擾乱 ≪5≫
「伯明殿、昨日は見苦しい所をお見せしてしまい、申し訳ありませんでした。また、私の傷の面倒まで見ていただき、感謝してもしきれません。何としてでも皆様に報いられますよう、なお一層の援助を惜しまないつもりです。ご要望があれば、何なりと仰ってください」
手術が明けて翌日、見舞いに訪れた夏侯嬰に対してフランソワ公は感謝と労いの言葉を伝えた。その前向きな内容とは裏腹に、その声は消え入りそうなほどに弱く、夏侯嬰は屈んで耳をそばだてなければ聞き逃してしまいそうなほどであった。
「滅相もございません。私こそ遭難より救っていただいたご恩を返さなければならぬ身であります。公爵殿下におかれましては、我々のことよりまずはご自身のことを第一にお考えください」
「これは却ってお客人に気を遣われてしまいましたな。私はこの通り無様にも手負いになってしまいましたが、何、戦況についてはご心配に及びませぬ。今もなお、サルンペン将軍麾下、一千の軍勢がプニエ公国の侵攻を食い止めております。伯明殿におかれましては、船の手配が遅れていることに関しては誠に申し訳ありませんが、これまで通りごゆるりとご滞在をお楽しみください」
フランソワ公の言葉に、夏侯嬰は一瞬怪訝そうな表情を作りそうになり、慌てて思い直す。それとなく視線をベッドの向こう脇に控えていたワルテールに向けると、気まずそうに目を逸らされた。なるほど、と夏侯嬰は思う。これからは、夏侯嬰自らがフランソワ公に対して嘘を吐き通していかなくてはならないということだ。
戦場に赴くことを頑なに拒否されたのは、客人に戦争の手助けをしてもらうことを恥じるという理由もあっただろうが、戦況が悪いことを悟られることを危惧したという理由もあったのではなかろうか。そこは客人である夏侯嬰らはもとより、家族に心配をかけまいと思っていたのかも知れない。夏侯嬰はそのように思いを巡らせた。優しさゆえの嘘を吐き始めたら引くに引けなくなり、このような顛末を招いてしまったのだとしたら、国を治める主としては失格であるかも知れない。だがそれでも、見ず知らずの関係に過ぎない、いわば不審者であった自分たちに対して、これほどまでの待遇を以て接してくれたフランソワ公に、悪い印象を持つことは出来なかった。むしろ、少しでもその恩に報いねばなるまい、と夏侯嬰は考えた。
イシャーンによると、フランソワ公の状態はあまり思わしくない、とのことであった。多量の出血のため消耗が激しい上に、創部の炎症がひどく、今後左腕が使い物にならなくなる可能性もあるという。敵将レオポルド公は、毒の代用として糞便などを矢に塗りたくって撃たせるという、極めて低劣な嗜好があるらしいとも噂されていた。
エレーヌ公妃は、夫の傍らで慣れぬ看病などを手伝いながら、主に内政面における重要事項を、夫の意見を参考にしながら進めるという大役を担った。そこで初めて、その財政破綻ぶりが深刻であることを知った。多少の倹約で済ませられるレベルを超えていたのだ。いずれ軍を維持することもままならなくなり、その結果は推して知るべしと言えた。そのことが露見したときのフランソワ公の悲しげな微笑みが、エレーヌ公妃の心に一層深く突き刺さった。
リュシエンヌは、病床に伏せる父の元を離れることを嫌がった。いかにも子供らしい、不器用な気の回し方だった。彼女が「
数週間経ち、容態の山は越えたとイシャーンに判定されてからも、フランソワ公が病床を離れて過ごすことは稀だった。右脚と左腕に後遺症が残り、歩くにも人の手を借りなければならなかったからだ。リハビリという概念は当時は極めて希薄であり、気力の衰えた公爵の尻を叩いて自立させようと考える人間は、残念ながらこの国にはいなかった。
すっかりこの部屋の常連となった公孫紹とフランソワ公が視線を交わすとき、そこには妙な絆めいた空気が漂った。この遙か年上の老人と比較しても、フランソワ公の生気の無さは際立っていた。42歳の夏は、彼の人生にとって明確な転換点となった。
大陸暦748年8月10日、夏侯嬰のエルミリア大陸における初陣の時が迫っていた。港湾都市を攻略して勢いに乗るプニエ公国軍と、いよいよ最終防衛線を居城より10
当地における初陣とはいえ、夏侯嬰自身は歴戦の勇士である。彼自身、戦いに関しては極めて慎重な性格をしており、これまでの彼我の戦いぶりについても可能な限りの事前調査を行っていた。
そもそも中世におけるエルミリア大陸は騎士が戦争の中核を担っており、その手法は騎士道精神と呼ばれる一種の哲学に支えられていた。更にそのルーツには、信仰の中心であるエルミリア教という宗教の存在があった。騎士のほとんどはエルミリア教を信仰するミリスチャンであり、主の教えに背けば地獄に落ちると信じていたのである。ゆえに戦い方は正々堂々としており、ルールに縛られたスポーツと呼べるレベルの
しかしながら、そのような常識は敵方のレオポルド公や、つい半年前までパトリエール公国軍を指揮していたと思しきサルンペン将軍には当てはまらなかった。極東におけるえげつない権謀術数を知り尽くした夏侯嬰でさえ、眉を顰めるほどの薄汚い駆け引きがそこにはあった。彼らはまるで地獄に落ちることを一切恐れていないかのようであった。
そのような状況を踏まえたうえで、夏侯嬰は落ち着いて戦場となるであろう目の前の平原を睥睨していた。相手が卑劣であればあるほど、手加減の必要がなくなる。単騎においては世界一強いことを自負する夏侯嬰にとって、騎士道的な戦い方は足枷にしかならず、この状況こそが自らの力を最大限に発揮できる場面なのだと考えていた。
敵方の出方は、夏侯嬰にはほぼ予想可能であった。見通しの良い平原から少し離れた、岩場のような隆起の影に、長弓や弩を中心とした長射程武器の部隊を配置し、重騎兵部隊にロングレンジ攻撃を加えようという魂胆であろうと思われた。平均的な長弓の射手が狙って対象に命中させられる有効射程距離は、50メートル強であると言われている。相手部隊が密集している場合には狙いの精度は求められないので、より遠方からでも弓矢は威力を発揮する。いずれにしても、鈍重な重騎兵相手の射撃に慣れた連中は、全力疾走の馬に乗った騎兵に矢を命中させることは出来ないだろう。夏侯嬰自身、複合弓を用いて騎射してくるような東大陸遊牧民との戦闘経験も数限りなくある。それに比べれば、何ということはない相手だ。
夏侯嬰の指示で、平原の隅に重騎兵部隊を配置する。敵方の弓の、更に射程外となる距離だ。総大将であるワルテールが控える本陣はその後方だ。
互いの軍勢が距離を置いて睨み合っている間、敵からはまばらに威嚇するような矢が飛んでくるばかりで、お互い距離を詰めようとする様子はない。
ひとまずは我慢のしどころである。相手方の矢の出所から、おおよその陣形は予想できた。長弓・大型弩砲・機械弓、合わせておおよそ300人。夏侯嬰の目線からは、かなりずさんな配置であるように映った。確かに、鈍重な重騎兵に対して四方から矢を射かけるのには向いていると思われる布陣だ。だが、中核となる長弓部隊が襲撃された際に、その他の部隊と有機的な連携が取れないような、分散した陣形でもあったのだ。
前の戦で大勝ちして、さては緩んでいるのかも知れない。
ハッとかけ声を上げ、まずは夏侯嬰が単騎、駿馬・リファールを駆けさせた。
すぐさま敵の視線を一気に惹きつけ、同時に雨のような矢を浴びる。
が、当たらない。敵の弓兵は、高速で突進してくる騎兵との戦闘経験がない。
偶然か否か、夏侯嬰の方向へ飛んでいく矢もあった。しかし、彼は造作もなくそれらを革の腕当てと偃月刀の柄で弾いていく。分厚い鎧さえ穿つような矢も、いなすように払いのければ無力だ。
リファールは平原を瞬時に抜け、巧みに矢の射線と岩場を避けながら駆ける。
狙うのはもちろん、長弓部隊だ。
一発目の矢を外すと、射手は次の矢をつがえなければいけない。練度の高い長弓兵であれば、6秒で次発を放てる。
しかしその6秒は、夏侯嬰が弓の有効射程外から馬を駆けて、敵に青龍偃月刀の切っ先を届かせるに十分な時間であった。
間合いを詰めて、一振り。
十人分の血飛沫が飛ぶ。
一振り、十人。三振り三十人。
熟練ぞろいの長弓部隊がものの一瞬で、過去十年分を上回る犠牲者を出す。
――これでは割に合わない。
近距離では敵わないとみるや、弓兵たちは逃げに転じる。長弓が、大型弩砲が、機械弓が無力化され、時に捨て置かれる。
夏侯嬰は、あえて深追いしなかった。逃げずに潜んでいる弓兵に背後を狙われる可能性があったからだ。むしろ、逃げ遅れた兵に対する投降の呼びかけを優先した。返り血を浴びて凄む馬上の巨漢の姿に、取り残された弓兵らは進んで白旗を揚げた。
夏侯嬰が単騎で長射程部隊を撃破している隙に、一方の重騎兵部隊は敵の本陣に迫っていた。
本陣周りの敵騎兵部隊は、普段から長射程武器にばかり頼り切っており、まず重騎兵を相手に敵し得なかった。同時に、まさか弓兵部隊による包囲網が突破されるとは思ってもいず、敵が油断をしていたことも事態を後押しした。
プニエ公国軍は総崩れの体で、大将を逃がす時間を稼ぐのが精一杯であった。
かくして、勝敗は決した。夏侯嬰が切り伏せた敵弓兵の数はおよそ百人。そしてその数に匹敵する弓を戦利品として得ることが出来た。後世に『フォンテーヌルージュの戦い』として名を残す、レオポルド公治世下におけるプニエ公国の数少ない敗戦の一つである。
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