跳躍 ≪5≫
「とうとうアレが動き出したようだな」
その禿げかかった冴えない風体の男が言った。
「お前、沼渕か。よくも抜けぬけと俺の前に現れてくれたな」
そう啖呵を切ったところで、蹴斗は自分の発した言葉のおかしさに気づく。そう、言われるまでもなく、沼渕紀夫は死んでいるはずなのだ。
「ってことは、これは夢か」
まず立っている場所がおかしかった。床から壁から天井まで総ガラスないしそれに類似した透明の板張りの空間に、蹴斗はその冴えない風体の男と二人きりでおり、窓の外には宇宙空間のような星の海が広がっていた。
頬をつねってみる。脳内補正か何かによって生じた痛みのような感触があったような気がしたが、客観的な立ち位置から俯瞰している自意識がこれはリアルな痛みではないと告げているので、やはり自分は夢を見ているに違いない、と蹴斗は思った。
「私の立場から汝らにコンタクトをとらねばならんときに、やってもいいギリギリのラインが夢への介入なのだ、許せ」
「やっぱ夢なのか。つーかお前、何かむかつく喋り方だな」
「別に汝ごときに反抗されても私はなーんとも思わんが、汝的にはそんな口の利き方をして無事で済むとでも思ってるのか? 汝は命知らずか?」
あからさまな脅しとも取れるその言葉に、蹴斗は一瞬たじろぐ。と同時に違和感を覚える。以前夢に見たときの紀夫はもう少し常識をわきまえた話し方をしていた。思い出してみれば、あの夢はまるで記憶を反芻しているかのごとく、夢に対して自分の行動を介入させる余地がなかった。逆に今見ているそれは、文句を垂れようと思えばいくらでも垂れることができる点で、以前のそれとははっきりと異なった。
「いやお前、やって許されるギリギリのラインが夢への介入とか言ってたろ。俺が反抗的だからって理由で危害を加えるんなら、話が違わね?」
相手の揚げ足を取ってみたものの、蹴斗にはいまひとつ自信がなかった。今日体験したあのトラック2台によるニアミスは、実際にタイミングが悪ければ死んでお釣りが来るレベルだった。そんな事象を仮にこの紀夫(ないしはその姿を借りた誰か)が操れるのであれば、刃向かうのは明らかに危険だ。
「さよう、トラック事故をけしかけたのは私ではない。汝、妙に
蹴斗が警戒しているのを察知してか、紀夫の姿をした男はなだめるような口調でそう言った。だが、この男がいまさら何を言っても、蹴斗にとっては胡散臭さが増すばかりである。
男は咳払いをして背筋を正した。この動作をする人間の大半はこれから長い話をするので、蹴斗は殊更に身構える。
「とうとう動き出したのだよ。アレが」
先ほどもほぼ同じような台詞を蹴斗は聞いたような気がしたが、それよりも男のもったいぶった態度に腹が立った。
「いや、アレじゃ分かんねーよ」
「そうか、気になるか。相分かった。ここでいうアレとはすなわち、歴史の修正力と呼ばれている類の力のことである。汝は今、この時空において許容されざる量の
「スマン、アレを聞いても分かんなかったわ」
蹴斗がこめかみを押さえながら理解できなかったことを告げると、男は哀しそうな表情を見せた。
「汝の存在意義に関わることなのに、そんな早々と諦めてしまうのか……」
「そもそも俺が何でこの世界に歪みをうんちゃらしてんだよって話だよ。歴史の修正力だか日本史の得点力だか知らんけど、もっと根本的な話、俺がどんな悪いことをしたのか説明してくれ」
抗議する蹴斗を怪訝そうな眼差しで眺めた後、男はやれやれと両手を持ち上げるジェスチャーを見せた。
「もう最初から話さないと汝はついて来れないようだな。よかろう。時は今年の六月に遡る。要は、沼渕紀夫氏が自損事故を起こして他界した。これが全ての始まりであった」
「それって、お前が沼渕の姿をしてるのと何か関係があんの?」
「私の姿がどう見えてるのかは、全て汝の側の問題である。汝にとって一連の出来事の関係者として心当たりのある人物だから、私が沼渕紀夫氏に見えているというに過ぎん」
心当たりがあるどころか、ほとんど紀夫が元凶といってよい。そしてその紀夫の姿をした人間が、やれ紀夫が他界しただの私が紀夫に見えるだの言う光景は、蹴斗にとってシュールを通り越して奇怪だった。しかし当の男本人は、蹴斗の思惑などには何ら興味がない様子で話を進める。
「沼渕紀夫氏の死は、二つの並行宇宙を絡め合うという事態を招いた。本来交わることのない二つの世界線が交わった、という表現で汝は理解できるかな?」
「いや、今ひとつピンと来ないな……」
「うぬぬ。ざっくり言って、そこに住んでいる人間やら下地なんかはほとんどそっくり一緒だけれども、些細な出来事が違ったりして別々の歩みを遂げてきた二つの世界同士が、何らかの形で繋がったのだ。要はパラレルワールド同士が瞬間的にトンネルで通じ合ったというわけである」
「昔漫画であった、まいた世界とまかなかった世界が繋がったようなもんか?」
「その表現なら分かるのか……」
男は見るからに
「まあよい。とどのつまり、沼渕紀夫氏が遺したノートが問題であった。その二つの世界、ここでは便宜上あちらの世界とこちらの世界と呼んでおこう、その二つの世界の両サイドで沼渕紀夫氏は他界したのであるが、彼が車に積んでいた
「それってそんな問題なのか? 要は、フィールドサッカー部のメモ書きみたいなもんが流出したってことだろ」
「例えば、あちらの世界で書かれたノートの一冊はこちらの世界の古代に転移し、何回か複写を繰り返され、聖母ミリアの手に拾われてエルミリア教の聖典となった」
「うっわ」
「ぶっちゃけ汝らが指して喜んでるサッカーも、あちらの世界で書かれたノートが元になっておる」
知りたくなかった事実を突きつけられて、蹴斗はしばし放心した。自分がエルミリア教徒でなかったことは不幸中の幸いだが、自分が命を懸けているサッカーがそんな経緯で成立していたと聞くと癪に障る話ではあった。
「つまり、あっちの世界の沼渕がこっちではエルミリア教やサッカーの開祖だってこと?」
「それはいささか言い過ぎであろう。あくまでヒントを提供したに過ぎん」
「まあ沼渕が色々やらかして、こっちの世界に色々な影響が出たってことは分かった。で、それがどう俺に対する歴史の修正力云々って話につながるんだ?」
「それな」男が軽薄な相槌を打つ。「主に、あちらの世界にいた汝の片割れのせいだな」
あちらの世界にいる片割れ、と聞いて蹴斗にはピンと来るものがあった。確かにこの男は、こちらの世界とあちらの世界の両方で紀夫が他界したと言った。同様に、両方の世界にそれぞれ自分の分身がいても不思議ではない。
そして、蹴斗はその片割れがどういった人物なのか直感した。
「将斗か」
「ご名答。出てきていいよ」
男が拍手をしながら言い放つ。一瞬、出てきていいよという言葉の意味をつかめなかった蹴斗だったが、程なくして否が応でも思い知らされることになった。
「よお、蹴斗さん。世話になってるぜ」
出し抜けに背後から声がしたと思ったら、肩をポンと叩かれた。そのまま声の主はゆっくりとかぶりを振り、蹴斗を見据えるように向き直る。
蹴斗の目の前に現れた将斗は、当然ながら背丈や顔の造りが自分とほぼ同一であった。ただ髪は小ぎれいに整えられ、制服もかっちりと身の丈に合っている。そして全体的には極めて神経質な印象を周囲に振りまいていた。
「なんかお前、俺とキャラ違くない?」
こうなんかイキった陰キャみたいな、という言葉を飲み込みつつ、蹴斗は自分の分身をおずおずと見つめる。
「俺としても、お前ごときと一緒にされたくないという気分だ。お前、マルコヴィッチの穴って映画、見たことあるか?」
「そんな映画はこっちの世界にはない」
「いや、お前が知らないだけかも知れないだろ……とにかく、その映画の主人公は、最終的に赤の他人の体に意識だけを取り込まれて、自発的な行動を何一つ取れないままの状態で他人の人生を生きなければならなくなった。ここ三ヶ月、俺も極めて似通った境遇で暮らしてきたんだ。ままならないお前の体の中で、な」
「マジか。全然気づかなかったわ」
気づかなかったというのは本当だけれども、言われてみれば心当たりがあるのもまた事実だった。蹴斗が先日みた夢は恐らく将斗の記憶の一部だったのだろう。極わずかながら、将斗の意識が蹴斗の側に漏れ出ることもあるのかも知れない。
「お前、おかしいと思わなかったのか?」と将斗は続けた。「その棋力で三段リーグを一期で抜けられたことからして異常だったと気づくべきなんだがな。将棋……いやサッカー解析ソフトから導き出される最善手をただ機械的に覚えて、そんな不毛な作業を研究などと称して、それに何の意味がある。例えば、過去の偉大な棋譜、それこそリュシエンヌが残したそれに触れても、何も動かされるものがなかったのか?」
その言葉は、蹴斗に精神的なダメージを負わせるのに十分な棘を持っていた。
突然手に入れた棋力。それは、自分のものではなかった。考えてみればおかしな話で、あれほど化け物ぞろいだと畏怖していた奨励会三段リーグを、シーズンが終わる頃には物足りないとさえ感じていた。成長するにしても、ステップというものがある。回転寿司の見習いバイトがある日突然、銀座で板前になれたりはしない。
「フォッフォッフォ。まあそれくらいにしておきなさい」ここで紀夫の姿をした男が話に割って入ってくる。「とにかく今の汝らは、不安定な重ね合わせの状態にある。特に蹴斗、汝が将斗の記憶につながる夢を見てからというもの、世界は汝らの存在という矛盾を抱えきれなくなった。歴史の修正力の排除から逃れるためには、どちらかに退場していただく必要がある」
男は、サラリととんでもないことを言った。
退場? 人生というレースにおける退場は、多くの場合死を意味する。
「勝手に人の中に入り込んできたお前が出て行けば丸く収まるだろ!」
と、蹴斗は将斗を指差して批難した。なりふりなど構っていられなかった。勝手に軒先に雨宿りしてきたヤツに母屋まで取られてたまるか。
「好きで入り込んだのではない。それに、お前ごときの棋力でプロでやっていけると思ってるのか?」
負けじと将斗も言い返す。
「ちょっと待て。オイ、そこのハゲ。将斗の世界には俺らが指しているサッカーという代物は存在しないんだろ? 代わりに将棋とやらが流行ってるみたいだけど。じゃあ、なんでコイツのサッカーがこんなアホみたいに強いことになってるんだ」
蹴斗はそう男に呼びかけたが、呼ばれ方が気に食わなかったのか返事がない。改めて蹴斗がまだ完全にはハゲてないから答えてくれと要請すると、男はやれやれといった表情を見せて口を開いた。
「そもそもそやつ、汝と同じで将棋の奨励会三段リーグで勝ちを拾うのもやっとって有様だぞい。ただ指し手としてのタイプが違うというか、汝が事前の研究に重きを置くタイプなら、そやつは出たところ勝負の閃きで勝負するタイプやね。汝らの意識は奥底の次元でつながっておるゆえに、その棋力もいいところ取りをして足し合わされた感じになっておるのであろう。要は、将斗の棋力だけで勝ってたわけじゃないってことである」
男の説明に対して、将斗は余計なこと喋りやがってとでも言いたげな憤怒の表情を見せた。
自分の身に何が起きているのか、あまりにも急展開過ぎて蹴斗の思考は追いつくことが出来なかった。乱暴にまとめると、紀夫の死をきっかけにこちらの世界と将斗の世界にショートカットが出来て、将斗の霊魂みたいなものが飛んできて蹴斗の意識に憑依した。そして同じ体に蹴斗と将斗が同居しているがために存在が矛盾を抱えることになり、歴史の修正力とやらに命を狙われる羽目になった。無事に体から将斗を追い出すことが出来れば助かるかもしれない。そう蹴斗は諒解した。
「そろそろ時間のようであるな」
男がこの空間において意味を成すかどうかも分からない腕時計を見ながら言った。
「いや、まだ話は全然ついてないんだけど」
蹴斗が抗議するも、男はこれからイエローカードを出そうとするフィールドサッカーの審判のような身振りでそれを制した。
「一つ忠告をしておいてやろう。今回、汝らは私と関わったことでより強く、この世界から排除される力を受けるであろう。つまり、命が惜しければ家から出ないことだな」
そのあまりに物騒な助言が終わると、男の姿も透明な板に囲まれた謎空間も一切合財が瞬く間に消え去った。そして蹴斗が気がついたときには、ベッドの中で寝ている自分自身と、けたたましく鳴り続ける目覚まし時計だけが、六畳の広さを持つ自室の中に残されていた。
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