跳躍 ≪6≫

 蹴斗は夢の中で出会った男の助言どおり、学校を休んで家に引きこもることにした。昨日、近所のトラック事故に巻き込まれかけ、玄関先では盛大に号泣している姿を母親に発見されてしまった。その際の動転ぶりを察してくれたのか、両親は学校を休むことにまったく反対しなかった。唯一困ったのは、それ以降たびたび両親が蹴斗を病院へ連れて行こうと説得しに来ることくらいで、体はピンピンしているしとにかく外には出たくないの一点張りで拒み通した。

「サッカーの研究でもするか」

 手がすいたときにはいつもそうするように、蹴斗がパソコンを起動する。

『またあの不毛な作業を始めるのか?』

 と蹴斗の頭の中に耳障りな声が響いた。

 どうやら昨晩の夢を見て以来、将斗の声が蹴斗の意識を通して脳内に聞こえるようになってしまったらしい。盛大に存在に矛盾を抱えてしまっている。これでは確かに歴史の修正力さんとやらが目を付けてくるのも分かる。

『あのハゲも言ってたろ。お前が研究を疎かにするから、いつまでたっても三段リーグで勝てないんだって』

『俺は別に研究そのものを否定してるんじゃない。そんなソフトに思考を肩代わりさせて出て来た最善手だけをつまみ食いするような、お手軽手法を疑問だといってるんだ』

『じゃあお前ならどうやるんだよ』

 頭の中で口論するというのは、蹴斗にとってもちろん人生で初めての経験である。具合としては考え事をしているときに近いけれども、容赦なく自分を罵倒してくる考え事という特殊なタイプである。

『名局を並べて、これでもかと納得がいくまで分岐を検討するんだ。俺が乗り移ってから、お前だって何となくリュシエンヌとかの棋譜を並べただろ? ああいう生身の人間同士でないと指せない勝負にこそ、俺たちプロ棋士、もといプロサッカー選手の存在意義が現れるんだ』

 どうしてパラレルワールドから来た同一人物であるというのに、こうも考え方が違うのだろう、と蹴斗は思う。そしてその奔放な棋風からはとても連想できない、将斗の神経質な性格。創造主が存在するのであれば、色々と間違えている気がしてならない。

 結局のところ、パソコンと向き合ってもことあるごとに口論が始まるのでまったく集中できず、そもそも明日をも知れぬ身であることを思い出すだけでも滅入るので、蹴斗は早々に研究を諦めることにした。

『なあ、将斗』と蹴斗は呼びかける。『そもそもお前、何でこっちの世界に飛ばされてきたんだ?』

 その質問に対し、口ごもる気配を蹴斗は感じる。言いたくないということは、あまりいい思い出ではないのだろうか。

 大方考えられるのは、今自分がこの世界で体験しているように、将斗に対して歴史の修正力とやらが働いた結果といった辺りだろう。将斗は、紀夫が事故死する直前に彼と会っており(蹴斗も恐らくは同じくらいのタイミングで会っているが)、それが何らかの影響を及ぼしたのかも知れない。

『そりゃ違う』

 そこに将斗の思考がカットインしてきた。

『なんや、俺の考えてることが分かるのか? お前からは俺の思考は筒抜けだというのに、俺にはお前の思考が読めないなんて卑怯だろ』

『俺にだってお前の考えてることの全部が分かるわけじゃない。ただ、考えてることが独り言に出るタイプのヤツっているだろ。お前はそんな感じ』

 そんなん防ぎようがあるか、と蹴斗は思う。頭の中で思考を言語化すると、それを読み取られるのか。そう思って言語化せずに思考を試みたものの、脳内を散歩させていたアヒルが熊に遭遇したところで余りの馬鹿馬鹿しさに止めた。言葉抜きではあまり難しいことは考えられないのだ。

『自殺したんだよ』

 突然の表明に、誰が? と蹴斗は一瞬考える。

『そりゃ俺に決まってるだろ。何で俺の意識だけがこっちの世界に飛ばされてきたって質問だったと思うが。奨励会三段リーグで一勝もできず、降段点がつきそうになったんだわ。そのうち何局かは勝てる展開だった。親父には研究不足だとどやされるわ、まあ、どっぷり鬱ってた訳よ』

 将斗が投げやりな口調で言った。

 その理由は、蹴斗にとってはまったく不十分に思われた。そりゃ、将棋とやらだろうとサッカーだろうと、負けが込むことはいくらでもあるし、ポカをやらかすことだって枚挙にいとまがない。それで落ち込みだってする。しかしそのことと自殺という決断とは、蹴斗にとっては天と地ほども乖離かいりした発想だった。

『実のところ、小学校の頃に俺と健児は仲違いして、それっきり仲直りできてないんだ。あいつ友達多いし気配りもできるから、小学校の頃とかはスゲー助けられてた。あいつが離れてから、そのありがたさに気付いたよ。でももう遅かった。酷いこと言っちまって、合わせる顔なんてなかった。中学高校と健児がいないせいで、俺は地獄みたいな日々を過ごしてた。それこそ事故死したとき、教え子にあんなに慕われてるところを見せられて、沼渕のことをうらやましいと思ってしまうくらいにはな』

 思いのほか重い告白に、蹴斗は言葉を失った。

 蹴斗自身、健児とは何回も喧嘩してきた。恐らく、酷い言葉だって投げつけてきただろう。それでも何とか仲違いせずにやってこられた。何かの歯車がほんの少し狂っただけでも、人生は大きく変わってしまうのだ。

『乗り移ってからの三ヶ月というもの、ずっとお前がうらやましかった。健児とも上手くやってて、他のクラスメイトや将棋……じゃなくてサッカー仲間ともいい関係を築いてる。研究熱心だから負けてもどやされないし、まあ俺が乗り移ってからはそもそも負けてないしな……。母さんも明るいままだし、何から何まで全部上手くいってる。俺だって間違えてなければ、そうなれたはずなんだ』将斗の声は、悲痛な響きをまとって蹴斗の脳内に鳴り渡る。『分かってるさ。俺にこれ以上生きる資格なんてない。お前の体も、お前がいるこの世界も、全部お前のものだ。俺に横取りする資格なんてない。でも、それでも、言わせてくれ。死のうと思ったことはそれこそ死ぬほど後悔してる』

 何と言っていいやら、蹴斗には分からない。ただ今の話を聞いて将斗をそのままこの体から追い出すのは違うだろう、と思う。そもそも追い出し方も分からない。

 恐らく、紀夫の姿をしたあの男が全ての鍵を握っているのであろう、と蹴斗は推論する。男は敢えて、命が惜しかったら家を出るなと忠告してくれた。生かすつもりがなければ、そんな助言は無用なはずである。

『将斗、取りあえず今のところ俺は、お前を追い出すつもりはない。あのハゲにも何かしらの考えがあるんだろう』

『……ありがとう。俺がこうして生かされてる、というか生かされてると言っていいのかも分からんけど、とにかく何か意味があってこの状態にされてると考えるわ』

 ひとしきり脳内での会話を終えると、蹴斗はスマートホンのメッセージアプリを立ち上げた。要件だけを簡潔に、健児にしばらく学校には行けそうもない旨を送る。ややあって、Jリーガー様は大変だな、と返事が来る。

 それでいい。今は何も特別なやりとりは必要ない。

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