擾乱 ≪8≫

 プニエ公国の占領下にある港湾都市は、かつての賑わいを失いつつあった。レオポルド公に反駁する商人の一部が取引を中止したり、公国から派遣された役人の施政が不味かったりなどの理由によるものだった。

 唯一の救いは、レオポルド公が戦争以外の些事には一切かまけなかったことである。つまり、一向に国に利潤をもたらさない貿易都市における商工会の商業上の自治権は、領主の無関心が幸いして何とか守られていた。

 港湾施設の他にこの都市で目に引く構造物と言えば、網目状に張り巡らされた水路であった。これは、都市内部における運搬を円滑に行えるようにしつらえられたもので、多くの倉庫の地階にはこの水路を引き入れる搬入口が備え付けられていた。このように、極めて複雑な都市構造を有している港湾都市であったが、世界有数の水上マーケットを有する東大陸東南部で育ったシンタウィーチャイからすると、これは極めて快適な造りをした都市であった。


 シンタウィーチャイの家系は、東大陸東南部の漁村にその起源を辿ることが出来る。彼の先祖は代々、漁に出ては魚を捕るという、生涯決められたその単調なサイクルを繰り返すだけの人生を甘受してきた。しかし、祖父の代になり、風向きが大きく変わることとなった。村に斉国の残党からなる船団が押し寄せたのだ。

 大陸暦にして、700年前後の出来事である。

 船団は、漁村近郊にある海運交易都市を平和裏に飲み込み、彼らの支配下とした。国を追われた残党とはいえ、極東から大挙押し寄せた軍勢に抗し得るだけの軍事力を、その地域の国家は持たなかった。

 漁村は、漁を続ける者と船団に加わる者の二手に分断された。シンタウィーチャイの祖父は、結局のところ漁師であり続けることを選択した。

 それからおよそ30年後、シンタウィーチャイ自身がまだ10歳だった頃に、彼は夏侯嬰によって見出された。船団に加わるように誘われたのである。ソッピットゥヴティウォング家の八男として生まれ、家督を継ぐどころか将来にわたって生計を立てることすら覚束なかった彼にとって、その誘いは文字通り渡りに船と言えた。

 彼には、類い稀ともいうべき水脈を読む力が備わっていた。

 船団の一行が南大陸全周を為し得たのも、彼の力による部分が大きい。シンタウィーチャイが読んだのは、潮流や浅瀬、天候といった航海上で行き当たる要素や障害に留まらなかった。

 海の上に居ながらにして、人や生物の気配を読んだのだ。

 例えば、大陸と何ら繋がりのない、水平線の向こう側にある島嶼の存在を看破した。

 住民の有無から文明の規模までほぼ正確に読み当てたため、船団は原住民との戦闘なり交渉なりを、常に有利な形で進めることが出来た。そして、時には海賊団の根城と思しき場所や、彼らが財宝を隠した絶海の孤島をも言い当てた。

 いよいよ、「宝探し」をその至上の目的とする船団にとって、無くてはならない存在になるかと思われた。

 しかしその一方で、船団の指揮系統の混乱が、緩やかにその組織を浸食し始めていた。シンタウィーチャイが行く先々で発見する財宝は、数十人規模で山分けする分には申し分ない価値を有していたが、数十万人とも目される組織全体の規模からすれば、取るに足らないと切り捨てられる程度のものだった。それが、陸上で安穏と暮らす人々から、骨折り損のなんとやらと疎まれ始めたのだ。

 彼らにとって、宝の存在など夢であり続けていてくれた方が、こうして現実を突きつけられるよりも魅力的だったのかも知れない。

 こうして、「宝探し」という目的は次第に軽んじられるようになり、同時に未踏の地へと航海を続ける夏侯嬰ら一派は異端と見なされるようになった。航海に疲れたその他の大勢は、それぞれの安住の地への定着を求めだしたのだ。

 この状況を一層悪化させたのが、情報の伝達速度における時差であった。すなわち、彼らがその勢力を惑星半周分近く伸ばしている間に、意思疎通もそれだけ時間がかかることとなった。結果として、日頃から夏侯嬰一派を快く思っていなかった手合いに、次第に組織内における主導権を奪われた。

 使節団の派遣は、劣勢に立たされた夏侯嬰一派による、最後の賭けだった。エルミリア大陸を歴史上、一度はその手中に収めた北の帝国。彼らと何らかの形での提携を勝ち取れば、反対派も無視は出来まい。そういった思惑が、彼らを北の航路へと駆り立てた。

 そして、彼らは運命の日を迎える。

 シンタウィーチャイが嵐の予感を察知したとき、大人しく引き返すという真っ当な判断は、複数の理由によって阻まれた。まず一つに、使節団は組織内においても進退窮まっていたという点だった。このまま引き返せば、彼らが笑いものにされる運命は避けられなかったし、組織内における影響力は地に落ちたであろうと予想できた。

 二つ目は、嵐について所感を問われたシンタウィーチャイが夏侯嬰に告げた言葉だった。

——五分五分です。

 夏侯嬰は、嵐が来る確率を五分五分と理解し、シンタウィーチャイは嵐を乗り越えられる確率を五分五分と試算した。こうして彼らは互いに誤解を抱えたまま、死地へと舵を切ることとなった。

 そして三つ目は、シンタウィーチャイが当時の航海に連れてきたクルーの操船技術を過大評価していたことだった。平時の航海技術に問題が無いことは、直ちに荒天時の技術を保証する物ではない。

 かくして命運は決した。

 船はあっけなく制御を失い、奔流に飲まれた。仲間を多く失った中、リーダーである夏侯嬰は自分を救命艇に乗るべき一員だと指名してくれた。

 その時のことを思い出す度に、シンタウィーチャイの心に自責の念が去来した。当時の荒れた海で生きのこるにはシンタウィーチャイの櫂捌きが不可欠な状況であったことは事実だが、それ自体は彼の自責を何ら慰める要素にはならなかった。

 夏侯嬰は、どのみち自分たちには進むしか術がなかったのだ、と彼を庇った。

 シンタウィーチャイの覚悟と忠誠は、このようにして決した。

 

 夜の水路を、一艘の小舟が滑るように進んでいた。舳先がかき分ける冬の海水は、いつ凍ってもおかしくないくらいに冷たく、その冷気を水面近くに滞留させていた。船頭のオールは波音はおろか波飛沫さえ立てず、入り組んだ迷路を躊躇なく水先案内していく。

 小舟は、シンタウィーチャイ自身を含めて三人の人間を運んでいた。乗客の一人は青年、一人は少女のシルエットを有していた。街は不景気を反映してか異様に暗く、一行の隠密行動をささやかに手助けした。

 やがて小舟はとある屋敷の地階にたどり着いた。示し合わせた定刻通りに水門が開き、一行を黯然とした闇の入り口へと誘い入れた。

 水門が閉ざされガス灯に火がともされると、ようやく視界が明らかになった。そこは、商工会有力幹部の自邸であった。レンガ造りの地階に、水路を引き入れる構造が付属しているのだ。三人は取り次ぎ役の人員に身辺を確認され、客間へと案内された。

 その部屋は、少人数で寄り合う会議室程度の広さを有していた。中央には瀟洒な長方形のテーブルが据え置かれ、壁際にはいかにも珍品然とした置物が、まるで招待客を威嚇するかのように整然と並べられていた。テーブルの向かい側には体格のいい男が一人、招待客を見据えて座っていた。取り次ぎ役は、三人にテーブルの席を与えると、そのままドアの向こう側へと姿を消した。

「久しいですな、文則殿。このような場所においでだとは驚きました。それに、随分と逞しくなられたようだ」

「妙な因果でね、ちょうど今から六年くらい前になるんだけど、この辺には流れ着いたというのが正しいのかも知れない。ここにいるシンタウィーチャイが櫂を取ってなかったら、今頃は海の藻屑か何かだったよ」

 目の前の男が鷹揚と挨拶するのに対し、公孫範はいささか不躾とも言える口調で言葉を返した。その軽いやり取りは、二人が昔なじみであることを示していると同時に、公孫範の非礼をこの男が気に留めていないことを物語っていた。

「あ、この人は俺が東方にいる頃にお世話になったというか、まあ色々あった人だ。謎だらけなんだけど、一言で言えば黒幕フィクサーってヤツ?」

 思い出したように公孫範が男を他の二人に紹介する。長らく東方暮らしの経験のあるシンタウィーチャイにとっても、男とは初対面だった。そして、余りに大雑把すぎる説明に、二人は得心のいってないような表情を見せ、紹介された方の男は苦笑いを浮かべながら会話を続けた。

「黒幕など、そのような大層なものではありません。しがない行商人ですよ。商売がてらこちらに寄ったのですが、今この周辺は大陸内でも景気があまりよろしくないようですな。よって、海路から南方に出張ってみようかと思っているところです」

 男はいかにもとりとめのない世間話をしているといった話しぶりで言った。

「今日時間を取ってもらったのは他でもない、ちょっと今からチェスを指して欲しいんだ」

「これはまた藪から棒ですな」

 明らかに怪訝そうな表情を作って男が言い返したが、公孫範はまるで歯牙にもかけない様子で言葉を畳みかけた。

「こっちが勝ったら、ひとつ頼み事を頼まれて欲しい。逆にアンタが勝ったら、俺が持ってる東インダス会社の持ち株の半分を譲ってやるよ」

「いやはや、文則殿におかれましては、そのお話ぶりにお変わりがないようで何よりです」と男が皮肉を挟んだ。「いささか凡人には理解しがたい展開ですので、少々話を整理させていただいてもよろしいでしょうか? 要は質問をさせていただきたいのですが」

「いいぜ」

 男の苦り切った半笑いにもどこ吹く風で、公孫範が答えた。とはいえ男の方もあくまで平静な態度をとり続け、話の主導権を相手に渡さない。

「まず、チェスを指せと言われましても、エルミリア大陸から東大陸にかけまして、ごまんと種類があります。また、同じ駒を使ったチェスでも地方によってはルールがまちまちだったり致します」

「種類やルールはそっちで決めていいぜ」

 話の腰を折るように公孫範が言葉を被せた。

「こちらで決める?」

「そっちの指定した通りに指すってこと。

 公孫範の言葉に、男はますます訝しげな表情を作ったが、すぐさまため息と共に首を振った。

「なるほど、これは孔仁殿の差し金ですな。当代きっての象棋の名手がバックについているとなれば、そのような提案も不思議ではない。何を企んでらっしゃるのかは分かりませんが、最近はチェスも指されるようになったのですか」

「流石、黒幕は鋭いな。まあ、正確には爺さんの直接の差し金じゃないんだけどな。最近、爺さんがバケモノを育てたから、実際にどれほどのものか試してみたくなってね」

「バケモノとは失礼じゃない?」

 そこで、今まで押し黙っていた少女が抗議の声を上げた。

「いや、褒め言葉だって」

「貴方、人を褒めたことないでしょ?」

 二人はそのまま言い争いになったので、男はわざとらしく咳払いをした。少女はいささか恥じ入るように言葉を飲み込み、乱れてもいない前髪を整えた。

「まあ、お嬢さんがバケモノかどうかはともかくとして、まさかこの私を腕試しの練習台にするために、この厳重な警備をかいくぐってここにいらしたわけではないでしょう?」

 少々呆れた素振りを見せながら、男が問うた。

「さっきも言ったとおり、一つ頼み事があったから来たんだ。チェスに勝ったら頼まれてくれってのは、取りあえずそう言っておいた方が乗ってくれるかなと思ったんだけど、思いがけず慎重な反応だったね」

「詐欺みたいな手合いの知り合いが多くて、慎重にもならざるを得ないのですよ。どのみちそのご様子からすると、東インダス会社の株式とやらを譲っていただける見込みは最初からなかったというわけでしょうが。まあ元々、我々はそういった博打のようなやり方を好みません。頼み事があるのでしたら、普通に交渉といきましょう。そちらの条件を呑めるかどうかは、内容次第ですが」

 話の軌道を修正すべく、男が至極もっともな言葉を繋ぐ。しかし、公孫範も負けじと混ぜ返す。

「まあ、そうは言っても、チェスは指してもらいたいんだ。これがないと始まらん」

「あなた方は遊びにいらしたのですか?」

 いかに公孫範と顔なじみでその性格についても把握していたとはいえ、流石に苛立ちを抑えきれなくなって男が言い放った。

 このままではまとまる話もまとまらないと悟ったのか、少女が話し始めた。

「貴方を見込んで、一つお話があるのです。セルジュ・グーブリエ殿。私はパトリエール公国が第三公女、リュシエンヌ・ド・パトリエールと申します」

「なんと」グーブリエと呼ばれた男が、目を見張って言った。「どこかでお目にかかったような気がしたと思ったら、これはこれは……。お父上におかれましては、大変残念でした。このように私は諸国を渡り歩く身でありますがゆえ、ご葬儀に参列出来なかった非礼をお許し下さい」

「良いのです、もう四年近くも前のことですから。それより」

 リュシエンヌと名乗った少女が、従者に目配せをした。いつの間にか、チェスの一式が部屋に運び込まれている。

「チェスを指して頂きたいというのは本当です。実際に私がそれを指しこなす様子を見て頂けなければ、これから話す頼み事というのは、まず狂気じみたものだと一笑に付されるのが落ちでしょう。そんな自覚がありますので」

 リュシエンヌが、ブロンドの髪をかき上げながら言った。そして覚悟を固めるかのように、深く深呼吸をした。

 程なくしてグーブリエがおもむろに口を開いた。

「勘違いして頂きたくないのですが、実際にチェスを指すかどうか決めるのは我々です。交渉の余地のない話のつまみにチェスを指すなどと言うのは時間の無駄でしかない。まずは話を聞いてからですな」

 その言葉は、グーブリエの慎重な性格を遺憾なく反映したものだった。リュシエンヌは観念したようにため息をついて、応えた。

「分かりました……その肝心な頼み事というのは、二点あります。一つ目に関してですが、この大陸には未だ統一された共通のチェスといったものが存在しません。これを胴元として一つにまとめ上げるには、貴方の協力が必要です。要は、チェスの統一ルールの策定にご助力を頂きたいのです」

「何やら大きな話ですが、私を買いかぶりすぎでしょう。しがない露天商の手に余るような話です。が、まあ一応、要求は全部聞いておきましょうか。それから?」

 グーブリエが続きを促す。

「二つ目は、チェスを商慣習であったり交渉時のツールとして根付かせることにご協力頂きたい。早い話が、エルミリア大陸では、定番の賭け事といえば真っ先にチェスが挙げられるよう、それを広めたいということです。各国の富裕層とコネクションのある貴方の協力があれば、出来ない相談ではないかと」

 以上の二点につき、助力をご検討下さい、とリュシエンヌは話を締めくくった。

 興味深そうに頷きながら話を聞いていたグーブリエだったが、彼はどんなにつまらない話を聞くときでも取りあえずはそのように振る舞うことを公孫範は知っており、リュシエンヌもそう言い含められていた。

 しばらくの沈黙をはさんで、グーブリエはおもむろに従者を呼び寄せ、耳打ちをした。その言葉にうなずくようなしぐさを見せると、従者はそのまま部屋を出て行った。やり取りを終えたグーブリエは、何事もなかったかのようにリュシエンヌのほうへ向き直り、返答した。

「随分と評価して頂いているのはありがたいのですが、いささか与太話が過ぎるようですな。要は裏社会でチェスの胴元として牛耳りたいから手を貸してくれ、と。まあ、正気な内容ではないという自覚はおありのようだが」そう吐き捨てたグーブリエの口調は、冷たく拒絶するような響きをまとっていた。「そもそもの計画が偶然に頼る要素が大きすぎるし、とてつもない時間と労力と人員が必要です。また、ここが当方にとって最も大切なポイントなのですが、それに見合った見返りといったものを現状の貴方たちから期待できない。とにかく、端から交渉の余地があるとは思えないのです」

 一通りまくし立てたグーブリエの表情からは、先ほどのような好奇の影は一切見出せなくなっていた。興味深そうな反応が単なる愛想であったとしても、その愛想すら見せないというのは大きく後退したに等しい。その言葉も明らかに没交渉の宣言であった。

 彼は客人を追い立てるようなことはしなかったものの、もう話すことはないとばかりに席を立とうとした。

「見返りはご用意できます。あくまで成功報酬という形なら」

「成功報酬では話になりませんな。着手する手間というものを考えて頂きたい」

 なおも食い下がるリュシエンヌの言葉を、グーブリエはぴしゃりと撥ね付けた。

「ちょ、待ってくれって。俺、東インダス会社の株券持ってるけど。俺の持ち分の半分じゃ手付金として不足か?」

 と、ここで再び公孫範が会話に割って入った。こいつがいるとややこしくなる、と言いたげな表情を浮かべたグーブリエだったが、表面上は丁寧な会話を継続することを選んだ。

「先ほどは敢えてお聞きしませんでしたが、今現在、文則殿はどれほどの株式をお持ちなのでしょうか? その情報無しには話が進まないと考えますが」

「え、そこでしらばっくれるの? 俺がどのくらい持ってるかくらい知ってるくせに」

「名義を付け替えるとか、単に手放すとか、いくらでも操作出来るでしょう。見習い詐欺師のような振る舞いはお控え願えませんか。確乎たる数字を示して頂きたい」

 グーブリエの抗弁に、公孫範は今更気付いたように「それな」と軽薄な相槌を打って応える。そしておもむろに懐に手を差し入れて、口を厳封された革袋を取り出した。

「これは北帝への手土産にと、使節団の出航以来肌身離さず身につけていたものだ。当時と中身がすげ替えられてないってことは、東インダス会社の様式に則られて施された厳封印を確認してもらえれば分かるでしょ。きっかり、俺の持ち株の半分に相当する額面の株券が入ってる。本社にも記録が残ってるから、後から照会して答合わせも出来るしね。ただ、具体的な額面に関しては、ちょっと没交渉のリスクがある相手にここでは明かせないかな」と、ペラペラ話し始めた公孫範だったが、そこで何かを思いついたように手をポンと叩いた。「そうだ、彼女とチェスを指してもらうことが、額面をオープンにする条件ってのはどうだろう?」

 今度こそ、グーブリエから鷹揚な気配が消え失せた。少なくとも、交渉の成り行きを見守っていたリュシエンヌはそう感じた。彼は、話を聞きながら興味深そうに相槌を打っているときでさえ、どこか頭の隅で何も関係のないことを考えているんじゃないかと思わせるような、ある種の余裕を漂わせていた。それが、公孫範の挑発ともつかない軽佻な物言いで、ガラリと変わったのだ。

「とにもかくにも、公女殿下とチェスを指さなければ話が進まないということですな。それが貴方たちの切り札というわけか」

「だからそう言ってるじゃん」

「まあ、そこまで言うなら受けて立ちましょう。我々がそちらの公女殿下とチェスを指せば、そちらは持ち株の額面を明らかにする。チェスの勝敗は賭けの対象にしない。チェスのルールはこちらの一存とする。この内容でよろしいですね?」

「ええよ」

 こうして、ようやく交渉の入り口段階に過ぎない「チェスを指すこと」と「手付金の額をオープンにすること」の取引が成立した。

 グーブリエは、指を鳴らして部屋の外に控えている何者かに合図を送った。程なくして、二人の従者がテーブルのような台状の物体を運び入れた。

 そしてそれが設置されたのを確かめると、グーブリエが再び話し始めた。

「まず予め断っておきましょう。先ほど貴方たちが運び入れさせた、そちらのチェス盤。貴方たちがどう我々の従者をたぶらかしてそのチェス盤を用意させたのかは不問にしておきましょう。エルミリア大陸でもっとも普及しているタイプの、オーソドックスなチェスですな。対応するルールは複数ありますが、どれもありふれたものばかりであり、言い換えればいくらでも事前に準備できる。どんなルールでも受け入れると宣言しておきながらそうした誘導を仕掛けるのは、フェアな態度とはいえないでしょう」

 その台詞を口火に、従者が搬入した台状の物体から布を取り去った。8×8の盤面に、石彫りの駒が向かい合わせに並んでいる。木彫りの優美なチェスの駒とは対照的に、無骨で飾り気のない駒という印象を与えている。

「だから、公女殿下にはこちらを指してもらおう。東大陸西部から取り寄せた、シャトランジと呼ばれるチェスの一種です。ご安心ください、駒の配置や動きは、エルミリア大陸チェスと際立って違ってはいないはずです。ルールはそちらの男から説明させましょう」

 促されて、中肉中背の中年男が入室した。浅黒い肌や堀の深い目鼻立ちは、東大陸西部出身であることを強く匂わせ、本人の簡潔な自己紹介もそれを示していた。

「名はシャハーブ・サマーニと申す。東大陸西部、ペルシュナ国出身。これから説明するルールは、私の村で指されていたルールだ。余所とは少し変わっているかもしれない」

 そう前置きして、シャハーブはルールの説明に入った。駒の名前と動き、チェックのかけ方(これはシャーマートと呼ばれた)、ムフラードと呼ばれる特殊な詰みなど、いずれも理解できない類のものではなかった。

 ルールの説明がひと段落したところで、リュシエンヌが盤台の手前に着席した。駒の肌触りを確かめ、先ほど説明されたルールに則り実際に駒を動かしてみる。

「あ、申し遅れましたが」とここでグーブリエが口を挟んだ。「そのシャトランジを公女殿下と指すのは私ではありません。そこのシャハーブです。せっかくなので、私のような素人よりも、腕に覚えのある強い人間に指してもらった方が興が乗るとは思いませんか? ちなみに、そのシャハーブは村で一番強かったそうです。役に立つ指標かどうかは分かりませんが、ご参考までに」

「ちょ、待てよ。そんなのアリか?」

 公孫範が抗議するも、グーブリエはにこやかに畳みかけた。

「『がそちらの公女殿下とチェスを指せば』と先ほども申したはずです。私が指すとは言っておりません」

「構いません」リュシエンヌは、短く言い切った。「さっさと始めましょう」

 ルールの確認は十分だとばかりの態度に、シャハーブは一瞬面くらった。まだルールを聞いてからものの五分と経っていないはずだ。だが、これ以上の確認は無用とばかりに、リュシエンヌは鎮座して盤を見下ろしていた。シャハーブはその向かい側に着席した。

 グーブリエの、そちらからどうぞの一言で、リュシエンヌが先手番を持つことになった。

 勝負は、穏やかな序盤から始まった。チェスと比較してシャトランジにおいては、ビショップやクイーンなどの大移動する駒が少ない分、ゆったりとした展開になりやすい。ただ唯一、ルークに相当する戦車ルフのみが縦横に無制限の移動距離を有している。そして、ビショップの代わりに存在するフィールが、象棋に出てくる相/象の動きに近く、クイーンの代わりに存在するフィルズは斜めに一つしか動けない。

 中盤、リュシエンヌは無難に受けに回った。自陣に敢えて隙を見せ、そこに無理攻めをかけた相手の動きを咎めるという戦法にでたのだ。一瞬、素人がみれば後手が押しているように見える局面も出現したが、その後リュシエンヌがナイトに相当するファラスを駆って両取りフォークを突き立て回り、駒得から一気に逆転した。

 終盤、リュシエンヌは引き分けステールメイトに持ち込もうとするシャハーブの動きを逐一見抜きつつ、真綿で首を絞めるように相手のシャーを追い詰めていった。

「――負けた」

 シャハーブが白旗を揚げ、終局を迎えた。粘ろうと思えばあと数手は逃げられたろうが、形勢的に見込みが無いことは明らかだった。

 終わってみればリュシエンヌの完勝には違いなかった。しかしながら、目を見張るような好手があったわけでもなく、内容的には凡戦の印象は拭えなかった。

「なるほど、公女殿下がよく指せる人だと言うことは分かりました。もう少し強い相手を用意すれば、多少は白熱したのかも知れませんね」

 あからさまにつまらないものを見せられたというグーブリエの態度は、言葉尻にも現れていた。むしろ、自分とチェスを指してみれば全て分かるとすら言いたげだった対局前の威勢は何だったのかと、微妙な疑問だけが残された。こんな茶番を演じることが、なぜ「手付金の額をオープンにすること」との交換条件たり得たのか。

 しかしその理由は、直後に明らかとなる。

「お、俺に何をした!」

 シャハーブが突如として叫び声を上げた。彼はそのまま身をよじり、椅子から転落して、床に頭を打ち付けた。神よ、違う、違うんです、と彼はまるで何者かに請うように呟きながら、その場にうずくまった。

 これには、リュシエンヌ側の同行人である公孫範やシンタウィーチャイですら驚きを隠せなかった。

――もし自分がリュシエンヌ公女とチェスを指すことになっていたら。

 目の前に繰り広げられている悪夢のような光景に、グーブリエは背筋が凍るような思いを自覚した。

 元々慎重で知られているグーブリエではあったが、今回の対局を回避できたのは偶然による物でしかない。むしろ、自分がある程度チェスの腕に自信がある指し手であった場合、喜んで自ら対局に及んでいた可能性すらあったのだ。

 そんな喧噪の中でもただ一人、平静を失わずに座っている少女がいた。

 彼女は凄惨な現場を横目で眺めつつ、今し方の対局を涼しい顔で総括した。

「どうやら、感想戦の必要はなさそうですね――」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る