跳躍 ≪7≫

 一晩待っても、紀夫の姿をしたあの男は夢に現れなかった。

 蹴斗は満を持して9時間ほど寝てみたものの、変な夢を見ただけでその夜は終わった。ギタリストになって路上ライブを敢行するもののいくら直してもチューニングが安定せず、早く電話代を稼いで公衆電話から伝えないといけないのにギターケースに投げ入れられるお金はことごとくお札か歪んだ硬貨ばかりで、そうこうするうちにいきなり公衆電話が鳴り出したところで目が覚めた。現実世界では目覚ましが鳴っていた。

 昨日から何も音沙汰がないことが、蹴斗を徐々に不安へと駆り立てていた。外に出られないという制約も、彼の精神状態に負の影響をもたらしているのは明らかだった。

 将斗の提案により、両者でサッカーの対局を行ってみようということになった。しかしいざサッカー盤を目の前にして、二人は重大な問題に直面することになった。

 対局中の思考が、相手にダダ漏れになるのだ。もっと言えば、サッカーの手順を思考するとき、知らず知らずのうちに両者の思考が混ざり合って、どちらが考えているともつかない状態になった。思えば、先の三段リーグで蹴斗が快進撃を続けることができたのも、二人の棋力が融合したと思しき効果を発揮したからであり、それはつまりこういうことだったのだ、と蹴斗は考察した(そして将斗も同じことを考えた)。

 試しに、オンラインサッカーで世界の強豪とマッチアップ対戦してみた。定跡や作戦面においては蹴斗の脳内アーカイブが威力を発揮し、読みの難しい局面や逆転のために勝負手が必要な場面では将斗の指し回しが有効に働いた。しかしながら、それらの思考は二人の間でシームレスに行われ、どちらか片一方が主張したり意見が相反することは一切なかった。

 その状態は、一部の学校の勉強をするときも同じように作用した。計算問題を解いたときには、どちらか片一方だけに問題が解けたという感触が残るわけではなく、あたかも両者がそれぞれ自分自身の思考によって解いたのだという実感が得られた。

 一方、日本史や世界史のように、二人が教わってきた事実が根底レベルから異なるシチュエーションではまったく違う現象が起きた。

Q.大陸暦865年に体系化されたエルミリア教会法に関する法令集の名称を答えよ。

A.ヌペリエンテス教令集。

 このような問題に遭遇したとき、将斗にはもちろん知識がなく、蹴斗の記憶に頼らねばならなかった。一方で、特に世界史に対して何の興味もなかった蹴斗と違い、中世前期のエルミリア大陸史に強く引かれていた将斗は、しきりにそれを学習するように迫った。そして、一方が抱いたモチベーションは、多くの場合意識の根底部分で混ざり合うか何かした結果、もう一方へと自然と伝染するのだった。

 あの夢に出て来た男は二人の状態をして「不安定な重ね合わせ」だと言った。二つの異なる意識がまったく別々に一人の体に押し込められているのではなく、その意識の一部では混ざり合っているという意味であるかも知れない、と蹴斗は推論した。


『ところで、第1回のW杯って誰が優勝したんだっけ』

 夕食後、将斗がおもむろに質問した。

『そりゃー決まってるだろ。あれ、あいつだよ。ああ、何かど忘れした』

 蹴斗が答えに窮し、インターネット上でその解を探そうとブラウザを開く。

『いや、敢えて調べなくてもいいよ。俺、お前の体に乗り移ってからずっと疑問に思ってたんだ。お前、あれだけサッカー関係者と接してきてるのに、誰も第1回W杯のことを話題にしないなって』

『いや、そりゃあんな大昔のことだから』

『言っても、聖四祖のことは未だ映画になるくらい世間の関心がある。一方、その聖四祖の映画の中にさえ、第1回W杯そのものの話は出てこない』

『だって、そこはホラ、聖四祖でさえいい成績が残せなかったからかも知れないだろ?』

?』

 将斗の指摘に、蹴斗はハッと気付かされる。もしW杯優勝者が聖四祖の誰かであれば、そもそもその名前をど忘れするようなことはない。一方で聖四祖のうちの誰でもなければ、それはそれで知っていて当然の事実として記憶されているだろう。

 しかし今の蹴斗には、それに対する明確な記憶がなかった。

『なあ、蹴斗。例えばその優勝者が男だったのか、女だったのか。それすら覚えていないんじゃないか? もっと言えば、最初からそれが誰だったのかすら知らなかったんじゃないか?』

 底知れない違和感、というよりもはや不気味さを感じながら、蹴斗は検索エンジンに『第1回W杯 優勝』の文字を入力し、エンターキーを押した。結果は、0.69秒のタイムラグをもって表示された。

——760 FIFAワールドカップ - Wikipedia

 これだと思い、蹴斗はそのリンクをクリックする。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

760 FIFAワールドカップ(エ:760 FIFA World Cup)は、760年6月20日から6月27日にかけて、プニエ公国で開催された1回目のFIFAワールドカップである。

優勝 (1回目)


『おい将斗、お前これ読める?』

『読めるわけないだろ』

 その結果は明らかに文字化けしている。

 二人はその後も、様々なウェブページへのアクセスを繰り返したが、結果はどれも似たようなものだった。念のためエルミリア語ページに飛んでも、『Champion ??? ? ?? (1st title)』となり、やはり解読はお手上げだった。

 さらには、オンライン掲示板や質問箱にも書き込みをしたが、いずれの投稿も無視された。

 第1回W杯の結果を誰も知らない、というレベルの事態ではない。誰もその結果を知らないくせに知っていると思い込んで暮らしている。もしくはごく一部の人間だけが知っていて、その知識を世界と共有しようと拡散しても、何者かの手による検閲に引っかかって、文字化けなどを起こされて防がれてしまっている。そうとしか蹴斗には考えられなかった。あれだけ掲示板で知識自慢の連中を煽っても無反応だというのは異常だ。

 日に日に蹴斗にとっての世界が、化け物のように変質しているように思われた。夢に出てくる紀夫の姿をした男、世界の修正力とやらに導かれて自分を襲ってくるトラック、誰もが当たり前に知っていると誤認しつつ誰も知らない事柄。どれをとっても余りに非常識で、蹴斗の思考力はそれらを持て余している。

 しかしながら将斗の存在だけは、そんな化け物じみた数々の物事とは違うように蹴斗には感じられた。それは単なる同情かも知れない。しかし、一歩間違えれば蹴斗自身も似たような境遇に陥っていた可能性があったのだ。そんな自分の気持ちは、対岸の火事目線の同情よりは、何かしら価値のある同情であると信じていた。

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