黒蝶はひとりでさがしてる

市來 茉莉

1.月と花の姉妹


 死別した妻は隙がなく、義妹には隙があった。


 


 姉妹は似てなどいなかった。でも、顔つきが似ていた。なのに全く似ていない。

 わかりやすく喩えると、妻は白い服が似合い、妹は黒い服が似合う。それぐらいに持っているムードが相反していた。

 妻は胸元に気遣い完璧に隠すなら、妹は無意識にそこを匂わせていた。

 だからといって、妹の花南が男に媚びてしている訳でもなく、彼女がその服を着ると、胸元が開いていなくてもそこに色香を匂わせている。

 妻は常に微笑みを湛え、妹は常に澄ましている。

 姉の『美月』は、月ではなく花のように華やかで。妹の『花南』は、陽気な花ではなく月のように静かだった。

 だが、実際のところ。名は体を表す――は、姉妹に当てはまっていた。

 姉の仮面は花で、本当は月の妖(あやかし)。完璧な姿をした人形のよう。本性わからぬ、遠い光。

 妹は匂う花なのに、ひっそりと夜の片隅で咲く控えめの……。でも奥底に触れると、肌を熱くする。

 『生きている』。そんな熱を感じさせてくれたのは、妹だった。


 


 二年留守にしていた義妹が、この夏、西の京に帰ってきた。


 


 残暑もまだ厳しい、長月の候。

 彼女が帰宅して、三ヶ月。


 


 今日も耀平は、豊浦にある本社からやっとの帰宅。二日ぶりだった。

 黒いスーツ姿で緑の垣根に車を停め、急いで家の中へ向かう。

 豊浦の本社に副社長として通うのは絶対なので、いまはどうしてもこの家を一晩二晩は空けてしまうことになる。

 つい最近までこの家に来ると、誰もいなくて、ただリビングに光が射しているだけだった。

 義妹の匂いもなく、窓も閉められ、空気が淀んでいた。訪ねてきた耀平が窓を開けて空気を入れ換えても、そこには侘びしさが余計に漂うばかり。

 ダイニングは妹が出て行ったままのテーブルクロスで、彼女が作ったガラスの花瓶にはなにも生けられてはいず……。ただ、庭だけは耀平が手入れをして花を咲かせていた。

 工場用のエプロンをした義妹が休憩時に、花鋏を持って、今日はなにをいけておこうかと静かに想っていてくれた後ろ姿だけが浮かぶ。

 彼女とは、なにかしら合うものが多かった。義妹が最初は合わせてくれているのかと思った。義兄の家だから、住まわせてもらっているから、工房を作ってくれたから――、『義兄でもパトロンだから』、主の趣味を熟知して家を整え待っていてくれるのかと思っていた。

 だが五年も暮らすとそうではないと、早い内から感じるようになる。心も身体も、そうセックスも。義妹がなにもかもを犠牲にして差し出してくれているのかもしれないと思っていたが、そうではないことがわかってくる。

 訪ねてくるたびに、この家は耀平だけの家ではなくなっていった。そこに義妹の息づかいや薫りが備わるようになった。『ふたりの家』が整っていく。それは妻に死なれ、息子とは血が繋がっていないと酷な真実を知ってしまった耀平には、初めて癒されていく日々だった。

 義妹が新しく揃えたものが、耀平にも心地よいもので。また耀平が手にして持ってきたものも、義妹は嬉しそうに飾ったり使ったりしてくれるようになった。

 そんな、耀平の居場所で全てだったようなものを、一瞬にして失った――。


 


 だから耀平は『いまでも』、リビングのドアを開ける時は少し躊躇う。もうそうではなくなったのだとわかっているのに。


 ドアを開ける。

 緑の薫りがするいつもの風がさあっと耀平を包んだ。リビングに風が通る。ダイニングテーブルにいけられている桔梗が揺れ、義妹のスケッチブックがパラパラとめくれる。

 庭への降り口に、大きな水鉢。そこに水草と金魚を入れている。義妹がそこに背を丸めて座り込み、じっと覗いているところだった。


 義妹の花南を見つけると、耀平は今でもホッと胸を撫で下ろしてしまう。


 


「カナ、またばてているのか」

 職人の工場エプロンをといてソファーに無造作に放っていて、いつもの綿のティシャツにカーゴパンツという工房スタイル。肩より下まで伸びてしまった黒髪を、シンプルにヘアゴムで縛っているいつもの姿。

「お兄さん、お帰りなさい」

「うん、ただいま。暑いな、山口は」

 耀平の首元も汗で湿っている。黒いネクタイの結び目に指を差し入れ、ふっと緩めた。

「冷茶、いれるね」

 凍らせて溶けてゆく水が入っているペットボトル片手に、職人姿の花南がふっと立ち上がる。

 それと同時に、花南がなにげなく髪をまとめていたヘアゴムをさっと取り去った。

 すうっと入ってきた夏風に、湿った義妹の髪がふわりと舞う。汗ばんだ花南の首と頬にぺったりと貼りつく。その毛先が、花南の口元にも貼りついた瞬間、義妹の唇が妖艶に開いた。

 つまり。そういう隙――。

 義妹はそんなつもりはなくても、そういう隙から女が匂う。計算でもなんでもなく、ただ男をくすぐる自然体を持ち合わせている。

 そんな仕草だけでなく、義妹がキッチンへ行こうと耀平の目の前をなにげなくかすめていった時も、その匂いを残していく。

 花南は好んでシンプルな白い綿シャツを着ているが、それがまた、しっとりと湿めったせいか、義妹の身体の線をそこはかとなく醸し出す。シンプルだからこそ、胸の線がほのかに現れてしまう。普段はエプロンをしているから気が付く者も少ないだろうが、こうして耀平の目の前ではエプロンも外してしまうのでよく目にすることだった。

 そういう義妹を欲して、何度、無理矢理に求めたことか……。耀平はいつも思う。そんな時がいちばん狙われているだなんて、義妹はまったく気が付いていないようで、本当に『隙だらけ』だった。

 そうして、無自覚の色香を匂わせて、義妹は義兄を虜にした。それは、一緒に住もうと強引にこの家に連れ込む前からだった。

 妻も気が付いていた。『カナは隙があるのよ。可愛いでしょう』。若い頃、新婚の頃、耀平にはわからない言葉だった。その時、耀平には、何事もそつなくこなす清楚で華やかな妻しか見えなかったし、まだ十九歳だった義妹の花南は幼く見え、とても『女』とは言い難かった。

 ただ、ドキリとしたのは、やはり義妹が汗まみれで吹き竿片手に熱したガラスに向かっている時だった。幼く見えた顔が大人びて、そして息を吹き込む唇には艶があった。真剣な顔が大人に見えたといえばそれまでだっただろうが、いま振り返ると、あの頃から義妹の花南の微かな香りを感じていたように思える。

「ヒロに工房から追い出されちゃった。邪魔だ、スローな奴は外れてくれって」

 極寒の富士での灼熱工房と、盆地残暑の灼熱工房では、やはり違いがあるようだった。

「でもいいの。あれもきっと、ヒロの気遣いだろうし。親方らしい言い方だよね。二人だけの時ならなあなあでもよかったけれど、いまは若い彼等もいるから示しがつかないし」

「そうだな。そこは俺も安心して任せている。雑貨店を始めたから、生産ラインのスピードも以前とは違う」

 大学の気が合う同期生が二人きりで、マイペースに生産をしていた工房とはもう異なる。親方に据えたヒロは、そのペースをうまく造り出してくれていたが、突然帰ってきて、工房に戻った花南にはまだ掴めないペースのようだった。

「湖畔でも生産していたけれど、ショップ一店を抱えていると全然生産量が違って驚いた。なのにヒロは、ペースを緩めることなく、寸分違わぬといっても過言ではない製品を大量に作り出すんだもの」

「それがヒロの良いところで、店を支えているところでもあるな」

 まだ地元の気候に戻れない身体と、変貌した工房の生産ラインに乗れず、花南はこの頃帰ってきた自分を持て余しているところがある。

 それでも。キッチンで湯を沸かし、緑茶を急須にいれ、ガラスの茶器を準備しながら、なんともない微笑みを見せてくれる。

 湿った毛先が揺れるたびに、彼女の皮膚の匂いと、彼女が好んでいる香りがする。その背後に耀平はそっと近づいた。そして湿っている黒髪をそっと手のひらに乗せて眺める。

「髪、伸びたな」

 義妹が静かに振り返った。なんとも感じていないような、冷めたような目で。だけれど、義妹らしい目だと感じると、本当にこの扱いにくかった義妹が帰ってきたのだと実感してしまう。

「そうだね。伸ばしっぱなしで、傷んできたよね」

「前の美容室はもういけないのか」

「そんなことないよ。帰ってきてから、いろいろ忙しかったから……」

 この家にいた時は、わりとこまめにカットに通っていた。なのに、富士の湖畔から帰ってきた義妹は以前よりずっと女の嗜みに関してかなり無頓着になっていた。

 あの村では街中にあるような美容室もなかっただろうし、あの質素な暮らしをしているうちに、花南の中から『女性の身だしなみ』が後回しになり、それに慣れてしまったようだった。

 そこに『ひとりで生きていた』義妹だけの時間を感じてしまう。耀平が知り得ない、踏み込めない時間がある。

 でも、耀平はそれで良かったのだといまは思う。一緒に暮らしていた時は、花南から何かを奪っていたような気がしていた。義妹だけの時間を経て、彼女はそれでもここに帰ってきてくれた。耀平が強制したのではなく、花南が耀平のところに帰ってきてくれたのだから。

「そろそろ切り揃えておけよ。おまえを紹介しなくてはならないのだから」

 義妹がため息をついた。もうすぐ招待されたパーティーがある。そこの耀平は『婚約者』として花南を同伴させるつもりだった。それは義両親にも勧められていることで、早い内に人に知っておいてもらった方がいいという方針で、花南は親の言うことともあって承諾してくれていたが……。

「面倒くさいな。わたし、お姉さんと違って、人とお喋りするのは好きじゃないし、愛想良くできないから」

「そんなことは誰もが知っている。いつもの花南のままでいい。ガラス職人のおまえに会いたいんだろう。職人堅気な顔の方がそれらしくて喜ばれるだろう」

「そうなの?」

「そういうイメージで期待している人間の方が多いだろうと思う」

「良くわからないな。そういう感覚……」

 社交界は、イメージが先行することが多い。そこに乗るか乗らぬかは、やはり『見る目』が必要となる。

 亡くなった妻はそれがあった。そんな意味では、妻との会話は弾み、そして考え方が合っていた。だから妻も言っていた。『私と耀平さんならうまくやれるわよ』と――。

 二人でこの倉重家を盛り上げていこう。そんな心意気を揃え、彼女と結婚し、夫妻であちこちに顔を売った。のに……。

 そのせいか。かえって義妹には『それ』に染まって欲しくないと耀平は思っている。あの仮面の世界、仮面をちらっとずらして見えた本心を見逃さずに微笑みあう世界とはソリが合わない、そんな義妹の『感性から生まれ出る所作』を人々に知って欲しいと思っている。

 ガラスに向き合っている義妹の、世間に相反している素直さや、気難しさ、奔放さ、そして世間知らずな顔をして、実は人の心根を見据えている強かさ。そういう奇妙なバランスを感じたら、きっと、退屈な駆け引きをしている者達はそんなありのままの義妹を受け入れてくれるだろうと確信している。

「でも。お兄さんはいいの。姉の次に、妹にも手を出したって影で言われる」

「もう、ずっと前から言われている。俺が山口に家を持って、そこにガラス職人の妹を住まわせていることがどういうことか、散々噂されてきた」

 だから大丈夫だと、キッチンに立つ義妹を背中から静かに抱きしめた。

 汗ばんだ身体の熱さが、耀平のシャツを通してでも直ぐにわかる。そんな花南を耀平はもっと……と、自分へと抱き寄せる。

「兄さん……、だから汗……」

 汗をかいている時、義妹は耀平のシャツやネクタイが汚れることをいつも気にしている。そんな何枚も何本も持っているもの……と思うのだが、それらの多くは義妹が留守番をしてくれている間に揃えてくれているものだった。そうして、留守の間も兄貴である自分のことを気にして、似合うものをと想って選んでくれている義妹。強引に勝手に自分のものにした『ズルイお兄さん』だと冷たくするくせに、遠回しにその愛情を示してくれている。そう思っていた。

「洗った肌より、汗をかいているカナの方が好きだ」

 そうしてもっときつく抱きしめる。彼女のじっとりと汗ばんでいる首筋にキスをして、僅かに舐める。

 しょっぱい肌のようで、だからこそ、汗の下にある義妹の皮膚は甘く感じた。慣れきった彼女の肌の味は、耀平だけしか知らないはずで、義妹も誰にも許していないはず。

「兄さん」

 腕の囲いの中、花南がそっと身体を返して耀平の首に抱きついてきた。

 彼女からも、耀平の頬のキスをしてくれる。その度に、耀平は彼女の腕の中に崩れ落ちそうになる。駄目だ。俺は兄貴なのだから、絶対にこの腕の力を抜いてはいけない。この腕で、自分よりずっと小柄な義妹を抱きしめていくのだから。――と、思うのに。

 山口に帰ってきた義妹の花南のそんなところが、以前とは大きく異なっている。それまで『最終的にわたしは義兄さんには墜ちない』と我を張ってツンとしていた天の邪鬼が、もうそんなことは忘れたとばかりに、素直に彼女から愛してくれることも多くなった気がする。本当は耀平から、今まで以上に男らしく愛してやろうと思っていたのに、花南が勢いでぶつかってくる。

 そんなキスをしてくれた花南の頬に触れ、今度は耀平から、きちんと彼女の唇にキスをする。そっと、義妹が目を閉じた。漆黒のまつげが静かに震えて、耀平の舌先の求愛に小さくうめいてくれる。

 ぶつかってきた義妹に気圧されないよう、夜にするような激しいくちづけを長々とすると、花南は苦しそうに顔を背けてしまう。

「もう、ほどいちゃうから」

 小さな吐息をついて、また義妹から仕返しをしてくる。本当に耀平が緩めたネクタイをさらに緩めてほどいてしまった。

 そうして少しだけ兄貴を脅しているだけだと思っていたら。

「ま、まて。カナ」

 義妹の指が、白いワイシャツのボタンをひとつ、ふたつを外し始めた。そこまでならともかく、まだそれを続け、ついにみっつと外した。

 いつもカッチリとしたビジネススタイルを崩さない耀平の男の胸元を、花南が露わにして乱してしまう。

「暑いでしょう。まっててね」

 さらに耀平はドキリとする。冷茶を煎れてあげると花南がそこに準備していた『氷』をなにげなく手にとって、口に含んで舐めている。

 暑いでしょう。まっててね。その向こうになにをされるか、耀平にはもう判ってしまっていた。

 そんな『おかしなことを急に思いつく義妹の思考』に、耀平は時に翻弄される。

 夏の湿気でしっとりとした黒髪、いつも澄ましている媚びない冷たい顔。その顔で耀平を見上げて、氷を舐めている。その舌先が艶めかしい。そう、こういうこと。義妹にはこういう崩した隙がある。男ならここで押し倒したくなる。

 

「もうお終いだ」

 氷を片手に舐めた義妹を胸元から離した。やっぱり、いたずらが成功した子供のように笑っている。

 そんな義妹から氷を取り上げ、耀平はシンクに放り投げた。武器を奪う兄貴の気分だった。


 それでも。もうおまえの思うとおりだなんて。まったくわかっていない義妹の顔が憎たらしい。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 この家に来ると、なるべく風を頼りにするようにしている。冷房はつけない。

 冷房などない工房でガラス職人達が頑張っているのに、ひとり涼んでいては申し訳ない気持ちもあるけれど、ただこの家の風が好きでそのまま自然でいたいと思わせてくれるから。

 義妹も真面目に工房に戻ったので、耀平も仕事をする。

 書斎に籠もり、持ってきた書類とノートパソコンを机に置く。

 開け放した窓から、庭が見える。リビングとは違う趣。自分が植えた夏の花がちらほら終わり、初秋の花が咲くようになった。庭角にある『酔芙蓉』は、もう咲き始めていた。

 風鈴の音を聞きながら、耀平はとある書類にサインをしようと愛用している万年筆を取り出す。

 ずっと使ってきた。自分がなにも知らない『夫』だった時から使っている。

 妻だった美月が一年目の結婚記念日に贈ってくれたものだった。なにも疑わず綺麗で優れた彼女だけしか見えていなかった頃の……。記念日の贈り物はこれが最初で最後。以後、少しずつ夫妻仲が冷えていったから。

 幸せだったといえば、確かに。幸せだった。『なにも知らずに幸せ』というものほど、幸せなものはないと耀平は思っている。

 どんな真実が隠れているかも分からず……。ひた隠しにして苦しんでくれている義妹がいたなど知らずに……。彼女達の嘘。それに守られていたのだろうが、正直、知ってしまった今となっては屈辱でもあった。姉に騙され、妹に守られていただなんて。馬鹿な男であって、情けない男でしかない。

 でも……。耀平はこの立派な万年筆を捨てずに愛用している。決して、妻を憎むためでもなく、騙された己への戒めでもなく。本当に『これだけが』、『夫妻だった証拠』のような気がして残している。

 美月への未練でもなく、幸せだった頃を惜しむのではなく。『夫妻だった。航という息子を愛そうとした者同士』という証のために手元に置いている。

 あの息子のために、息子の母親だった女性と『夫だった』というものを遺しておかなくてはならない。男と女としてどんな行き違いや不備があっても、彼が生まれた日には確かにそこに二人で祝福した笑顔があったのだと――。耀平の誓いのようなものだった。

 妻との縁を切ろうとは思っていない。思い出も捨て去ろうとも今は思っていない。それは義妹と結婚すると決めたのだからなおさらだった。

 そして、それは花南もおなじだった。

『お姉さんの万年筆。結婚の記念だもんね。航もよくこれを見ているもんね。大事にしなくちゃね』

 この家に来た頃も、この家で五年暮らした時も、そして帰ってきた今も。これを見たら、義妹の花南は静かに笑って、いつもそう言う。

 姉と同じ男を慕った妹としての嫉妬もなにもないようで、ただ、義妹と夫だった自分の間に、死んでしまった姉がいるのは『あたりまえ』だった。

 耀平には密かに憎む気持ちを宿していたものの、義妹にはそれは窺えず、ただ『兄さんの奥さんだったお姉さん』としてごくごく自然に間に置いてくれた。

 耀平が憎んでいようが、達観して気持ちが丸くなろうが。美月との縁は消せない。航の父親でいると覚悟した以上、母親である美月は耀平が死ぬまで寄り添っていかねばならない存在。

 義妹以上の理解を示す女性との運命的な出会いもあったかもしれない。だが、やはり違うと思う。それなら義妹の方がよっぽど運命的なのかもしれないと、良く思う。

 もうすぐ死んだ妻の妹を、当たり前のように娶(めと)る。

 姉妹を愛してしまう男になるだなんて……。耀平だって予想外だった。妻が死んだ後、妹が大人の顔になった。


 美月と結婚した頃。花南など、まだ十代の少女だった。

 芸大に通い始めたばかりで、幼い顔で、同期生達と騒いで遊んで、大学の課題に追われて……。そんなことは耀平にはとうに過ぎたことで、若い義妹にとっては今がそれであって、その感覚が重なることは決してなかった。だからこそ『義妹のカナちゃん』として、兄貴の顔でおおらかに接するだけの関係。

 十歳も年下の義妹が、そうして若い馬鹿さ加減で危なっかしいことをしているのも目にしてきた。男に夜遊びに、同期生達との馬鹿騒ぎ。裕福な育ちの花南には、様々な人間が群がってきた。だいたいが金目当てであって、そして家族の人脈目当てだったりした。それを肌で感じた耀平は、倉重の会社を守っていく者として危機を感じたことがある。この未熟な義妹が騙されて、大きなリスクを背負うことにならないかと。だから、妻の美月に『あまり自由にさせないほうがいい。時々、様子を見に行った方がいいのでは』と言ったことがある。

 だが妻はおおらかだった。『花南はもっとお金をちょうだいなんて馬鹿なことは絶対に言ったことがないし、あれでも人を見る目があるのよ。うまく仕分けができているのを知ると、ちょっと私も鼻が高くなるの。流石、私の小さな妹って――』。

 そして妻は抜かりがなかった。花南にはこまめに連絡をして、困ったことがあるならすぐに助け、相談に乗っていた。たまに、『花南のところに様子を見に行っていきます』と家を空けることもあれば、『花南のガラスの援助に行ってきます』と、創作グループのパトロネスとして出掛けることも多かった。

 そんな妻の活動に、耀平は一度も文句を言ったことはない。むしろ、彼女らしいと思っていたし、幼い花南を監督するのにちょうど良いと思っていた。

 妻の美月は常々言っていた。気ままな妹の青春。『これも勉強よ。花南はこの家を出て、自由に生きていくのだから。傷ついたり、傷つけられたり、傷つけたり。必ずあるのだから――』と真剣だった。そんな花南が馬鹿馬鹿しい若さを謳歌していると、美月は楽しそうに笑い。花南が危なっかしい経験をして冷や汗をかいていると、大人の顔で諭して、肥やしにさせようとしていた。まるで自分に起きたことのようにして……。

 そこに姉妹にしかない絆を、耀平は感じていた。自由に駆け回る妹が、楽しそうにしたり、傷ついたり、果てない夢を追っていたり。家に縛られた姉の、分身だったのかもしれない――と。

 そんな姉を亡くし、花南も分身をなくしたように思っていたのかもしれない。寄り添ってくれていた姉の秘密を守ろうとしたのも、自然なことだったのかもしれない。

 万年筆を見下ろし、耀平は呟く。

「美月。妹を見て、自分がしているように感じていたのか。美月……。自分ですれば良かっただろう……。できなかったのか、美月」

 花南が握りしめていた『秘密』のなにもかもを知って、ようやっと『妻』を知れた気がするこの頃。

 耀平はそっと額を抱え、机に項垂れた。

 朝は白い酔芙蓉が、夕が近づくと、ほのかに紅に染まり始める。酔う花、酔芙蓉。

 たおやかだった花が、妖艶に開ききる。

 きっと妻は、結婚してから『やりたいことをやった』のだと思う。結婚してしまったから、諦めてしまったから、封印をしたから余計に。

 そんなあやかしの姉の秘密に巻き込まれた者同士。耀平と花南は、違う秘密を片方ずつ握りしめて。


 


 美月が死んだ。冷たい真冬の萩の海で死んだ。

 もうすぐ大学を卒業する予定の花南が、慌てて広島から帰ってきた。

 姉の亡骸にすがり、大泣きした花南を今でも覚えている。

 姉の秘密。巻き込まれ背負ってしまった妹ではあっただろうが、それでもそんな美月をいちばんよく知り理解していたのは、また妹の花南だったとも今は思う。


 そんな花南が暫く実家にいて、気落ちしている母親に付き添っていた。

 それだけではない。母親を失ってわけがわからずともぐずっている航の面倒を一緒にみてくれた。

 初めての男親だけの子育て、祖母の手を借りての子育て。その仲介役のようなものを、花南がやってくれた。あれがなければ、義母とはうまい連携が取れなかっただろうと振り返る。

 大学を卒業してすぐ、花南は実家に戻ってきた。そこから広島の仲間と創作活動を続けていたが、豊浦の実家で、そうして義母と花南と耀平と三人で航の日常を整えようとした期間がある。

 この時間がなければ、おそらく義妹は義妹のままだっただろうし。花南も、義兄など気にせずに、実家を出て行った自分の世界で男を見つけていたと思う。

 しかし。一時して、花南が出て行く決意をして、あっという間に出て行った。

 ――小樽の工房で修行をする、と。

 それを耀平は見送ってしまった。本当は、まだ一緒にこの家で暮らしたいと思っていたのに。創作活動が上手くいっていないことを知っていた。花南にはここしかない。だから、出て行かないと思っていたのに。

 耀平の心に、花南がひそかに咲いたのはこの時か。


 


 


 

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