擾乱 ≪4≫
公孫紹はかつてを懐かしむかのように、象棋にのめり込んだ。約束の地を捜し求めるだけの
やがて、象棋の指し手は芋づる式に増えることになった。フランソワ公が遠慮がちに、話し相手をつけさせましょう、と提案した結果だった。極東に出自を持つと思しき客人たちに、パトリエール公国の人たちは一方ならぬ興味を抱いた。そして、そのうちの幾人かは、退屈をもてあました公孫範に象棋の手ほどきを受け、公孫紹にコテンパンにやられるのだった。
「私もやる」
と言って幼いリュシエンヌが従者も付けずにノコノコやってきたときには、その余りの不用心さに夏侯嬰は眉をひそめることになったが、もはや驚きはなかった。リュシエンヌはメキメキと実力を付け、直に夏侯嬰や公孫範では歯が立たなくなった。
「まだまだね、
リュシエンヌは、東洋からの客人を字号で呼んだ。
「公女殿下がお強すぎるのです」
夏侯嬰は覚え立てのエルミリア標準言語で、リュシエンヌをおだてることを忘れなかった。
しかしながら、そんなリュシエンヌですら公孫紹にはまるで赤子同然にひねられるばかりであった。幼い彼女は負けるたび、悔しさの余り泣きはらした。すると公孫紹は穏やかな面持ちで、負けを認めるまでが勝負ですぞ、と説いた。リュシエンヌは一度も公孫紹に勝てなかったが、泣かないことを覚えてからは一度も涙を見せなくなった。
フランソワ公は、夏侯嬰らに帰るための船を手配することを約束した。戦争のために色々物入りで、すぐに手配できないことを猛烈に詫びながら。夏侯嬰はひたすら恐縮し、その恩義に応えたいという思いを日増しに募らせることになった。
しかし戦争のために物入りという割には、フランソワ公の物腰から焦りや切迫感といったものが感じられなかった。彼は領主として戦闘が起こる度に戦地に出かけては、それなりにくたびれて帰ってきた。夏侯嬰はそのたびに、自分も戦わせてくれと頼み、拒まれ続けた。人のいいフランソワ公の拒絶の仕方は、ある意味では堂に入った見事なもので、「どうぞ私のことを、客人をけしかけて戦地で戦わせるような卑怯者にさせないで下さい。何でもしますから」と、巧みに相手の罪悪感を刺激しながら諦めさせるのであった。
そうやって戦地に赴けるわけでもなければ船の手配が済むわけでもなく、夏侯嬰が時間と鋭気を持て余したまま三ヶ月が経過した頃、いよいよフランソワ公による誤魔化しも効かないような出来事が起こった。
大陸暦748年6月25日、ついに港湾都市の拠点が失陥する。
これが意味するところはすなわち、夏侯嬰らが帰国するための船の手配が不可能になるということだった。その事実すら、フランソワ公から自ら夏侯嬰らに言い出すことはなく、ワルテール公太子の口から夏侯嬰に伝わることとなる。
そして、その戦いにおいてフランソワ公は手ひどい傷を負い、命からがら居城へと帰還した。
フランソワ公の帰陣を出迎えた夏侯嬰は、そのやられぶりの激しさに動揺した。
「何、ちょっと帰り際に落馬してしまいまして、お恥ずかしい」
とフランソワ公は言ったが、歴戦の武将である夏侯嬰の目を誤魔化せるわけもなく、そもそも落馬では矢傷は出来ないはずで、苦しい弁明も破綻することになった。馬上でバランスを取っているだけでも精一杯と言った様子だったので、身長が一際高い夏侯嬰がそのままフランソワ公を抱え上げ、馬を下がらせた。
「イシャーン、手当を」
夏侯嬰が船員の名を呼ぶと、その学者の風体をした男は静かに頷いた。
「なんと……医者をされておいででしたか」
「医者もしているのです。……これ以上はお体に障りますので、お話をされませんよう」
イシャーンはフランソワ公の様子を一瞥すると、深いため息をつき、この国で医術に心得のあるものを手配するよう改めて要望した。フランソワ公自身は、夏侯嬰に抱えられたまま診察と治療が可能な清潔な部屋へ通され、ベッド上に寝かされた。
「床屋しかおりませんでした」
「結構」
大急ぎで手配されたと思しき床屋の男を向かいに立たせ、イシャーンがフランソワ公の脈を取り、傷の一つ一つを入念にチェックしていく。左腕から肩にかけて複数の矢傷があり、その一部からは悪臭を伴う浸出液が流れている。傷の周囲は赤く腫れ、熱を持っているようだ。また、右太ももに見受けられる切り傷も相当深いもので、布で厳重に覆われていたが、それでも血糊を堰き止めることは出来ていなかった。イシャーンは、無理な力を加えないよう慎重に貼り付いた衣服を剥がしていった。
「麻沸散を焚いて下さい」
イシャーンが生薬に火を付けさせ、その煙をフランソワ公に嗅がせるように指示した。しばらくすると、フランソワ公の視線が虚ろになり、声かけに対して朦朧とした生返事を返すだけになった。
「これより創を切開し、膿を洗浄します。指示通りに処置を行ってください」
こうして慣れない助手を携えながら、数時間に及ぶ手術が行われた。
手術が終わってフランソワ公が麻酔から覚めると、ベッドの両脇には家族が揃っていた。時刻にして夕刻過ぎ、薄暗い室内にはランタンの光だけが淡く揺れている。誰から口を開くこともない。エレーヌ公妃は夫の意識が戻ったことに気付くと、ホッとしたような表情を見せながら握った手に力を込めた。リュシエンヌは眠さに瞼をさすり続け、フランソワ公もそれを見てただ曖昧に微笑んでいるだけだった。従軍したワルテール公太子は軽傷で済んだものの、この雰囲気の中では泣き笑いの如く顔を歪める他なかった。
時間は静かに流れ、外では夏の虫が鳴いていた。
夕闇が一層濃くなる頃、部屋の外に控えていた夏侯嬰は、中から思い詰めた表情のワルテール公太子が現れたことに気付いた。
「父上の目が覚めました。これもあなた方のお陰です。ありがとうございました」
「我々は居候の身であり、当然のことをしたまででございます。ただ、公爵殿下が戦場で奮闘されている中、お力になれていないことばかりが悔やまれます」
夏侯嬰とワルテールが、お互いに囁き合うように言葉を交わした。
「これは、父上には秘密にしておくよう言われていたことなのですが……実はここのところ、サルンペン将軍と連絡が取れておりません。当初、父上はそのことを私にすら隠していました。我が軍が劣勢に転じ、明らかに負け始めたのはおよそ半年前ですから、その頃にはいなかったのではないかと思っています。本日、こうして港湾が失陥する前に相談していれば、或いは防げていたかも知れないのに。『昨晩、将軍とは極秘で会っており、作戦も頂いておる』などという言葉を軽々しく信じたことが、今となっては恨めしく思い返されます」
「公爵殿下はお優しすぎる。だがかくなる以上、我々も我々自身のために戦わせていただきたい。公太子殿下、どうか公爵殿下に掛け合っては頂けないでしょうか」
「元より、私よりそうお願いするつもりでした。父上はしばらく動けますまい。軍の指揮権は私に任せられるはずです。つきましては伯明殿、憚りながら、あなたの武人としての能力についてお聞かせ願いたい」
ワルテールが、鋭い視線を夏侯嬰に向けて言った。それを受けた夏侯嬰は、待っていたとばかりに目をぎらつかせて答えた。
「この国一番の馬をお与えください。重騎兵にあてがわれた馬であれば、この体重を支えることも問題ないでしょう。私にあのような重い鎧は必要ありません」
「あなたがそう仰るのであれば、当代における三名馬が一頭と世の聞こえ高き、駿馬・リファールを用意させましょう」
「かたじけなく存じます。ならばご期待下さい。我が得物、青龍偃月刀と共に馬上にあれば、我に比肩するものなし」
夏侯嬰が大真面目に言い切った。その仕草はいささか芝居がかって大仰、しかしその自信は疑うことさえ憚られるほどにみなぎっている。
ワルテールとしても、普段から夏侯嬰が冗談を言うタイプではないことは承知していたが、ここまで大胆な発言も聞いたことがなかった。しかし、そのような言動でさえ何の違和感もなかった。この男は実は鬼神か何かなのではないか。むしろそう思わせてしまうほどに、筋骨隆々とした身の丈八尺の男から放たれているオーラは異質だった。
そして、夏侯嬰はとどめの一言を言い放つ。
「すなわち、私が世界で一番強いことを、とくとご覧に入れましょう」
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