2.××年 小樽


 今夜も、最後のカリヨンの鐘が聞こえると、静かになる。

 この家も、花南と耀平のふたりだけになる。


 花南のベッドで、耀平は薄いシャツだけを羽織って雑誌を読んでいる。

 夜風が涼しくなってきて、庭に住み着いている虫の声が心地よい。

 向こうの書斎から、微かに風鈴の音――。

 毎日この家に居られないが、それでも、耀平のお気に入りを集めたこの家はとても落ち着く。


 それにしても。花南がまだ来ない。いつまで待たせるんだ。気になって様子を見に行こうと雑誌を閉じたところで、義妹が部屋に入ってきた。

 だけれど、耀平はまた目を見張る。ドアを開けて入ってきた花南が、素肌にサテンのガウンをさらりと羽織っていて。いつもはきちんと前を閉じて紐を結んでいるのに、今夜はあけっぱなしで入ってきた。

 また義妹らしい『あけすけ』さ。でも、それで大人のお兄さんをワザと煽っているのが丸わかり。

 そんな姿で耀平が寝そべっているベッドの縁に来て、じっと立って見下ろしている。そうして試している。男がどうやって自分を欲しがるか、義妹の悪戯。

 それにひっかかるか、ひっかからないかを耀平も選ばなくてはならない。けれど、これでひっかからない男は、これまたどうなんだ? と思わせられる。それはワザと自分を大胆に差し出してくれている女を拒否したことになる。そうすると『もうわたしなんて、いらないんだよね』という意地悪を、明日からされることになる……。

 だからひっかかるしかない――というわけだった。ほんとうにもう、どうしようもない義妹だ。でも、それがまた楽しいから困る。そう思いながら、耀平は花南の手を握ると、そのままベッドへと引き寄せた。


 どうしようもない悪戯をしかけてくる、義妹。


 それでも。耀平が思いつかないような『あけすけ』な感覚。自分にはない花南の男と触れる時の遊び心が、耀平は好きだった。楽しみにしている。

 だけど。いつもそこで少し苦いことを思い出す。昔もそう。花南は、いつもこうして男を楽しませていたのだろう。『俺だけじゃない』ことは、耀平も良くわかっている。学生時代だけでなく、彼女が実家を出て小樽に行ったその時も。花南はそうして、気まぐれに男に気を許すところがある。

 二度とそんなことはさせるものかと、耀平の手元に置いたら、厳しく躾ようと思っていた。

 俺のものにする。もう他の男には触らせない。

 そんな気持ちが芽生えたのも、花南が小樽で修行をしている時だった。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 小樽へと行ってしまった花南は、それから一度も実家には帰ってこない。


 


 ××年 小樽――。

 小樽の親方から、連絡があった。

 花南の両親ではなく、義兄の耀平宛に。


 


『いつもお買いあげ、ありがとうございます。先日もこちらの商品を、再度ご注文くださって有り難うございました』

 御礼の電話だった。

 義妹がどんな工房に勤めているのか把握しておこうと、こちらが出品しているものをネットで少しだけ取り寄せたら、それがとても良いものだった。

 それをホテルの接客用に少しばかりまとめて注文したら、料理長にも使い勝手も良く見栄えも良いと気に入ってもらえた。それからちょくちょく追加注文をさせてもらった。

 だが親方には『義妹のためでもなんともなく、ほんとうに良いものを作られていて欲しくなった。料理長も、父親の倉重社長も気に入っている』と告げている。

 そして『義妹がこのことを知ると、わたしのために買ったのかと気分を害すると思うので、購入については伏せておいてください』とも口止めをしている。

 だけれど、それで耀平は安心していた。注文の際に接してくれた事務所の社員も、親方の商品の説明などもとても真摯なもので、この工房を選んだ義妹の見る目にも安堵していたほど。

 その親方が『一度、妹さんの職人としての働きぶりをご覧になりませんか。もちろん、来られることは伏せておきます』と勧めてくれた。

 最初は乗り気ではなかった耀平だったが、小樽のガラスを一度じっくり見てみたいという衝動もあって、北海道へ行く決意をした。

 社長である義父も『美月亡き後、脇目もふらずに働いてくれた。行きたいのなら、行っておいで』と快諾してくれた。その奥底に『危なっかしい末娘がちゃんとやっているか見てきてくれ』という希望が含まれていた。

 そして義母にも『花南の様子を見てきます』と伝えると、気にしていたのか『お願いね。耀平さん』と頼まれた。

 頼りにしていた長女を亡くし、ひとり娘になった次女の将来がガラス職人なのかと、心配ばかりしている。今度はすぐに会いに行ける隣県ではないし、義母もいまは小さな航の世話を任せているので、娘に会いたくても会いに行けない状態だった。

 義妹が出て行ってから初めての再会になる。

 花南が北海道へと出て行ってちょうど一年経ったぐらいの頃だった。

 


 耀平はひとり、北海道へと向かう。

 宇部空港から羽田、羽田で千歳便に乗り継ぎ新千歳空港。そこからJR線に乗り換え、札幌へ。近いのかと思ったらそうでもない。一時間近くかかる。しかも小樽はまたその向こう。千歳から小樽への直行列車がなければ、これまた札幌で一度降りて小樽行きに乗り換えとなる。

 なんとも長い旅路になる。これでは帰りたいと思ってもすぐには帰っては来られない。改めて、義妹が実家を出て行った覚悟を知ることになる。


 


 長い旅路、耀平は花南と暮らした二年を思い返していた。


 


 美月の三回忌を節目に、義妹の花南が実家を出て行った。


 残された幼い甥っ子が元気に生活を始めたのを見届けて、そっと出て行った。

 元々、ガラスの活動のために、度々広島へと出掛けることも多かったため、航は今でも『カナちゃんは、どこにガラスのお仕事に行っているの』と尋ねるぐらいで、祖母と父親に『遠い北海道だよ』と聞かされると、『じゃあ、まだだね』と納得して終わる日々になっていた。

 だけれど。耀平だけがまだ釈然としない。二年近くも同じ家で暮らしていたのに……。


 ある雨の日。

『ほんとだ、かえるがいっぱいだ』

『……でしょう。いっぱいでしょう』


 庭からそんな声が聞こえてきた。庭で本当に蛙が大発生したのかと驚いた耀平が覗いてみると、息子と花南が小さく丸めた背を並べて雨だれが落ちる縁側を見下ろしていた。

『ガラスのかえるだね、カナちゃん』

『今度、航にガラスのカエル、つくってあげるよ』

 やったー! 縁側で息子が飛び上がっていた。

 なにをしているんだと、耀平が声をかけると、二人が揃って笑顔で振り返ってくれる。

 妻にも見放された男を、そうして迎えてくれるのは、この時は……この二人だった。

『みてみて、おとうさん。ここにかえるがでてくるんだよ』

『どれどれ』

 軒下から落ちてくる雨だれが、地面に落ちて跳ねる時。水面に一滴だけ落とした時にできる王冠の形に跳ねる現象、『ウォータークラウン』。それと同じように、透明な雨だれが跳ねている。

 耀平は驚いた。花南はそれを『カエルが跳ねている』と喩えたのだ。確かに、幾度も絶え間なく落ちてくる雨だれが、あちこちの軒先の下でピョコピョコ跳ねている様は、王冠というより、忙しく飛び跳ねるカエルのようだった。

『とうさんもみえた? かえる!』

『ああ、見えたよ。いっぱいいるな。水のカエル』

 嬉しそうに息子が抱きついてきて、そしてその側ではひっそりと花南が微笑んでいた。

 妻がいなくなって後。そんな息子を、息子の目線で楽しませてくれていたのは、まだ若い花南だった。

 このままでいいような気にさえなっていた。義父、義母、そして若叔母の花南。母親がいなくとも、血の繋がった大人に愛されていれば、父親だけでも育てていけると思っていた。

 なのに。花南はなんの相談もなく、三回忌を終えたら『修行をする』と、いつのまにか小樽の工房で職人として採用され出て行く準備を済ませていた。

 その時、耀平は……。『兄貴の俺になんの相談もなく』と思ったが、すぐに、『やはり俺は、他人なのだな』と思い至り、彼女を引き止められなかった。

 もちろん。なによりも、それは義妹のためだと思った。ガラス職人を真っ直ぐに目指している彼女を引き止めるなどできなかった。

 このなにもない豊浦に引き止めてなにをさせる? 彼女の望みと才能を奪って、俺の子育てに協力して欲しいと? 親族であってもそれは言えるはずもない。


 


 ようやっと小樽駅に到着する。もう日暮れだった。

 工房へ向かうのは、明日になる。


 


 翌朝。久しぶりに義妹に会う前に、耀平は小樽工房の親方と密かに面会をすることになっていた。

 思った通りの温厚そうな四十代の男性だった。真面目な職人という雰囲気の。

 工房はとある観光会社が経営しているとのことで、親方は工房の責任者であって、経営者は札幌にいるとのことだった。

 自分と同じ観光系の会社が工房も経営しているということに、耀平は興味を持った。


 工房に着くと、まず働いている花南を見せてもらうことになった。

 気構えのないいつもの義妹を見たいからと来ていることは伏せてもらい、そっと影から工房を覗かせてもらう。

 男ばかりの職人が吹き竿を吹いたり回したりしている中に、ひとりだけ華奢な義妹を見つけた。それでも、あの勇ましい姿でガラスを吹いていた。元気そうな姿を一目見て、耀平はふっと微笑むことができた。

 その義妹に耀平は魅入ってしまっていた。やはり彼女がガラスを吹く姿はとてもいい。ひたむきな眼差しで、頬を染めて、まるでガラスと対話をしているようだった。

 学生の頃よりもずっと、ガラス職人らしくなっていた。


 見学の後、工房裏にある小さな事務所に案内される。

「いかがでしたか。妹さんの働く姿は」

 応接ソファーで親方と向き合う。

「ますます職人らしくなっていて安心いたしました。花南の亡くなった姉、私の妻は、妹がガラス職人になることを願っていましたので、彼女も喜んでいることでしょう」

「彼女がこの工房で面接をした時にも、そう言っておりました。お姉さんがいろいろと応援してくれたことを、今更無駄にしたくないと……」

「そうでしたか。いえ、家族になんの相談もなく、いつのまにかこちらに就職を決めておりましたので、家族一同驚かされまして」

 だけれど、親方は致し方なく笑った。

「このような仕事は、食える食えないで家族に反対されることも良くあることです。どれだけ本人の意志が強いかです」

「……そうですね。義妹を見ていると、まさにそうなのだなと思わされます」

 その意志の強さで、義妹は家を出て行った。戻ろうと思ってもすぐには戻れない、こんな遠くまで――。

「彼女が正直に相談していたら。やはりお兄さんは反対されていたのではないですか」

 見透かされた気がして、耀平は押し黙ってしまう。温厚に見えても、この男性は耀平よりも男である気がした。

 その親方が、耀平に静かに語り始める。

「彼女はいいものをもっていますよ。あの子は職人を続けられる子だなと感じています」

 ベテランの職人がそう言ってくれるのだから、確かなのだろう。耀平も感じている。花南のガラスへの姿勢は本物だと。

 そんな親方が、応接テーブルの上に数点、ガラス製品を並べた。

 乳白色の磨(す)りガラスに、アンティークな蔦の葉や、シックなボルドーの花を描いた小皿のセット。白い花の形をした七個でワンセットになっているキャンドルホルダーを見せられた。

「いいですね。新商品ですか」

 耀平は思わず手にとってしげしげと眺めてしまう。食事用というよりかは、装飾品か。ホテルの洗面台に置いていくと、女性客が喜びそうだというイメージがすぐに湧いたほど。

 だが、親方は静かに笑っているだけだった。

「商品ではありません。まだところどころ荒削りで、出すことなどできない、商品として許可はできない代物です」

「確かに。歪さは感じますが、それも味というか……」

「時間外に好きなものを作らせる許可をしています。この一年で、彼女が自由に創作したものです」

 耀平は驚いてしまい、手にある作品をもう一度眺めてしまう。

「このキャンドルホルダーは、木蓮(マグノリア)をイメージしているようですね。木に咲いている様を思い浮かべてもらう為に、七個大小バラバラに作っています。これを、夜の窓辺に並べて使うと優雅でしょう。暗闇にほんのりと咲いた木蓮のようで幻想的です。こういう贅沢な発想というのでしょうか。幼い頃から、ホテルを経営する家族を見てきたからなのかもしれませんね。使う人間が贅沢に感じるものを、彼女はもうわかっているように感じる時があります」

 それまで耀平にとって、花南のガラスはまだまだ学生のアートという感覚だった。どこか生意気で尖っていて、頑張りすぎているというか。こんな奇抜なもの、誰が使うんだ。奇特なコレクターが並べるにしても、奇抜すぎる。そう思っていた。美月の応援が本当に彼女のためなのか疑問に思うこともあった。

 だから、職人としてやるならば、商品の感覚を身につけて欲しいと願っていた。修行するというのならば、学生気分はやめて職人気質になってほしいと。

 そんな花南の『ガラス職人としての感性』を、耀平は初めて感じていた。これは化けたな――という驚きでもあった。妻の美月は、これに気がついていた?

 それは親方も同じようだった。

「製品を作るにはまだ不安定なのは確かです。なのに好きなものを作らせると購買者にウケの良いものを生み出す。そんな不思議な感性を持っています。どうか続けさせてあげてください。若い子はなかなか育たないので」

 親方に頭を下げられた。義妹を預かってくれているこちらこそ、頭を下げたいほどなのに。

 そうか。だから呼ばれたのかと耀平は悟った。育てたいから、家の都合でいつか戻されないかと案じていてた。だから耀平を呼んで、義妹の才能の片鱗をみて欲しかったのかと。

「こちらこそ。妹のことをこれからもよろしくお願いいたします。きっとこれだけのものが造れるようになったのは、こちらにお世話になってからだと思っております」

「そちらのお父様やお母様は反対はされていませんか。倉重は、実家のことはあまり話してくれません。履歴書を見ても、実家のことなどわかりませんし。まさか実家がそんな地方で有名な会社だとは思ってもいませんでした。お兄さんから注文をいただくようになって、初めてわかったことでしたので」

「いえ。花南もそれは覚悟して出て行ったのでしょう。学生時代は姉の援助がありましたが、その援助がなくなってもやりたい意志は消えなかったようですから。それならば、自分の力でと思ったのでしょう。どうぞ、実家のことなど遠慮せずに育ててください。花南の父親も母親も、そう思っていることでしょう」

「ですが……。お姉さんを亡くして、一人娘になったのですよね……」

 だから余計に連れ戻されないか案じてしまったのだろうか。

「いえ。妻が跡取り息子を遺していきましたので、父親としても息子を跡取りとして立派に育てる所存です。私は養子ですが、倉重を息子の代まで支えたいと思っております。ですので、義父も義母も、もともと気ままに育てた末娘のことは、彼女の思うままにして見守るつもりのようです」

 そうでしたか。良かった。――と、親方が胸を撫で下ろした。

 ベテラン職人に気に入られたのなら、合格だな――と、耀平も安堵した。

 そして。やはり、花南のことは実家に戻ってもらうではなく、ガラス職人として生きていけるようにしてあげなくてはいけないなと……。義兄として決心をした瞬間でもあった。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 この日の夜になって、耀平はようやっと花南に会いに行く。


 小樽駅からさほど離れていない観光地『小樽運河』。そこはとても賑やかで人々で溢れているのだが、市民が住まう坂の多い街に入るととても静か。そんな坂の上にあるアパートに花南は住んでいた。そこから徒歩で、運河観光街からすこし外れた場所にある工房に通っていた。

 駅周辺のホテルに泊まり込んでいた耀平は、花南の仕事の邪魔はすまいと思い、夜になるのを待って彼女のアパートを訪ねることにした。

 この時も、花南は実家の援助は得ずに、小さな港町でささやかな暮らしをしていた。

 もともと華やかさには執着もない義妹だったから、ガラスで暮らしていけるだけの金があれば事足りるのだろう。

 新人のガラス職人が得られる給与だって、そんなにいいものではない。下手したら新卒生の初任給を下回る。それでも彼等が技術を追い求めてそれを乗り越えていくのは、そこに職人としての夢と信念があるからだ。義妹にもそれがあった。だから家族はそれを信じて、花南にガラスをさせている。


 


 花南の部屋まで辿り着き、玄関のチャイムを押したがまだ帰宅していなかった。

 時計を眺め、耀平はため息をつく。もしかすると、親方が言っていた『空き時間の創作』をしているのかもしれないなと。

 一度、ホテルに戻って、出直そうかと思った。できたら、久しぶりに一緒に食事をしたい。そして、『カナちゃんの作品を見たよ。素晴らしい。兄さんは買いたくなった』と言ってやりたい。

 ひとまずホテルに戻ろうと、黒い革靴のつま先を階段へと向ける。

「兄さん!」

「カナちゃん。ああ良かった。今夜は会えないかと思った」

 この時はまだ、彼女のことは『カナちゃん』と呼んでいた。

「どうしたの」

「小樽のガラスを見たいと思ってね」

 あの冷めた眼差しで、耀平をじっと見つめている。

 夏の夜風に、花南の黒髪と羽織っている柔らかいストールカーディガンの裾が揺れている。

 ――大人になった。そう思った。生意気な芸大生といった感じで、まだまだ子供みたいに思えていたのに、まったく様変わりしていた。

 耀平に向かってそよぐ風から、微かに緑の花のような匂いが届いた。もう『女』だと思った。

 やっと花南が静かに微笑んだ。

「お兄さんらしいね。ものを見るのが大好きだもんね」

「そうなんだ。実はちょっとだけ、小樽のガラスを取り寄せてね。それがとても良かったので、直に見てみたくなった」

 だけど、花南がちょっとふてくされた顔になる。

「まさか。わたしがいる工房のものを取り寄せたの?」

「さあ、どうだろう。でも俺は、良い品しか買わない。それはカナちゃんも知っているだろう」

「じゃあ。うちの工房の、親方や先輩の作品を見ていって。どれも素敵だから」

 花南も胸を張れる工房を選んだのが伝わってくるし、それは親方と面会しても、一年修行をした花南の作品を見ても正解だったと思う。

 花南からも親方の工房を薦めてくれて、もう白状してしまおう、カナちゃんの作品を見たよ……と告げようとした時だった。

 アパートの階段から、誰かが駆け上がってくる忙しい足音が聞こえてくる。

 花南の部屋の前で向き合っているところに、同じような黒いスーツ姿の男が現れた。しかももの凄い形相で、花南ではなく耀平を睨んでいる。

「おまえか!」

 花南を押しのけ、いきなり耀平に掴みかかってきた。

 ものすごい力で、義妹の部屋のドアへとガンと頭を叩きつけられた。

 痛さで目をつむってしまい、反撃ができなかった。それをいいことに、男が耀平の首を締め上げ、もの凄い形相で食らいついてくる。

「花南の新しい男はおまえか!」

 花南の、新しい男? 息苦しい中、耀平はうっすらと目を開けた。

 生真面目そうな身なりの良い青年が、歯を食いしばるほどの力を込めて顔を歪めている。

「ち、ちがう、お、俺は……」

 締め上げられている男の腕を、耀平も掴んで離そうとした。

「やめて!」

 花南が青年の背中に抱きついて、耀平から引き離そうと必死になっていた。

「こいつか、こいつと付き合い始めたから、俺を捨てたのか」

 男が耀平を指さした。そして耀平も状況を判断した。この青年、花南とつきあっていた男なのか――と。

「その人は、実家の兄」

 花南の言葉に、青年が驚いて耀平を見た。

「嘘だ。花南には、死んだ姉さんしかいなかったはずだ」

「その姉さんの夫。だから、わたしの義理のお兄さん」

 またその青年の、耀平を見る目の色が変わった。

「じゃあ、他人じゃないか! 姉さんがいなくなったなら、なおさらだ。どうして花南に会いに来ているんだ。この男が来るから、俺と別れたのか!」

 いつも静かな表情をしている花南が、こんな時に怒りを露わに険しくなる。

「他人じゃない! わたしの大事な家族なんだから、変なことは言わないで」

 耀平の前に立ちはだかり、花南は男をはね除けた。

 他人じゃない。大事な家族……。そんなことは言ってくれたこともない義妹の言葉に、耀平は思わず感動してしまった……。

 その男の様子に構わずに、花南が耀平の手を握った。

「兄さん、ごめんなさい。こっちに来て」

 玄関を鍵で開けると、花南は耀平をひっぱり急いで部屋へと入ってしまう。しかもまだ諦めない青年の様子に構わずに、ドアをバタンと閉めてしまった。

 花南、花南。開けろ! まだ話は終わっていない!

 ドンドンとドアを叩いている。正直、耀平は青ざめていた。久しぶりに会う妹に男がいて、その男が妹につきまとっているこのいきなりの状況に。

「カナちゃん。どうしてこんなことになっているんだ」

「気にしないで。そのうちにいなくなるから」

「そのうちに? いつもこんななのか」

 そして花南はさらっと言い放った。

「うん。別れて一ヶ月経つけど、時々こうして来て困っている」

「困っているじゃないだろう? エスカレートしてストーカーとかになったらどうするんだ」

 花南が黙った。平気な顔をして、実際は困り果てているのだと察した。

「カナちゃんは、部屋にいろ」

 え、兄さん? 花南に止められる前に、耀平はドアを開ける。まだ怒り心頭の青年が拳を振りかざしていた。

 部屋を出た耀平もすぐドアを閉め、そこに立ちはだかる。

 


 


 

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