9.これが最後の秘密


 夕方前になって、耀平は個室に移された。

 そこにソファーがあってホッとする。花南は退院するまで、ここで寝泊まりをするといって聞かなかったし、耀平も本当のところは花南にそばにいて欲しいから。

「お父さん、ありがとう」

「良かったな。大怪我ではなくて」

 花南が父親ににっこり可愛らしく笑った。

 こういうところが、父と娘で。そして花南はなんだかんだ言っても、父親の偉大さを頼りにしているんだなと感じる。男としても、たぶん花南にとってはいちばんの男なのだろう。

 そう思うと情けない。早く、いちばん頼りにしてくれる男になりたいと思ってしまうけれど、この義父には一生勝てない気がするし、目標のような敵わないものがひとつでもあったほうが自分の前進のためだとも耀平は常々思っている。

 そんな義父が穏やかな笑顔で、娘にお札を一枚差し出した。

「早めに夕飯でも食べてきなさい。昨夜から、まともに食べていないだろう。」

「え、でも……」

 兄さんのそばにいたいのにとばかりに、花南がそっと耀平を見た。

「花南。父さん、耀平と話がしたいんだ。暫く二人きりにしてくれないか」

 花南がハッとした顔になる。父と義兄がいま二人きりになるのはなにを意味するのか、花南が察知している。

「わかりました。行ってきます。お父さん、ご馳走になります」

 父親でもきちんとお辞儀をして、花南はハンドバッグ片手に素直に出て行った。

 窓辺にはもう夕の茜が映えていた。花南が座っていた椅子に、今度は義父が腰をかけた。

「無事で良かった。さすがに肝を冷やしたよ。困るよ、耀平が突然いなくなってしまったら」

 それまで手塩にかけて育ててきた後継者。倉重に必要な男として大事にしてくれているのが伝わってくると、本当に息子の気持ちになって耀平も泣きたくなって俯いた。

「美月が守ってくれたのかな。まあ、それぐらいは耀平に恩を返さなくては許されない娘だからね」

 もう不可思議なことは花南にでも言うまいと思っていたところだったのに、その不可思議なことを現実主義者であるはずの義父が口にして驚かされる。

 しかも……。耀平に許されない娘……とまで言った……。

 まさか――と、思った時には、義父がジャケットの内ポケットから一枚の写真を、耀平の前にあるベッドテーブルに置いた。

 ひとりのスーツ姿の男。くたびれたワイシャツに、もさもさの髪の毛。うだつが上がらないといいたくなるようなもっさりとした男の姿だった。

「金子忍。航の『生物学上の』父親だね」

 義父には『話したいことがある』という連絡はしていた。義父も義母から聞かされて知っているだろうとはわかっていた。それでも、金子忍という男がどういう男か『もう知っている』ということを、初っぱなから切り出してきた大胆さに耀平は絶句する。

 なのに。義父がもう一枚、もっさりとした忍の横に写真を置いた。今度はグレーのスーツをかっちりと着こなし、いまふうにほどよく髪をなでつけ、眼鏡をかけているエリート風の男。

「どちらも彼だ」

 だが耀平は驚かなかった。花南から聞かされているから。忍は普段は無頓着で人に期待されていないような風貌で生きていて、いざという時には、それは素晴らしい品格を醸し出す貴公子のような男に変わるのだと。どちらも花南の話で聞いただけだったが、こうして目にすると……、忍という男が女将がいうように世間に対して飄々とした男だったという現実味がわく。

 しかも。エリート風の眼鏡顔の写真の方は、ほんとうに『航にそっくり』で、耀平はその写真に釘付けになった。

「すまない、耀平。このとおりだ。申し訳なかった」

 忍に見入っている間に、いつのまにか義父が両膝に手をついて、深々と頭を下げていたので耀平は慌てた。

「お義父さん、やめてください。俺にとってはもう、今更なんです。お願いです。これからも今まで通りにいさせてください。航の父親として、花南の兄貴として、そしてこれからは夫として。倉重の息子としていさせてください」

 だが義父が頭を上げなかった。

 その義父が頭を下げたまま、震えるような声で耀平に告げた。

「知っていたんだよ。美月が耀平と結婚した後も、この男に会っていたことを」

 え? 耀平は目を見張った。父が娘の過ちを知ったのは、最近ではなかったと言いたいのだろうか? すぐには理解できなかった。

「そ、それは……。お義父さんは、美月が生きている時から、このことを知っていたという……こと、ですか?」

 にわかに、耀平の声も震えてしまう。そして義父が渋い顔で、眼差しを伏せ呟く。

「おかしいと思ったのは、美月が花南の下宿先に行ったきり半月も戻ってこなかったことがあってからだ」

 頭が混乱してきた。父が娘の不義を疑ったのは、美月が妹の下宿先から半月も戻ってこなかった時から? 美月と金子が丸尾達複数の男ととことん淫らなことをしたのは、美月が花南の下宿に駆け込んできた時。だとしたら……。義父の雅晴はこの乱交は気がついていないと言うことになる。頭の中で、誰がどこでどう知ったのか必死で時系列を整理し、耀平はホッとした。

 この義父が娘の裏切りに気がついてはいても、娘の淫行までは気がついていなかったと――。

「嫌な予感がしたよ。美月は『きちんとしないと気が済まない』という妙に潔癖なところがあったから、夫を放って半月も留守にするのは流石におかしいと感じた。それからだよ。美月を調べたのは」

 そんな義父が、また数枚の写真を並べ、なにかの書類も置いた。

「古い写真だよ。これで私は金子忍という男のことを知って、どういう男が調べたんだ」

 確かに。最初に置かれた写真よりも色褪せているものが置かれている。耀平も手にとって眺めると……、そこには美月と忍が密会をするために、ホテルの一室へと入っていく瞬間を捕らえたものだった。

 日付を見て、耀平はまた頭の中で静かに逆算している。花南がいうところの、下宿に駆け込んできたという時期より、少し後だった。それを知って、耀平は密かに心臓の高鳴りを覚えている。


 


 ――あの淫行の後も。美月は金子に会っていた! 密会をしている!


 つまり、それは……。この時期に集中的に、忍と交わったと言うこと?

 だったら。もしかしたら、航は、もしかしたらあの淫行以外の、美月と忍だけの交渉の時に根付いた子供だったかもしれない!


 もう今更、妻の裏切りを目の当たりにしても、本当に何も思わない。きっと花南と航のおかげだ。

 そして、いま耀平がいちばん気になるのは『航にとって、なにがいちばんか』。それがいま、ここに転がってきたという救いを感じることが先立っている。


 


「……お義父さん。これは……。花南のところに美月が泊まり込んでいた後の調査なんですよね」

 この時に、異性の交渉があったとかないとか証拠は全くないが、『会っていた』という事実さえあれば充分だった。

 そんな耀平が、怒るのでも哀しむのでもなく、妙な様子で食いついてきたので、義父がそこは不思議そうに見ている。

「あ、その。それでお義父さんは、美月を疑って、このようにして調べて――。どうされたのですか」

「耀平を裏切っていたとこの時に知って、その後、美月を問いつめようと思ったんだけれどね」

 思ったんだけれど?

「美月が妊娠をしたと知って……。問いつめるタイミングを失ってしまった。金子の子か、耀平の子か、わからない。当然、美月もわからなかっただろうね。いま、娘を問いつめて堕胎させれば少なくとも金子の子供はうちには入ってこない。だが、耀平の子供だったら。そう思うと出来なかった」

「では。お義父さん……。俺の子か金子の子かわからずとも、生まれてくる子供は俺の子供として……」

 もしかして。義父まで!? 秘密の連鎖に、耀平は驚愕する。

「俺の子供として育てさせようと、墓場まで持っていく覚悟だったのですか」

 あの義父が、また頭を下げた。

「申し訳ない。どんな非難も受けよう。全て、私の一存だ。そう、墓場まで持っていけばいいと思っていた」

 驚いた。ここにも『墓場まで』の覚悟をしていた家族が一人いた。

 なんということだろう。花南も耀平も、義父も。そして子育て中に疑念を抱いていた義母も。揃って『知れたら家族が傷つく。黙ってさえいれば……穏便に家族でいられる』と思っていての『嘘の積み重ね』。

 美月と金子が、距離を置いて歩いている写真。金子がドアを開けて入ってから、美月が遅れて入っていく写真。忍びに忍んで会っていた姿が表れている写真を手に、耀平は項垂れる。

「つまり。お義父さんは、俺になにもかもを押し付けるつもりだったということですね」

 義父が黙っている。でも、不敵な笑みを浮かべて俯いているので、そこで耀平はゾッとした。

「正直言うと、男子でも女子でもいい。娘が跡取り孫を産めばそれでいいと思ったんだよ」

 この人のこんなところが恐ろしいところ。

「これでも私は『誰よりも』耀平を選んだつもりだよ。期待していた自慢の娘より、娘が好いた国大卒の料亭の次男坊より、私が息子にと望んだ耀平が親になれる男だと、ね。私の目に狂いはなかっただろう? 航を捨てずにきちんと育ててくれたのはやはりおまえだったじゃないか。あとの二人は捨てたのだからね」

 時に冷酷になる父が現れた。こうして聞くと、耀平の気持ちなど無視して血の繋がらない子供を押し付けた――と怒りが湧くところなのだろうけれど。それが当時なら、この父にはついていけないと耀平は怒り狂っていたかもしれない。だけれど、この父の計算か、良心か? 彼が口を挟まなかったこと、首を突っ込まなかったこと、耀平に人生の選択を任せたことで、いま耀平が『欲しかったもの』に最終的に辿り着いてしまっている。

 時間はかかるだろうが、『これが誰にとっても幸せなのだ』と義父は見越して、耀平に任せていた気もする。そして、耀平も試されていたのだろうか。

 残酷な計算のようで、その実、結果的に丸く収めている。しかも、彼は全力で舵取りをしているわけでもなく、大事なところでちょこちょこと操作するだけで、思い通りの方向へ人を動かしている。

 しかし、それも大きな賭け。そして義父はその賭けに勝ったのだろう……。その途中で、この人は一度は娘を捨てている気がした。その『跡取りのために』。

「美月に問いつめたとしよう。おそらく美月は金子と一緒にいたかったのだろう? 父親の私が愛人の子供は許さないと堕胎してしまったら、もう耀平との子供を欲しいとは思わなかっただろう。現に、美月は出産の後、耀平を避けていたように思える。耀平も気がついていたのだろう? 私も、夫妻仲が上手くいっていないと気がついていたよ。そして、それを見てやはり『金子忍のせいだ。美月は金子に囚われている』と悟った」

 耀平も正直に告げた。

「結婚一年目は俺もいい嫁さんと結婚できたと幸せでした。航を宿した時も、彼女が出産した時も、生まれて少ししてからも。俺はなにも疑っていませんでした」

「でも。航が生まれると、美月の様子が少しずつ変わって。耀平も『男がいるのでは』と気がついていたんだね」

 『はい』と耀平も頷く。

「あの時、美月に夫の子供でないのなら堕ろせ。金子とは別れろということをきかせていたら。その後は耀平とは上手くいかなくなり、そのうちに美月は離婚するだろうと思った。だからとて、金子と一緒になるのなら、私は跡取りとして育てた長女を勘当せねばならなかっただろう。そうすると、もう美月から産まれる子供は勘当した以上は、倉重の子供として認められない。では勘当したとして、うちにはまだ次女の花南がいる。今度は花南に婿を取らせよう――。耀平はどう思う?」

「……花南には無理です。彼女から職人として育つ道を断っていたら、彼女の結婚も破綻をするようになっていたでしょう」

「そう。花南には出来ない生き方だったよ。それなら。美月を泳がすことを選んだというわけだ――。美月と耀平『夫妻の子供』として生まれてしまえば良かったんだよ。ただ、耀平がいちばんの犠牲者になることは、私も心苦しく思っていたよ」

 何も言い返せなかった。この父親が上から覗いて、娘二人と、娘に関わった男二人がどう生きる道を選ぶのか、じっと高みの見物をしていたとしても。確かに……それが『いちばん良かった道』だったのかもしれない。

「耀平も聞いたことがあるだろうけれど。私と母さんの間には男子が生まれなかったのでね。私はともかく、やはりこういう時はどうしても女性が責められるね。私の母、つまり静佳の姑だった母は酷い当たりようでね。今は男子でなくとも、女子が優秀なら跡取りでも良いと思う。けれど、私の代ではまだそんなご時世ではなかったね。私の心には『跡取りは絶対』という使命感が植え付けられていたんだよ」

「はい。お義母さんが随分と辛い目に遭ったことは時々……。俺が婿入りした時にはそのお祖母様は既におりませんでしたが、美月も『お祖母ちゃんは酷かった』と教えてくれました」

「花南はまだ幼かったから記憶には残っていないかもしれない。だが、花南が生まれた時には既に七つだった美月には鮮烈に記憶されていると思うよ。だから美月にとっても『跡継ぎは絶対』というのが刷り込まれていたと思う」

 だから? だから本能的に『種付け』の為に複数の男を求めた? ふとそんな気にもなってしまった。ただの性癖がその欲求を生んだのが正解だろうけれど、そうとも思える育ちとも言えた。

「だから。きっと私だけでなく、美月も『とにかく血を引く子供を』と思った部分があったと思う。……いや、言い訳だな」

 そんな時に限って。冷酷な判断をした男だったはずなのに、申し訳なさそうにハンカチで額を拭ったりする。見ると、本当にほんのり汗で光っていたりする。

 そんな義父を何度も見てきた。冷酷な判断は当主だからせねばらない。だけれど、本当は本心ではない。その心苦しさの積み重ね。そうして家と従業員と家族を守ってきたのだろう。

 そして、それはやがて耀平の両肩にかかってくる。いずれは航の両肩に。

 耀平もやや俯き、黙り込む。そして最後、義父が差し出してくれた写真と調査書を揃えて束ねた。

「この調査結果。俺にいただけますよね」

「そんなものを?」

「はい。念のため、『事実』として俺の手元にも保管させてください」

「まあ、耀平がそう言うのならばかまわないよ」

 その反応を見て、耀平はひとまず確信する。美月の秘密を一番最初に知ったのは『花南』、義父は花南よりその後に。そして真相を知っているのも『花南』だけ、義父は男の存在は確認しても美月の淫行は知らない。花南は秘密の九分を手にしているなら、義父はまだ五分といったところか。

 でも、あの淫行以外の『既成事実』は耀平にとって重要な情報。今後の『救い』。航は、あんな淫行の瞬間に芽生えた命ではない。もしそうだったとしても……。この二人だけの密会があれば、ごちゃまぜになってどこで芽生えたのかわからなくて済む。

 これで、後は『事件』のことを知らせれば、義父への報告は終わる。あとひと息――。

 そのひと息を前にして、また義父から切り込んできた。

「申し訳ないが、話はまだ終わりではない。耀平には、航の父親として『金子忍』のことで知っておいて欲しいことがある」

 さらに、義父は色褪せた写真を置いた。

「この男にはちょっと変わった癖があったようだね」

 流石に、耀平は目を見張った。

 その写真には忍がその手のクラブから女性と並んで入っていく写真と出て行く写真だった。

「興信所にはかなりの金を積んだからね。とことん調べてくれたよ。店の方に問い合わせたら、たまに来る常連だけれど相手の女性はその都度違うそうだ。こんな癖があって、このようにドライな異性関係を好むなら、それはもう美月も結婚相手としては望まなかっただろう。しかし美月はこの男に魅せられていたわけだ。そこで私は父親としてとても悲しい思いをしたものだよ。わかるかな、耀平……」

 あの義父が、いつになく肩を落とし表情に影を落とした。いつも笑顔で本心を隠しているような男だった。その男が笑顔を絶やした時、その時の顔は本心を表していることが多い。いまは哀しみの父親を滲ませている。

 そして耀平も、知らず知らずのうちに、義父に詰められていると思った。『わかるかね、耀平』と言われ、ここで本来なら耀平はとても驚き妻がどんな女性だったか顔面蒼白にならねばならないところ。だけれど、耀平はもう知ってしまっている。顔面蒼白になったのはもう済ませている。義妹の花南が『お姉さんはどうにもならない性癖を持っていた』と聞かされたあの時に。

 娘に変な癖があることを予感してしまったのだよ。父親として信じ難いよ。そんな哀しみの父親の表情を見せていたのに、急に義父の雅晴がギッと下から耀平を射ぬいていた。

「……知っていた顔をしているね、耀平」

 いまこそ、顔面蒼白――と言うべきか。このお義父さんを哀しませたくないから、娘の性癖を隠して『金子とは不倫ということにしておこう』と決めていたのに。いつのまにか最後の瀬戸際に詰め寄られている。

「本当ならここで、妻に変な癖があり、相手の男もそれに相応しい癖がある者同士だった。妻がこの男に言いように緊縛され弄ばれていたと、夫として怒るところだよ」

 頭に巻いている包帯の下で汗が滲んだのがわかる。体温が一気に上がっていた。

「おまえが知っていることを、全て教えてくれないかな」

 知っていること? どこからどこまでを上手く伝えればいいのか。そう急いで用意していた話だけを伝えればいいのだと落ちこうとした。けれど、流石の義父は先手を打って、耀平に差し迫る。

「この男がどうして死んだのか。耀平、知っているのだろう」

 耀平は押し黙ってしまう。

「警察に行っても、一切教えてもらえなかったよ」

「そうだったんですか?」

「ああ、母さんから、金子忍が死んだことを聞かされたのは今年の冬。その後すぐに警察に行ったけれど、私でも駄目だったね。金を積みたいところだけれど、民間ならともかく公務員の彼等に迷惑をかけたくないしね。だけれど収穫なしで帰ろうとしていた時、頑なだった刑事が見送りの時にそっと教えてくれてね。『事件のあらましを知る前に、ご家族と話されるのが先だと思います。まず養子の息子さんにご確認ください。警察の情報はそうそうに開示できません。誰であっても。それだけしかお父様にはお伝えできない』と教えてくれたよ」

「そ、そうでしたか」

「耀平が二年も私に隠していたのだから、余程のことが隠されているのだろう。そう思って……。ひとまず独自に調べたが、二年も前の事件。花南が母さんに話した『倉重を強請ろうとした悪い男』であった『丸尾』の、ろくでもなさがわかったぐらいだったね。そのろくでなしと、金子忍が対峙した事件。そこに何があったのか、まあ思い当たることはいくつかあるが、いまでも私の中ではどれも『確定したもの』ではないよ。それだけ耀平が『上手くまとめて、警察沙汰はここで食い止めた』のだと察した。しかも、私が知る由もない二年前に」

 そこで義父が、ようやっと耀平を見ていつもの柔和な笑みをみせた。

「よくやってくれた。私が全てを知らずとも、私の代理であるべき息子のおまえがそれだけの手際を見せてくれたのは見事だった。私に二年も知られなかったということは、ある意味、凄いことだと思わないか」

「そんな気持ちで隠していたわけではありません」

「わかっているよ。それなら、いまここで。何があったか話してくれるね?」

 ついにその時が来た。だが、耀平は決していた。美月の淫行だけは伏せよう。たとえ、義父が既にそれすらも密かに暴いていたとしても。この義父が耀平の前で『知らないふり』を決め込むなら、それが正解なのだろう。


そうだ。この人のこういう姿勢で、結局、俺はここに辿り着いたんだ。


 そしてこの義父は、じっと耀平を見ていたのだろう。

 この男。どこかでくたばるかもしれない。もし、くたばったらそれまで、そこまでの男。本物なら、すべてを飲み込んでここまで来い。


 耀平はそうして十六年、この義父とまだ一緒にいる。

 それはきっと、『正解』なのだろう。これが倉重という男の世界。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 耀平は事件をこうまとめた。

 丸尾という男は、『金子とは別に』美月と肉体関係があった。という形に徹底して、義父に事件のあらましを説明した。

 倉重が脅されそうだったこと、金子忍がそれを阻止しようとしたこと。花南にまったく違う容疑がかけられたこと。どのようにして釈放され、耀平がどのような対処をしたのか。それらは正直に話した。

 そして、花南と耀平が決裂した経緯も。


 その後は、つい最近まで、お義父さんが見てきたとおりになりましたよ――。


 美月の相手は金子だけではなかったことが、事件を呼び起こした。耀平は最後にそう結んだ。


 なにもかもを正直に告げたわけではないが、耀平も同じく『これが皆のためなのだ』という隠匿を含む『それらしい報告』を終える。


 義父はじっと耀平を見つめて、黙って聞いてくれた。じっと見つめられているのは『真実を告げているのか』と試されているとわかっていた。

 だが耀平だって、腹をくくってこの親父さんと向き合うと決めてきた。この親父さんが、これが正解と思ったのなら、事実を曲げる『はったり』をするように、息子の俺もそれをしてやろうじゃないかという覚悟もしてきたから。


 報告を終える頃には、もう窓辺は日暮れて夜空になっていた。


「そうか……。では、花南は……。父親の私が知るより先に知っていた訳なのだね」

「美月自身から、金子忍を紹介されたそうです。美月が半月滞在していた時に」

「では。美月の秘密を一人で握りしめて、ひたすら黙っていてくれたわけなのだね。姉さんをかくまったぐらいのちっぽけな罪の意識ぐらいしかないかと思っていたが。大間違いだったわけか」

 義父が眉間に皺を寄せ、苦々しく呻いた。

「誤算だよ。美月が、金子忍以外の男も欲しがっていただなんて……。そして妹の花南のところに逃げ込んだ挙げ句、まだ未成年だった妹にそんな重い秘密を架していただなんて」

「花南は、航が金子の子か俺の子か、どちらの子なのか。もう姉が妊娠した時から疑っていたそうです。だから、俺と暮らしている間、その罪の意識からなかなか俺に心を開いてくれませんでした。いえ……。俺がいつ倉重を出て行ってもいいように、俺の重荷にならないよう、最初から一線を引いて接してくれていたんだと思います」

 珍しく、義父が辛そうに俯いたまま――。そのままじっと黙っている。

「お義父さん?」

 その様子は、初めて見るものだった。怒りにも震え、痛みも表し、そして娘への憐れみも見て取れる。

 父親としての哀しさも、当主としての口惜しさもあるのだろう。

 椅子から立ち上がった義父が、夜空だけになった窓辺に立ち背を見せた。

「私は駄目な父親だったということだね……」

「そんな。ですが俺と航のことも含め、お義父さんはその時は心苦しかっただろうけれど、全てが丸く収まる方へ導けたんだと俺はいま感じていますけれど」

 窓辺に立っていた義父が、下を覗いて微笑んだ。でも、哀しい笑みだと耀平は感じた。心なしか、目が潤んでいるようにも見えた。

 でも義父は決して涙は見せないのだろう――。

「美月を死なせたのも、私なのだろうね。美月は気がついていたんじゃないかな。私が『誰よりも』耀平を選んでしまっていたことを。自分はただの跡継ぎを生むだけの娘で充分だったんだとね……」

 そして今度の義父は、下を見たままおかしそうに笑っている。哀しい笑みから一変した、穏やかな微笑みだった。

「ああ。もう花南が帰ってきたよ。花南もずっと耀平を好きだったのだろう。心配で仕方がないって顔をしているよ。それとも、お父さんと嫌な話をして養子のお兄さんが困っていないか気が気じゃないのかね。必死な顔で走ってくるよ。かわいいねえ」

 そうしてやっと、義父は耀平のそばにある椅子に戻ってきた。

「耀平に会わせる娘を間違えたかな。あの時、花南がもう少し大人だったなら、いや……どうだったかな」

 それは耀平も思ったことがあった。もし、美月と花南が年の差がない姉妹だったのなら。俺はその時、どちらの女性を結婚相手に選んだのだろう。

 ただ。こういうことは『もし』に過ぎない。あの時の若さなら、耀平はきっと美月を選んでいたと思う。職人志望の扱いにくそうな末娘など、ビジネスマンの俺を支えるには適さないと判断しただろう。つまり、どうしてもそうなっていた気もする。

「改めて。娘と孫を頼んだよ、耀平。今度はおまえも……幸せになってくれ」

 このような家に生まれた者は、思うとおりには生きていけない。そこに、本当は誰よりも人の心がわかっている義父が人の気持ちを犠牲にして生きて行かねばならない生き方しか選べず。そして、制欲された環境で『優秀なお嬢様』として育ってきた美月の犠牲があっての……。

 でも耀平は密かに決意をした。

 俺はこの親父さんのようにはなりたくない。

 花南と航は犠牲にしない。

 そして義父もきっと……。耀平はそうしない男になってくれると、娘と孫を託してくれたのだと思う。

 そうでなければ。窓辺で見せた亡き娘に懺悔をするような密かな眼差しも、ひとり残された娘を『かわいいね』と柔らかに微笑む眼差しなど持ってはいないはず。

「さて。花南が戻る前に、私は帰るよ」

「よろしいのですか。久しぶりに会えたのに、花南ががっかりするのでは」

「いや。先ほど少し話せた。来週は山口で食事をする約束をしたよ。花南も兄さんと二人きりになりたいだろうしね」

 そこは、からかう笑顔を見せられ、耀平も少し頬が熱くなった。


「お兄さん、ただいま」

 息を切らして帰ってた花南が病室に戻ってきた時にはもう。そこに父の姿はなかった。

「え、お父さんは?」

 娘の花南には馴染んでいるだろう、かすかなムスクの匂いが残っているだけで。花南も辺りを見回して父親を探していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る