生存 ≪3≫

 シスター・エルネスティーネの用事が済むと、蹴斗は彼女を連れ立ってサッカー場を訪れた。司祭・カプリコヌルスが言うところの『金品を賭けずに楽しむ者も多い』というその場所は、カジュアルなノリでサッカーを指せる道場という雰囲気からは程遠く、控えめに言って吹き溜まりレベルのあばら屋だった。大きさの不揃いな卓が六つほど並び、傷みの激しいサッカー盤および駒が置いてあった。この世界にサッカーが誕生してさほど経っていないにもかかわらず、よくぞここまで使い込んだものだ、と蹴斗は感心した。

 サッカー場にたむろしていた人間の誰一人としてサッカーを指してはいなかった。客連中を見た目の善良そうな順に並べても、痴漢、空き巣常習犯、麻薬密売人、強盗、放火魔、快楽殺人者、といった印象を与える風体をしており、ただ事ではないと蹴斗は思った。仮称・快楽殺人者に至っては、頬に乾いた血糊を付着させていた。中世のコスメの奥深さに、蹴斗は戦慄を隠し得ない。

 中の様子を一瞥するなり、尻尾を巻いて帰りたくなった蹴斗だったが、将斗は『取りあえずウォームアップがてら、連中のうちの誰かを、近代サッカーのノウハウ全開で血祭りに上げようぜ』などと宣う。肉体を捨て去ったヤツは恐れというものを知らない。ひょっとして自分が殴られたりしても、将斗は痛みを感じないのでは? と蹴斗は疑念を抱いた。

「ワスマスドゥダシャエスドラウフラスオダリヒトテディヒ」

 連中の一人、仮称・強盗が睨みを利かせつつ怒鳴ってきた。通訳を頼もうと思って横を向いてみた蹴斗だったが、シスター・エルネスティーネは既に華麗な逃亡を遂げていた。どのみちエルネスティーネも古エルミリア語は話せないので通訳もクソもないか、と蹴斗は思い直す。

『取りあえず卓の前に座れば誰か指しに来るだろ』

 と将斗が頭の中で主張するので、蹴斗は仕方なしにサッカー盤の前に着席した。先ほどから剣呑な雰囲気を放っているならず者集団に視線を向けつつ、「あー拙者、サッカー指したいで御座るなー」とさりげなく呟く。言葉が通じる者がいるかどうかは、神のみぞ知る。

 すると大ナタを腰にぶら下げた仮称・快楽殺人者が、とてもこれからサッカーを指す人間のそれとは思えない形相で近づいてきた。これから人を殺すか、もしくは二、三人殺し終えたあとのような表情だ。そのまま卓を挟んで着席するのかと思いきや、大ナタに手をかけて振りかぶってくる。蹴斗にとって、文字通り大ナタを振るう人間に出くわしたのはこれが初めてのことだった。

 流石にこれを脳天に食らったら死ぬ。意を決して逃げようと腰を上げかかった瞬間、手狭なあばら屋にドスの利いた声が響き渡った。

「ワーテンズィー!」

 その声を聞くや、見るからに荒くれだった仮称・快楽殺人者は、借りてきた猫のように大人しくなり、手にした大ナタを仕舞った。

 意外にも、その声の主は仮称・痴漢だった。よれたスーツを着せれば埼京線川越行きの電車の中で出くわしてもおかしくなさそうな風体のその男は、加齢性脱毛を経て光沢を得た頭部に青筋を浮かべながら、仮称・快楽殺人者を手で制しつつ、蹴斗の向かい側に着席した。

「オレ・オマエ・勝負スル」

 と、仮称・痴漢はたどたどしい古エルミリア語で言った。

「オマエ・勝ツ・好キナモン・ヤル。オレ・勝ツ・オマエ・奴隷」

 わかりやすい取引だった。今更、自分は教会関係者なので賭け事はちょっと……などとは言えない雰囲気が漂っている。どうせこんな土人崩れに負けるわけがないか、などと高をくくりつつ、蹴斗はその挑戦を受けることにした。

 特に何の手続きを経ることもなく、仮称・痴漢が先手を握った。先方の3ー4ー3システムに対し、蹴斗は3ー6ー1システムで受けることとした。

 キックオフ早々に、仮称・痴漢はボールを自陣へと下げた。そして細かいパスを繋げつつ、自陣最下段左隅へとボールを運んだ。最後は空球パスを左下隅に蹴り出すことで、対局を膠着させることが目的だ。

 蹴斗はこの戦法をよく知っている。俗に『フレジエ穴熊』と呼ばれるものだ。聖四祖が一人、フレジエ司教が編み出した戦法として知られている。盤の隅にボールを放置して、後は延々と時間稼ぎすることがこの戦法の真骨頂だ。しびれを切らした相手がボールに触れるや否や、その駒を掠め取ることで優勢を築くという、サッカー史上において一番早期に出現した姑息戦法である。

 実際にこの戦法がルール改定によって事実上使えなくなるまでに数十年を要した、と蹴斗は記憶している。ルール上の処理は、最後に空球パスを出してから十手以内にボールを回収しない場合、相手にフリーキックの権利が与えられるという形で決着した。ただ、サッカーが世に出て十年と経っていないこの時代に、そのようなルールもまた存在しないであろうことは容易に想像できた。

 熟練のサッカー選手がこの戦法を用いてきたとなれば、それは非常に厄介である。しかし、そこは片田舎の冴えないおっさんが相手だ。蹴斗は特に焦ることもなく、敵陣穴熊周囲に、自分の駒を周到に配置した。相手の大駒の利きを遮断しつつ、穴熊内でボールを持った相手の駒の行き場をなくすように周囲を固めるのだ。

 仮称・痴漢が蹴斗の意図に気付いたときには既に遅かった。フレジエ穴熊が自陣内での待機戦術である以上、そこで相手にボールを奪われてしまっては、それは一気に戦況が劣性に傾くことを意味している。

「マ、待ッタ」

 その声を聞いたとき、蹴斗は己の耳を疑った。対局中に待ったをしてくる相手と指した記憶が、過去十年遡っても数えるほどしかなかったからだ。

 しかし、既に戦局は完全に傾いており、待ったを仕掛けても無駄であることは分かりきっていたので、蹴斗は思う存分待ったをさせてやることにした。自ら死体蹴りを望んでいるのだ、遠慮する必要はあるまい。

 そこへ、けたたましい音と共に親子連れと思しき中年男と少年が、連行されるような形で連れ込まれた。二人ともみすぼらしい身なりをしており、中年男の方は散々殴られたと思しきあざだらけの顔をしている。

「新シイ・奴隷キタ。オマエノ・勝チ・デ・イイ」

 そう言い残すと、仮称・痴漢はさっさと卓を離れてしまった。

 どうやら自分が奴隷にされる心配は去ったようだ、と蹴斗は安堵する。もうこんな危ない目に遭うのはまっぴらごめんだ、とっととこの場を去ることにしよう、と考えた蹴斗だったが、その思考に将斗が待ったをかけた。

『お前、何のためにあんなリスクの高い勝負を受けたと思ってるんだ? 連中から何かしらブツをせしめないことには、俺の腹の虫が治まらん』

 いや、お前がけしかけなければそんなリスクの高い勝負をすることもなかったんだが、という言葉を蹴斗は飲み込んだ。飲み込んだつもりでも、脳内で将斗に漏れている可能性はあったが、それならそれでも構わない。ただ、どうにも相応の要求をしないことには将斗が矛を収めてくれなさそうだったので、仕方なく蹴斗は行動に出ることとした。

「その方、拙者と約束を交わしたで御座ろう。好きなものを一つ、くれるのではなかったかな?」

 蹴斗が抗議の声を上げると、仮称・痴漢ならびに同・快楽殺人者が、親の仇にでも出くわしたかのような形相で睨んできた。ほら言わんこっちゃない、と蹴斗は思う。

 だがそこへ、机をバシンと叩きつける音と共に、蹴斗へ助け船が出される。

「ここは賭場だ。踏み倒されちゃ評判に関わるんでね」

 声がした方へ振り返ると、あばら屋の入り口付近にある番台のような一角から、隻眼の大入道がこちらを覗いていた。逆らったら「なんだァ? てめェ……」とか言いそうな顔だ。ただ、蹴斗にも分かるよう古エルミリア語で話してくれたと思しき辺り、悪いヤツではないのかも知れない。

 ならず者連中は舌打ちをしながら、何が欲しいんだ? と言いたげな態度で蹴斗に向き直った。

 かといって、連中の所持品の中に蹴斗が欲しいものなど一つもなかった。仮称・快楽殺人者が持っている大ナタとか、薪を割るのに使えなくもないだろうが、別に薪が割れなくて困っているわけではない。

「ならば、その親子で……」

 特にめぼしいものがないので、人助けでもしてやるつもりで、蹴斗は尻込みしながらそう言った。

「二ツ! ダメ! 一ツ!」

 そうわめきながら、仮称・痴漢は子供の背中をぞんざいに蹴りながらこちらに渡してきた。このままだと親子を引きはがす最悪のパターンになってしまう、と焦った蹴斗だったが、子供は嫌がるどころか何の感情も顔に浮かべなかった。

 このままだと身寄りのない子供を預かることになってしまうが、今更ならず者連中に、やっぱ奴隷として引き取ってくれ、などとは言えない。他にどうしようもないので、蹴斗はその子供を教会へ連れて行くことにする。

 そうこうしているうちに、ならず者連中はサッカー場を退出し、どこかへ行ってしまった。念のため、蹴斗は子供に「そなたはこれで良いのであるか?」と訊いてみたが、言葉が伝わっているのか怪しく、何の反応もない。

「あいつはその子の親父なんかじゃない。ありゃ真剣師崩れのただのクズだよ。その子は、先日死んじまったあの男の妻の連れ子だったんだ」

 とそこへ、番台の大入道が割り込んでくる。どうにもこの子供、重い境遇を背負っているらしい。ともかく、これでこの子供を教会へ連れて行く判断に間違いがないことを確認できたので、蹴斗は一安心する。

 ついでに、蹴斗は大入道に今最も気になっている質問を投げることにした。そもそも、こんな場末のサッカー場に来たのも、もちろんサッカーを指すという目的があったことは事実だが、それ以上にW杯についての情報が必要だったからである。

「拙者、W杯を目指して旅する者である。ときに、ここがサッカー場にて出場エントリーをばせむと欲するがいかに?」

「は? エントリーは昨日の正午までで締め切った。そんなことも知らずにW杯を目指して旅なんかしてたのか?」

 大入道は呆れたように言った。

 蹴斗は、あまりの事態に言葉を失い、しばしその場に立ち尽くした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る