生存 ≪4≫

 ハンス・ユルゲン・ルートヴィヒ・シュヴァンは、大陸暦749年3月30日に、北帝直轄領のとある辺縁集落にて生を受けた。両親は共に農家の生まれで、当たり前のように農家を継いでいて、細々と生計を立てていた。

 折しも近隣諸国はプニエ公国の領主、レオポルド公による騒乱のただ中にあった。数十マイル離れた集落が焼き討ちに遭ったとき、遠くの空に煙が立ち昇るのを、ハンスはぼんやりとした記憶の中に思い出すことができた。

 幸いなことに、北帝領内にあった彼らの農地は紙一重で戦災を逃れ得た。いかに北帝の権勢が衰えた当時とはいえ、一地方領主に過ぎなかったレオポルド公が北帝の直轄地を襲撃することには、多大なリスクが伴ったのだ。

 しかし、難を免れたからといって、それが同時に満たされた生活の保証とはならなかった。戦乱の影響で物流は滞り、懐が寂しくなった領主はこぞってそれを租税でまかなおうとした。

 こうしてハンスの幼少期の記憶には、貧困という名の歓迎されざる友が常にいた。それに加えて酒乱の父が、たびたび母に対して暴力を振るった。母の顔をあざだらけにしては、素面しらふに戻るや泣いてびる父を、ハンスは幼心にクズのなれの果てだと思い、軽蔑した。

 そんな地獄のような日々に終止符を打ったのは、深い酩酊状態に陥った父が犯したくだらない過ちだった。ハンスの母と見誤り、貴族の娘を殴ったのである。その高貴なる御一行は、南方から帝都を目指して移動中であり、集落で小休止していたところだった。

 何をどう間違えたら、みすぼらしい身なりをした己の妻と着飾った貴族の娘を取り違えられるのかと、ハンスは父の余りの愚かさに呆れ果てた。直後、逃走を企てた父親の居場所を、あっさりとその貴族に漏らしたのは、他ならぬハンス自身であった。

 これで父も少しは反省するだろう。

 ハンスのこの無邪気とも思える発想は、より深刻な結果を以て報われた。

 父は、その日のうちに帝都へ連行された。処刑されることになったのである。

 その貴族の娘は、北帝の血筋に連なる王族と婚約していた。いかなる助命嘆願も、受け入れられる見込みはなかった。

 どのみちハンスが居場所を教えていなくても、父の命は助からなかっただろう。しかしながら、自らの手で実の父に引導を渡したという思いは、容易には消しがたかった。

 酒乱のろくでなしの息子から、犯罪者の息子へ。地獄の日々の次に訪れたのは、次なる地獄の日々に過ぎなかった。父の暴力はなくなったが、村八分がそれよりマシとは言えなかった。いや、ただの村八分であればどれほど良かっただろう。

 集落の子供たちによるハンスへの集団暴行リンチは、村の大人たちも含めた衆人環視の元に行われ、ちょっとした余興のように繰り返された。家の前には糞尿や家畜の死体がばらまかれた。

 もう居場所など、どこにもなかった。

 そうして、ハンスら母子の生活がいよいよ限界に達しようとしていたとき、その男は現れた。

 エルミリア大陸を流離さすらう真剣師、グスタフ・フェーゲライン。

 サッカー黎明期に、北帝領の三羽がらすと称された程の棋力の持ち主である。

 偶然に通りがかったこの集落で、グスタフはハンスの母を見出した。極度のストレスによって痩せ衰えた彼女の容姿は、可憐と呼ぶにもいささか衰弱が過ぎていたが、それがたまたまグスタフの趣味に合致したのは、運命の悪戯いたずらと言うほかなかった。

 彼女が未亡人と知るや、グスタフはハンスにまで機嫌を取り始めた。誰かに頼って生きていく他のない二人にとって、グスタフの存在はまさに救世主のようだった。

 三人は、集落を発った。物心が付いて以来というもの、ハンスにとって初めて幸福と呼べるひとときが訪れた。

 ハンス、九歳の春だった。

 グスタフはハンスにサッカーを教えた。ハンスは瞬く間にサッカーのエッセンスを吸収し、指しこなすようになった。不純な動機が絡んでいるとはいえ、グスタフの指導は根気強く親切だった。

 ろくでなしと後ろ指を指されていた亡父と違って、この継父とならば楽しく暮らしていける。ハンスがそう考えるに至るまで、さほど時間はかからなかった。そうして彼は、グスタフの存在を家族として受け入れた。

 また、当時花形だった真剣師という職業は、ハンスから見ても一層まぶしく映った。

 立ち寄ったサッカー道場で、路銀には余るほどの掛け金をやり取りしてはそれを総取りし、ちょっとした事情通に「お前は北帝領の三羽烏が一人、流離いのグスタフ!」と言わしめる彼のサッカーさばきは、出来すぎた芝居を見るようで痛快だった。

 子連れ狼、流離いのグスタフ。数ヶ月もする頃には、彼の二つ名は烏から狼へと進化していた。そしてその子狼も、次第に頭角を現していく。

 当時、エルミリア大陸におけるサッカー事業を取り仕切っていたのは、FIFAと呼ばれる教会主導の研究・教育機関である教会会議シノドと、ESAと呼ばれる遊興・賭博機関である商工組合ギルドである。当然、真剣師はESAとの繋がりが深い。

 ギルドの正会員になるためには、十歳の誕生日を迎えていることが一つの条件であり、その上で入門試験に合格する必要があった。そうして晴れてサッカーギルドに登録した真剣師は、その成績に応じて四段スタンダード五段ブロンズ六段シルバー七段ゴールド八段プラチナ九段チタンと昇級するように定められていた。

 グスタフは八段の腕前を誇っていた。

 八段、すなわちプラチナ級真剣師は、大陸広しといえど数えるほどしか存在しない。かつて三羽烏と並び称されていた残りの二人は、ゴールド止まりであった。プラチナ級以上のランクのほとんどが、金品で段位を買った王侯貴族か、サッカーの聖地たるプニエ公国城下に集った一線級の真剣師に与えられていたのだ。

 九月になり、ハンスはグスタフを相手にサッカーで初勝利を収めた。これは一本取られたな、とおどけたグスタフであったが、その目元が笑っていなかったことに、不幸ながらハンスは気付いていなかった。

 半月もする頃には、ハンスは半数以上の対局でグスタフに勝つことができるようになった。

 それ以来グスタフの笑顔が、そのおもてに甦ることはなかった。

 真剣師である以上、対局で負けることはある。しかし、自身の棋力を超える人間の出現に対して、グスタフはあからさまに困惑と焦燥の表情を浮かべた。

 よりにもよって妻の連れ子であり、自らがサッカーの手ほどきをした少年に地位を脅かされるとは。

 悪いニュースは重なった。

 ハンスの母は、稼ぎの良い夫のおかげですっかり健康を取り戻していた。しかしながら、彼女に『極端なまでの可憐さ』を求めるグスタフにとっては、逆にそれが不満の種となっていた。

 暴力の再来は堰を切ったように訪れた。

 それは、以前に経験したときよりも悪化した形で母子に襲いかかった。

 酒乱の実父と違い、グスタフは素面でも躊躇なく妻を殴った。ストレスを与えて痩せ衰えさせれば、再び当時の容姿を取り戻せるとでも思ったのかも知れない。もしくは、ハンスに棋力で逆転されたことの腹いせか。とにかく一度殴ることを覚えて以来、グスタフの所業は歯止めを失った。

 一方ハンスに対しては、物理的な暴力に留まらず、イカサマの片棒を担ぐことを要求した。サッカーの対局中、手が止まるような場面になるとグスタフはハンスにサインを送り、次の指し手を教えさせたのだ。

 闇の面に堕ちたグスタフの悪行は、秋を過ぎる頃には広く人々の知るところとなった。妻子に対する暴力は、三人とすれ違う初対面の通行人にさえ明らかであった。

 クズ野郎。

 もはや、人々は彼の二つ名としてそう呼ぶことを躊躇ためらわなくなった。

 エルミリア大陸には、エルミリア教に対する信仰を中心とした文化が根付いていた。その教えは、善悪を律する基本的な倫理観を庶民に植え付けており、グスタフのような人間の存在を表向きは許さなかった。

 真剣師という職業は民衆にとっての憧れであり、彼らは倫理的に正しいことを前提に人々の脚光を浴びるのである。そこが、片田舎で農業に従事することとの決定的な違いである。

 また、等級の高い真剣師が、強すぎるがゆえに対局相手に困る、などという事態が発生することは基本的にない。なぜならば、高位の真剣師と対戦すること自体がステータスであるからだ。

 また、そのような対局には、真剣師自身がベットした賭け金だけでなく、スポンサーからも一定額の懸賞金が上乗せされる。低位の真剣師にとっては、一攫千金のチャンスでもあった。

 ところが、素行に問題のある真剣師との対局にはそのようなステータスが発生せず、スポンサーも賞金を出し渋る。当然、対局相手にも敬遠されることになる。

 プラチナ級真剣師になり仰せたグスタフは、驕りからか、そのような基本的なことすら忘れていた。やがて、悪評が広まるにつれて、彼は対局相手に困るようになった。一線級で活躍していた頃に身につけた浪費癖は、あっという間に彼の懐を寒からしめ、旅を継続するための資金と体力を奪い去った。

 ハンスにとって九歳の冬は、短く儚い幸福のひとときと入れ違うように訪れた。

 そして、そんな束の間の幸福以上に、ハンスは大切な存在を失った。

 それは、彼と共に十年近く苦楽を共にした母親であった。

 度重なる暴力、厳しい北エルミリア大陸の冬、慣れていたはずの貧困。ほんの一時、幸せを掴んでしまったことも、失ってみれば却って彼女の希望を打ち砕く因果を招いてしまったのかも知れない。それら全てが追い打ちとなったことは、幼いハンスをしても想像に難くなかった。

 それは、葬儀と呼ぶには余りにも寂しいセレモニーだった。表社会との断絶を経て、彼らには頼るべき教会関係者もおらず、参列者もいなかった。原始的な土葬を行った後に残された時間は、ハンスを最悪に惨めな気分にさせた。

 母親を失った以上、ハンスにとってグスタフはもはや他人である。いや、それ以上に憎むべき存在だった。

 しかしながら、一度イカサマという楽な道を覚えてしまったグスタフにとって、今更この天才サッカー少年を手放すという選択肢は存在しなかった。結局のところ、一人では生きていけないハンスの幼さと、有無を言わさぬグスタフの暴力が、このいびつな継父子関係を辛うじて繋ぎ止めた。

 彼らが流れ着いた先には、一つのサッカー場があった。

 表向きは片田舎にある普通のサッカー場。賭場として賭けサッカーに興じるものもいれば、娯楽のためと割切ってお金を賭けずに嗜むものもいる、ごく普通のありふれたサッカー場のように見えた。

 しかしながら、受付に鎮座している隻眼の男から放たれる気配が、そのサッカー場がただならぬ場所であることを暗に物語っていた。

希望ホフヌングシュテルベンか。好きな方を選べ」

 男は二人に問うた。

 答は、聞くまでもなかった。

 裏サッカー場で行われていたのは、裏社会を牛耳る悪党たちの代理戦争だった。表社会でステータスとされていたグスタフの真剣師としての実績が、ここで再び日の目を見ることとなった。

 奴隷商ガニメデ。それが新しいパトロンの肩書きと名前だった。

 二人は再び、連戦連勝の街道を歩み始めた。ハンスの棋力は既にグスタフのそれを優に上回っており、対局中にグスタフが次の一手に悩む機会はなくなっていた。思考を肩代わりしていたハンスから送られるサインを見落とさないようにすることだけが、グスタフにとって必要なことだった。

 しかしながら、裏サッカーにおける成績とは裏腹に、彼らの懐が潤うことはなかった。りんしょくで知られるガニメデに、露骨に足元を見られていたからだ。とはいえ、ここでの稼ぎがなければまともな食い扶持がないのも事実で、二人はこの屈辱的な境遇を受け入れるしかなかった。

 冬が明けて3月30日。ハンスの十歳の誕生日を祝ってくれる人は、地球上にもはや存在しなかった。その日、人知れずその哀れな少年は、隻眼の仲介人エージェントと接触した。

 真剣師として、ギルドへの正式な登録を行うために。

 四段スタンダードからのスタート。しかも、継父の悪名が高すぎるがために、まともな対局の機会は与えられていない。

 しかしハンスは、諦めてはいなかった。その出自・境遇・悪名、それらに関わりなく、ただ純粋に棋力さえあればどこまでも上へ登りつめることのできる機会が存在していたからだ。

 W杯ワールドカップ

 そう、ギルドへ登録すると同時に、ハンスは予選へのエントリーをも済ませていた。

 六月の下旬にエントリーが打ち切られ、七月になれば予選そのものがスタートする。そうなれば、少なくとも勝ち続けている限り、生活するのに必要な対局料が支払われる。

 グスタフともおさらばできる。

 綿密な計画の元、W杯予選の日がくるのを今や遅しと待ち続けたハンスにとって、大いなる誤算が訪れたのは、予選を直前に控えた6月21日のことだった。

 負ければ奴隷として売り飛ばされる裏サッカー。その対局の最中、グスタフはハンスの方へ一向に視線をくれず、指し続けたのだ。それは、長らくハンスに手筋を読ませることが習慣化していたグスタフが、この日に限って自らの思考で対局に臨むという意思表示に他ならなかった。

 かつてはプラチナ級真剣師としてその名をとどろかせていたグスタフの勝負師としてのプライドが、この場で唐突に甦ったとでもいうのか。頼むから余計なことをしないでくれ、と念じるハンスの意思も空しく、対局は淡々と進んだ。そして、サッカー盤の上に繰り広げられていた両者の指し回しは、ハンスの目には無残なものとしか映らなかった。

 悲しいかな、人の棋力は短期間にこうも衰えるのか。もしくは、グスタフが単に自暴自棄に陥っていたという線も考えられるかも知れない。

 ハンスには、それを確認する気力さえ湧かなかった。

 こうして、負けることの許されない対局にあえなく敗れ、グスタフとハンスは奴隷として売り飛ばされることになったのだった――


 少年が自身の来歴を、隻眼の男を通訳として蹴斗に語り終えた頃には、日もどっぷり暮れようとしていた。

「どうもこの子は、まだお前に気を許してはいないようだが、自分の身柄が賭けの正当な報酬であることは理解している。教会にかくまうというのであれば、好きにすればいい」

 隻眼の男は蹴斗にそう告げた。

 まだ気を許していないという言葉通り、ハンスは蹴斗に対して話しかけようとはしなかった。無論、言葉が通じないという理由も大きなウェイトを占めていたことは想像に難くない。一方で、教会に連れて行くという話を通訳を介して聞いた後も、特にその態度に変化は見られなかった。少なくとも、逃げるつもりはなさそうだが。

 ちょうどそのタイミングで、シスター・エルネスティーネが様子を窺いに戻ってきた。彼女は、蹴斗を置いて逃げ出したことに関して、悪びれる様子を一切見せなかった。蹴斗は仕方なく、ハンスを連れて帰る旨を伝えて帰路につくことにした。


 W杯参加に必要なエントリー枠に、ねじ込んでもらうような余地がないことは、隻眼の男の話からはっきりしていた。彼はとてつもなく頑なで、とりつく島は先っちょほどもなかった。

『取りあえず、ハンス少年がW杯予選にエントリーしているらしいから、そいつを手がかりに大会関係者に近づくべきだろう。最悪、大会に参加できなくても、ハンスの保護者を装ってW杯本大会に介入の余地があるかも知れない』

 将斗は、蹴斗の頭の中で冷静な分析を披露して見せた。

 ハンスの話を聞く限り、彼は相当指せるはずだ。もしハンスを利用するというのであれば、彼にはせめて予選を突破して、本戦出場はしてもらわねばなるまい。プラチナ級真剣師を上回る棋力がどの程度のものかは、後に手合わせして確認することとしよう、と蹴斗は考えた。

 その一方で、肝心な疑問は未だに晴れなかった。

 この時代に飛ばされる以前に、夢の中に出て来た紀夫の姿をした男が提示した条件だ。

――転移した先で、一人の人間に二人が入っているという重ね合わせの状態を解消してくること。

 その条件を満たすために、W杯がどのように絡んでくるのかは依然として謎のままだ。しかし一方で男はこうも言った。

――汝らが重ね合わせの状態にあり、同様に『760 FIFAワールドカップ』が重ね合わせの状態にあることは、偶然の一致ではない。

 やはり、W杯を目指すことが条件を満たすために何かしら必要である公算が高いだろう、と蹴斗は考える。

 蹴斗ら一行は、教会に戻るとすぐさまハンスをカプリコルヌス司祭に紹介した。彼は鷹揚に頷くと、相部屋で済まないねと断った上で、ハンスの寝床として蹴斗と同じ屋根裏部屋を指定した。

 夕食を終える頃には、蹴斗もハンスも完全に疲れ切っており、そのまま寝床へ向かうこととなった。

 対局は明日でいいだろう。

 そう考えて、蹴斗は寝袋に収まる。ハンスは藁の山の上に雑魚寝するようだが、流石に貧困育ちなだけあって、堂に入った見事な雑魚寝っぷりだった。少しだけ寝袋をうらやましげに見つめてきていた気もするが、蹴斗はその視線を堂々と無視することに決めた。


 第1回W杯決勝まで、あと363日

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る