絶局

絶局 ≪1≫

 プニエ公国領主レオポルド公が戦端を開き、西エルミリア大陸の過半を巻き込んだ戦禍は、大陸の各地に様々な爪痕を残した。それは休戦協定が結ばれてから3年が経っても、随所に面影として散見された。荒らされた農地や略奪の対象になった家畜などは、そう簡単に元の姿には戻らなかった。もちろん、死んだ人間が生き返ることもない。

 しかしながら、残された人々がその歩みを止めることはなかった。

 ほとんど不可能だと思われていた港湾都市の奪還を果たしたパトリエール公国は、長年にわたる抑圧で失ったものを取り戻そうとするかのように、活況に浴していた。ことに、港湾都市と居城の城下は、人で溢れていた。

 夏侯嬰らの所属する船団内で現在第二勢力である司馬良らのグループは、グーブリエと交易に関する協定を結んだ。結果、海路による通商の道が開け、パトリエール公国に多くの富をもたらすことになった。

 また、文化としてのサッカーも日を追うごとに市井に浸透していった。大きな街ではサッカー場と呼ばれる施設が造られ、老若男女を問わず人が集まった。それはパトリエール公国やプニエ公国に限らず、エルミリア大陸全体に共通した流行となり、来る世界杯ワールドカップへの機運を盛り上げていた。

 サッカーの普及団体は、大まかに分けて二つが存在した。一つは、FIFA(Fédération Internationale de Flegier Association)と呼ばれる、エルミリア教会が主導するシノドで、主に道場系のサッカー場を運営した。プニエ公国の司教が出資するとともに代表を務めていた。ここでは教会を訪れる信者を対象にサッカーの指導が行われる傍らで、定跡や新手の研究も盛んになされ、発展した。

 二つ目はESA(Elmiria Soccer Association)であり、こちらは商工会が共同出資して賭場系のサッカー場を運営するギルドである。そこでは、一対一で差し向かいの賭けサッカーが行われることもあれば、参加者からの出場金に商工会からの出資金を積み増して賞金とした小規模な大会などが催された。特にサッカー賭博で生計を立てる者は真剣師と称され、花形のサッカー選手として喝采を浴びた。

 二つの団体はお互いに切磋琢磨し、それぞれに得意とする領分を伸ばしつつ、両輪となってサッカーの普及に貢献した。

 これはリュシエンヌが望み、グーブリエが暗躍することで、実現した世界の姿であった。しかしながら、これはささやかな一歩に過ぎないことを、リュシエンヌ本人が強く自覚していた。航海に喩えるならば、船が出来上がったというだけだ。大海原に待ち受けているだろう幾多の困難とは、これから向かい合っていかなければならない。


 それは、春の夜の出来事だった。

 パトリエール公国の居城内にある庭園は、朧月おぼろづきもやがかった光に包まれていた。周囲の世界のあらゆる音から隔絶された空間は、蝶の羽音ですら存在を許されない、深く静かな海の底を連想させた。スミレ、ローズマリー、アネモネの花が、散歩道の奥へと誘導するかのように、赤紫の整然としたグラデーションを描いていた。その先には、白塗りの小さなガゼボが立っていた。屋根の下には、手入れされた二脚の白椅子とテーブルが並んでいる。

 そこは、リュシエンヌにとっての憩いの場所だった。

 バラスターに腰掛けながら、リュシエンヌは夜空を見上げていた。月の手前を、薄い雲が絶えず流れていた。決して届かない天界の河に月が沈んでいるようだ、と彼女は思った。

 こうして物思いに沈むことは、心のおりを追いやるのに必要な儀式の一つであった。

 どれほどの時間そこにいたのか、リュシエンヌには分からない。月にかかる靄が濃さを増し、庭園の闇が深まった頃に、一人の男が音もなく現れた。

「その近づき方、心臓に悪いからやめてもらえない?」

「ガキの頃にそう躾けられたんだ。すまないね」

 と、公孫範は返答した。その声色に、リュシエンヌは普段とは違う気配を感じた。僅かばかりの翳りをまとった、重苦しい気配だ。

「あまり具合がよろしくないの?」

「そのことで来たんだ。ついてきて欲しい」

 二人は、庭園の緩やかな勾配を下り、白の奥へと続く長い回廊を無言で歩いた。

 長らく、この時が来る予感はあった。そのために、皆が何かしらの覚悟を決めていたことは確かだ。しかしながら、いざその時が訪れると、穏やかな心持ちでは居られない。

 病室のベッドに、公孫紹は臥床していた。痩せ細ったその体は抜け殻のように静かで、時折あえぐような呼吸をする以外は枯れた倒木のように動かなかった。

 傍らのイシャーンは、眉間に皺を寄せながらそこにいた。今にも消えそうな種火を見守るかのようだった。

 夏侯嬰、シンタウィーチャイ、ラミーヌ、ノルベール、シャハーブがさらに控えていた。

 リュシエンヌが近づくと、公孫紹は僅かに首を持ち上げた。

「莫迦な……」

 イシャーンが驚いたように呟いた。この状態で首を動かすことは、病状の見立てから有り得ないことだった。

 しかし、その言葉を無視するかのように、そのまま公孫紹は上半身を持ち上げた。生気はまるでない。心拍の気配すらない。だが、いずれ避けられない死を迎えることと同様に、リュシエンヌと向き合うことが彼には必要なのだった。そう定められていたから、老人は起き上がったのだ。

 ベッドの傍らに用意された椅子に座り、リュシエンヌが口を開いた。

「象棋を用意して下さい」

「ご老人の体に障ります」

 彼女の言葉を諫めるように、イシャーンが遮った。

「ラオシーは指したがっているのです」

 リュシエンヌがラミーヌを睨めつけると、彼は抗うこと無く象棋の盤と駒をベッドの脇に据えた。かつて東洋から渡ってきた、使い古された盤と駒だ。パトリエール公国が数奇な運命に翻弄されたとき、リュシエンヌに戦うための牙を与えた、まさにその盤と駒だった。

 先手を握ったリュシエンヌがとった初手は仙人指路、それを公孫紹は飛象で受けた。

 長い戦いが始まった。

 象棋盤には、自陣と相手陣との中央に縦走する線が引かれていない領域が存在する。河界と呼ばれる、双方の陣の間を走る河を模した境界で、象あるいは相はこれを越えることが出来ない。

 リュシエンヌが対局中に思い浮かべるイメージは、常にこの河界を自在に泳ぐというものだった。河界が仮想の河川であるならば、意識はその河川を時に遡るように、時に潜るようにして、没入するのだ。

 そして河の向こう側にいるはずの公孫紹は、いつだって遠く霞んでいてその姿を決して掴ませなかった。

 その距離は、さっき見たの朧月のように遠いのだ。

 しかし、今宵は少し様子が違った。

 イメージの河界は、水底から浮かび上がる光の粒の数を、いつになく増やしていた。水面に向かって溢れだしていく蛍の群のように。

 着手は冴えていた。思考はクリアで、目的があった。河界の見通しは限界まで澄んでいて、蛍の群が導く先には確実に正着があった。

 その糸を辿るように、リュシエンヌは進んだ。


 音楽が聞こえる。異国の音楽だ。

 弦と笛による演奏のようだが、聞いたことのない音色だ。

 朱色の門扉、鱗のような陶器で覆われた屋根。すれ違う、派手に着飾った異国の女たち。

 空ばかり見ているのは、誰かの胸に抱かれているからで、次第に景色は灰色に色あせていく。そして雨が降る。

 国を追われている。或いは、その国は滅亡したのかも知れない。

 約束の地へ。

 わずかばかりの手がかりが残されていた。船団は、それをただ一つの頼りにして先へと進む。

 海路を、ただひたすら南へ、南へと進む。


 船が燃やされて、飛び込んだ夜の海で水をしこたま胃と肺に飲み込む。

 矢が絶え間なく空を行き交い、船底に隠れながら嵐が過ぎ去るのを待ちわびる。

 赤く鉄の味がする海を、ひたすら泳ぐ。

 死と隣り合わせの毎日を送っていたある日、象棋と出会う。

 船旅の娯楽は限られている。

 少年は象棋にのめり込み、象棋の迷宮に囚われる。出口はない。ただ深ければ深いほど、昏ければ昏いほど、見えなかった扉の先が静かに開かれる。

 恐怖ばかりが日常を覆った結果、彼の心は徐々に現実から離れていく。

 寂寞とした絶海の底で、ひたすらに象棋の迷宮の先にある約束の地を求める。


 公孫紹は本当に空っぽだったのだ。リュシエンヌは、目眩めくるめく走馬燈の中で理解した。

 少なくとも、現実世界と意識とを繋ぐチャネルは荒っぽく塞がれ、表層に浮かび上がる心理のどこにも真実の彼の姿はなかった。

 光の粒が指し示す先は、まだまだ深い。

 しかし、この先に公孫紹がいる。確実に。この軌跡こそが彼の足跡であることを、リュシエンヌの本能が告げていた。

 行かなければならない。

 この光が消えてしまうまでに、公孫紹を見つけなければならない。


 暗殺者の手口はいつも決まっている。気にかけたところで、結果は変わらない。夏侯仁が始末する。ゴミのように捨てられる連中は、使い捨てられる象棋の兵・卒のようだ。

「お気をつけ下さい」

 青年の耳はその言葉を無視する。

 船団は武装し、西進する。異文化の色彩が濃くなる。

 彼は、チャトランガ・シャトランジ・チェスと出会う。そこには象棋と同じように、迷宮がある。迷宮は相互に絡み合った、奇怪な姿をしている。

 深入りはしない。一人の人間に出来ることは限られている。彼にとっては象棋の迷宮ですら、果ての無い行程だ。しかしながら、迷宮同士が互いに絡み合っているから、気付かずにチェスの迷宮の深部に出くわすこともある。

 その結果、いずれのゲームにおいて誰も彼には敵わない。


 結婚生活は、彼に子供を授ける。

 妻となった女は、早世を運命づけられていた。

 子供の命と引き換えに。

 彼は、その子供を乳母の手に託す。

 全てが、夢の中で起きた出来事のように思える。そしてその夢には興味が無かった。

 象棋と妻や子供と、どちらをより愛しているのか。

 そう詰問されたとき、彼は答を持たなかった。

 象棋に対する執着は、もはや愛でも憎しみでも義務でも人格の一部でも無い。

 ただ、目的なのだ。

 靴が土を踏みしめるために作られるように。筆が文字を書き綴るために作られるように。

 彼はただ象棋を指し続ける。


 船団は、約束の地を目指した最後の航海に出る。

 幾十年にも及んだ旅は、彼の姿を老人に変えている。

 そして船は嵐に遭い、一行は命からがら異国に流れ着く。

 その国で、彼は再び象棋と出会う。予期しなかった再会。

 彼はそこで、光り輝く素材を見つける。

——さあ、おいで。僕が囚われた迷宮に足を踏み入れたのは、君が初めてだ。捕まえてご覧。僕はいつだってここにいる。

 迷宮に誘い込まれた少女は、深部へと繋がる道を迷いなく進む。素晴らしく筋がいい。彼は未だかつて、ここまで指せる相手に恵まれたことがない。

 より高度な概念を獲得するためには、天文学的な数の分岐を考慮に入れて指し進めなければならない。それが、象棋の世界における論理の体系だ。

 少女には躊躇がない。そして対話することを欲している。象棋の論理を、その手段として。

 しかし、彼までの道のりは長い。

 いつまでも楽しんでいたいけれど、人の命には限りがある。彼にとっては痛ましい事実だ。

 絶局。それは、指し手にとって生涯最後の対局を指す。

 待ちくたびれた。

 彼の意識は、いよいよ閉じようとしている。走馬燈の光は淡くなり、仕掛けは動力を失う。映写機のコマ送りが粗くなる。絵は静止する。


 水底の光が、急激に弱まっている。すれ違う蛍光はまばらで、その輝きも淡い。

 死期が迫っている。リュシエンヌは、加速度的に没入する。脳が座標を演算する。天文学的な数の因子を方程式に組み込みながら。

 幾多もの選択肢を背後に打ち棄てていく。行き止まりへと導く、誤った選択肢だ。

 正着。正しい道筋は、細く分岐した糸の先にのみ存在する。

 光の導きは、ほとんど尽きている。彼女は、自分で正しい分岐を選ばなければならない。瞬時に。それでも、ごく稀にすれ違う光があるたびに、この道が正しいのだと知ることが出来る。

 公孫紹が何十年にもわたって辿ってきた道筋を、リュシエンヌは十年足らずで踏破してきた。その長い長い最後の一歩を、彼女は踏み出す。

 ついに最後の扉が開かれる。


 そこは船室のようだった。窓から見える景色は、四方を輝くような海に囲まれている。そして、足元は波に合わせて微かに揺れている。

 青年の姿を一目見るだけで、リュシエンヌにはそれが公孫紹だと分かった。

 しかし、彼の言葉はリュシエンヌが予期していたものとはいささか異なっていた。

「よくここまで来たね、リュシエンヌ。僕の名前は孫紹。斉の国王だ」

 そう彼は言って、木の床に直接腰を下ろした。リュシエンヌにとっては慣れない所作だったが、彼女もそれを真似て座った。

「詳しいことは文則が話すだろう。もっとも、僕にとって失われた国の王位などどうでもいい話だから、訊かれても何も答えられない」

「ここが貴方の終着点なのですか?」

 リュシエンヌの質問に、孫紹ははにかむような笑いを見せて答えた。

「そうは呼びたくないけれど、仕方ないね。僕の旅はここで終わりだ。伝えたいことは全て伝えた。ここから先は好きに進むといい」

「私は象棋やチェスを政治的な目的のために利用しました。構わないのですか?」

「構わないさ。むしろ、僕自身にそのくらいの気概があっても良かったかも知れない。その辺りは人それぞれだ。でも本当のところ、本気で政治目的のために象棋にのめり込んだのかい? 象棋で、人と対話したかったからじゃないのかい?」

 諭すような、見透かしたような口調で孫紹は言った。

 リュシエンヌはたじろいだ。

「そうですね、そうだったのかも知れません」

 その返答に嘘偽りはない。父と対話できたときは嬉しかった。そして、今こうしていることも。

 程なくして、船室はまばゆい光に包まれていく。もしくは、この景色そのものが消えていく。

 精神世界は音も無く崩れ、彼女の意識は再び盤面の上に戻される。


——109手を以て後手投了。

 公孫紹の絶局は、かくして幕を下ろした。

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