擾乱 ≪9≫

 東インダス会社は、夏侯嬰らの船団と東エルミリア大陸・東大陸の交易商連合の共同出資により設立された会社であり、東大陸中央部の開拓・交易に関する諸事業を手がけることが主な業務であった。出資比率は、船団側と交易商連合側との間で51:49にすることで折り合ったが、直後から凄絶な経営権争いが繰り広げられることとなった。

 船団側に株式の過半数に当たる51%が割り当てられたのは、双方の軍事力と陸運力・海運力を勘案した結果である。だが実際には船団側・交易商連合側の双方が内部に反目し合う組織を持っており、株式はそのようなグループにもくまなく行き渡ったため、主導権の所在は常に曖昧であり、かつ常に変動した。

 船団内において株式の保有比率を巡って最も激しい争いを演じたのは、夏侯嬰らの開拓派と、これ以上の航海を望まない逗留派であった。逗留派の勢力が弱かった頃であれば、当初から海運力を背景に交易商連合と強かな交渉を続けてきた開拓派が、時には交易商連合側の票を取り込むことによって、数の優位を得ながら議決権を行使することが出来た。

 しかしながら、度重なる航海による出費がかさむにつれ、開拓派の交渉力は衰え始めた。最終的に資金繰りのために株式を手放す必要に迫られるに至り、開拓派は東インダス会社に対する影響力の大半を放棄せざるを得ない状況に陥った。

 東インダス会社の社則によって、株式の売買は基本的に株主間に限られており、外部の人間に株式を売却するには、取締役会での承認が必要である。よって、手っ取り早く売却するには、おのずと船団内の株主か、交易商連合に加入している株主のいずれかに売ることになる。

 出資比率51:49の均衡は、船団側が議決権を行使するためには何をおいても保つ必要があり、このパワーバランスを崩すことは最後の手段として保留されてきた。この境界を踏み越えれば、開拓派のみならず船団の凋落も決定的となる。いかに逗留派と対立していたとはいえ、開拓派にとっても支持組織である船団そのものの立場が揺らげば、共倒れに終わることは明らかであった。

 逗留派に株式を買い取ってもらうという選択肢もあった。うわべ上は船団全体としての権勢を保ちつつも、軍資金を積み増すことの出来る手段ではあった。しかしながら、これでは開拓派が完全に逗留派に屈する形となる。逗留派だけで議決権の過半数を占めるとなれば、いよいよ開拓派として付け入る余地がなくなる。

 そこで若き日の公孫範は一計を案じた。

 原則的に船団の肩を持ってくれるような第三者を巻き込むことであった。

 取締役会で議論される重要案件は、を以って承認される。つまり、議決権の総票数が100であれば、常に51の賛成票を必要とする。これの意味するところは、20票が棄権ないし資格喪失であっても、承認に必要なのはであり、その場の有効票数である80の過半数の41票ではないということだ。そして株式を譲渡する際の承認は、譲渡対象となる株式に紐付けされた議決権は無効票として扱われる。

 船団から第三者へ株式を売却するという議案に関して、交易商連合にとって賛成票を投じるのに躊躇する理由はなかった。その第三者は、ひとたび株式を保有すれば株主に格上げされるため、今後の株主同士における株式の売買・譲渡を行うのに再び取締役会の承認を必要とすることはない。そうなれば、船団側の株主から株を買い付けるよりも、その第三者から購入する形で取引が成立する公算が高くなる。結果として出資比率の51:49の均衡を切り崩すことが出来れば、多くの権益を得ることが可能なのだ。

 当然、これは船団にとってはあまりにリスクが高い行為である。よって、これを取締役会で認めさせるには、同じ船団内から賛成票を得るという高いハードルを越えなければならない。

 公孫範らが当時握っていた株式の比率は、全体の18%に相当した。これが丸々交易商連合に渡れば出資比率は33:67となり、会社はほぼ完全に相手の支配下に収まることになる。持分が全体の2/3以上に達することで、特別決議が可能になるからだ。

 そこで公孫範は、1%だけを手元に残して、余りを更に分配することにした。すなわち8%を売却し、9%を第三者に譲渡するのだ。

 売却先は逗留派のナンバー2と目されていた司馬良という人物であり、夏侯嬰らの航海に対しては消極的反対の態度を示していたグループの筆頭であった。その主張は、航海は財政的な下地を整えてから行うべきである、という至極全うなものであった。しかしながらその主張は、公孫範の考えとは相容れなかった。

――そんな悠長なことをしていたら、爺さんにお迎えが来てしまう。

 司馬良へ株式を売却する際の条件として、『9%に相当する株式の第三者への譲渡』という議案に賛成票を投じることが提示された。当初はその条件に対して渋い顔を返されたものの、譲渡先が決まって譲渡証明書が本部で確認されるまで、譲渡分にあたる9%相応の議決権も司馬良に委任される、という条項を加えることで成立にこぎつけた。

 こうして公孫範は、東インダス会社の資本金の9%に相当する額の株式を第三者に譲渡するために必要な譲渡証明書を手に入れたのだ。


 シャトランジの対局がもたらした混乱は、室内で唯一冷静を保っていたリュシエンヌの抜かりない指示によって、次第に沈静化した。対局直後には大きく取り乱していたシャハーブは、グーブリエ側の従者二人によって部屋の隅のソファに横たえられ、見守られている。グーブリエは彼らを奥の部屋に下がらせようとしたが、リュシエンヌは何がおきるか分からないとして、この部屋にとどめ置くように要求した。

「この部屋で起こったことは、他言無用でお願いしたいのです」

 騒動がひと段落した後に放たれたリュシエンヌのこの言葉こそが、恐らくは本音であろうと居合わせた誰もが考えた。

 グーブリエは、公孫範を『いい加減なようで抜け目がない』と予め評していたが、この齢14に過ぎない公女に対しての認識も、当初の印象から改めなければならないと感じていた。交渉における強かさではまだ公孫範の域には達していないが、彼女は自分の強みや切り札が何であるのかを知っており、それを最大限に生かすためには仲間内に対してすら平然と『嘘』を吐いて憚らない底の知れなさがある。それは、今の対局を見て慌てふためく公孫範やシンタウィーチャイの様子からも明らかだった(彼らが演技をしていない限りにおいては、であるが)。

 そして、底が知れないのならば、どれほどのものか確かめたくなるのが人情である。

「他言無用、ですか。話したところで、どれだけの人間が信じるかは疑問ですがね」

 と、グーブリエは試すかのように言い放った。その好奇に満ちた目元には、この期に及んで相手を値踏みしようとする魂胆が透けて見えた。

 だが、これに対するリュシエンヌの返答は、そのようなケチな目論見で揺らぐものではない、と端的に示していた。

「たとえ頭から信じなくても、『チェスで相手を発狂させた』などという噂を立てられた人間と、敢えてチェスを指したいと思えるでしょうか。それに私の父は、象棋を長らくまじないの道具だと思っていたくらいですから、チェスをその手の魔導器か何かとする誤解が広まるかも知れません」

 シャトランジの駒と盤が部屋の隅に寄せられ、四者は再びテーブル越しに相対することとなった。ここから先は、交渉のターンである。

「それでは、取り決めどおり東インダス会社の株式をここでオープンにして頂こう」

 まずは、グーブリエが先に要求した。

 それに応えて、公孫範が先ほど提示した革袋をテーブルの上に置き、それとは別に一枚の獣皮紙を小さな筒の中から取り出した。東インダス会社の様式に適合する、株式の譲渡証明書だ。双方の署名が成されれば譲渡は完了する。

「これを手に入れるまでが骨だったのよ」

 と公孫範は懐かしむように言った。

「どれ」

 グーブリエはその証明書を見定め、その額を見積もった。譲渡される株式は、全出資金の9%に相当する額と明記してある。

「とある筋からの情報では、貴方たちは現在10%程度の持分を保有しているはず。間違いありませんかな?」グーブリエが訊くと、公孫範は素直にうなずいた。「ふむ。ではなぜ先ほど『持ち株の半分に相当する額面の株券が入ってる』などと嘘を吐かれたのですか? この記載を信じる限り、ここには9%分、入っているようですが」

「それな」公孫範がまたも軽薄な相づちを打った。「袋詰めした時点ではちゃんと半分だったんだ。その後、8%売ったから、そうなった。嘘を吐いたつもりはないぜ」

 まるで悪びれる様子のない返答に、グーブリエは肩をすくめるような仕草を見せたが、気を取り直して質問を続けた。

「では、この9%を手付金として頂いてもよろしいのですな?」

「いや、それは困る。俺は、袋の中身に関しては『現時点の』持ち分の半分とは言ってないが、手付金に関しては『現時点の』って言ったぜ? いや、困ったな。これを現時点での持ち分の半分に当たる5%だけ譲渡するには証明書を書き直さないといけないけど、それには新たな取締役会での承認が必要になるから、実質無理なんだよね。残りの4%を成功報酬にするのも、結局これを分割できない以上は無理だし。だから、この4%でとあるものを買う、という形にしたいんだ。いいかな? 決して高い買い物じゃないからさ」

 交渉の場で、当初は開示していなかった条件を次々と後出しするのは、余り褒められたマナーではない。だが公孫範はそれを自覚しながら言った。極めて平然と。

 ここから一体どれだけゴネられるのだろうと想像すると、グーブリエは深い嘆息を禁じ得なかった。

「ま、余り高い買い物で無ければ」

「じゃあ、次の土曜の夜、この港湾都市の住人全員に、浴びるほどの酒を奢ってやってくれ」

「それは豪気なことで……」

 金額と比較すると意外と質素な要求に、グーブリエは笑いながら応じた。そんなものはお安い御用だと言わんばかりの余裕だった。安酒ならいくらでもある、という態度だ。

「あと、そこにいるシャハーブ殿とお二人の従者を連れて帰り、パトリエール公国で召抱えます」

 横からリュシエンヌが口を挟み、グーブリエはそれに対しても黙ってうなずいた。

 虚ろな表情でソファに横たわっていたシャハーブと彼に付き添う二人の従者は、自分の意思とは裏腹に売り飛ばされることが決定した。流れ者のシャハーブにしても、港湾都市に長らく暮らしていた従者たちにしても、主人が突然替わることには慣れており、特にこれといった感慨を抱いているようには見えなかった。

 三人の表情を横目で確認し、特に問題がないと見るとグーブリエは再び正面を見据え、次の言葉を発した。

「それでは、今度は成功報酬として何を頂けるのかご提示願おうか」

「貴方が場をセッティングして下されば、私が指定の相手と最低一回はチェスを指しましょう。これでは不足ですか?」

 再び公孫範に代わってリュシエンヌが応えた。

「なるほど、なんとも報酬ですな。先ほど眼前でお示しいただいた能力を見る限り魅力的な提案でしょうが、肝となる部分はなお確認する必要があるでしょう。つまり、実際に公女殿下がチェスで対局することによって、我々はどんな恩恵が得られるのか、具体的に整理してお話頂ければ幸いです」

 この質問には慎重に答える必要がある、とリュシエンヌは察知した。自分の手の内を、ある程度相手に開示する格好になるからだ。

「まず、必勝保証をします。どんな相手であろうと、私は負けません」

「最終的に策定・統一されたチェスの種類やルールが、どのような形であっても?」

「はい」

「もし負けたら? 『いいえ、負けません』という回答ではなく、どんな担保を用意して頂けるのかをお聞かせ願おう」

「勝敗に金品や条件が賭けられている状況で負けた場合には、負け分の2倍に相当する負担をパトリエール公国が肩代わりします。事と次第によっては私が人質になっても構いません」

「それは結構なことで」

 グーブリエはうなずいたが、もちろんこれで満足したわけではなく、更なる恩恵について確認をしようと腕組みをしながら次の言葉を待っている。

「他に、交渉時に対局相手のに干渉します。感情、ないし精神状態、などと言い換えても良いでしょう。もっとも望ましい結果で屈服、そうでなければ譲歩や妥協を引き出します。その他、状況に応じてより効果的に誘導尋問などを行うことも可能です。ただし、こちらに関しては成功保証はしかねます。代わりに、屈服相当の結果が一回得られるか、相応の譲歩を複数回得られるまでは何度でも指しに伺いましょう」

「気分への干渉に関しては、結果が不確かなわけですな」グーブリエは顎を指先でさすりながら言った。何かを深く考えているような素振りだった。「ちなみに、今日のシャハーブとの対局では、どれほどの勝算で彼を屈服させられるとお考えでしたか?」

「100%」

「では、相手が私であったら?」

「あなたを屈服させる意図も必要もありませんでした。必要な譲歩さえ得られれば。現に、今の私たちがそれを手にしている程度に」

「ほう」

 試すつもりが試されてしまった、とグーブリエは感じた。自分がいつの間にか譲歩していた、とする発言は挑発とも受け取れた。

 実際問題として、東インダス会社の株式は彼にとって捨て難かった。ひとたび株主になるだけで、今後は取締役会の承認を経ずに株を売買できることになる。その結果、東エルミリア大陸の交易を牛耳る交易商連合に対して、西から効果的な牽制を行うことが出来るだろう。また会社運営を通じて船団とのコネクションが強固になれば、莫大な海運力を背景に通商がますます順調に運ぶことが期待できる。グーブリエには、自分なら船団との通商を通じて東インダス会社をより巨大に育てられる、という自信もある。それ次第では株式の価値も更に上昇するだろう。

 グーブリエにとって、損をしたことなど一つも無いはずだった。

「これで、大方の議案が片付いたようですな。大雑把にまとめると、貴方たちは東インダス会社の株式のうち9%相当を手付金として我々に譲渡し、成功報酬として公女殿下がチェスの代指しをする。我々はチェスの統一ルールを策定し、これを差しあたりエルミリア大陸に主に賭けの手段として普及させる。あと次の土曜の夜には城内にいるもの全員に酒を振る舞い、この部屋にいる従者二人とシャハーブはパトリエール公国が召し抱える。何か条件に見落としはないでしょうか」

「それでいいぜ。条件の詳細は紙に書いておいたから、譲渡証明書ともども署名をしてくれ。それでこの件に関する交渉は仕舞いだ」

「相変わらず用意周到なことですな」

 公孫範から二枚の上質な獣皮紙が手渡され、グーブリエがそれをにこやかに受け取った。生きた白鳥の風切羽から作られた羽ペンをインクに浸しながら、グーブリエが雑談をはじめた。

「それにしても、驚かされてばかりですな。当初、文則殿からパトリエール公国の公女殿下と会ってもらいたいと連絡を受けたとき、私はてっきり戦争を終わらせて欲しいと泣きつかれるのかと思いましたよ」

 公孫範に散々掻き回された交渉がようやく一段落した安心感からか、グーブリエの舌は滑らかだった。その発言には公女に対してかなり失礼な表現が含まれていたが、もはやそれを気にかけるだけの張り詰めた雰囲気は失われていた。

「アハハ、そんなことしがない露天商に頼まないって」

 負けじと公孫範も饒舌かつ失礼であったが、彼の場合は最初からその姿勢を徹底している。

「これからその露天商は、南方へ参ります。ひとまずは全世界のチェスに関する資料を集めるつもりです。この周辺地域は、現時点ではあまりに戦乱の影が濃くて、とてもチェスなどのお遊戯を普及させるような状態ではありませんからな」

「ま、戦争は何とか俺らが終わらせるから」

「楽しみにしております。つまりは、そういうわけですから、依頼の完遂には数年かかるでしょう」

 両者の間で署名が交わされ、長かった協議も晴れて合意に到達した。

 来るときには三人だった一行は、帰り際には六人になっていた。シャハーブは両脇を従者に抱えられ、揺れる水面に浮かぶ小舟には辛うじて乗り込むことが出来た。

 外は相変わらず暗かった。冬の夜でなかったら、こうも悠長に構えてはいられなかっただろう。

 小舟が商工会幹部の私邸を出て、水路の角を曲がる頃、公孫範がボソッと呟いた。

「いや、手付金の話のとき、よく考えてみたら『現時点の』半分がどうとかなんて一度も言ってなかったわ」


 冬空は満天の星を湛えていた。月の姿はどこにも無かった。小舟は、浜辺からさほど距離のない沖合をゆっくりと進んでいた。凍てつくような凪の夜だったが、不思議と寒さを感じている者はいなかった。

「シャハーブさん、先ほどの非礼をお許し下さい。ラミーヌさんとノルベールさんも、突然のことで申し訳ないと思っています」

 リュシエンヌが、シャハーブと二人の従者の名前を呼びながら、先ほどの顛末を謝罪した。

「……結局あれは、何だったんだ」

 今ではすっかり落ち着きを取り戻したシャハーブが、リュシエンヌに質問した。

「ペルシュナ国からエルミリア大陸へ流れてくる方の大半が、先のエルミリアン・クルセイダーズの東征に巻き込まれたとお聞きしています。そして、祖国に帰るに帰れないとも。だから、貴方の心に根ざす闇を利用出来ると思ったのです。私には、チェスの対局相手の心の奥が見えるし、その深い部分に触れる能力があります」

「いやあ、ぶっちゃけ公女様の能力、恐ろしいよな。俺なんてもう二度とチェスで対戦したくないもん」

 公孫範の軽口を無視して、リュシエンヌが話を続けた。

「私が相手の心理に干渉することが出来るのは、チェスだけではなく、シャトランジでの対局でも同様です。手を進めるうちに、貴方が抱える心の闇の根底には、クルセイダーズの捕虜になり棄教を迫られたトラウマがあるのではないかと見受けました」

「そんな具体的なことが分かるのか」

「伝わってくるのはもっと曖昧な、心理という湖に溶かした絵の具の模様のような気配です。ですが、信仰に関するトラウマは独特の気配をまとっているので、察知しやすいのです。後はシャトランジでの手筋を通じて、心理的なプレッシャーをかけるだけでした。王を捕らえにいく過程は、相手に戦時のトラウマを想起させやすいので、敢えて逃げる筋道を残して追い立てました。勝ち筋のほとんど残されていない終盤は、能力による干渉を抜きにしても精神力が削がれるものです。自然と、トラウマは無防備になります」

 リュシエンヌの言葉を、シャハーブは困惑を隠しきれない表情で聞いていた。先の対局の終盤に感じた想像を絶するような恐怖は、自分が実際に過去に経験した恐怖を追体験するかのようだった。それを、シャトランジを通じて人為的に発生させる? まともに理解するには荒唐無稽すぎる内容だ。だが、彼自身が肌で感じた感覚としては疑いようもない。

「素直に納得のいく話ではないが、実体験した以上は信じるしかあるまい。種明かしをしてくれて感謝する。気が楽になった」

 一行の小舟がオルウィ川を河口から遡り、居城の堀へ戻ってくる頃には夜が明けていた。

 ラミーヌとノルベールの従者二人は、イペリオン将軍付となった。

 シャハーブは、イシャーン付の秘書になった。そして初日から、彼の恐るべき読書量に舌を巻くこととなった。


 大陸暦754年2月24日(日曜日)未明、港湾都市は海上からの侵入を受けた。前夜は多くの住人が飲み明かしていたと記録されている。

 陸での戦闘力を10とするなら水上では100だ、と豪語するイペリオン将軍が率いる水軍は、あっという間に港湾の軍施設を無力化した。

 港湾都市の価値が下がり、プニエ公国の国力が衰え、防御が疎かになるこの瞬間を、彼は何年も待っていたのだ。

 小舟十艘に分乗した60人程度の軽装部隊だったが、イペリオン将軍の無双ぶりもあって、守備側にはその何倍もの兵力に感じられた。文字通り水際での防衛に失敗したプニエ公国軍は、長射程武器というアドバンテージを全く活かせないまま、日の出前には投降した。彼我共に犠牲者は僅かだった。

——港湾都市の失陥は、国の威信に関わる。

 その事実を逆手にとって、パトリエール公国はプニエ公国に対して講話を申し入れた。『近年貿易で成果を上げられていない港湾都市は、平和裏にパトリエール公国へと売り戻され、プニエ公国とは手打ちとなった』とする条件を、レオポルド公は飲まざるを得なかった。会談の席には、イペリオン将軍の威容もあった。6年前、戦場で遠目に見て以来、レオポルド公は彼のことを異様に恐れていた。彼のことを考えると酒の量も増え、ついには素面でいても足元が覚束なくなった。

 とにかく和平が実現した。継戦能力が多分に疑問視されていたプニエ公国は、これをきっかけに全ての周辺国と講和条約を結んだ。

 チェスの時代が来る。リュシエンヌが待ちに待ったその時が、そこまで来ている。

 グーブリエの工作には、まだまだ時間がかかると思われた。リュシエンヌの方とて、チェスに興じてばかりいる訳にもいかない。これからは母エレーヌや兄ワルテールと協力して、国を切り盛りしていかなければならないのだ。

 それでも信じて待ち続けていれば、必ずその日は来るだろう。

 必ず——


 大陸暦756年8月10日。

 パトリエール公国の居城に、一つの荷物が届けられた。宛先はワルテール公となっていたが、彼は鹿狩りに出かけていたため、リュシエンヌがそれを受け取った。

 大木から削り出された盤。細やかな意匠の施された駒は、これまで目にしてきたチェスのいかなる駒とも合致しないが、美しかった。そして、白の六角形と黒の五角形の幾何学的な模様が表面にあしらわれた球状の何か。

 荷物と共に届けられた紙には、ルールの説明と思しき言葉が並んでいた。

 リュシエンヌは、その説明書きを食い入るように読んだ。熟読した。白黒の謎のオブジェは『ボール』と書かれていた。

 互いのゴールへ向かってボールを運ぶ戦い。これまでにルールのチェスも指したことはあったリュシエンヌだったが、ここまで既存のあらゆるチェスやそれに類するものともかけ離れているのは初めてだった。だが、それでもチェスの本質を奇跡的に保っている。

 そして四年後に開催されると告知されていた大会、『世界杯ワールドカップ』。

 あの憎い、忌々しい、許しがたいプニエ公国の連中が、この奇妙なチェスを四年かけて世界に広めてくれるのだ。あまつさえ、自ら出資して大会まで主催するという。そう思うと、リュシエンヌは沸き立つような興奮を自覚せずにはいられなかった。

――よくやった、グーブリエ!

 もはや彼女の意識を支配していたのは、どこまで破壊的に世界杯でぶっちぎってやろうかの一点だけだった。並み居る各国代表を負かし続け、プニエで公太子をしてるお坊ちゃんの精神を完膚なきまでに叩きのめす。相手が勝利にこだわればこだわるほど、相手の深層心理の核に近づく機会は増え、そいつを圧倒的な膂力でひねり潰してやれば、即席で廃人を作り上げることも不可能ではない。

 そしてそんな芸当が可能なのは、世界広しといえどリュシエンヌただ一人しかいないのだ。

 フランソワ公の没後、打ちひしがれていたリュシエンヌを救ったのもまたチェスだった。そして対局中、無自覚に相手の深層心理と対話してしまうリュシエンヌの能力に真っ先に気付いたのは公孫範だった。

「お前と指してると、何かこう見透かされてるって言うか、とにかく不快なんだわ」

 という公孫範のデリカシーをおよそ欠いた言葉はリュシエンヌをいたく傷つけた。が、数分後にはそれが自分に固有の能力だったのだと気付かされ、彼の暴言を逆に感謝することとなった。

 その後リュシエンヌは、世界に存在するあらゆる種類のチェスとその類を公孫紹と共に指し比べ、その全てに精通し(シャハーブとの対戦時には既にシャトランジを千局以上経験していた)、公孫紹以外の人間には決して負けないレベルにまで磨き上げた。更にはグーブリエを介して、チェスをエルミリア大陸における標準的な遊技にして交渉のツールへと進化させた。

 来たるべき日に、父の敵を討つために。

 よもや、相手からその罠にかかってくれるとは!

「リュシエンヌ公女殿下、ワルテール公殿下がお戻りです」

 従者の一人が扉越しにリュシエンヌに声をかけた。

「兄様にしては早かったのですね。さぞ素晴らしい鹿が獲れたのでしょう」

 リュシエンヌは手にしたルールの説明書きをテーブルに置くと、先ほどまで表情の端に浮かべていた激情を幻のように隠し去った。そして扉を開けて従者と対面する頃には、完全に元の優雅で上品な公女リュシエンヌに戻っていた。

「プニエ公国からの贈り物とは珍しいですね」

「そうなのです。兄様宛だったのですが、あの人には興味の無いものだと思って、少し預かっておりました」

 従者と雑談を交わしながら、リュシエンヌは城へ帰還した兄の元へと向かった。

 部屋には、盤と駒と説明書きが残されていた。そしてその説明書きの末尾には、世界杯への参加者の募集告知と共に、こう記されていた。


――サッカーやろうぜ!

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