生存 ≪5≫

 夢を見た。

 ダイニングで両親と共に夕食を取っているだけの夢だ。豚の生姜焼き・刻みキャベツ・味噌汁・白米・漬物。頭を垂れて黙々と食事する両親の姿は、決して明けることのない喪に服すことを宿命づけられた一族の因縁を背負っているかのようだ。

――将斗の記憶か。

 二晩も連続すると、察しが早くなってくる。記憶に刻まれた過去は変えられず、ゆえにこれは介入できないタイプの夢だ。突然狂ったように手に持った箸をへし折ったり、味噌汁の椀をひっくり返したり、そういった動作はこの夢の中では禁止されていている。これはクソゲー中の強制イベントのようなものだ。ただやり過ごすことしかできない。

 沈黙の食卓には、テレビからの音声だけが空しく響いている。夕方のニュースは、蹴斗の記憶にないような事件を延々と垂れ流している。

 それでも、今日の夢はまだ穏やかな方といえた。以前に見た顧問の沼渕紀夫の夢は、とにかく不意打ち過ぎた。そしてその夢がきっかけでトラックに轢かれかけたり将斗が登場したりしたので、アレは忘れるに忘れられない。そして昨晩の夢は、文字通り強烈な右ストレートだった。それらを踏まえれば、お通夜のような雰囲気で食べる夕食などは朝飯前(?)だ。

 だが一方で、この夢は将斗にとっては悪夢としか言いようのない過去から連綿と続く、まさに悪夢の続きであると言い換えることもできた。何年経っても明けない喪のような雰囲気は、もはや呪いにも等しい。

 将斗の神経質な性格が、蹴斗のそれとは明らかに異なる背景を説明するのに、この呪いの作用は雄弁だ。こんな夢を見続けたら、恐らく自分も将斗のように、無闇に神経質で疑り深い人間になってしまってもおかしくない、と蹴斗は思う。

 そう言えば、先ほどから食べている豚の生姜焼きに味がしない。当初は夢の中だからなのか、と蹴斗は考えた。だが、それならば、口の中に絡まる繊維の感触がやけに生々しいのはなぜなのか。

 そして、ようやく蹴斗は思い至るのだった。

 味がしないのは、将斗の記憶に、その味が刻まれなかったからなのだ。


 シスター・エルネスティーネの朝は早い。

 主および聖母ミリアへの祈りを済ませると、その足で蹴斗とハンスを起こしに来る。

「グーテンモルゲン」

「グーテンモルゲン」

「グーテンモルゲン」

 意味を把握しないまま、蹴斗は他の二人が交わした挨拶と思しき言葉を復唱する。どうせおはようとか言ってんだろ、と蹴斗は予想し、それは大方正しかった。

「さっそく、この地方の言葉を覚えられたのですな」

 と朝食の席で司祭は褒めたが、そんな小学生にでもできることを褒められたところで、特に蹴斗の気分は変わらなかった。

 朝食の内容は昨日と同じだった。粗末な煮豆料理。ここに至り、夢の中の夕食に味がしなかったことを恨みがましく思う蹴斗だった。ブラヅルの刑務所でももっとマシなものが出されるんじゃないか、などと脳内で愚痴りながら、仕方なくその朝食に手を付ける。

 もっとも隣をみれば、ハンスが目を輝かせながら煮豆をかき込んでいたので、中世のリアル貧困層は半端ねえな、と蹴斗は思う。実際、東大陸からしょうを持ち帰るだけでバカ売れするような時代と地域であり、どのみち料理に過度な期待をするべきではないのだろう。そう思うと、蹴斗は少し冷静になることができた。

 空しい満腹感を得た後は、サッカーの時間だ。蹴斗はハンスを呼び止め、一局指さないかと提案する。言葉が通じなくても、サッカーは万国共通だ。生粋のサッカー少年であるハンスは、二つ返事でそれに応じた。

 そこへカプリコルヌス司祭が、記録係ならびに通訳を申し出てきた。そもそも教会関係者としてサッカー普及の任を押しつけられたものの、棋力皆無のため虫ケラほどの貢献もできていない司祭にとって、これはささやかながらも面目躍如のチャンスであり、サッカーを勉強する貴重な機会にもなり得る。特に断る理由も無いので、蹴斗はその申し出を快諾した。

 考慮時間なしの一分サッカー。すなわち、全ての手を一分以内に指さなければならないというルールで対局が行われた。時間管理も、対局砂時計を使ってカプリコルヌス司祭がやってくれることになった。

 先手のハンスが4-5-1システムを採用し、後手の蹴斗が5-4-1システムでそれに応じた。プラチナ級真剣師を凌駕する実力を誇るだけあって、ハンスの読みは鋭い。定跡が整備されていない時代であっても、乱戦になった場合に必要とされるのはその場の対応力である。サッカー解析ソフトを中心に定跡研究を行ってきた蹴斗もその点は認めていて、実際に古い時代のサッカー棋譜を拾ってきても、トップ選手であれば、かなりの割合でソフト推奨の最善手を指せているのだ。

 ハンスもまた、とっさの勘を要求される場面でも大きく間違えることなく、正確に指してきた。

 とはいえ、現代サッカー(ハンス視点では未来サッカー)で揉まれてきた蹴斗に、一日ならぬ一千年紀ミレニアムの長があった。場数も知識の蓄積量も全然違う。

 結局、敵ペナルティエリア内にフォークドポーン、すなわち桂馬が利いている歩を二枚送り込むことで、完全に相手の陣形を乱すことに成功した蹴斗が、終盤の読み合いを僅差で制して押し切った。

「イッヒハベフェローレン」

「負けたそうですぞ?」

 通訳のカプリコヌルス司祭が首をかしげながら通訳した。ハンスが投了したのだが、司祭の素人目には、何がどうなって勝負がついているのか分からないのだろう。特段難しい投了図ではないが、それでも先手があと13手粘ることの出来る局面だ。

 思いのほか歯ごたえのある感触に、蹴斗は驚きを隠せなかった。少なくとも、昨日に対局した仮称・痴漢と較べればその棋力は雲泥の差だ。仮称・痴漢も蹴斗の見立てではアマ二段ほどの実力はありそうだったが、ハンスは奨励会三段リーグにいても違和感がない。定跡を覚えれば相当伸びるだろうと思われた。

 もっとも、驚いたのは蹴斗だけではない。ハンスもまた蹴斗と同様に、いやむしろ蹴斗よりもエキサイトした様子で、蹴斗には理解不能な言葉をがなり立てている。

 それらに一々相づちを打ちながら、彼の話が一段落するまで耳を傾けていたカプリコヌルス司祭は、キリのいいところまで聞いて一呼吸を置くと、こう言った。

「久しぶりに負けた、とこの少年は言っておりますぞ」

 明らかにもっと色々言ってただろ、と蹴斗は思ったが、司祭は言いたいことは言い切ったとばかりに黙ってニコニコしているばかりである。

「少年ハンスよ。そなたの指し回しもまたあっぱれなり」

 とりあえず蹴斗も、惜しみない賛辞をハンスに送る。どう通訳されるかかなり不安だったが、その言葉を聞いたハンスが満更でもない雰囲気でうなずいたので、少なくとも致命的な誤訳が発生した可能性は低いと思われた。

 手短に感想戦が行われた。互いの指し手を検討する、反省会のようなものだ。蹴斗は二、三、それが未来の定跡であることを巧みに隠しながらハンスに局面ごとの分岐を示し、ハンスはそれを食い入るように凝視している。

 蹴斗・将斗共に、ここまでは予定通りの展開で進んでこられたことに安堵する。二人の計画は、ハンスに対して圧倒的な棋力差を見せつけることで、彼を従順な手駒に仕立て上げた上でW杯へ送り出そうというものだ。望むらくは、ハンスを弟子にしてしまうのが手っ取り早いだろう。その目論見を達成するための第一歩は、特に問題なくクリアしただろう、と蹴斗は自己評価した。

「ときに少年よ」と、蹴斗は次なる話題を切り出す。「そなたが継父であったところの元真剣師・現奴隷グスタフが棋力ぞいかばかりにやあらん?」

 これは、蹴斗らにとって極めて重要な意味を持つ質問だった。すなわち、この世界における棋力のヒエラルキーの全体像を知るための尺度が必要とされているところに、プラチナ級真剣師という物差しがどの程度のものであるのかを知ることが出来るからだ。しかも彼は実力でその段位をもぎ取っており、それなりに信頼できる尺度になり得るだろう。

「まあそこそこじゃね? と少年は言っております」

 司祭の返答から察するに、だいぶ訊き方が悪かったようなので、蹴斗は質問を少しばかり具体的にしてみる。

「少年が代指しをすなるが以前に、グスタフがサッカーにおける勝率など聞かせ給わりければありがたし」

「八割くらいだった、とのことですぞ」

 司祭が淀みなく通訳をこなす。

 予想よりもかなり高い勝率であったことに蹴斗は目を見張った。

 普通、その競技の如何によらず、段位やランクをベースとしたシステムに放り込まれた選手の勝率は、最終的に理論的には五割に収束する。その所属ランクが適正であれば、長い目で見れば半分は負けるものだ。

 だが、実際には引退間際であったり成績不良で後に退会を余儀なくされるような負け組が一定以上存在したり、逆に誰とやっても中々負けないピラミッドの頂点がいたりもするので、ばらつく余地も残されている。

 現代(この世界からすると未来)サッカー界では、レジェンド級の超トップに君臨する選手の勝率が七割台だ。選手本人が超トップである以上、その対戦相手もおしなべて超トップである。その中で安定して七割勝ち続けることは本来異常である。逆に、どのような相手であろうと安定して七割勝てれば、普通に世界一になれるということなのだ。

「解せぬ。八割勝てていてなお、なぜ代指しが必要であったなりか?」

 蹴斗はそう疑問を口にした。

「金がかかっていたからな、と少年は言っております」

 どうも通訳を介してのやりとりはまどろっこしくていけない、と蹴斗は苛立ちながらも、根気よく詳細を話すようハンスに促す。

「十戦十勝の取り分が十のとき、十戦八勝だと取り分は勝ち分の八から負け分の二を差し引いた六になるだろ。ほとんど半分だ。それに、勝者総取りのトーナメントなら一敗でもすりゃあゼロになる。勝率八割じゃ、これを結構な割合で取りこぼすんだ。ってなわけで、あいつも随分とチンケなプライドとの間で葛藤したみたいだったけど、結局欲に目がくらんだのさ。と、少年は申しております」

 なんだ長文も訳せるじゃねえか、と蹴斗は思いながらも、ハンスの説明に一応は納得する。

 基本的にサッカーのタイトルマッチへの挑戦者を決めるのは、トーナメント方式だ。いかに勝率が高くても、ここ一番で勝てなければタイトルは取れない。勝者総取りとは、そういうことだ。そう考えると、たとえ勝率八割でも満足していられないという気持ちは、蹴斗にも分からなくはない。

『肝心なことを聞き忘れてるぞ。このガキが代指ししたことで、どれくらい勝率が改善したのか』

 と将斗がささやいた。

 確かに、勝率八割にも達するサッカー選手が、そのプライドをかなぐり捨ててまで代指しという手に及んでいるのだ。それに見合うだけの勝率を上げているのでなければ説明がつかない。

「少年が代指ししたときの成績はいかばかりか?」

 と蹴斗が訊くと、ハンスは露骨に顔をしかめて何かを言い返した。

「さっき言っただろ、聞いてなかったのか? 二度はしゃべらんぞ。と申しております」

 司祭はニコニコしながら通訳する。いや聞いていないが、と蹴斗は訝ったが、すぐにこの司祭が通訳しなかったからだろうと思い至った。最初の方、『久しぶりに負けた』みたいなことをハンスが言った前後がばっさりカットされていたので、多分あそこだ、と蹴斗は当たりを付ける。

 いやこのアホ司祭が通訳しやがらないからさ、みたいなことを言い返しかけた蹴斗だったが、すんでの所で思いとどまった。よりにもよって通訳者本人の悪口を通訳させるところであった。

 しかし、何とかして少年に口を割らせねばなるまい、と蹴斗は考える。

『最後にいつ負けたのかを訊けよ』

 と将斗が提案する。

『天才か』

 その案に丸々乗っかる形で、蹴斗は司祭を通してハンスに質問を投げた。ハンスはそれを聞くと、随分脳味噌の奥の方にしまったと思しき記憶を探すような素振りを見せた。

 やがて、何かを思い出したかのような表情になったハンスがゆっくりと口を開いた。司祭はニコニコしながらそれを聞き取ると、蹴斗に向き直ってこう告げた。

「そういやサッカーを教わっていた頃にグスタフに負けて以来、今日まで一度も負けてねーわ、と申しております」

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