跳躍 ≪3≫

「急に呼び止めてしまってすまないね」

 とその中年男性は言った。数学教師の沼渕紀夫だ。

 運動部の顧問をしている彼とは特に接点がなく、まともに話したことさえ今日が初めてだ。良く言えば人のよさそうな、悪く言えば冴えない風体の教師である。

「いえ、今日は特に用事もないんで大丈夫です」

 放課後の部室は、活動している部員がいないため閑散としていた。部屋の隅にある本棚には、定跡集・棋譜・次の一手問題などといった書籍が並べられている。

「そういえば、黒須君は部活には入ってないんだっけ?」

「そッスね、奨励会員なんで、アマチュアの大会には出られないですから」

「それじゃあ、この部室を勝手に使ってしまったのはマズかったかなあ」

 彼は頭髪の薄くなった頭をかきながら言った。別に他に誰もいないのだからいいんじゃないかという気もするし、どうでもいい。

「で、その奨励会ってのは、プロ養成機関だったかな?」

「はい、まあそんなところッス」

「今日来てもらったのは、その、恥ずかしながら相談があってね。私が顧問を務めているサッカー部があまり好成績を挙げられていないことは、黒須君も知っているかもしれない。そこで是非、分野が違うとはいえプロを目指している人から、勝つための心構えのようなものを聞きたかったんだ」

 サッカー部? 彼が顧問をしているのはフィールドサッカーの方だろう? 確かに中にはフィールドサッカーという呼び方が気に入らなくて敢えてフットボールと呼ぶ連中もいるが、それをわざわざサッカーと呼ぶ人間は見たことがない。

「どれほどお役に立てるかは分からないですけど……。なんせ運動とはまるで縁がないし、チームワークとかも絡んでこないんで」

「しかし、だからこそ、一回一回の勝負にかける思いは人一倍強いんじゃないかな? 何がおきても人のせいにはできないところとか。どうも最近の子は、そういう勝負師のようなメンタルの部分が弱いから。その辺を私も上手く指導できたらいいんだけどね」

 彼は自信がなさそうにそう言った。むしろ彼自身が、部活の顧問として強いメンタルを持っているようにはとても見えない。

「自分は、特にメンタルを鍛えてどうってのはないです。むしろいい手が浮かんだなと思ったときに、手拍子でポンと指したりせずに、じっくり考えて指しなさいってのは昔からよく言われてますね」

 うんうん、と頷きながら彼はノートにペンを走らせている。これがなんの役に立つのかは正直わからない。ともかく彼は、そんな取りとめのない勝負論について色々ときいてくるので、こちらとしても何となく普段考えていることを答える。そしてどうやら彼は几帳面にも、一つ一つの発言を余さずに書きとめているらしい。

 ひとしきり質問に対する回答を返すと、彼は満足げにノートを畳んだ。

「なるほど、興味深い話が聞けてためになったよ。確かにでは、必要とされる心構えも随分と違うのかもしれないね」

 は? いま何つった?

「今日は時間をとらせてしまってすまなかったね。プロの試験、上手くいくように応援させてもらうよ。黒須君」


 小さな悲鳴を上げながら、蹴斗は目を覚ました。上体を起こしてからしばらくは、体が戦慄して上手く動かせず、冷や汗を拭うことすら忘れていた。時計の針は午前三時を指し示している。

 見事なまでに、悪夢とカテゴライズされるタイプの夢だ。中途半端な気がかりを夜に持ち越すと、こんな夢に出くわすことになる。本来であればもう一寝入りすべき時間であろうけれども、蹴斗の目は完全に冴えてしまった。ネットサッカーに接続すれば外国勢と対局することもできただろうが、それでは睡眠の機会をまるまる放棄するに等しい。

 眠れなくても、目を閉じて横になっているだけでも違う。かつて大事な対局の前日に、チームの監督からそう言われたことを蹴斗は思い出し、実行に移した。

 むろん予想に違わず、しばらく寝付くことはできなかった。先ほどの夢を忘れようとしても、その生々しいイメージは消える気配がない。それは夢と言うより記憶の反芻のようにも思えた。

——本当にあんなやり取りをしたのか。

 蹴斗はもはや自分の記憶すら信用できなくなっている。とりとめのない会話であったからこそ、その内容が微妙に書き換えられても分からなくなっているのかも知れない。

 そもそも『将棋』とは何だ? 夢の中で紀夫によって『ショーギ』と発音されたその言葉は、確かに蹴斗の頭の中で『将棋』という漢字に置き換えられた。またイシャーンの著によれば、公孫紹とリュシエンヌは『Xiangqi』と呼ばれるサッカーの前身のようなゲームに通じていたとされ、他の資料によるとそれは『象棋』と書かれるらしい。

 象棋のルールは知っていたし、定跡や戦法についてもある程度なら心得があった。リュシエンヌの棋譜を読みたいという衝動から、蹴斗はイシャーンの残した膨大な象棋の棋譜をサッカー会館を通じて入手して読みあさったのだ(象棋の棋譜はサッカーのそれと比較してざっと100倍は残されていた)。

 しかし、ルールを知っているだけでは越えられない壁があった。棋力の壁である。彼らの棋譜を読んだところで、天界の神々の戦争を下界から分厚い雲を通して観覧するようなものだ。突拍子も無い手に意図があることを30手後に知るのは、確かに蹴斗にとって楽しいことであるには違いなかった。だが、彼らと同じ土俵に立つためにはそれをリアルタイムで処理できる必要があるし、プレーヤーとしての楽しみも明らかにその側にある。

 そもそも象棋と将棋なるものが同一のものであるとは限らない。そしてよしんば同一であったとしても、自分の象棋の能力が少なくとも公孫紹やリュシエンヌの足元にも及ばないことははっきりしている。象棋を指すプレーヤーだってそう簡単には見つからない。平安貴族が嗜んだ蹴鞠の選手を探し出すようなものなのだ。


 結局、蹴斗はほとんど眠れないまま朝を迎えることとなった。寝不足のままカーテン越しに外が明るくなっていくさまを見せられるのは、一日の始まりとしては最悪と言って良かった。

 朝食は炊いた白米と味噌汁と納豆だった。足りなければ好きなだけバターロールを追加できるシステムだったが、満腹を得るためにそんな空虚な手段にすがるつもりはなかった。

「なあ、俺の名前って、どういうつもりで付けたのか思い出せるか?」

 納豆をかき混ぜながら蹴斗は質問を投げた。

「藪から棒に何を言い出すんだ。念願のJリーガーになれて、それに恥じない名前なんだからいいじゃないか」

 味噌汁を啜りながら父親が答える。

「いや、俺をサッカーに誘ったのは健児だっただろ。もし誘われてなければ、そのままサッカーやってない可能性だって全然ありえたんじゃねってか、流石にサッカーやってなくて蹴斗って名前はないだろって思うんだけど」

「健児君が誘ってくれる前にも、父さんと母さんで何度もサッカーのルールを教えてやったのに、お前は見向きもしなかったじゃないか」

「いや、全然覚えてねえし」

 とにかくその話しぶりから、両親が自分にサッカーをやらせようと思って蹴斗と名付けたことに間違いはなさそうだ、と蹴斗は結論づけた。

 だが夢の中で紀夫は確かに『将斗』と呼んだ。『ショート』という発音は何の違和感もなく蹴斗の頭の中で『将斗』に変換された。将棋だから将斗で、サッカーだから蹴斗。この奇妙に符合する法則性は何を意味しているのか。

 蹴斗の頭の中には色々な仮説が思い浮かんだが、どれも今ひとつ真実味というか実感に欠けていた。なにより悪夢と寝不足のせいで、考え事がまとまらないどころか放っておくと悪い方向へと突っ走るばかりだった。紀夫が実はエイリアンで、蹴斗は部室でアブダクションの被害に遭って、気がついたときには将斗という身代わりの人間に置き換えられていた、という想像が最も荒唐無稽なものだった。もしそうならば、今自覚している『蹴斗』という人格は、エイリアンのスペースシップを統御するマザーコンピュータに読み取られた脳味噌のデータを元にシミュレーションが行われているだけとでもいうのか?

 バカバカしいと一蹴するのは簡単だ。たまたまアホな夢を見ただけで、頬をつねったら痛みを感じるこの現実サイドでJリーガーの称号を手に入れたのだからそれでいいじゃないか、と蹴斗は頬をつねりながら自分に言い聞かせた。

 そう、授業でたっぷりと居眠りをして、もしそれを咎められたら昇級絡みのドタバタで寝不足だったと言い訳をして、諸々の変化に慣れる頃にはそんなことは綺麗さっぱり忘れている。

 それでいいじゃないか。

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