絶局 ≪2≫
一つの時代が終わった、とリュシエンヌは回顧した。大方の世間が知らない間に、歴史上で最も偉大な棋士の一人がその最期を遂げたのだ。そして、遠からず象棋もその歴史的な役割を終えるだろう。
グーブリエは本気で、世界をサッカー一色に染め上げる気でいる。それが彼の商売にとっても有益であると判断した瞬間に、それは確乎たる目的の一部となった。リュシエンヌにも恩を売れるし、彼女の能力のおこぼれに預かるためにも、サッカーが広まれば広まるほどありがたいのだ。
公孫紹を見送った後、リュシエンヌはサッカーの相手に窮することとなった。盤・駒・そしてルールを一瞥した瞬間には、既にサッカーの迷宮の下層に達していた公孫紹は確かに別格中の別格だったが、それにしても他の連中はからっきし駄目だった。
唯一それなりに指せたのはイシャーンで、聞けば彼には本のページを漠然と眺めるだけで、その内容を一字一句違えずに覚え、それを生涯忘れないという特殊体質が備わっているとのことだったが、それは象棋・チェス・サッカーにおいて盤面を覚えることにも応用可能だった。つまり、サッカーにしろチェスにしろ象棋にしろ、これまでに指されたありとあらゆる対局を二度と忘れないため、見聞きした限りの定跡を全て把握していた。
だが、そんなことはリュシエンヌにとっても、こと象棋・チェス・サッカーに関する限り造作もないことだった。むしろ彼女はそれらの情報を意図的に取捨選択することで、脳内により効率的なアーカイブを構築していた。
結果、リュシエンヌにとってイシャーンとの対局は、途中までは過去に指された特定の対局をなぞるだけのものであり、前例のない展開に突入してよーいドンとなった途端に綻ぶ、実に面白味の欠けるものだった。しかし、対局相手の心理状態が手に取るように分かるリュシエンヌにしてみれば、イシャーンが常に全力で指してくれていることもまた痛いほど承知しているので、ただただ感謝とフラストレーションが絶妙に入り交じった複雑な思いに悶えるしかないのだ。
そうして、リュシエンヌはお忍びでサッカー場へ出かけるようになった。そこで彼女は後に運命的な出会いを果たすのだが、それはまた別の話である。
一方、公孫範は正式に斉の王位を受け継いだのであったが、これまた立ち会った人間が十人程度と、寂しい即位式となった。当の公孫範本人も、公孫紹が危篤となるまで彼が斉の王族であったことすら知らされておらず、それを伝えた夏侯嬰に対して「こんな神妙な場でふざけてんじゃねーぞ」と激昂したくらいには、その地位を受け入れる準備も覚悟も出来ていなかった。その後も、やれ国土もない国の王なんざやってられるかだの、後宮を用意しろ話はそれからだだの、散々ごね散らかして夏侯嬰らをやきもきさせた。
しかし、彼も心のどこかでは気づいていたのだ。なぜ船が嵐に巻き込まれて難破したとき、彼と公孫紹が救命艇に載るべき人員に選ばれたのか。なぜ彼が東インダス会社株式の保有名義人かつ役員に自分が選ばれたのか。それはとりもなおさず、彼が特別であったからなのだ。
そして結局のところ、公孫紹が言い放った末期の言葉である「国を頼んだぞ」の一言が(リュシエンヌはその頃、別の何かを聞いていたが)、公孫範の背中を押すこととなった。
船団における開拓派は、今や風前の灯火と目されるまでにその勢力を減退させたが、公孫範の存在を最後のよすがとして活動再開の機会を狙っていた。ゆくゆくは、斉国再興の宣言を行うタイミングを狙っているということでもあった。それまでは暗殺者の手を恐れて秘密裡にしていたのだが、当の公孫範に王としての覚悟が芽生えたことから、そろそろ機は熟したと判断された。彼らの手元には王族としての身分を証明する(とされる)国璽があり、100年以上前に押印された現存する斉の公文書のそれとピタリと一致した。これを手元に置いていることで、斉がかつて滅びた国家といえども、王族としての正当性や格式は文明圏であれば尊重されることが保証されていた。
彼らの活動再開は時間の問題というところまできていた。
季節は夏に差し掛かっていた。
パトリエール公国城内の庭園では、ヒマワリが花を咲かせていた。白塗りのガゼボは、その袂に小さな陰を落とし、ささやかな涼をそこで憩う者に与えていた。
テーブル席にリュシエンヌを呼び出した公孫範は、約束の時間を10分ほど遅れてやってきた。従者のラミーヌとノルベールが、サッカーの盤と駒の一式を運んでくる。
「公女を呼び出しておいて10分遅刻とか、ご大層な身分ね」
「王位を継承したばかりなんだ」
「何が王位よ。国土もない癖に」
二人が押し問答をしている間に、従者二人が盤をテーブルの上に設置し、対局の準備を整える。公孫範が着席すると、そのまま従者たちは退席した。
「私とはもう対局しないんじゃなかったっけ?」
「気が変わった」
いつものポーカーフェイスで公孫範が言い放った。しかし、リュシエンヌにしてみれば、いくら表情を取り繕ったところでひとたび盤をはさんで対峙すれば、その心中は筒抜けなのだ。そう考えると、無性に可笑しくなった。
先手の公孫範が採用したのは、3-4-3システム。前衛に
対局は静かに始まった。公孫範の狙いは、前衛の飛車をサイドに散らせてセンタリングから守備を切り崩すという算段にあったが、リュシエンヌの分厚い中盤に阻まれて前線にボールをフィードできない。次第に、公孫範は長考に沈む素振りを見せ始めた。
時間制限は設けなかった。手元に対局砂時計がなく、時間で追い立てるのは無粋だと互いに無言で同意した結果であった。
そもそもリュシエンヌは時間制限のルールが嫌いだった。盤を介した対話に集中できなくなるからである。一方で、相手を制限時間で圧迫する時間攻めは滅法得意だった。より正確には、相手の持ち時間を目一杯利用して考えてからの早指しで、自分の持ち時間をとにかく減らさないという姿勢を徹底していた。
時間制限のないルールで彼女は特に早指しをしないので、よほど時間制限ありの対局が嫌いなのだと噂された。そしてその噂は事実であった。
焦れるような展開に、先に音を上げたのは公孫範だった。
彼は中盤で散々追い回された挙げ句、ボールを前方にクリアして主導権を明け渡した。飛車をディフェンスに回す余裕のない状況で、相手の攻勢を受けるのが極めて困難となった。
勝負の趨勢は決した。
「なあ、リュシエンヌ」相手に手番を渡したタイミングで、公孫範が切り出した。「俺たちと一緒に来て、俺の王妃になれよ」
小さな雲が庭園に陰を落とした。視界が仄かに青みがかり、風が心持ち涼やかになる。
この時間は、もう長くは続かない。
短い沈黙の後に、リュシエンヌは手を乱すことなく駒を前へと進めた。
「私も一国の公女だから、国を失う痛みは想像できる。そして、この国に同じ命運を辿らせるわけにはいかないと思っている」
ボールが前線へと供給される。
「俺は国を再建するよ。それが爺さんとの約束だ」
ラオシーは、と声にしかかったところで、リュシエンヌは思いとどまった。
彼女と意識の深層で対話した公孫紹は、亡国に何の関心も感傷も抱いていなかった。
公孫範は、曾祖父の象棋に対する思いやその才能を、これっぽっちも受け継いでいない。そして、公孫紹が意識の表層で呟いたうわごとを真に受けて、それを後生大事に抱えている。だが、それを指摘して何になるというのだ?
走馬燈の中で見た夏侯嬰の一族と思しき人物も、斉という亡国を再び地図の上に取り戻そうと、何世代にもわたって何千海里という船旅を続けてきたのだろう。
公孫範は、そうした人々の思いをその一身に背負っている。それは事実だ。しかし、力もない癖に見る夢だけはひたすら大きい彼らは、リュシエンヌから見ると間抜けなピエロのようでしかなかった。
「国の再建だとか、本気で可能だと思っているの? 船団で立場を失って、嵐で仲間を失って、今の貴方たちには何も残ってないじゃない」
思わず強い口調で飛び出した言葉に、リュシエンヌ自身がばつの悪い表情を浮かべた。
一方の公孫範は、顔色を一切変えずに駒を進める。両取りを放置して、自陣を固める一手だ。悪あがきに過ぎないが、終局まで最も手数を稼ぐことが出来る手であった。
「やるよ、出来るさ。立場も仲間も、手に入れてみせる。そして何よりも、俺にはお前が必要なんだ」
「……私の能力が目当てなんじゃないの?」
「じゃあ、俺の心に聞いてみろよ。お前の能力で」
そんなことは言われずとも、リュシエンヌは一手目から知っていた。公孫範の覚悟も、気持ちも。サッカー盤に没入しての、深層意識を介した干渉も、腹を括った人間の前では無力であることも。
そもそも、彼女の能力を知った上で対局を申し込んできていることから明らかなのだ。彼が真剣にその覚悟を決めて、それを包み隠さずリュシエンヌに打ち明けようと思っていることは。
それでも、一縷の希望にすがるのを止められなかった。
「貴方たちは、この国に対して多大な貢献をしてくれた。功績からして当然に重臣に登用されるべきだし、私もお兄様もそう望んでいる。無理に航海に出る必要なんかない。この国で暮らせばいいじゃない」
そう言いながら、リュシエンヌは盤面の駒を進める。それは的確に、相手の
「国を失う痛みを知ってるんだろ? じゃあ俺たちの意思も察しろよ」
もちろん、そんなことは察している。それゆえの、一縷の希望だったのだ。
「私もこの国を守らないといけない。だから、一緒には行けない」
「そうか」
雲が流れ、夏の日差しが戻ってくる。
公孫範が、自陣の王将を逃がす。リュシエンヌがそれを追い詰める。
子供にでも分かる三手詰めの局面になったところで、公孫範が頭をかいた。
「うん。ないわ、ありません。負けました」
58手目が指されたところで、投了が宣言された。
リュシエンヌは黙って頷いた。
「結構これでも練習して臨んだんだが、まるで歯が立たなかったわ。爺さんとお前はやっぱ別格だな」
さばさばした表情で、公孫範は言った。
対局が終わる刹那、リュシエンヌは知ってしまった。公孫範が新たに覚悟を決めたことを。この場所が、この国で暮らす人々が、彼の中で過去に変わってしまったことを。
彼と最初に象棋で対局したとき、この男はとことん根無し草なのだと、リュシエンヌは子供心に思った。きっと定住なんて出来やしないだろう。あの対局は9年前のことだ。そしてリュシエンヌは、人は簡単には変わらないのだと学んだ。
「そう、ラオシーは別格だった。彼が眠る場所は、私たちが命懸けで守る。だから、たまには花を手向けに来てあげてね」
「ああ」
気が抜けたような返事で公孫範は応じ、そのまま庭園から歩き去った。リュシエンヌは、陽炎に溶けていく彼の後ろ姿を見送った。
こうして、公孫範にとって最後の対局が幕を下ろした。
彼はこの日以降、終生にわたって象棋もチェスもサッカーも指さなかった。
二日後、港湾都市を一隻の船が発った。公孫範・夏侯嬰・シンタウィーチャイ・イシャーン・シャハーブ・ラミーヌ・ノルベール、他数名が乗っていたと伝えられている。
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