うちの母ちゃんは、気にしちょるんよ」
花南もハッとしている。自分が平気でも、相手は駄目なんだと。ここで痛感したようだった。
「そうか。わかった。兄貴。また日を改めて来るよ」
「そうしてくれ。別に、耀平と花南さんの結婚は賛成しているんだよ。おまえだっていつまでも独り身ってわけにはいかないだろう。花南さんとの付き合いも長いことだし、いいんじゃないか。航も花南さんの方が安心だろう。それは母ちゃんもわかっているんだよ」
「……わかった。知らぬことでもないと思って、安心していた俺が馬鹿だった」
初めて花南を連れてきたわけでもなかったし、やっとの結婚だと歓迎してくれるかと思っていたお気楽な息子だったということらしい。
では長居はせずに日を改めて、ひとまず帰ることにした。
「あの、お手洗い……。お貸し頂けますか」
場所を教えると花南が客間を出て行った。
兄と二人だけになる。
「気にすんな。耀平」
「わかっているよ。でも、花南と美月はまったく違うんだ。だから、きっと母ちゃんも、いまは駄目でもそのうち、花南とは打ち解けてくれると思っていたんだが」
「それ、母ちゃんも言っていたな。この前、耀平と二人で話した時に、花南さんが真剣に耀平を想ってくれていることは良くわかったし、お姉さんとは感性がまったく違うようだと。でも、これまで十何年もおまえの妹と思って接してきたんだから、急に『嫁さん、奥さん』とは思えないんだろ」
そうだなと、耀平もわかっているつもりだった。
「ああ、失敗したな。結婚の挨拶の時に、航と一緒に来るべきだった。ただ、花南が萩から近いから、ついでだから、母ちゃんが心配しているに決まっているからと案じてくれて――」
兄の昇太郎が、楽しそうに笑った。
「へえ。ガラス職人で世間には無頓着と聞かされていたけれど。きちんと旦那の家族に気遣えて、いい嫁さんじゃないか。いまどきの若いもんには当たり前になってきた自由人かと思って、そこは俺もちょっと案じちょったそいね」
「いや、ただちょっと感性が、俺達とは違うだけで」
「あー、でも。俺、花南さんの世間には無関心という感性わかる気がするな。無関心というよりかは、世間には惑わされないちゅうのかな」
え、兄貴がどうして――と、耀平は首を傾げた。
「そうやろが。俺も一応『品質を保持する物作り』してるわけだからな。品質はある意味『非日常』だなと思うちょる。日常に華を添えるもんであるべきと思うちょる。ということは『非日常』てことやろ。きっと花南さんも窯に向かっている時は『日常から非日常』を切り取って、でもそれをまた非日常という形に整えて『日常に還る』ようにしているんだと思う」
耀平はびっくりして、兄をマジマジと見てしまった。
「にいちゃん。そんなやったか? そんなこと考える人やったかな」
つい昔の口調に戻ってしまった。
「アホ。やっぱり弟のおまえは頭と理屈で動く営業マンや。俺と花南さんの方が話が合うかもな」
豪快に兄が笑い飛ばした。だけれど耀平は知らない男に出会ったようで、なんだか胸がドキドキしている。そんな弟を見て、また兄が笑って――。
そこではたと我に返る。花南が、戻ってこない。
「おかしいな。花南さん、具合がわるかったんか……。あ、もしかして……おまえ、あれじゃないか!」
「あれってなんだよ。脅かすなよ」
兄がからかうように腹をさすって大きく膨らます仕草をしたので、耀平はまたびっくりしてのけぞった。
つまり。『妊娠しているのではないか、つわりが始まっているのでは』と言いたいらしい。
「いや、それはない!」
「なんや。避妊しちょるのか。もう遠慮はいらないだろ。それともまたセックスレスとかいうなよ」
いや……、それもない……と小さく呟いてしまう。
「やっぱり正式に結婚をしてからと花南と決めていて」
「おまえ、変なところが古風だな。まあ、そこが倉重のお父さんに気に入られたとは思うけどな。花南さんもわりと古風な感じだよな。まあでも、古風な精神がなければ職人は続けられないかもな」
「本当に遅いな。ちょっと見てくる」
「ああ、じゃあ。俺、事務所に戻るわ。帰りに顔見せろよ。店のもん、土産にもってきな」
店舗の裏にある事務所へと出て行った。
そのままトイレを見たが誰もいないことに気がつく。おかしいと思ったら、玄関に花南の靴がない。驚いて、耀平も慌てて革靴を履いて外に出た。
家と隣接している工場で女性同士の声が聞こえ、それが誰と誰か判っているから冷や汗が滲んできた。
大人しい顔をして、あれでいて花南は芯が強く頑固なところがある。このままではいけないと、思い切って自分から踏み込んでいってしまったのだろう。
案の定。工場の扉の影から覗くと、花南と母が向き合っていた。でも、笑っている?
「そうだったかね。花南さん、うちの工場をみたことなかったんだっけ」
「はい。いつも遅くご挨拶に来ていたから。一度、見てみたかったんです」
「それだったら。ほんとに朝早く来てもらわないと。そうだ。今度、航と来た時に一緒に泊まっていけばいいじゃない。その代わり、朝は早いよ」
「よろしいのですか」
「勿論だよ」
かまぼこを詰めるコンテナボックスを片づけている母と、それを手伝っている花南だった。
笑いながら話しているので胸を撫で下ろしたが、でもどうしてか、耀平はそこに入っていくことが出来なかった。妙な女だけの特別な空気を感じたから――。
出荷済みで空になったコンテナを積み上げている母に、それを渡す花南が話しかける。
「お義母様も是非、山口までいらしてください。耀平お兄さんが大きくしてくれた工房とショップを見ていってください」
「はあ。そうやねえ。そういえば、山口のあの子の家は見たことないし、行ったこともないね」
母が手ぬぐいで汗を拭った。でも耀平はヒヤヒヤしている。他人様にはおおっぴらにできない密かな関係を『別宅』にて、そこで花南を囲っていたから。だから母を誘えなかったし、母も来たくもなかっただろう。そういうところ、女同士で平気で話している。
でも。やはり。母の顔に陰りが見えた。そして花南も笑わなくなった。女二人も触れてはいけないのに、触れようとしている。
「来年から航も一緒に暮らします。お祖母様には気兼ねなくいらして欲しいのです」
「うん、考えとくね……。ありがとね、花南さん。もうええよ。耀平のところにお帰り」
声に棘はなくとも、体良く花南を追い払っている。それは花南もわかっているようで、その眼差しに憂いを映していた。今回は『物別れ』というところか。
「お邪魔いたしました。お待ちしておりますね」
背を向けてコンテナを積む作業に戻った母に、もうそれ以上どうにもならないと分かっていて花南が挨拶をする。今回は退くつもりでいるようだった。
花南がこちらに向かってくる。耀平は来たらすぐに抱きしめてあげようと思って……。
「花南さん。ひとつ教えて」
今度は去っていく花南の背に、母から問いかけている。
声を張り上げて、でもその声が少し震えている。母も勇気を出して、花南に真向かおうとしている。
「いつから好きだったの? 耀平のこと」
『はあ?』、耀平は扉の影で拍子抜けしていた。それってここで聞くことか? もっと違うことを花南に突きつけるのかと構えていたのに。
そして花南も、母に向き直った。その目が、工房でガラスを吹いている時にそっくりで。思いがけず、耀平の胸を甘く貫いた。
「最初からです」
その答にも耀平は驚かずにはいられなかった。『ずっと好きだったよ。ずっとずっと前からだよ』と花南は何度も言ってくれていたけれど、明確な時期などははっきりとは言ってくれていない。それは勿論、耀平も……。ただ、二人で暮らしていた頃から長く愛していることだけがわかればそれで充分だったから。
そして母も面食らっていた。耀平も、まさか義妹にそんな前から好かれているとは夢にも思わず――。
「……それって。お姉さんに横恋慕していたってこと?」
「いいえ。その時から『恋』と言っても良いのなら、姉と耀平兄さんの『素敵な夫妻』に恋していました。姉を愛している耀平兄さんはとても素敵でした。わたしのほうを向いて欲しいとか、わたしのものにしたいとか一度も思ったことありません。大好きだった姉と素敵な旦那様の耀平兄さんと可愛い航と。ずっと家族でいられると嬉しかったんです。なのに……。姉さんがいなくなって、どうしてよいのかわからなくなりました」
そこで母も『女』なのか、大変なことに気がついた顔をして花南を指さした。
「あ。もしかして。花南さん……。あなた、急に小樽に行ってしまって……。あの時耀平が手伝ってくれていた花南さんがいなくなって困っている。航も寂しがっていると言っていて……。でもあなたには大事な修行のチャンスで、ただの義理の妹なんだからそっとしておきなさいと言った時があったけれど――」
胸がドキドキしてきた。母ちゃんも女なんだなという驚きと共に、いままで見えなかった花南の気持ちが明かされようとしている。こんなところで、しかも自分の母親が暴こうとしている。
花南がそこで悠然と母に微笑んでいる。
「そうです。わたし……。もうお義兄さんが好きで堪らなくて……。まだ小さな航を育てなくてはいけない、倉重の仕事も続けたい。そんな義兄さんの邪魔になりたくなくて……。小樽に逃げたんです」
母が『はあ……』と驚嘆の溜め息をついた。しかも、どうしてか花南ではなく母の頬が興奮気味に染まっている。
「そんなに好きだったの。耀平のこと!」
今度は花南が気恥ずかしそうに俯いた。
「はい。ずっと好きでした。でも……。義理の妹だから、素直になれなかったんです。それにお兄さんは、わたしのことをガラス職人として連れ戻したので、大切にしてくれていることはわかっていたんですが……。でも、やっぱり耀平兄さんも『義理の兄』から抜け出せなかったんだと思います」
「もうひとつ、聞いてもいいかい」
花南もいつもの淡々とした眼差しで『はい』と答える。だが、また母の顔が強ばっていた。これはそろそろ耀平が入った方がいいのか……。
「どうして、この前まで山梨にいたのか。耀平の工房を出て行ったのか教えて」
駄目だ。それ以上追及されたら、航の出生について触れなくてはならない。そこは花南が説明するところではない。耀平は一歩踏みだしたが。
「まえから思っていた。航は本当に、耀平の子なのかと」
花南が驚愕で一瞬で震えたのがわかった。それまでの落ち着きが崩壊し、いまにも走って逃げようとしている。
「待ちなさい、花南さん! それを教えてくれないと。あなたのお姉さんがしたことに納得できないと、妹のあなたと倉重に耀平はあげられない!」
でも花南は背を向けて逃げようとしていた。いまここでは何も言ってはいけない。そういう切羽詰まっても、最低限の判断を下して去ろうとしている。
その花南がついに工場から飛び出してきた。そこにいた耀平はその花南の前に立ちはだかり、ぶつかってきた花南を抱きとめる。
「に、兄さん!」
「悪い、カナ。大丈夫だ。俺が話す」
「でも……!」
耀平の腕に深く抱きとめられたせいか、花南が泣き出した。
その義妹を抱きしめたまま、耀平は母を見た。
「母ちゃん。俺が話す」
でも。母も泣いていた。いつから疑っていたのだろう。でもそれはきっと倉重の義母と同じぐらい長い間少しずつ溜めてきたような気がしている。
「カナ。兄貴のところに行ってきてくれ。俺と母親が大事な話をしているから――と」
「わかった」
花南も涙を拭いて、やっと毅然と耀平の胸から離れていった。
泣いている母に、耀平は向かう。
「……やっぱり知らないふりすればよかったよ……。わかってしまうと、なんだかどうしようもないよ。耀平」
「五歳だよ。俺の子ではないと鑑定して判明したのは」
そんな前から? 今度は母の涙が驚きで止まる。
「母ちゃんはどうなんだよ。もし、俺が母ちゃんの子供ではないと五歳の時にわかったとして、捨てられたか?」
迷う間もなく。母がそっと首を振った。
「だろ。俺も、もう航が可愛かったから手放せなかった。俺しかいなかったしな。母ちゃんだって……どうなんだよ、孫として」
「可愛いよ。うちの内孫とはまた違う雰囲気の子で。品の良い坊ちゃんになっていくのが自慢だったよ。でも……だからこそ……。しっくりしなかったんだよ。耀平と美月さんが上手くいっていないことも感じていたし、美月さんは夫のあんたとまだ小さい航を置いて夜中にでかけて死んでしまうし。誰だって疑うだろ」
「……だよな。俺もそう思って。どうでも良かったはずなのに、調べずにいられなかった」
「航は?」
「知らないに決まっているだろ。でも、つい最近。父側の母親が俺達を捜し当てて、航に素性を隠して会って帰っていったよ」
また。母が唖然としている。
「……どうして。どうして耀平。どうしてあんただけ、そんな損な役回り。酷いじゃないの」
でも。耀平は笑って見せた。ちょっとだけ口元を曲げて――。
「でも。俺は心から望んだ結婚をするんだ。病院でも言っただろ。そんな損な俺の側にずっといたのは、カナだったと」
「でもあの子はあんたの工房を出て行ったじゃない。あの時のあんたも元気がなかったよ。航も!」
「だから。俺達にはカナが必要なんだ。カナが出て行ったんじゃない。俺は航の父親が誰か知らずじまいだったけれど、カナは姉から聞いて知っていた。そういうお互いに隠し事をしていたことがわかって。一緒にいられなくなったんだ」
「じゃあ。いまあんた達が結婚しようとしているのは……」
こんな時になって。怒りに溢れていた母の眼差しが、救いを見つけたようにして耀平にすがってきた。
「これからは、俺とカナと二人で航を守っていく。そう決めたからに決まっているだろう。カナは元々、俺がいつ倉重を出て行ってもいいようにと俺を拒んでいた。すべて俺のためを思って、あの家の娘なのに、たった一人で小樽に行って、たった一人になって山梨で生きていこうとしていた。俺も、カナはもう俺から自由になればいいと思って手放した。でも、それでもカナは。俺と航のところに帰ってきてくれた」
耀平はもう一度、母に告げる。はっきりと揺るぎない想いを『いつか』ではなく『いま』、知っておいて欲しい。
「カナしかいないじゃないか。こんな俺と航と一緒に生きてくれる女は、妻は、美月じゃなかった。カナだった」
『う、耀平、耀平』。ずっと小柄な母親に抱きつかれてしまい、耀平もどうしようもなく泣きたい気持ちになる。
「ごめんな、母ちゃん。心配させて。ずっと、母ちゃん、黙って見ていてくれたんだよな」
「しあわせに……なんなさいよ……」
すがってなく母親がやっとの涙声で言ったことに、耀平もこみ上げてくるものを抑えながら、やっとの思いで頷いた。
その母も最後に言った。あの言葉を。
『このことは墓場まで持っていく。倉重にも知らなかったことにしておいて』
花南にもそう言って欲しいと――。
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