未来の行く末

 それから季節は過ぎて十二月になった。この月は別名を師走と言って教師が走るほど忙しいはずだが、生徒たちの方にはそんな気配はない。ある日のホームルームで千恵は生徒たちの前でこう宣言した。

「皆もそろそろ受験生の仲間入りなんだから、どうせどこかの大学に推薦入学できるなんて思わずに少しは勉強するようにね」

 そう言えば、ことあるごとにそんなことを言っているような気がする。教師とはそんなものなのかもしれないが、同じことを何度言われても勉強へのモチベーションが上がらない生徒たちにも原因はあるのだろう。

 近頃は私立大学に安易に推薦入学できるようになっており、そのため帰宅すると全く勉強しない生徒が増えている。それが巷で噂の学力低下の原因になっているのだろう。

 千恵の家庭では受験生を抱えているが、もうすぐ本番を迎える焦燥感はなぜか生じていない。沙樹はセンター試験も受けないし、中堅私大を三校受けていずれかに入学するつもりだという。今の時代、高望みしなければ、そこそこの大学に入れるのだから、勉強に燃えないのもやむをえないのだろう。

 考えてみれば、受験生という言葉はほとんどの外国語には訳せないだろうし、そんな概念がある方が特殊なのかもしれない。

 では、一流大学を目指して勉強に励めば幸せになれるのだろうか。『ドラゴン桜』という漫画では、荒廃した学校を立て直すために招聘された指導者が東大への合格をあおり立てるが、少なくとも千恵の場合は隆との恋を犠牲にする結果に終わった。

 それでも大人は若者を勉強に駆り立てる。安達のようにミュージシャンになりたいと言うと両親が引き止めるのに、東大に行きたいと言い出すと喜んで応援するのはなぜだろう。この社会は学校的な価値観が隅々まで浸透しているのだろうか。

 いずれにしても生徒たちを一流大学への合格に鼓舞するのは煩悩をあおり立てることに等しい。千恵は自分が罪深いことをしているような気がしてきた。


 そんなことを思いながら帰宅すると、リビングに沙樹ともう一人見覚えのある人物がいた。沙樹が通っているピアノ教室の教師、須藤和代だった。

「お待ちしていましたよ」

 須藤は柔らかい口調で言った。

「電話でお伝えしてもよかったんですが、重大なことですから是非直にお会いして伝えようと思いました」

「そうですか……」

 わざわざ家に来るなんてどうしたんだろうと朗報が迷い込んだ予感がして、にわかに興味を持った。

「実は沙樹さんにウィーンの音楽大学に留学してもらうのはどうかと思いましたの」

「えっ……」

 突然のことに千恵は絶句した。まさに青天の霹靂だ。

「ピアノは趣味の延長として習わせているんです。そこまでする必要はないのでは……」

「とんでもございません。こんなに才能があるのに眠らせておくなんてもったいないですよ」

 沙樹の腕はそんなレベルに達していたのかと驚いたが、うれしいというよりも当惑したような感情に支配された。

「でも、一人で外国で暮らすなんて不安です」

「大丈夫ですよ。ウィーンに住んでいる私の知人に世話をさせますし、既に留学した日本人も何人もいますからね」

 須藤は太鼓判を捺した。

「留学の準備は私の方で進めます。お母さんは才能が開花するかだけを心配してください。それでは今日はここらへんで失礼します。今後のことはご両親も交えてゆっくり話し合ってみてください」

 そう言って須藤はソファーから立ち上がった。

「先生。今日はわざわざお越しくださって本当にありがとうございました」

 ぺこぺことお辞儀をしながら見送る沙樹を千恵は呆然と見ていた。

 須藤が帰ると沙樹は振り向いてこう言った。

「そういうことになったの。まるでシンデレラになったみたいね」

 沙樹は微熱にうかされたようだった。

 その直後、様々な雑念が脳裏を逡巡した。まさかそんな事態になるなんて想像もしなかったのだ。沙樹を一人で外国に行かせて大丈夫だろうか。それにウィーンに留学したら必ずプロのピアニストになれるのだろうか。それに沙樹は今の生活に別れを告げるのだろうか。

 それから、いつも通り三人で食卓を囲んだ。

「それにしても棚からぼた餅が降ってきたみたいだな」

「長いことピアノをやってきてよかったわ。好きなことをやっていれば道は開けるものね」

 俊夫と沙樹は嬉々として会話を弾ませていたが、千恵は終始無言だった。食べ終わると沙樹に尋ねた。

「それで沙樹はどうしたいの?」

「まさかこんなことになるなんてね。人生って何が起きるかわからないものね」

 沙樹は訪れた転機を冷静に受け止めているようだった。

「私は留学に興味があるな。このまま普通の大学に行って就職するなんて平凡な人生はつまらないしね」

「こないだまで普通の大学に行くって言っていたじゃない」

「以前はそのつもりだったけど、こんなチャンスが降って来たなら話は別よ。子供の頃は誰でも一度は歌手やスポーツ選手になりたいなんて思ったことがあるだろうけど、社会の仕組みがわかってくると、そんな夢は捨ててしまうの。でも、今の私にはそれが目の前で実現しようとしているんだからね。チャンスをつかみ取るのは今よ」

「でも、留学したからと言って必ずプロになれるわけじゃないのよ」

「そうだけど、少しでも可能性があるなら、それに賭けてみたいの。待っているだけじゃ何も始まらないわ。人生は運命を切り開く賭けの連続よ」

 そう言い放った沙樹に千恵は微かな苛立ちを覚えた。

「私はあなたのためなら何でも与えてきたわ。手を伸ばせばつかみ取れる幸せを捨ててまで留学してしまうつもりなの?」

「捨てるだなんて。将来に向けて新しい進路に進むだけじゃないの」

「沙樹、考え直しなさい」

「どうしたんだ? 落ち着けよ」

 激昂して声を荒げた千恵を俊夫がなだめた。それっきり千恵も口をつぐんだ。どうやら千恵は反意を示したようだったが、なぜだろうか。誰もわからず、リビングは何かが膠着したような気まずい雰囲気に満たされ、三人とも無言になった。


 その夜、千恵は寝る前に久しぶりに晩酌をしていた。普段は家でも外でも一人では飲まないのだが、この日だけは言葉にならない感情を紛らわせたかったのだ。かなり飲める方だが、この夜だけは酒が心の奥にまで染み込んだような気がした。

 すると、もう寝たと思っていた俊夫がダイニングに現れた。

「お前が晩酌なんて珍しいな」

「飲まないと落ち着かない時もあるのよ」

「沙樹のことか?」

 千恵はこくりと肯いた。

「少し前まで目標がなかった沙樹が一介の野心家になってくれてよかったな」

「野心家になったら何かいいことがあるの?」

「そうなったら今の自分が変わるんだ。いいことじゃないか」

「今の時代、家庭にテレビやパソコンも普及してスイッチを押すだけで魅力的な映像が洪水のように流れ込んで来るし、街中にはいろんな趣味や娯楽にあふれて大学教育もすっかり大衆化したわ。それに百年前だったら一流の政治家や学者にとってさえ一生の夢だったヨーロッパ旅行にも簡単に行けてしまう。この上、何が不満なのかしらね」

「今時、海外留学なんて珍しいことじゃないんだ。せっかく沙樹が新しい進路に進もうとしているんだから、応援してやればいいじゃないか」

「でも、それで楽ができるわけじゃないのよ。だったら今の平穏な生活に留まった方が本人のためになるような気がするのよ」

「しかし、いずれはどんな状態も終わるだろう。だったら新しいことに挑戦しなければならないんだよ」

 そう言ったきり二人はしばらく沈黙した。時計の秒針を刻む音が静寂にこだましたが、千恵の方から静寂を破った。

「高校の教師をしていると思うんだけど、高校は前途有望な若者を学校に閉じ込めて三年かけてすっかり使いものにならなくしたところで社会に放り出しているような気がするのよ。それに近頃は安易に大学院に進学してモラトリアムを引き延ばそうとする若者が増えているけど、本音はまだ学生でいたいだけなんだろうけどね。だったら一生、学生のままでいられたらいいのにね」

「仮にそうできたとしても、本人のためには社会に送り出してやればいいんじゃないか。この世は諸行無常と言うじゃないか。いつまでも同じことは続かないんだ。だったら自分とそれを取り巻くものが変わり続けていくことに幸せを求めればいいんじゃないか」

「そうね……」

 そう答えたが、そこに肯定の意味はこもっていないようだった。

「それでも沙樹には今の生活が延長した人生を歩んで欲しいと思うの。それにね……」

「何だ?」

「いえ、何でもないの。お休みなさい」

 そう言ってそそくさと寝室に引き上げていった。それから眠ろうとしたが、目を閉じると言葉にならない感情がわき起こり、胸中を満たした。それは何なのだろうか。それが一つの形になる前に眠りに落ちた。


 それから数日後、千恵はある喫茶店で待ち合わせをしていた。誰かと待ち合わせをするなんていつ以来だろう。これから目当ての相手と話すことに何かの決意のようなものを秘めていた。

 やがて待ち人が現れ、千恵に声をかけた。

「お待たせしました」

 それは直紀だった。

「お母さんが二人だけで会いたいなんて珍しいですね」

「今日は君と話したいことがあってね」

 そう言って千恵は一口コーヒーをすすった。

「何ですか?」

「留学のこと、沙樹から聞いたの?」

「はい、すごいですね。ウィーンに留学なんて」

「私はこう思うんだけど……、留学なんてしなくても今のままで十分幸せでいられると思うの。人生の新しいステージに進むと言えば聞こえはいいけど、それまでのステージで作り上げてきた幸せを失うことになるのよ。だから私はこの一件を手放しで賛成できないの。君はどう思う?」

「僕は沙樹の前には明るい未来が開けているような気がします」

「じゃあ君はそれを受け入れられるの?」

 千恵がそう言うと直紀は無言になり、三十秒ほど沈黙が流れた。

「僕なりに考えたんですけど……」

 沈黙を破るその言葉は千恵の耳には一つの物語を導く序奏のように聞こえた。

「いつも同じ所にいたら、これまでと違う存在にはなれません。それよりは僕も沙樹も新しい自分の在り方を探した方がいいと思います」

「でも、留学したら君とは別れることになるかもしれないのよ」

「それでも沙樹の将来を犠牲にしてまで引き止める権利は僕にはないと思います。沙樹には自分の人生を自分の意志で決めて欲しいんです。これが僕の率直な気持ちです」

「そう……」

 ドライな回答に千恵はどこか不可解な感情を抱きながらも、取りあえず納得をした。

「僕たちの今後のことは沙樹と話し合ってみます。それでいいですか?」

 それを最後に二人の面会は終わり、喫茶店の外に出た。

 帰途に着く間、様々な想いが交錯した。今の生活から離れようとしている沙樹の心を唯一つなぎ止める可能性があった直紀でさえ、冷めた気持ちを述べた。それにしても恋人との別れを前にして直紀はなぜ悲しい素振りを見せないのだろう。

 それは同時に過去の自分の感情を呼び起こした。あの時は千恵も隆と別れる決意をした。今の沙樹も同じ選択肢をたどろうとしている。それは本人にとって幸せと言えるのだろうか。言葉にならない想いがしばらく脳裏を逡巡した。


 その日の夜、千恵は翌日の授業の準備も終えたので、もう寝ることにした。電気を消してベッドに横たわると、時計の秒針が静寂の中でカチカチと時間を刻む音が聞こえた。いつもそうなのだろうけど、その夜だけはなぜか狂おしく静寂にこだました。そして、今日のことを思い出すと心の中で何かがざわめいて眠れそうになかった。

 するとドア越しに沙樹の声がした。

「まだ起きてる?」

「起きてるわよ」

 応答すると沙樹が部屋に入って来た。何かに疑いを持っているような顔付きをしていた。

「さっき直紀から電話があったんだけど、今日二人だけで会ったんだってね」

「たまには直紀君と話したいこともあるのよ」

「私には話せないことなの?」

「あなただって親には話せないことはあるでしょ」

「そうだけど、スパイ活動みたいなことは気に入らないな。お母さんも高校の先生なら学園ドラマの教師みたいに体当たりでぶつかってきたら?」

 沙樹はストレートに自分の感情をぶつけてきた。それに対して千恵は会話の流れをそらした。

「あなたは人生は自分だけのものだと思っているの?」

「え……。どういうこと?」

「臓器移植法が国会で可決された時、脳死は人の死なのかが盛んに議論されたけど、ある識者がこんなことを言ったの。死とは単に脳の働きや心臓の鼓動が停止して生理的な機能が失われることじゃない。人生の終わりとともにその人にまつわる記憶が愛する人の心に静かに染み込んでいくことだってね。だから死は本人だけのものじゃない。それ以外にも自分の命なんだから安楽死を認めるべきだとか、自分の体なんだから売春は自由だとか言う人もいるけど、私は死以外のことも本人だけのものじゃないと思うわ。生きるってことは大切な人と分かち合うものよ」

「でも、自分の進路なんだから最後は自分の意志で決めるものでしょ」

「自分の人生に関わることだったら自分だけに決める権利があるの?」

 鋭い問いを投げかけた千恵に沙樹は言い返した。

「お母さんは留学に反対しているみたいね」

「反対しているわけじゃないけど、今にあなたが後悔するように思えるのよ」

「どうして?」

「日本で今まで通りに暮らしてもそれなりに幸せはつかめるわ。例えば直紀君とも円満な関係を築いているでしょ。それも捨てるつもりなの?」

「捨てるわけじゃないけど、お互いの人生を尊重しなければならない時もあるのよ」

「あなたは本当に直紀君のことを尊重しているのかしら。残される方の気持ちは考えないの?」

「でも、私の夢のためなんだから……」

 沙樹はそう言いかけると何かに気付いたようだった。

「そうか。お母さんはそんなことを気にしていたのね。じゃあ、こうしようか。近いうちに直紀と二人で私たちの結論を報告するわ。それでいいかしら」

 そう言うと沙樹は自分の部屋に引き上げていった。


 それから翌週の日曜日。この日は沙樹と直紀が二人の出した答えを千恵と俊夫に報告する日だ。沙樹が数日前から予定を空けておいてねと言ったから朝から外出しなかった。

 その日の朝から千恵と沙樹はほとんど話さなかった。定刻の午後二時が近づくと、一同はリビングのソファーに座ってその時を待っていた。

 沙樹は達観したような表情をしている。そんな沙樹に千恵は母親として、それ以前に一人の女として何を伝えればいいのだろうか。

 直紀が来るのを待つ間、千恵の中では漠然とした不安のようなものが渦巻いていた。そんな中、インターホンが鳴らされるとドキッとして、それが弾けて消えたような気がした。

「お邪魔します」

 沙樹が出迎えると、うやうやしく頭を下げて直紀がリビングに入って来た。千恵は普段、使わない高級なカップに紅茶を入れて一同に出した。

「今日はこんな席を設けてくれてありがとう。この際だから誰にも遺恨が残らないようにしようね」

 沙樹が宣誓した。そして、沙樹のコメントからこの会見が始まった。

「あれから考えたんだけど、やっぱりこのオファーを受けようと思うの。明るい未来が開けているんだからね」

「でも、順風満帆の人生が待っているとは限らないのよ」

 千恵は沙樹の言葉を遮るように言った。

「それでも可能性があるなら賭けてみたいの。現在と未来の間は見えない扉で閉ざされているから先が見えないのよ。人生はその扉を開くこと。いいことばかりじゃないけど、次のステップに進むのよ」

 沙樹は自信ありげに語った。

「このまま日本で暮らしても、それなりの幸せをつかめるのよ。それじゃ不満なの?」

「このまま日本に残っても、普通に大学に行って普通に就職するなんて平凡な人生はつまらないしね。それよりは特別な職業に挑戦してみたいの」

「直紀君とも別れるつもりなのね」

 三十秒ほど沈黙が流れたが、沙樹がその均衡を破った。

「そのことなんだけど……、他人に合わせて自分の将来を決めるなんてつまらないよ。それよりも私は自分の可能性を広げたいな。音楽のグループが解散する時って音楽性の違いとかメンバー間の確執なんてこともあるけど、それぞれやりたいことが変わってきて円満に解散することもあるでしょ。今の私もそんな気持ちよ」

「そんな……。直紀君はそれでいいの?」

 千恵は直紀にコメントを求めた。

「僕も沙樹には夢に向かって歩んで欲しいと思います。僕と一緒にいるために夢を捨てるなんてことはして欲しくありません。それよりは自分らしく生き抜いて一回り成長して僕が誇りに思える人になって欲しいんです」

「留学しなくてもあなたたちは今のままで十分幸せなんじゃないの? 今の幸せを手放してもいいの?」

 千恵のその言葉でその場の雰囲気が変わったようだったが、直紀は冷静に理知に富んだことを言った。

「そのことなんですけど……、もし人生が永遠にあったら誰も今を大切にしないと思います。漫画などに出て来る妖精や悪魔は人間よりはるかに長寿ですが、だからと言って人間の人生で得られるものが貧しいわけではありません。長さが違っても生命の密度は同じなんです。出会いの数だけ別れはあるけど、いつか終わるからこそ輝けるんです」

 二人そろって冷めた見解を述べた二人に千恵は当惑するしかなかった。そんな千恵に沙樹は続けた。

「以前から思っていたんだけど、恋愛っていつまでも変わらないことが幸せなのか、二人が変わって成長していくことが幸せなのか、どっちだと思う? 私は後者の方だと思うの。今の生活に留まっていたい気持ちもあるけど、これから訪れる幸せに背を向けたくはないの」

 それを聞いて千恵は自分の中に残っていた気持ちを言葉にできず、黙るしかなかった。そんな千恵に沙樹はこう付け加えた。

「仏教には諸行無常っていう教えがあるでしょ。だから人生ははかないなんて捉えられることが多いけど、私はそうじゃないと思うわ。どんな未来が待っているのか、次は何が起きるのかわからないから人生はおもしろいのよ。だから私も諸行無常の摂理に自分の人生を委ねたいの」

「今一つわからないわね。あなたたちはこれまで二人で理想的な形で幸せを紡いできたのよ。未来に必ずしも幸せが待っているとは限らないのに平然と今の幸せを捨てられるの?」

 千恵の中で荒ぶる感情を抑えていた何かが一線を越え、激情が表面に表れたようだった。それに直紀はこう答えた。

「僕も同感です。僕たちの関係は終わるのではありません。一度はそれぞれの道を歩みますが、僕たちの前には未来が開けているんです。沙樹が留学している間、僕も自分を磨いて、いつかまた再会できる日を待ちます」

「何年も会わなかったら、あなたたちの関係はきっと終わってしまうわ」

 千恵はネガティブな言葉を挟んだ。

「そうじゃないと思います。百人一首に「瀬を早み岩にせかるる滝川の割れても末に逢はむとぞ思ふ」という和歌があります。この和歌のようにお互いが信じ合っていれば、いつか再び出会えるんです。僕も今はそう感じています」

 それっきり一同は沈黙した。あまりのまっすぐな沙樹と直紀の意志に千恵もそれ以上、異論を唱えることはできなかったのだ。

「これが僕たちの結論です。皆で温かく見送りましょう」

 直紀がそう言うと、最後の一本の糸も断たれたような気がした。

「僕はこれで帰ります。家庭の事情に口出ししたみたいでしたね」

「いいのよ。私が呼び出したんだし」

 帰宅する直紀を沙樹が玄関まで見送った。千恵はそれをソファーに座ったまま遠くを見るような視線で見ていた。

 それから早見家には気まずい沈黙が流れた。嵐が過ぎ去った後の平原のように。心の中に何かがくすぶっていたのは千恵だけで、沙樹と俊夫はすっきりした様子だった。

 その夜、千恵は眠れずにこの半月ほどの出来事を回想していた。沙樹の人生観には過去の自分が重なった。沙樹も自分と同じように恋人と別れてまで夢に向かって走り出した。そうすることが幸せと信じて。その行く手に幸せが待っているとは限らなくても。

 夢、未来、希望……。そんなキラキラした言葉に惑わされて、いつの時代にも若者は夢を追い求めるのが最高だという感情を募らせて突き進んでいく。けれど、そんな時期を通り過ぎた大人にはもう止めることはできない。後は見守るしかないのだろう。千恵の心の琴線は激しく震えた。

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