揺り動かされる感情

 それから三ヶ月後、季節は三月を迎えた。三月は出会いと別れの季節。桜前線が北上する中、人々はあるいは新しい出会いに想いを馳せ、あるいは別れを惜しんで切なくなる。学生なら卒業して新しい未来へ旅立っていく。

 千恵の高校でも例年通り卒業式を迎えた。卒業する生徒たちはそれぞれの未来へ歩み出す。

 しかし、全員に明るい未来が待ち受けているとは限らない。今後はニートになって先の見えない生活を送る人やワーキングプアになって貧困にあえぐ人もいるのだろう。そのため中にはまだ卒業したくない人もいるはずだ。

 高校ならほぼ全員がスムーズに卒業するが、大学では故意に留年したり大学院に進学したりしてモラトリアムを引き延ばそうとする若者も多い。そんな人にとって卒業は人生の新しいステージに進出することではなく、それまでの惰眠を貪っていただけの日々が断罪される最後の審判だろう。それでも送り出す方は明るい未来が待ち受けていることを祈るしかない。

 この季節には桜の花が咲く。桜の花はやがて散るが、地球が太陽の周りを公転して同じ所に帰って来ると、もう一度同じ花を咲かせる。何かを象徴するように同じことを繰り返すのだ。そう、同じことを……。


 そんな季節を迎えたある日、早見夫妻と直紀は空港で沙樹の旅立ちを見送っていた。直紀は進学の準備で忙しいかもしれないが、素敵な別れをしたいからと沙樹が頼んで来てもらったのだ。往来する人並みに紛れると旅立ちの気運も高まってきた。

 フライトまで時間があったので、空港の構内の喫茶店で時間をつぶしていた。

「あ~、明日の今頃はウィーンか。なんだか名残惜しくなってきたな~」

 沙樹は陽気な態度で旅立ちを楽しんでいる様子だった。

「故郷を離れて寂しいという気持ちはないの?」

 直紀があまり疑問がこもっていないような質問をした。

「そう思わないでもないけど、楽しみの方が大きいわ」

「そうか。夢があっていいね。僕は平凡な大学に通うだけだしね」

「日本の大学の授業はつまらないらしいけど、君もがんばってね」

 そんな会話を交わして和んでいるとフライトの時間が迫って来た。喫茶店を出て改札口の前まで来ると沙樹は一同の方を向いた。

「お母さんは反対していたみたいだけど、認めてくれてありがとう。世の中、進路をめぐって両親ともめる人も多いけど、快く送り出してもらってうれしいわ」

「くじけそうになったら、いつでも帰って来ていいのよ」

「多分くじけないわ。だって自分で決めたことなんだからね」

 涙目になりながらそう言った千恵に沙樹は明るく答えた。

「日本に帰って来るときはプロになっているかもね。一回り成長した私に期待してね。それと……、君もそれに釣り合う人になるのよ」

「ああ、約束するよ」

 沙樹が諭すように言い渡すと直紀も控えめに答えた。

「じゃあ、ここでお別れね。次に会う時までさよなら」

 そう言って沙樹は両親と直紀に背を向けて歩き出した。

 その時、千恵は涙が頬を伝うのを感じた。それを沙樹には見られたくないと思い、止めようとしたが、涙はさらにあふれてきた。しかし、沙樹は一度も振り返らずに歩んで行った。そう、一度も振り返らずに……。

 そんな沙樹の後ろ姿を見ながら千恵の心の中には言葉にならない感情があふれ出した。隆、綾、沙樹……。目の前を通り過ぎていく人物が語ったのは何だったのだろう。

 それは千恵の心に波紋を浮かべた。待ち受ける運命に翻弄された季節は過ぎ去り、湖の水面のように穏やかになったはずの心。それは揺り動かされ、さざ波を立てた。

 そして、それは思春期に封じ込めていた感情を呼び起こした。もう過去のものになったはずのあの想い。それがなぜ再びわき起こって来るのだろう。

 現代の日本では平均寿命は八十歳を超えるが、それが半分も終わらないうちに学歴と職業が決まり、その多くは結婚までして一通りの通過儀礼を迎える。それを終えて激動の青春が過ぎ去ると、人生は一段落してその人の人生が形作られる。

 それでも過去に封じ込めた心は一つの最終的な形に帰着せず、新しい何かを感じて動き続ける。言わば娘の思春期に共鳴する二度目の思春期を迎えたのだ。それを何と名付ければいいのだろうか。

 それでも今はせめて沙樹に幸せな結末が待っていることを祈るしかなかった。

 千恵は飛び立った飛行機が消え去る地平線の彼方をいつまでも見つめていた。

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女の思秋期 岡部麒仙 @Kisen

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