生存 ≪6≫

 ハンスを弟子にしてやろうという蹴斗の目論見は、あっけないほどすんなり実現した。両親を失い寄る辺のないハンスにとって、教会に留まるより他の選択肢などない。真剣師として稼げるようになれば経済的にはその限りではないが、それでも十歳の少年が自活して行くには金銭だけではどうにもならない部分は多い。

 教会にいる以上、何かしら教会の仕事を手伝う必要があり、それは蹴斗共々サッカーの普及活動以外に見当たらなかった。必然、弱者が強者の弟子になるという流れが完成する。

 蹴斗がハンスに対して提供した知識には、サッカーの歴史を大きく歪めないよう最大限の配慮がなされており、例えば未来に開発される予定の定跡などは、ことごとく『次の一手問題』のように偽装されて伝わった。

 しかしながら、時を追うとともにそんな配慮は無駄なのではないか、と蹴斗は考えるようになった。

 そもそも定跡とは、先手・後手が最善手を重ねて始めて成立する手筋である。定跡の定跡たる所以は、既に数万人による数万回以上の検討を経て生存を許された点にあり、後世の選手たちが無思考・ノータイムで最善手を指せる点にある。

 まずこの時代の対局において確立している定跡で、後世にまで伝わっているものは数えるほどしかない。その一つがキックオフ桂馬ナイト角行ビショップ定跡、通称KKBだが、1900年代に大流行してその分岐の一つが最長91手まで定跡化されるに至り、「KKBはサッカーの純文学だ」とまで言われる程の存在感を発揮していたが、近年では流石に研究し尽くされて「KKBは終わりました」と揶揄される程に至った。ともかく、これほどまでに長命な定跡は極めて稀な例である。

 むしろこの時代では、巷で流行の兆しを見せた定跡まがいの手筋も、より上位の選手に対して行使された場合には為す術なく破られるのが常であり、短命に終わることが多かった。逆に上位選手同士の対局では、互いの読みを外すために新手の応酬が続くことが多くなり、定まった手筋が誕生しづらい背景も存在した。

 つまり、いくら未来の定跡を教えたところで、それがこの時代の定跡として定着するチャンスがあるとは考えにくかったのだ。むしろ上位に行けば行くほど対局相手がすぐ定跡から外れるので、そもそも定跡を教える意味合いすらかなり薄いといえた。

 蹴斗は、ハンスやシスター・エルネスティーネを通じて現地言語を覚えた。また、司祭の助けを借りて、不自然に古めかしい大陸標準語を矯正することにも成功した。少なくとも、蹴斗自身はそう頑なに信じていた。


「おいシュート師匠、このクソ邪魔な角行、外したいんだけど?」

「少しはその足りない御頭おつむをお使いになってご覧なさい、ドアホ」

 現地語の習得過程において、たおやかなシスター・エルネスティーネの言動と、父親と継父の暴力に晒されながら極貧生活を送ってきたハンスの育ちの悪さが、奇跡的な融合を遂げて蹴斗の脳に刻まれた。結果、育ちのよい人間がやるような含みを持たせた陰湿な罵倒とも異なり、上品な言葉使いの端々に品性下劣な語彙を散りばめただけの異形なキメラ罵倒語が、蹴斗の語彙としてアーカイブされた。

「蹴斗殿、本日も稽古に精が出ておられるようで候。善哉よいかな、善哉。お茶をばお淹れ申したので、いとまあらばお楽しみねがいたもうぞ」

「司祭殿、かたじけのうござる。さらば休憩を頂きつかまつる」

 一方の大陸標準語のブラッシュアップも、一筋縄では行かなかった。カプリコルヌス司祭と蹴斗が互いに言葉を交わし合ううちに、蹴斗の言葉遣いの古めかしさ加減が絶妙な塩梅で司祭側にも伝染してしまったのだ。結果、六百年程前の古語を主としていた蹴斗の言葉遣いが三百年ほど進み、司祭のそれが三百年ほど後退することで、奇妙な平衡状態が生み出された。

 ささやかなティータイムに興じる間、蹴斗は今ひとたび、ハンス並びにカプリコルヌス司祭に確認する。

「このたび、七月より始まると聞いていますところの、おW杯予選ですが、お規模やおルールはどのようになっているのでして? こんなクソへんな場所で行われるお予選ですから、余程のクソ雑魚揃いかとお見受けしますが……」

 蹴斗が丁重な口調で切り出すと、ハンスが呆れたように答えた。

「おま、W杯に出場するための旅をしてるって割には、ホント何も知らねーんだな」

「いや、大方のところは調べて知ってはいるのですが、一応確認をしなければと思いましてよ、オホホ」

「まあ、何でもいいけどさ。当日はこっから二十マイルほど離れた街の会場に、近隣のサッカーギルド会員が四、五百人集まるはずだぜ。まあ、師匠の言うとおり全員クソ雑魚には違いないがな。ルールは、コイントスで先後を決めて、時間制限は一分デスマッチ。三十秒対三十秒に等分してある一分砂時計を、一手指すごとにひっくり返して、砂が落ちきったら負け。こちらの手番でノータイムを連発すれば、ものの数分で決着がつくぜ」

 これは蹴斗が知っている時間制限のルールの中でも、最も極端な早指し指向だ。相手が長考に付き合ってくれるならば一手あたり一分考えることができるが、相手がノータイムであればこちらもノータイムで応じない限り時間切れになってしまう。

「ハンス、このおルールで指すにあたって、どのようなお対策をお立てになっていらして?」

「相手に考える時間を与えないことだな。ノータイム連打の時間攻めで秒殺マッハよ」

 ハンスは自信満々な態度で答えた。

「バーカ。あなた、一分お相手に考えられたら不利になるとでもお思い? いいこと、何も考えず手拍子で指して頓死するってのは、あなたのようなクソガキが特に陥りがちな罠よ。最低、お相手と同じお時間はお考えなさい。つまり、お砂時計のお砂をできるだけ半々に保つこと。お消費時間の短さを追及するくらいなら、その分お手数を少なくできるようにお考えあそばせ」

 蹴斗は戒めるように諭した。

 実のところ、蹴斗はハンスがそのような頓死を素人相手に遂げるなどとはこれっぽっちも思っていない。しかし、余り考えずにする早指しは癖になりやすく、相手が上位になった時にこそ致命的になりかねないのだ。

 また、可能な限り早く指すという指し方は、ある意味では厳密な時間管理を放棄したやり方でもある。それでは、将来の長時間制ルールで指して秒読みになった時など、ギリギリの状況に対応できなくなる。ゆえに、そうならぬよう今の段階から、残り時間に神経を使いながら先の手を読む作業も並行して行うという訓練が欠かせない。その意識を、蹴斗はハンスに植え付けようと思ったのだ。

「そろそろ、道場にサッカー修練士たちが現れる頃合いでありますぞい」

 カプリコルヌス司祭が二人に声をかける。

 週に何日かは、教会でサッカー教室が開かれることになっている。蹴斗とハンスの評判が広まってからというもの、それまで閑古鳥が啼くばかりだったこの道場にも、多くの聴講生が集まるようになった。

 蹴斗がハンスを教会に連れて来る以前の聴講生は、村内の年寄りに限られており、カプリコルヌス司祭がからっきし指せないことを知っていてもなおやってきては雑談するだけの老人ばかり、せいぜい片手の指の数で足りるほどであった。が、蹴斗たちが講師として参加して一週間もすると、その人数は三十人を超えるまでに膨れ上がった。どうやら、蹴斗が以前に隣町で仮称・痴漢を負かしたという事実が、それなりの驚きを以て周囲に喧伝されたようだ。それに加えて、かつてプラチナ級真剣師として鳴らしていたグスタフが奴隷商に買われ、残された亡妻の連れ子が細々とサッカーを続けているというお涙ちょうだいの逸話も、野次馬の関心を惹くのにそこそこの役割を果たしたようである。

 本来指導役であるはずのカプリコルヌス司祭も、指導者としての引導を渡されてからは聴講生に紛れ込んで学ぶ側に落ち着いてしまった。

「はい、押さないでくださいね。席と盤駒は順番ですから、手が空いた人は強い人たちの見学をしましょう」

 シスター・エルネスティーネが、教会の裏手にしつらえられた道場に群がった聴講生たちをテキパキと案内する。

 聴講生たちが席に着いたところで、講師陣が大盤を使って簡単な戦法のレクチャーをする。教えるのも勉強だとか適当な理由を付けて、蹴斗はそのレクシャーをすべてハンスに丸投げした。もっとも、初日だけは見本を見せてやるとばかりに蹴斗が覚えたてのたどたどしい現地語で講義をしたのだが、話し方が気持ち悪いなどと評判は散々であり、それ以来彼は教壇に立っていない。

 レクチャーが終わると、聴講生同士の対局ならびに蹴斗・ハンス対聴講生の多面指しが行われる。ハンスにとって実力的に対等な相手と当たる見込みがほとんどないと思われる予選の準備としては、この多面指しは程よいウォームアップになるだろうと蹴斗は考えていた。対局の質を落とさないよう、必ず感想戦を行うように、と蹴斗は注文を付けた。

 聴講生との多面指しをこなしながら、蹴斗は今後起こりうる様々な可能性について思いを巡らせた。


 様々なトラブルに見舞われたものの、ここまでの蹴斗の道のりはそれなりに順調と言えた。W杯へのエントリーが叶わなかったことは誤算だが、そもそもこの時代に飛ばされた瞬間には既にエントリーは締め切られていたのだ。

 そのタイミングの絶妙さから考えても、この時代、この場所に飛ばされたことは、偶然ではないのだろう。ハンスのような天才サッカー少年とまみえることになったことも、その考えを後押しするには十分に出来過ぎただ。

 蹴斗に出来ることは、与えられた条件でベストを尽くす以外にない。別に、W杯で優勝しろと言われているわけではない。

 七月の上旬に行われる一次予選。これは敗者復活を含めた2KOノックアウト制のトーナメントだ。一度負けたら敗者復活トーナメントに回され、二度負けたら退場というルールである。さすがに一日で終わらせるのは酷な日程であり、二日に分けて行われる。ここで、近隣から参加する数百人の選手が一気に数人へと絞られる。

 二次予選は九月以降に州都で行われるとのことだが、ここからは持ち時間各一時間(チェスクロック方式、切れたら一分サッカー)が与えられ、一日二局の対局が行われる。専用のサッカー場での公開対局であり、高ランク真剣師や高僧が大盤解説を行うという気合いの入りようだ。超早指しの一次予選とは異なり、このトーナメントでは一度でも敗れると復活のチャンスはない。

 ちなみに、ゴールド級真剣師相当の選手は一次予選を、プラチナ級真剣師以上に相当する選手は二次予選までを免除されている。

 年が明けると、地域別代表選出をかけた最終予選が幕を開ける。各持ち時間五時間(チェスクロック方式、切れたら一分サッカー)の長丁場を、一日一局のペースでこなし、数ヶ月かけて代表を選ぶのだ。エルミリア大陸のサッカーギルド(ESA)枠からは、北帝領・一名、西方(プニエ公国・パトリエール公国・他)・一名、南方・一名、東方・一名が割り振られており、その椅子を巡ってリーグ戦が帝都で行われる。もちろん公開対局であり、会場もただのサッカー場ではなく、宮殿や聖堂などが使われる見込みだ。南方予選では、収容人数が五万人とも言われるコロセウムで行われるというのだから、いかに注目度が高いかうかがえる。

 他には、王侯貴族リーグから四名、高僧シノド(FIFA)リーグから四名、東大陸から四名、計十六名が、本戦トーナメントへ進出する。

『ハンスにとって、事実上の勝負は最終予選からになるだろうな』

 将斗はそう予測する。蹴斗も、それについて概ね異論はない。

 問題は、持ち時間五時間の長丁場にどう対応するかである。二次予選の持ち時間一時間から、最終予選ではそれが五時間に突然増える。蹴斗にとってすら、それはほとんど未知の領域だ。奨励会三段リーグの持ち時間は各一時間半だった。

 ちなみに、持ち時間の計算方法には、チェスクロック方式とストップウォッチ形式と呼ばれる二通りの方法が存在する。ストップウォッチ形式とは、一手ごとの消費時間のうち、一分未満を切り捨ててカウントする方法である。要は、一手指すのに一分五秒消費しようが一分五十五秒使おうが『一分』に丸めてカウントするやり方だ。蹴斗がかつて暮らしていた時代のサッカー界ではストップウォッチ形式の対局も多かったが、中世の砂時計ではこのやり方はなじまない。よって、持ち時間制の対局の大半が、実際の消費時間をそのまま持ち時間から減らすチェスクロック方式で行われていた。

 蹴斗ですらろくに経験したことのない持ち時間五時間の対局をハンスに教えるには、蹴斗自らが相手となって実際に指してみなければなるまい。それはきっと骨が折れる作業になるだろう、と蹴斗は思った。


 しばしの黙考から意識を多面指しの盤面に戻すと、蹴斗と対局していた聴講生たちは、おしなべて絶望に顔を歪めながら投了していた。つい物思いに耽ると、手加減を忘れるのだ。

 そんな師匠の体たらくを醒めた目で眺めながら、ハンスは僅差の勝利ですべての多面指しをまとめた。聴講生を棋力で虐殺しても、彼らのやる気を奪うだけである。僅差勝ちでまとめるには相手の狙いを正確に読み切らないといけない。そうした蹴斗の教えを、ハンスは忠実に実行したのだ。


 サッカー道場での指導を終え、ハンスとの数局の指導対局をこなすうちに、日はどっぷりと暮れ、夜が訪れていた。夕食の草と豆を煮込んだスープと非常食のような硬いパンを食べ、蹴斗は寝床に移動した。

 これまで、めまぐるしく時が過ぎているような感覚だが、蹴斗がこの時代に飛ばされてからまだ十日ほどしか経っていない。言葉もぎこちなく、現地の習慣には未だに慣れない。

 そして、それ以外にも蹴斗が未だに馴染めずにいるものがある。

 夢だ。

 夜な夜な蹴斗の精神世界をむしばんでくる将斗の過去、と言い換えてもいいだろう。それは毎回、手を替え品を替え、様々に鬱屈した将斗の心象風景を蹴斗の意識に投影してきた。

 こうも続けば、きっと将斗も気づいているに違いない。蹴斗が毎晩、そうした夢を見てうなされていることに。蹴斗が将斗にそれを確認しないのは、それを訊くことで何かがこじれる気がしたからだ。言語化できない、何かが。一つの体に同居している二人の関係性、演算・思考の一部を共有している二つの精神の安定性、『歴史の修正力』とやらの排斥の対象となった二人の存在の矛盾。いずれもが危ういバランスの上に成り立っているものであり、ちょっとした外力で瓦解しかねない脆さを孕んでいる。

 そんな師匠の悩みをよそに、いつの間にかハンスが隣で寝息を立てていた。考えても仕方ない。暗にそう主張しているかのような、間抜けな寝顔であった。

 そうだ、考えても仕方ない。

 一番弟子の間抜け面に励まされた蹴斗は、そのまま寝袋に収まり、その夜も来るであろう相方の暗い過去と対峙する覚悟を決めた。

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