生存 ≪2≫

「なあ、健児。これで俺の五連勝だな」

「黙れ、ハゲ」

「次からは香を落としてやろっか?」

 日が暮れかかった路地裏を歩いている。景色はサッカースクールからの帰り道と一緒だったが、実際にサッカーを終えて帰宅途上というわけではないようだ。健児との会話で『キョウ』という、サッカーでは耳慣れない単語が出て来たからだ。

 しかも、それを喋っているのは自分だ。

「頼むから黙っててくれねーかな」

 まだ声変わりしていない少年の声で健児が応える。明らかに苛立っているのが、ランドセルを背負っている背中越しからでも分かる。

 やめろ、と心の中で念じても、健児をからかう自分の声は止んではくれない。

 香落ち、というのは将棋の概念だ。なぜか、その知識は当然のことのように自分の頭の中にあった。それはすなわち、ハンデを相手にくれて対局してやるという、上から目線の提案である。

 

 自分より後から来たヤツに抜かれていく焦りや悔しさは、自分でも理解できるつもりだ。むろん、自分が命を賭けているといっても過言ではないサッカーでそれを経験するのは到底我慢ならないことなので、そうならないように必死で勉強する。

 その一方で、健児はそれを既にこういう形で経験していたのだ、と気付く(ここではサッカーではなく将棋を通して、だが)。

「お前が俺に香落ちで勝てたら、ジュース奢ってやるよ」

 という言葉が、健児に対する止めの合図となった。

「ジュースなんざいらねー。俺、もう将棋やらねえから」

 くぐもった声で健児が言った。今にも噴火しそうな火山を内に抱えている、そんな押し殺した声だった。

――もうやめろ!

 少し考えれば、取り返しがつかないことをしていると分かるはずだが、小学生の頃の自分には及びも付かない想像だったのだろう。調子づいた声がさらに追い打ちをかける。

「ハァ? 負けたからって逃げるのか?」

「てめえのツラを二度と拝みたくねえだけだ、クソが!」

 その言葉と同時に、視界が揺らぐ。健児が振り向きざまに放った右ストレートが、綺麗にアゴを打ち抜いたのだ。平衡感覚を完全に奪われた体は、為す術もなく地べたを這った。

 痛みは脳が覚えていた。記憶を生々しく辿る過程で、痛みだけを都合良く回避する選択肢は与えられていない。回顧や追想ではなく、再現もしくは追体験とでもいうべき状況に遭遇している。

 これは、将斗が経験した過去だ。

 健児との友情が戻らなかった、もう一つの世界。自分との違いは、きっと、とても些細なものだったのだろう。

 言葉や行動だけではなく、その時の運ですら結末を大きく書き換えてしまうことがある。つまりは、そういうことなのだ。

 焦点の合わない地面を間近に眺めながら、蹴斗はこの夢が醒めるのをただ静かに待ち続けた。


 シスター・エルネスティーネの朝は早い。

 主および聖母ミリアへの祈りを済ませると、その足で蹴斗を起こしに来る。

「グーテンモルゲン、フルースタックイストゥファーティヒ」

 この辺の方言らしいその言葉は、蹴斗にとっては完全に未知であり、理解できない。身振り手振りを交えることで、シスター・エルネスティーネとは少しずつコミュニケーションが取れるようになってきた。朝飯の準備ができたらしい。

 蹴斗はたどたどしい仕草で寝袋を畳む。

 以前に将斗の過去を夢で見たときのような恐怖感はなかった。ただ、辛い過去をそのまま目の当たりにしたときの辛さが、そのまま心にのしかかってきただけだ。

 そして蹴斗はふと思う。将斗も同じ夢を見ていたのだろうか、と。しかし、そのことを質問しようという気にはなれなかった。ただ、こうやって頭の中でぼんやりと記憶を反芻していることは、将斗の意識の側に漏れているかも知れない。とにかく、将斗がそこに触れて欲しくない可能性がある以上、触れずに済むことであるなら触れないでおこう、と蹴斗は思う。

 階下の通用口から裏庭に出て、井戸の水を汲む。顔を洗えば気分も一新できるだろう。そう思い、蹴斗は桶になみなみと注がれた水を顔に被り、頬を両手で叩いた。


「おお、クロス殿。おはようございます」

 蹴斗が屋根裏部屋から降りて食卓に赴くと、司祭・カプリコルヌスは既に着席していた。彼はゆっくりと聞き取りやすい古エルミリア語を話してくれるので助かる。

「司祭殿、おはよう御座るで候」

 蹴斗が挨拶を返す。

「クロス殿、あなたの話し方はいささか古いというか、まるで5世紀前に書かれたプリウス・シュタティウスの叙事詩を聞いているようですな。東洋の方はそういった文献を勉強なさるので?」

 司祭は極めて控えめな表現で蹴斗の口調に注文を付けた。

 古エルミリア語も時代を前後すれば表現が古い・新しいという風に別れるらしい、と蹴斗は理解した。ただ実際、大陸暦700年頃の文献で語学学習に使えそうなものはなかった。文化が中世的停滞期の真っ只中にあり、物語作家や吟遊詩人のような穀潰しに生存権は与えられておらず、必然的にめぼしい文学作品などはなかったのだ。

 よって、蹴斗が出立前に勉強を重ねた古エルミリア語は、それ以前に文化的な隆盛を誇っていた古王朝時代のものだった。

「さよう。当年代には碌な書物がないと見受けられ候。あなや」

「はは、耳が痛いですな。拙僧が知る限り、ここ100年で書かれためぼしい本と言えば、神学関係ばかりですからな」

 司祭の言葉で、盛大に神学をディスってしまったことに蹴斗は気がつく。どうやらとんでもない地雷を踏み抜いたらしい。蹴斗は朝食の煮豆を喉に詰まらせ盛大に咳き込んだ。

「せ、拙者はそういうつもりで言ったわけではないで御座るよ」

「お気になさる必要はありません。そもそも神学書では日常的に用いられる言葉を学ぶことはできませんから。まだ数百年前の戯曲などといった文献の方が使えることでしょう」

 寛大な司祭と慈悲深き聖母ミリアのご加護により、蹴斗の命は永らえたようである。

 一同が朝食を終える頃に、蹴斗は思い立って質問を投げてみた。

「拙者、サッカーを指さむと欲す。而して、ここが近辺に能くサッカーを指さしめるサッカー場などはいかに?」

「この辺りでサッカーを指せる場所をお探しということですかな? であれば、一マイルほど離れた集落に賭場が立っております。とはいえ、小さな集落でありますがゆえ、金品を賭けずに楽しむ者も多いようです。本来、賭場に教会関係者が出入りするのはあまり好ましくないとされますが、賭け事に興じなければ問題ありますまい」

 なるほど寛大な司祭である、と蹴斗は思う。賭け事をしなければ雀荘に入ってもいい、などとは学校関係者なら言わないだろう。

 ちなみに、教会が主催するサッカー道場は、司祭がほとんど指せないという評判のために閑古鳥が鳴いているとか。

『あの司祭、お前をあわよくば広告塔にしてやろうという思惑で賭場を紹介してくれたんじゃないか?』

 今朝方からの沈黙を破り、将斗が意識の中でささやいた。なるほどそれも一理ある、と蹴斗は思う。と同時に、その様子がいつもと特に変わらなかったことに安堵する。

 朝食の皿を片付けていると、シスター・エルネスティーネが外出するための準備をしていた。ちょうどお使いがてらその集落に向かうという。渡りに船とばかりに、蹴斗はそれに同行することとした。

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