生存 ≪8≫

「テメェ、どんなチート使いやがった!?」

 投了直後、激昂したハンスは仮称・痴漢の胸ぐらを手荒く掴み上げた。二日酔いに苦しむ現代サラリーマンのような見た目をした仮称・痴漢は、為す術もなく絞り上げられる。

「知らねぇな……」

「とぼけんな、クソが」

「俺は別にカンニングも禁手もやっちゃいねぇ。いいからその薄汚ねえ手を放せ」

 仮称・痴漢が放つ、その生気の無い声に、以前には感じられなかった凄みが加わっているようにすら蹴斗には感じられた。

 ハンスの手をいかにも億劫そうに払いのけると、仮称・痴漢は虚ろな表情で、焦点の定まらない視線をおもむろに蹴斗に向け、口ごもるような口調で何かを語り始めた。

「そこの東洋人。ククク、覚えてるぜ。つい先日、油断してた俺に小賢しい指し回しで勝ちを拾いやがったろ。あまつさえ、戦利品まで要求してきやがったよな。貴様らのせいで、こちとらあの後、散々な目に遭わされたんだ」

 小賢しい指し回しだったのはむしろお前の方だろ、と蹴斗は言いかけたが、弟子が負かされた後で盤外戦が盛り上がるのもぞっとしないので、言葉が分からないフリをして首をかしげた。

 たどたどしい大陸標準語を使う気力もないと見える仮称・痴漢は、そのままハンスの方へ向き直り、言葉を続けた。

「まさか、サッカーの棋力に関しては、親父のグスタフじゃなくてガキの方が上手だったとは想像もしてなかったぜ。グスタフの野郎、長らくガキに指し手を教えてもらってたんだってな。お陰でヤツをガニメデ様にサッカー奴隷として献上したときには、すっかり勝負勘の抜けたなまくらになってやがった。そのせいで俺までドヤされるハメになり、二人揃ってサッカーどくにぶち込まれたって訳だ」

 サッカー蠱毒とはなんぞ、と蹴斗は思ったが、言葉が分からないフリをした手前、質問するわけにもいかない。そのまま話の続きを待つことにした。

「さっきから下らねえ話しやがって、何が言いてえんだ」

 ハンスが十歳児のそれとは思えないような鬼の形相で睨み据えると、仮称・痴漢は乾いた薄笑いを浮かべながら応える。

「サッカー蠱毒で、百をくだらないサッカー奴隷が命を落とした。そいつらの恨みを一身に背負って、俺はこの場所にいる。これからはそんな手合いばかりになる。覚悟しておくんだな」

 完全に目が据わっている仮称・痴漢を相手に、当初はチートを疑って激昂していたハンスのテンションは、微妙に削がれていた。仮称・痴漢はなおも言葉を続ける。

「そうそう、お前の親父もサッカー蠱毒にぶち込まれてからは目の色が変わったぜ。落ちるところまで落ちて、後がないと気付いたんだろう。ま、アイツは八段プラチナだから、二次予選までは免除だ。よって、お前との手合いもだいぶ先になるだろう……もっとも、それまでお前が敗者復活戦から先を生き延びていればの話だがな、クク、グ、グフッ」

 フラフラと身を起こした仮称・痴漢は、突如として激しく咳き込むと、辺りに大量の血を吐き散らした。これまで勝負に対するプレッシャーや恨み辛みなどといった感情によって、辛うじて繋ぎ止められていた彼の緊張が、一次予選を通過したことで緩んだのかも知れない。そのまま、糸を失った操り人形のように、仮称・痴漢は地べたに崩れ落ちた。

「俺が生き延びていれば? テメェが先にくたばってりゃ世話ないぜ」

 その場にうずくまり動かなくなった仮称・痴漢を見下して、ハンスが吐き捨てた。しかし、そんな挑発的な台詞に対しても一切言い返してこない仮称・痴漢の姿を目の当たりにして、次第にハンスの表情から落ち着きが失われていく。

「おい、師匠。これヤバくね?」

 そう問いかけられた蹴斗だったが、あいにくと医者ではないのでどうしようもない。せめてAEDでもあればと思うが、もちろんそんなものもない。

「フォフォフォ、安心召されい。この者は、我らが教会が引き取りましょうぞ」

 そう言いながら現れたのは、バルシュミーデ司祭であった。白目を剥いた仮称・痴漢は、何人かのスタッフの手により担架に乗せられ、そのままピッチを後にした。

 本当に助かるかどうかは文字通り神のみぞ知るが、さしあたり蹴斗たちの間に流れていた不穏な空気は解消された。

「なあ、これ、俺の不戦勝になったりしない?」

 そこで、ハンスが虫のいい提案をバルシュミーデ司祭に投げかける。

「フォフォフォ、もう勝負は成立しておりますぞい。仮にこの者がこの先指せなくなっても、不戦勝となるのは二次予選初戦の対局相手ですな」

 と、バルシュミーデ司祭はつれない。よくよく見れば、口元は笑っているが目元はまったく笑っていない類の笑顔をハンスに向けている。これ以上突っかかれば藪蛇になりかねないので、蹴斗はそれとなくハンスをその場から引きはがした。

 こうして、最後に一悶着あった一次予選・一日目も、ようやく幕を下ろした。

 基本的に今日のトーナメントを勝ち抜いた四名を除いて、明日の敗者復活戦に回ることになる。一日目に決勝まで勝ち進んでいたハンスは、二日目は午後から参加すればよいとされた。ただし、敗者復活戦から二次予選に進出できる枠は一つしか無いため、ここから更に三連勝する必要があった。


 夜、野営地に戻った蹴斗は頭を悩ませていた。この時代によもや存在するとは思っていなかった奇襲戦法についてである。その指し筋を知ってさえいれば、対処はたやすい。だが問題は、それをハンスに教えることによって、サッカーの歴史が大きく変わってしまうかも知れないのだ。

『いや、現にその奇襲戦法を痴漢が指してきたんだから、この時代に存在しないという認識からして間違ってるだろ』

 と将斗は主張する。

『しかし、文献から察するに表に出て来てないことは確かだろ。それに、どの戦法が開発されててどの戦法が未知なのかも分からん。闇雲に教えたらタイムパラドクスで俺たちが消滅するかも知れないんだぞ』

 蹴斗も反論を試みるが、時間遡行に関する話はドラえもんで見知った程度の知識しか無いため、あまり有効な反論には至らない。

『俺たちが消滅したら未来の定跡を教えて過去を改変する人間もいなくなって、結局俺たちも復活できるじゃねーか』

 案の定、あっさりと将斗に論破されてしまう。

『じゃあ、どうすりゃいいんだよ』と蹴斗が頭を抱えると、

『なんとか誤魔化すしかないだろ』と事もなげに将斗は言う。『まあ、俺に考えがある。そんなに難しいことじゃあない……』

 そう言って、将斗は自信ありげに彼の考えを披露しはじめた。

 数分後、蹴斗は明らかに困惑の表情を浮かべていた。

 将斗が提示した案は、蹴斗にしてみれば子供相手だから成立するかも知れないと思える、何とも危うい代物であった。しかし、蹴斗がごねようとすれば『反対なら対案を提示しろ』などとネット政治家のような反論が返ってくるので、結局は仕方なくそれに従うことにした。

 ややあって、蹴斗は馬車の荷台にハンスを呼びつけた。子供は寝る時間だが、先ほどの対局のこともあって血が頭に上っていたハンスは、どうにも寝られずにいたようだ。

「ハンスよ、そこに直りなさい」

「この期に及んで説教かよ」

「黙らっしゃい」

 ごねるハンスを一喝すると、蹴斗は勿体を付けるようにオホンと咳払いをし、神妙な表情を作った。

「どうやら、邪神教会の連中が動き出したようですわ」

 なるべく荘厳な雰囲気を維持しながら言葉を発した蹴斗だったが、その馬鹿馬鹿しさにえることは極めて困難だった。ことさら悪いことに、ハンスが完全に真に受けたような反応を示したので、笑いをこらえるために口元を押さえて咳き込むフリをするハメになった。

「邪神教会……実在したのか」

 ハンスはいよいよ驚きと怒りに顔を歪ませながら、蹴斗の言葉を反芻するように呟いた。むしろ完全なでまかせを口にした蹴斗の方こそ「邪神教会……実在したのか」と言いたい気分だったが、そこも何とか怺えた。

「誕生して間もないサッカーというスポーツが、これほどまでに全世界で流行した陰には、世界各国に教団の支部を持つ邪神教会の暗躍があると言われているわ。そして奴らは、サッカー選手の魂と引き換えに、禁忌の定跡を与えるという取引までしているのよ。うかつにもその定跡を知った者は、寿命を削られる。ましてやそれを対局で使えば、それだけで命に関わるわ。可哀相にあのハゲ……もう長くはないでしょうね」

 いささか子供だましすぎるのではないかと気をもんでいた蹴斗だったが、ハンスはこのような与太話を完全に信じ込んだ様子で震えている。

「じゃ、邪神教会……汚すぎる」

「そう、連中は汚いわ。そして、連中は今回のW杯をもその毒牙にかけようとしている。そんなことを許してもよくて?」

「許せない!」

 こうなると、十歳男児などというのはちょろいものである。

 次いで、蹴斗は麻袋から長らく使う機会のなかった財布を取り出した。無論、未来の財布であり、その中にはこの時代には存在しない硬貨・紙幣からカードの類までが収められている。

「何を隠そうこの私、シュート・クロスという名は世を忍ぶ仮の姿。真の姿は邪神教会を殲滅するためにはるばるエルミリア大陸までやってきた、流離さすらう東洋のエクソシストですわ」

『おい、蹴斗。そこまで話を盛れとは言ってないぞ』

 脳裏から将斗の罵声が飛んでくるが、蹴斗がそれを気にとめる気配はない。そのままおもむろに財布の中から千円札を取り出す。

「この顔をご覧なさい。彼こそが、東洋の魔術師と謳われしサムライ、ゴロウ・ノグチ」

 野口英世の肖像画をハンスに見せながら、蹴斗がなおもホラを吹き続ける。

「この札を持っている限り、邪神教会の呪いはキャンセルされます。つまり、禁忌の定跡を知ったとしても、魂が奪われずに済むわ」

「テメェ、そんな便利なモン持ってたのに隠してやがったのか」

「黙らっしゃい」

 激昂するハンスを一喝すると、蹴斗は勿体を付けるようにオホンと咳払いをし、神妙な表情を作った。

「この札も万能というわけではありません。あなたに許されるのは、禁忌の定跡を知り、相手がそれを行使してきた場合にのみ正しい応手を繰り出すこと。自ら禁忌の定跡を仕掛ければ、たちまちのうちに命を落とすことでしょう」

 ようやく言いたいことにたどり着くことができ、蹴斗が一息つく。

 要は、相手が奇襲戦法を使ってきた場合にのみ、正しく迎撃しなさいということだ。無論、自ら奇襲を仕掛けてはいけない。その姿勢さえ身につけておけば、今後ハンスが不覚を取ることもないし、うかつに未来の定跡をこの時代に広げることもないだろう。

 蹴斗たちはそのように見込んだのだった。

「師匠、俺、師匠の弟子にしてもらって本当によかったよ。予選に参加できなかった師匠に代わって、俺が邪神教会の野望を食い止めてみせる。だから、安心して見守っていてくれ」

 ハンスが目を輝かせながら言った。ここまで単純だと逆に将来が不安にも思えてくるが、取りあえずの目的は達したので、蹴斗はもっともらしく頷いてハンスに千円札を渡した。

「それでは、これから私が示す定跡を全て、一晩で覚えてもらうわよ」

 そう蹴斗が宣言すると、ハンスが力強く頷いた。

 その夜、蹴斗らが寝泊まりする荷馬車の灯火は、消えることがなかったという。


 第1回W杯決勝まで、あと352日

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