跳躍 ≪4≫

「危ねえな、今のトラック」

 国道の先を睨み据えながら健児が言った。

 横断歩道を渡っていた蹴斗と健児のすぐ側を、10トントラックが猛然と左折して通り過ぎていった。危うく蹴斗の脚が後輪に巻き込まれるところだった。間一髪、健児が蹴斗の腕を引いて難を逃れたのだ。

「おう、サンキュー」

「サンキューってレベルじゃねえぞ、今の。何ボーッとしてるんだ。寝不足か?」

「まあ、そうっちゃそうだな」

 寝不足なのはもちろん事実で、授業中の浅い居眠り程度ではスッキリ回復とまではいかない。単に教師たちが事情を察してくれたのか、プロサッカー選手様を叩き起こすなど恐れ多いと思われたのか、その辺りの事情は分からない。とにかく、蹴斗は注意されることもなくその日をやり過ごすことができた。

 一方、訳もなくネガティブに傾いていた気分は、一日学校で過ごすことによってだいぶマシになっていた。普段と変わらずに接してくれている健児の影響もあるかも知れない。

 しかしながらその健児はといえば、ここ最近の挙動不審さを隠し切れていない蹴斗を放っておけない様子である。

「なんかお前、Jリーガー入りが決まってからおかしくなってないか? 急にブッチーのこと気にしだしたりとかさ」

「いや、確かに色々うまくいき過ぎてて不安な部分もあったけど、まあ考えても仕方ないなって気もしてる」

 そう自信なさげに蹴斗が答えると、健児に強く背中の辺りをはたかれた。

「いいか、お前は俺たちサッカー小僧の誇りなんだよ。小学生の頃は、俺だって本気でJリーガーになりたいって思ってた。でも、お前を見たら気が変わった。こんな身近に天才がいて、俺ら一般人と天才との間には越えられない壁があるって思い知らされたんだよ。そして俺は、お前がどんだけ努力してきたかも側にいてよく知ってる。お前がJリーガーになれたのは、まぐれでもラッキーでもねえ。努力に裏打ちされたお前自身の実力なんだ。だからもっと自信を持ってくれよ! そんで、プロの世界でも堂々とお前のサッカーを指して、タイトルの一つでも取って、コイツ俺の友達なんだぜって自慢させてくれよ」

 突然の健児の剣幕に、蹴斗はしばし呆気に取られる。こいつこんなに熱いやつだったっけ? 既存のおちゃらけた健児像と明らかに一致しない姿に一瞬の戸惑いを覚え、次いで無性に可笑しくなってくる。ついに蹴斗は笑いをこらえられなくなった。おいてめ、人がまじめな話してんのに笑うな、と抗議する健児の姿を見ると、ますます可笑しくなるのだから不思議だ。

「いや、お前みたいなサポーターをもてて俺は幸せだよ」

「うっせ、バーカ! 調子のんなって。決めたわ、今日から俺はお前のアンチだから」

「俺のアンチになったら肩身狭いぞ?」

「知るかアホ!」

 頭から湯気を立てそうな勢いで向かってくる健児をいなしながら、蹴斗は帰り道を歩いた。

 お前は努力を惜しまなかった天才なんだから自信を持て。

 ここまで健児にストレートな褒められ方をしたのは初めてかも知れない。蹴斗は色々思い返してみたが、自分をライバルだと思っていた頃の健児や、到底敵わないと思い知らされた直後の健児は、何やかんや悔し紛れにうぬぼれんなよとか、そんなことを言ってきていた気がする。その後、奨励会でも好成績を収めて三段に昇段する頃には、流石に揶揄するような言葉はなりを潜めたが、それでもストレートに蹴斗を褒めるようなことはなかった。

 きっと健児は、Jリーガーの道を諦めたそんな状況でも、時間をかけて気持ちを整理して、蹴斗の背中を押し続けてくれたのだ。そして褒め言葉は、立ち止まりそうになった蹴斗を奮い立たせるときのために、胸の奥にしまっていたのだろう。

「ありがとな」

 通学路の別れ際、蹴斗は言った。

 思えば、素直に感謝の言葉を健児に伝えたのも初めてかも知れない。

「なにがだよ」

 目を背けながら、健児が返答する。まあ、そう言うと思ったよ! その言葉を蹴斗は声に出さず、別れた道の先を進んだ。

「具合悪かったら無理すんなよ。もうお前はサッカーだけで暮らしていけるご身分なんだからな」

 背中から投げかけられた言葉は相変わらずお節介だったが、蹴斗は背中越しに手を振ってそれに応えた。

 家までの距離は長くない。秋に入り、すっかり日が短くなった。長く伸びた自分の影を見ながら、蹴斗は思う。

 夕飯は何だろう。そろそろ本格的にサッカーの研究を再開するか。

 そんなとりとめもないことを、蹴斗は考えていた。

 昨晩から続いていた悪い思考を、ほんの一瞬でも忘れていられた。

——と。

 何もないところでつまづく。胸騒ぎがする。バランスを保つな! 伏せろ! 本能がそう告げる。

 急ブレーキの悲鳴。

 そのまま腹ばいに倒れた蹴斗の鼻先を、おびただしい量の角材がかすめた。

 そして轟音。塀の向こうで制動を失ったトラックが、横倒しになる。大量の角材を辺りにばらまきながら。

 殺す気だ。

 訳も分からず、蹴斗はそう思った。だが、誰が、何のために?

 起こった出来事の一つ一つは、偶然と片付ける他ないだろう。先ほど横断歩道で蹴斗を巻き込みかけたトラックも、角材による無差別攻撃を四方八方に仕掛けたトラックも。むろんその運転手らは許せないし、また横転した方のトラックの運転手は誰かが助けるべきなのかも知れない。

 ただ蹴斗本人は目の前の事態にすっかり怯えおののき、いかなる行動をも起こせる状態になかった。要は腰が抜けていた。

 そもそもこんな偶然は普通二度も続かない。蹴斗は恐怖に取り憑かれながら、自分の身の上を嘆いた。運が悪いというレベルの話ではない。命に関わる事態なのだ。

——沼渕紀夫か!

 ほとんど確信めいたひらめきで、蹴斗はそう結論づけた。

 陰謀か怨念か、何なのかは知らない。しかし関係ないと捨て置くには、あまりに一切の出来事が合致しすぎるのだ。

 紀夫が死んでから、サッカーの棋力と古サッカーに対する気持ちに不自然な変化が起きた。それら自体はむしろ悪い出来事ではなかったが、気味の悪さを自覚しないわけにはいかなかった。

 そして、件の夢を見てからのトラブル続きである。

「君、大丈夫か!」

 近くを通りかかったと思しき男性の声がする。それが蹴斗に対する呼びかけであると気付くまでには、少しの間を要した。

 気がつくと周囲には渋滞と人だかりができていた。誰かが通報したのか、遠くから救急車のサイレンも聞こえる。その音源は、はっきりとこちらに向かっているようだ。

「す、すぐ近くに家があるんです。帰らせて下さい」

 蹴斗が声を振り絞って、通りがかりの男性に伝えた。

「いや、でも、怪我でもしていたら大変だ。そもそも立てないんだろ? すぐ救急車が来るから、病院で診てもらった方が良い」

「ちょっと足が震えているだけです。本当に、どこもぶつけてないし……とにかく帰りたいんです」

「そうは言っても」

「帰らせてくれ!」

 ほとんど振り払うように、蹴斗は男性の手をはねのけた。そのあまりの形相に男性はたじろぎ、すぐさまはっきりと嫌悪を表情に示した。

「じゃあ勝手にしろよ」

 這うように蹴斗は移動を開始した。目の前に広がる角材の山は、歩いて越えようと思えばさほど困難は伴わないだろう。しかし四つん這いで越えるには、色々とハードルが高かった。先ほどは嫌悪の表情を見せた男性の目線は、はっきりと奇妙なものを見る視線に変わった。

——どう思われたっていい。俺はとにかく安全な自宅に帰りたいだけなんだ。

 寄りかかりながら壁伝いに歩いた百メートル余りは、これまでの人生で一番長い百メートル余りだった。もつれるような歩調で玄関にたどり着いたとき、蹴斗は心の底から安堵した。涙が出て来た。間もなくそれは号泣に変わった。

 夕食の準備をしていた母親が玄関に駆けつけても、蹴斗の涙はとどまる気配を見せなかった。

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