擾乱 ≪2≫

 パトリエール公国とプニエ公国。両国の歴史を紐解くならば、古来より長きにわたって蜜月が続いてきた、と評するのが最も正確と言えるだろう。北の大帝より下賜された当時の領地は、両国がほぼ等しい面積となるよう配分されていた。ただ、彼らの望んだもの全てが与えられたわけではない。内陸の豊かな土壌を与えられたプニエ公国には港や沿岸へのアクセスが与えられず、海に面したパトリエール公国は港を中心に拓けていく一方で、海運・海産で得られた利益を元手に穀物を他国に融通してもらわねばならなかった。

 北の帝国の権勢が衰えても、両国の関係は比較的良好なまま推移した。幾度となく訪れた外敵からの脅威は、両国の際どい均衡を破綻させるには至らなかった。

 そのような流れを容赦なく断ち切ったのが、プニエ公国のレオポルド公であった。

 彼が当主の座を継いで10年目、大陸暦738年の秋、転機は訪れた。プニエ公国の軍勢は東方戦線において連戦連勝を重ね、周辺の諸侯をあらかたを平定していた。その先に広がる領土は主に北の大帝およびその親族による直轄領であり、流石のレオポルド公でも攻め入ることは適わない。ゆえに、残るは南か海岸線のある西方面である。

 あれだけの巨費を投じて開発した兵器を庫で腐らせておくのはもったいない、という思いがレオポルド公を常に支配していた。この頃には既に、彼にとって戦争とは手段ではなく目的と化していた節が見受けられた。

――どうせ戦争するのなら、わざわざ辺鄙な南方へ出向くより、港がある西に向かった方が得だろう。

 彼にとって、友好国に攻め込むための動機すら、せいぜいその程度のものだったのだ。

 

 一方、時のパトリエール公国当主、フランソワ・ド・パトリエールは、つとに温厚な人柄で知られていた。レオポルド公より四つ年上であり、家督を継いだ時期もほど近く、度々比較されることの多い二人だった。レオポルド公が狂犬であるのなら、フランソワ公は牧羊であると揶揄されていた。

 フランソワ公がどれほど人畜無害な当主であったのかを示すのに最もうってつけと思われるエピソードを挙げるとすれば、レオポルド公による第一次西征であろう。

 大陸暦738年10月、プニエ公国より総勢一千からなる軍勢が、突如としてパトリエール公国との境界線を踏み越えて西進した。軍によるあからさまな領有地の侵犯は、完全なる挑発行為であり、敵対行為である。

 ただ、いかに狂犬・レオポルド公とはいえ、何の理由も無く隣国の領地を侵犯して軍を進めることは許されないことくらいは心得ていた。明文化された国際法のような概念の出現はもう数世紀先の出来事であったが、名分なき侵略が忌避される行為であるという共通認識は、いっぱしの諸侯であれば誰もが持っていた。

 そこでレオポルド公は、「最近は海岸付近で不届きな海賊風情が暴れ回っていると聞く。ここは一つ港湾を貸し寄越せば、連中を追い払ってやろう」などと、当時全く出没が報告されていなかった沿岸地域における海賊退治にかこつけて、海賊以上に質の悪い要求をしたためた書状を、領地侵犯と時を同じくしてフランソワ公に送りつけた。国同士のいさかいの仲裁や、国境を越えて活動する海賊・山賊に対する共同戦線を張るなど、そうした事態に対応して国同士が協議を持つことはままある。しかし、このときのレオポルド公の要求は、当時のいかなる常識に照らしても首を傾げざるを得ない理不尽極まりないものであり、侵略の意図がありありと見て取れた。

 しかし、こともあろうにフランソワ公は、港湾都市を無血開城してしまった。これに面食らったのはレオポルド公の方である。戦争したさに無茶を言ったにも拘らず、あっさりそれが通ってしまったのだ。さりとてその厚意を受け取らないわけにも行かない。

 その後3年間にわたってプニエ公国の手勢は港湾を占拠し続け、多くの富をせしめるに至った。これに係る減収はパトリエール公国にとっても少なからず痛手であったが、フランソワ公はその内政能力と倹約によって見事これを乗り越えてしまった。面白くないのはレオポルド公で、結局彼はパトリエール公国と戦争することが適わないまま、「海賊は去った」などと来てもいない海賊退治を無事に果たして、港湾を元の持ち主に返還した。その間、港湾の運営によりプニエ公国にもたらされた利益をことごとく軍事転用したことにより、辺鄙な南方諸侯への攻勢は苛烈を極めたという。

 大陸歴746年、プニエ公国は南方に隣接する諸侯をあらかた平定し終える。地政学的に、南へ行けば行くほど辺鄙さも加速する状況であり、レオポルド公は更なる南征を計画するもロワイエらをはじめとする家臣らに諌められ、これを断念せざるを得なかった。

 また、折に触れてはパトリエール公国に対する挑発を継続していたが、こちらに関してもフランソワ公の気質もあって一向に戦争が始まる気配がない。

 レオポルド公にしてみれば、完全に手詰まりの状況に思われた。しかしながら、この状況に対して不平を募らせていた層が、レオポルド公以外にも確かに存在したのである。

 そもそも、プニエ公国によるパトリエール公国に対する挑発行為は、当主の性向を反映して品性低劣を極めた。武装した屈強な男たちが、いきなりパトリエール公国に属する農牧地に押し入り家畜を攫って行く、などというのは序の口であった。女子供を誘拐したり、民家に放火したり、流行病で死んだ者の死体を投石機で集落へ放り込んだりもした。挑発を行う者たちの間でも、どうやら功を競って事態をエスカレートさせていったようである。

 そしてついに民衆の我慢は限界に達した。

 度重なる挑発行為に対して一向に有効な対策をとらないフランソワ公を相手に、各地の集落の代表が寄り集まり、陳情するという流れになったのだ。

 そしてその動向をいち早く嗅ぎつけたレオポルド公は、逆にこれを利用しようと企てた。プニエ公国より極秘裏に民衆代表会議に使者を送り、民衆と共にパトリエール公国に対して武装蜂起を起こそうと呼びかけたのだ。民衆を苦しめる為政者を懲らしめる、というのは戦争の大義名分としてもそれらしく、これは好機であろうと判断された。

 だが使者は八つ裂きにされ、その首は投石機を以てプニエ公国側の城下へ放り込まれた。これまでの挑発行為からして、至極当然の対応と言えた。レオポルド公としてはいささか計算外の顛末ではあったが、どのみち戦争を始められるのであれば経過の不首尾は問題にならなかった。

 こうして、フランソワ公が何ら意図しないまま、パトリエール公国側の民兵とプニエ公国との間に、戦端が開かれることと相成った。大陸暦746年9月、8年戦役の勃発である。

 歴史書には、パトリエール民兵を率いたのはサルンペン将軍なる人物だったと記述されている。この男に関しては出自自体が明らかになっておらず、いつ歴史の表舞台から去ったのかも判明していない。そもそもサルンペンという姓が確認されたのもエルミリア大陸の長い歴史を通して彼が最初であり、家系的なルーツに関しても何ら手がかりがない、まさに謎中の謎の人物であった。

 このサルンペン将軍、パトリエール軍を巧みに率いて、プニエ公国軍を相手に善戦を重ねた。パトリエール公国側の民兵ならびに正規兵は戦争経験に乏しく練度も低かったが、プニエ公国に対する憎しみを原動力とした極めて高い戦意を保っていた。サルンペン将軍はこのシチュエーションを自在に操った。プニエ公国軍の長射程武器の死角を巧みに暴いては接近戦に持ち込んだり、夜襲・ゲリラ戦闘・敵野営地近辺の水源の毒汚染など、レオポルド公でさえ思いもよらないダーティな戦い振りを駆使して、容易に敵の侵入を許さなかった。

 戦線は次第に膠着した。


 大陸暦748年2月、こうして戦争が始まってからおよそ1年半が経過した頃、パトリエール公国の海岸に、一隻の救命艇が流れ着いた。

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