3.△△年 小樽

 ××年 小樽――。

 義妹に男がいた。しかも別れた後で、男につきまとわれている。

「お帰りください。貴方は妹に迷惑をかけたいのですか。妹を困らせたくて来ているのですか。困らせるから、会ってはくれないのだとは思わないのですか」

「花南が話を聞いてくれるまで、帰るつもりはない」

 きっとそう言うだろうと耀平もわかっていたので、それならばと相手の要求の一部を飲むことにする。まずは帰ってもらってからだ、という判断。

「では明日。妹と話す場を設けましょう。それでよろしいですか」

 男の顔つきが変わった。急に和らいだ。

「ほ、本当ですか。お兄さん」

 怒りを収めた青年は、誠実そうな男だった。

 だが、耀平の判断は既に決まっている。どんなに真面目な男でも、怒りで変貌する男は駄目だ。『義妹とは切れてもらわねば』――と。

「ただし。兄の私も同席させていただきます」

「それでも構いません。花南が会ってくれるなら」

「約束します。ですから、今夜はもう」

 ようやっと男が頷き、アパートの階段を下りていく。

 青年が姿を消すまではと思い、耀平はじっと玄関ドアから動かなかった。

 濃紺のBMWの前で青年が立ち止まり、アパートの階段を見上げた。耀平に会釈をすると車に乗って、そのまま去っていってくれた。

 乗っている車のランクといい、スーツも上質なものだった。どうもいいところのお坊ちゃんといった感じだった。状況判断を常に優先するエリート男ならば、もう少しスマートだろうに。好青年とはいえ、どうも子供っぽく感じる男。そんな感触だった。

 質素な暮らしをしている義妹が、どうやってそんな上流の男に出会ったのか。

 ネクタイを緩め、耀平はふとため息をついた。

 花南がどうやってあの男に出会ったのか? そして男はどうして花南に惚れたのか。なんとなく男としてわかる気もした。

 一年ぶりに会った花南は、大人になっていた。男がいたせいか、会っただけで耀平にも『女になった』空気が漂ってきていた。着飾ってるわけでもないのに、質素でシンプルな身なりだからこそ、色香が滲み出ていた。そう男に抱かれて培われる女の空気……。

 花南のあれに当てられたら、たぶん、断る男はいないだろう。そう思えるものだった。

 小樽の街に溶け込むように、義妹の住まうアパートも静かになる。耀平はドアを開け、花南がいる部屋に戻った。

「帰ったよ、カナちゃん」

 だが、耀平と彼の交渉を聞いていた花南は不機嫌な顔をしている。

「仕方がないだろう。向こうが納得していないのだから『別れ話』は仕切直しだ」

「……たった二ヶ月付き合っただけで、結婚してくれと迫られているのに?」

 はあ? 耀平は目を丸くした。

 たった二ヶ月で義妹にべた惚れ? 確かに、花南は色香も出てきて大人になっているが、だからとてちょっと付き合って骨抜きにするような強者女でもない。

「そんな思いこみが強い男は駄目だ」

「わかってる。だから、結婚はできないって断ったの。でも、俺と結婚したら、ガラスを辞めさせてあげる、楽をさせてあげるからって……」

 花南にガラスを辞めて――と言ったのか。『これはますます駄目だ』と耀平は首を振った。

「まったくカナちゃんのことを理解していないじゃないか。彼女が一生懸命やっているガラスを辞めさせて楽をさせてあげるとは、どうしてそう論点がずれたんだ」

「だから別れることにしたの。優雅な奥さんになれば、ガラスのことはどうでもよくなる。みたいに言うの。全然、話が通じないから『違う人を好きになった。もう会いに来ないで』と言ったらあんなことになって」

「それで、俺のことを新しい男と思ったのか」

 花南が申し訳なさそうに頷いた。

「まさか。お兄さんが来てるだなんて……。ごめんなさい。びっくりしたでしょう」

「いや……。来て良かった。お父さんもお母さんも、なにも言わないけれど、カナちゃんのことをとても心配している。だから来て良かった」

 花南が顔が見えなくなるぐらいに俯いた。そんな時だけ、一緒に暮らしていた頃の『まだまだ若い妹』の顔になる。ちょっとだけ泣いているのが、耀平にはわかった。

 なんでそんなにひとりで頑張っているのだろうと、ふと思った。

「困ったことがあるなら、どうしてお母さんだけにでも相談しなかったんだ」

「お母さんには、航の側にいて欲しいから。これ以上、航に寂しい思いさせたらいけないよ……。だから兄さんも早く帰って。お父さんがいなくても、航は寂しがるでしょう。わたしのことは自分でなんとかするから」

 耀平の胸を貫くものがあった。この義妹は、息子の航のことを遠い小樽にいても思ってくれていた。やはり、二年、一緒に暮らして手伝ってくれただけあった。

「じゃあ。これからは、兄さんに相談してくれないか」

 花南は黙っていた。兄さんに相談も、躊躇うようだった。そういう頑ななところがあるのもわかっている。

「わかったよ。カナちゃん。だけど、俺やお母さん、お父さんも、ちゃんと助けてくれることは絶対に忘れないでほしい」

 久しぶりに、花南の黒髪の頭をそっと撫でた。花南がやっと耀平の顔を見上げる。

 あどけなさが残っていたけれど、本当にもう、大人の顔だった。

「せっかくだから、帰るまでにカナちゃんに小樽でも案内してもらうか。ガラスの店がいっぱいあったな。あと、今夜は兄さんと食事でもしよう。うまいレストラン知っているか」

 切り替えの早い義兄を知って、やっと花南も実家で見せていたあどけない笑顔を浮かべた。

「小樽に来たらレストランより先に、お寿司屋さんだよ」

「いいな。北国の魚介で寿司か」

「ワインとお寿司で食べるところもあるよ」

 うんいいな。と、耀平もようやっと兄貴の顔で笑えた。

 その夜は小樽の寿司を二人で食べて、花南とは別れた。


 


 だけれど、釈然としない何かが耀平の中に残っていた。

 あの義妹が、家を出て一年もしない内に男とつきあっていただなんて……。正直、ショックだった。

 男に身体を明け渡したことも、好きにされたことも。

 その快楽に若さで堕ちて溺れた義妹を想像すると、居たたまれない気持ちにもなるし……。おかしな気分になる。


 だが、花南はまだ二十四歳。一人でこの北国に来て一年。そろそろ独り身が侘びしくなる頃かもしれなかったし、若くても女、人肌が恋しかったのかもしれない。

 もともと義妹には『ヒロ』という恋人が学生の時にいて、耀平も顔見知りだった。だけれど卒業前にはもう二人は破局していた。以降、義妹に特定の男はいなかった。

 なのに。時々ふらっと夜の街に出て行っては、そんな女の雰囲気で帰ってきたことが一、二回あった。その時、倉重の家で花南と一緒に暮らしていた義兄にはわかってしまう。『適当な男と寝たんだな』――と。

 学生の頃から、義妹にはそういう『あけすけ』なところがあった。遊びは遊びで、恋とは割り切っている。そういう奔放さがあった。だから、妻の美月に『悪い男にひっかからないようにして欲しい』と告げていた。

 常に男を欲しがっているような義妹ではなかったが、たぶん『そういう時期』があるのだろう。耀平だってそうだ。妻の三回忌を終え、落ち着いてくると、男独り身になって『女を抱きたい』と生理的に欲する時もある。

 ただいまは、小さな息子がいるし、跡取り妻を失った婿養子として倉重で働くのに必死で。女遊びがしたいなら、倉重の名だけでなびいてくる女もいる。お手軽だろうが、そのお手軽が恐ろしい。リスクあるくらいなら、遊びなどしない。なにもないほうがいい。

 そこが、若い花南と、大人である耀平の違いなのかもしれない――。

 遊び慣れて男も知っているだろうに。義妹が侘びしさを男で埋めるため、抱かれるために、容易く許してしまっていただなんて。


 そんな花南の肌を好きに味わった男が……許せない……。


 初めてそう思った。義妹なのに。家族だけれど、他人である義兄が彼女の男を決められるわけでもないのに。

 奇妙な気分だった。


 


 翌日。小樽二日目。

 さて。今夜は、あの青年とどう話して諦めてもらおう。

 朝から耀平はそう考え始めていた。うまく別れてもらう言葉を探して並べている。

 なのに、工房の親方から思わぬ連絡をもらってしまう。

『二度と息子には会わないで欲しいというご両親が、妹さんには会いたくない、ちょうど来ているお兄さんに会わせて欲しいと私のところに来ていまして……』

 はあ? あのお坊ちゃんの両親か。しかも、どうして花南の上司に会いに来た? 筋が違うだろう。

 『二度と会うなといいたいのはこっちだ』と、息巻いて耀平は工房事務所に向かった。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 行く途中、歩けば歩くほど怒りが渦巻いた。いったいどういう両親だ。息子のプライベート問題を、相手の花南本人ではなく、花南が困るように職場の上司にクレームを言いに来るだなんてとんでもない親だ。普通は本人に言う、それで収まらないなら家族が筋。それを、相手の女が困るように『職場の上司にクレーム』とはなんという!

 事務所の入り口で親方が落ち着きなく待っていた。すぐ隣が工房なので、耀平も花南に気がつかれないよう、親方の案内でさっと事務所に入る。

 親方のデスクがある事務所。小さな応接テーブルにあるソファーに、身なりの良い初老の夫妻が座っていた。

「こちらが倉重のお兄さんです」

「倉重花南の兄です。妹がなにかご迷惑でもおかけしましたか」

 耀平が相手の女の『兄』知って、あちらの父親は丁寧に頭を下げてくれたが、母親には睨まれた。

 それで耀平も察した。息子が可愛すぎる溺愛ママかと。

 夫妻の向かい側に、親方と一緒に並んで座る。

「息子がそちらのお嬢様と結婚したいと言い張って困っております」

 知るか。花南はそちら様のご子息なんか、もう眼中にはない――と、胸の奥で毒づいた。

「今夜、そちらのお嬢様とお兄様とお会いになる約束をしてきたと息子が言っておりまして。その際に妹さんとお兄様と会って、きちんと話をまとめてくる。きっと彼女にうんと言わせると喜んでおりましてね。お兄様が結婚を勧めたりしたら、妹さんも本気になってしまうかもしれないでしょう」

「兄に言われて、自分の人生を決めるような妹ではありません。むしろ、ガラスをやりたいと家族に黙って小樽に行く準備をしていたぐらいです」

 目の前の父親だけが『ほう』と感心した顔を見せた。なのに、夫の反応にムキになったのか、溺愛ママの顔が歪んだ。

「ガラス職人ごときのお嬢様では、我が家の嫁は務まりません」

 ガラス職人ごとき? 耀平は片眉をそっとつり上げた。このガラス職人である親方を目の前に、そういう物言いをする人間という嫌な気持ちだった。

 この人達が造り出した綺麗なグラスや花瓶や食器をこぞって素敵素敵と買えるのは、この人達の創造と技術のおかげとか思えないのか。それとも息子の嫁になる、家族になるとなったら『ごとき』なのか。ガラス職人を家族に持つ耀平には許せない思考だった。

「わたくしども一家は、札幌でレストランや洋菓子店を経営しておりまして、店舗を幾つも出しています。息子はその跡取り息子です。それを……急にこちらのお嬢様に夢中になって、結婚をしたいとか。収入も不安定な職人さんでしょうから、うちの家を目当てにされても困りますの」

 妹が金持ちの家を後ろ盾にしようとしたら困るとあからさまに突きつけてきた。だが、耀平は静かに返した。

「ですが妹からは断ったと聞かされています。いつまでも妹に会いに来ているのは、息子さんのようですよ。諦めるのはそちらではありませんか」

 母親がカチンとした顔を見せた。

「失礼ですが。お兄様はどのようなお仕事をされているのですか」

 隣で人の好い親方がハラハラと落ち着きをなくしていた。母親が値踏みをするようにして、黒いスーツ姿の耀平をじろじろと眺めている。

「観光の仕事をしております会社員です」

 勝ち誇った笑みを母親が見せた。思った通りの反応で、もう相手にしたくもないと耀平は素性は言わないでおこうと決めた。

「困りますの。こちらではきちんとしたお家柄のお嬢様をいただこうと思っていますので」

「そうでございましょう。妹には二度と会わないよう、私からもきつく言っておきましょう。それでよろしいですか」

「きっとですよ。お兄様」

 そっちの息子が諦めていないのが気になるが。もうこの胸くそ悪い親と別れられるなら、見下げられたままでもいい。どうせもう二度と会わない人間。ムキになるエネルギーも使いたくない。これで終われると思った矢先、耀平の目の前に『念書』という紙が差し出されていた。

「では。こちらにサインをお願いいたします」

 弁護士事務所と弁護士の名刺も差し出された。

「もちろん。妹様ご本人のサインでお願いいたします。こちらに郵送してくださいませ」

 若い男と女がちょっと付き合って駄目になっただけの話。なのに、花南が悪者だという印を押そうとしている。

 しかもこれにサインをしたら、花南が会いたくなくても、男が会いに来てしまったら『会った』ということにされてしまう。その時に花南に与えられる罰、花南にだけ安易に罰が下るようにしようとしている。むしろ、そうなってほしいという母親の策略か。

 耀平の怒りに火がついた。

「お断りいたします。なにか不都合があれば、こちらにご連絡くださいませ」

 ついに耀平は、自分の名刺を差し出した。

 父親が手に取り、母親が眺めた。『代表取締役副社長』という肩書きに気がついたのか、両親が驚いた顔を見せた。

「ホテルの経営を……」

 ずっと黙っていた父親が、仕事人の顔で耀平に尋ねた。

 そして母親はまだ耀平を睨んでいた。

「まあ、聞いたことがないホテルですわね」

 そうでございましょう。ここは北海道、瀬戸内日本海に来ることもそれほどないでしょうから……と言い返したいが、耀平は頑として口を閉ざす。言えば、嫌な言葉が返ってくるだけ。こういう人間は言わせるだけ言わせて、相手にしないに限る。

 だが負けず嫌いの母親の言い様に堪りかねたのか、隣にいる親方が擁護に乗り出した。

「お祖父さんの代から受け継がれているリゾートホテルです。他にも、料亭旅館に、瀬戸内海の結婚式場など。手広く経営されているんですよ。お兄さんはそちらの三代目、山陰の資産家です」

 ようやっとあちらの両親が絶句した。

「いえ、私は花南の姉の夫で、婿養子であるだけです。ですが妻が早くに亡くなりましたので、いまの跡取り娘は妹の花南になります」

 そして耀平は慇懃無礼な念書を、そっと突き返した。

「それを思って、妹も断ったのでしょう。どうみても、結婚できる相手ではないでしょう」

「はあ? うちの息子の方が下だとおっしゃるのですか」

 やれやれ。お母様の本性が出たなと、かえって耀平はにやりと笑ってしまう。

「そんなことを私は言っておりませんよ。そちらは大事な跡継ぎのご長男、こちらも直系の跡取り娘なので、結婚するとなると両家の条件が一致しないと言っているのです」

 耀平の隣にいる親方と、目の前にいる親父さんが『く……』と笑いを堪えたのがわかってしまう。

 そして母親の顔が真っ赤になった。

「そちら様も、二度と、こちらには関わらないでいただきたい。ご子息にもようく言い聞かせてください。若い男女が一時を同じにしただけのこと。このように騒がずとも、良き思い出でよろしいのではないですか」

 もうレストラン経営の夫妻はなにもいわなくなった。

「そちらもしつこく妹に結婚を迫ったり、つきまといが続くようなら、こちらからも法的措置を取らせて頂きます。山口から弁護士を送りますので、ご承知くださいませ」

 弁護士と弁護士をぶつけあって、そうすれば、どちらが勝つのか。どんな不利が生まれるのか。自分たちが力無き娘にやろうとした力業に返り討ちにあい、今度は母親が青ざめている。

「ただ今夜、最後に一度だけ。彼と妹にケジメをつけさせてください。それが終わりましたら、妹と彼を二度と会わせません」

 最後に耀平に答えてくれたのは、おろおろとしていた父親。

「承知いたしました。息子がご迷惑をおかけしました。息子は真面目にやってきたので、おそらく女性と付き合うのが初めてだったと思います。初めての女性が妹さんで、とても素敵な思いをしたのでしょう。妹さんは、恋や結婚よりも、職人としての目標がある女性。息子の生き方には合わない女性だと言い聞かせます。ほんとうに失礼なことをいたしました。妻と息子の不始末、そして至らない父親であった私のこともお許しください」

 なんだ、親父さんは至極まともじゃないか。もうちょっとしっかりして欲しい……と、思いながらも。でもこの言いだしたら聞きわけなさそうなお母さんを好きにさせて、最後はお父さんが尻ぬぐいをしてなんとかやってきたのだろうな――と思わせる光景だった。

「いえ、こちらこそ。未熟なばかりの妹がご迷惑をおかけしました。まだ後先の判断も出来ぬ子供だとお許しください」

 このお父さん社長のおかげで、耀平の腹も納まった。

 はあ、なんなんだこれは……。心の中で、耀平はがっくり項垂れていた。

 だから。こういう隙を突かれる女になるのは、やめて欲しい――。義妹には隙がありすぎる。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 花南にも、男の両親が耀平に会いに来たことを伝えておく。

 彼女も驚き、そして事が大きくなってしまったことで気に病んでいる。

 相手の子息は二十七歳。いい大人なのに、まだ駆け出しの若い年下の女をこんなに困らせて……。

 だが耀平の中で、父親の言葉が強く残って繰り返されている。息子は真面目にやってきたので、花南が初めての女だったという話。本当かどうかは、息子本人に聞かないとわからないが、きっとそうだったのだと納得した。

 だから、たった二ヶ月で花南に夢中になって、花南しか見えなくなったのだろう。女性経験が浅く、また、男慣れをしている花南の女の匂いが逆に『毒』になったのだと思った。

 あの青年が、そうして花南の肌に夢中になって貪った日々がある。短くても、とても濃厚だったのだろう。また、彼の家柄になびかなかったのも、彼には良かったのかもしれない。質素でも家柄に左右されない花南が、ありのままの彼を受け入れたのなら、家に縛られている自分を受け入れてくれると感じさせたのかもしれない。

 それでも。耀平の中に嫌なものが渦巻く。


「来ないね」


 最後の話し合いをしようと、花南が久しぶりに青年に連絡をした。その待ち合わせ場所のカフェで待っている。

 花南を窓際の席にひとりで待たせ、同席をすると言っても、耀平は二人きりにさせるため、離れた席に座っている。

 でも。結局……。青年は約束の時間が過ぎても現れない。あんなに会いたい、話したい、俺と結婚して欲しいと思っていただろうに。

 親から聞いたのだろう。花南の素性を。敵わない女だったと思って、ようやっと諦めがついたのだろうか。つまり、彼も花南を見下していたのだ。頼りがいある俺が、家に力のある俺が、幸せにしてやるんだ――と。花南の実家の方が大きいものを持っていると知って、そんな敵わない庇護がある女に気遣いながらの夫にはなりたくないと思ったのだろう。あの尻敷かれている親父さんを見て育てば、そうかもなと、少し笑えた。

 四時間待って、青年はついに花南に会いにはこなかった。

 安心したが、耀平の中では最低の烙印を押していた。夢中になった女、結婚して欲しいと一ヶ月もつきまとった女。花南が山陰の資産家の娘だと知って、恐れを抱いた途端に、会えなくなる男だったのかと、また怒りが湧いた。

 そんな男に身体を明け渡していた妹の、不甲斐なさにも腹が立つ。

 四時間も待てば、花南もひとりを持て余して、いつのまにか耀平がいた席に来ている。そうして向き合っているけれど、じっと無言でいる義兄を見て、花南は気後れした顔で話しかけてこない。

 もう夜が更けてきた。耀平は読んでいた経済雑誌をテーブルに放った。

「帰るか。もう会いに来ないだろう」

「……怒ってるよね。お兄さん」

 不機嫌さが妹には露骨に伝わっているのは、耀平もわかっている。

「ああ、怒っている。向こうがしつこく会いに来ていたのに、最後の約束を破るとはなんだ」

「彼じゃなくて、わたしのこと」

 誤魔化しても無駄だった。それなら……。

「うん。カナちゃんのことも怒っている。すぐに男に気を許すのはやめて欲しい。今回だけではないだろう。その気もないのに、気を許したのは……」

 それまで実家でも、適当な男と寝ただろう事も暗に含めて釘を刺す。

「はい……。ごめんなさい……。でも彼は優しかったし、最初は大人だったから……」

 その義妹が、小さく呟いた。『お兄さんみたいだったから』と。

 あんな男と俺を一緒にするなと言いたかった。でもそれが耀平兄さんみたいだったから、と言ったわけでなく、ただ年上の男がお兄さんみたいだったからとも取れる。

「花南の本当の兄貴は、俺だけだ。他のお兄さんは、お兄さんに見えて男だ。気をつけるように。わかったな」

「はい、耀平兄さん」

 だいぶ懲りたようなので、耀平も口うるさい兄貴にはなりたくなくて、もうそれでお終いにした。


 


 帰りは小樽運河をふたりで散歩しながら帰る。

 夜明かりの中、静かな運河に浮かび上がる岸辺の煉瓦倉庫。夜になっても運河沿いを歩く観光客が多く、ガラス店が並ぶ通りはいつまでも賑わっている。

 その間、特にふたりは言葉を交わさなかった。静かにただふたりで並んで歩く。

 元々、花南も耀平もそうお喋りではない。話したい時に話せて、その間も苦に思うこともない気易さがあった。

 もうすぐ小樽駅近くにあるホテル。そこで坂の上に住まう花南と別れようとした。

「明日、小樽の他の工房を見て、札幌に移動する」

「そうなんだ。……ごめんね、わたしのことでゆっくりできなかったね」

「いいや。来て良かった。カナちゃんが一人でなんとかやってやろうという気概も見られたし。でも、まだうまくいかないことがあって当然だ。だから、そんなにひとりで頑張らないでほしい」

 うん、わかった――と、花南が頷く。

 そんな花南に耀平は、預金通帳とカードを差し出す。

「カナちゃんが嫌がるのは承知で持ってきた。半年に一度、帰省する時に必要な金額だけ振り込む。だから、年に二回、小樽運河の閑散期には帰っておいで」

「でも……」

「自力で働き始めて、まだ一年。一人前にもなっていないのに、意地を張るな」

 無理矢理、握らせた。

「お守りだ、いいな」

 ようやっと花南が頷いて受け取ってくれる。しかも、きちんとお辞儀をしてくれた。

「有り難う。耀平兄さん……」

 顔を上げた花南が涙を少しだけ浮かべている。でも、笑ってくれる。

「なんか。お姉さんがいるみたい」

「そりゃな。俺は美月の分も兄貴をしようと思っているからな」

「うん。本当のお兄さんだったね。助かりました」

「俺のこと、家族だと言ってくれただろう。だから……、航にも会いに来てくれ。俺も、今度は航を連れてくる」

「ほんとう? 楽しみにしているね」

 煉瓦の倉庫が並ぶ運河を、ふたりで静かに歩き出す。

 花南とはそこで別れた。あっさりとした別れだった。

 でも、静かな坂の街へと帰っていく花南の後ろ姿を、耀平はいつまでも見送っていた。

 会えて良かったのか、悪かったのか。随分と心をかき乱されている。

 あの妹はこれらもガラス職人を目指していくだろう。でも、その間に男も寄ってくるだろう。その時、次に花南はどうするのだろう。どんな男が花南へと手を伸ばして捕まえようとするのだろう。

 花南の匂いが残っていた。山口に帰っても耀平の側にずっと漂っていた。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 それから花南はストイックな職人として過ごすようになり、めきめき上達しているとの報告を親方が届けてくれる。

 妹が創作した作品も画像にてメールで届けてくれるようになった。

 送られてる度に、耀平も感じていた。妹の作品には、いつもなにか密かなテーマが置かれている気がする。とても深い意味を秘めて、その素がわからずとも、誰もがそれを感じずにはいられない万人の感情に触れるような惹かれるものがあった。

 だから決意を固めていた。彼女を俺が一人前のガラス職人にする。俺が擁護する。パトロンになる。

 そして。彼女が帰省してくるたびに、息子と過ごす気易さに穏やかさ――。家族三人と錯覚するような、密かでささやかで、一瞬だけの安らぎ。それが欲しい。彼女が帰ってきた時ではなくて、すぐそばに欲しい。


 決めた。俺は、花南をそばに暮らす。


 花南を俺のものにする。もう誰かに触られていると案じるのはごめんだ。

 花南を囲って、俺のものにする。どんなに強引でもいい。花南が泣いてもいい。

 気難しい花南など、正攻法で責めても時間がかかるだけ。時間などない。待てない。いますぐ、俺と航のそばに連れ戻す。

 花南が小樽へと修行に出て、二年。耀平は既に動き始めていた。

 ガラス工房の会社を起こす準備を進めていた。山口の市内でちょうど良い物件がないか探す日々。

 見つけた家には、花南専用の小さな工場をつける。そこで、花南に創作をさせる。きっと、いいものを造り出すに違いない。

 今度は、俺が義妹をガラス職人に仕上げる。


 それと同時に。耀平は手元にある『秘密の封書』を前に項垂れる。

 以前から気になっていたこと、なかなか決意できないことがあったのだが。ついに調べた。

 花南と暮らす前に、はっきりさせておこうと――。


 杞憂であって欲しいと願っていた。だが、妻とあれだけの決別をしただけあった。

 ――『航は、俺と血が繋がっていない。他の男の子供だった』。DNA鑑定の結果だった。

 その真実を前に、耀平は『倉重』から自分だけこぼれ落ちていくようなやるせなさを噛みしめていた。


 いまなら、これを義父に突き出せば、倉重と縁を切れる。

 なにもかも忘れて、元の『宮本耀平』に戻ればいい。実家は仙崎、かまぼこの事業を引き継いだ長男兄貴の手伝いをすればいい。

 ……航は、引き取れないだろうが。俺が育てて、後に倉重の男にすればいい。まったく違う世界で出会った女性と生きていければいい。いまなら、間に合う。

 花南だって。ただの『欲しい義妹』で終われる。


 しかし。耀平の気持ちは悩む間もなく『否』を出していた。

 なによりも、どんなことよりも。いまさら、航と他人になるだなんて考えられない。自分だけ新しく生きるだなんてできない。

 航はここで育てる。妻が死んでからやっと得た平穏には、花南がいた。

 航もだ。花南に会うたびに喜んで、別れるたびに泣く。

 小樽に一度だけ連れていった。初めての北国を叔母と楽しんだ後の別れ。帰りの飛行機で航はずっと泣いていた。

 『父さん、カナちゃんを連れて帰ってきて』。いつまでも泣く息子を何度『父さんがいる』と抱きしめて、慰めたか。

 航は花南を慕っている。航の為だけじゃない。俺が、もう一度、花南と息子と暮らしたい。

 この家に、他の血は入れない。決して……。航のものだ。


 


親方。倉重でガラス工房を立ち上げることになりました。花南をそこで活動させようと思います。

一年後、引き取りに行きます。花南にはまだ伏せておいてください。

それまでに、製品の技巧を叩き込んでやってください。

 


 最初は渋っていた親方を、なんとか説得することができた。


 


 △△年 小樽――。


 雪が降る小樽にいた。

 黒いコートに小雪がまとう。凍てつく空気が、さらに耀平の決意の矛先を鋭く研ぐ。

 妻に裏切られ、妻と決裂し、彼女は死んでしまった。遺された息子の父親が誰か判らず、自分の血の繋がった子供ではなかったことが、愛おしいから余計に口惜しい。

 ささくれた気持ちを蓄えすぎて、少しばかり痩せてしまった。痩けた顔のイメージを変えるため、髭を残すスタイルに変えた。

 きっと義妹は、こんな様変わりをした義兄を見て驚くだろう。

 真っ白な街の片隅にあるガラス工房で、久しぶりに花南に会う。

「帰るぞ、カナ。山口でガラスを造るんだ」

 驚きで言葉も出ない花南を目の前に、耀平は彼女を威圧するように見下ろしその手を掴んだ。

 親方には、かなりの協力をしてもらった。

 気難しい義妹が、義兄の魂胆を知って、また遠くに逃げないよう。義兄の勝手な企て。

「帰ってこい。ガラス工房を開く。倉重家の新しい事業だから、娘のおまえが貢献するんだ」

 花南は嫌がった。思った通りだった。何故、実家を拒む。それを知りたい。そこになにかあるような気がする。

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