黎明 ≪5≫

 レオポルド公による治世当時のプニエ公国の人口は、およそ10万人であったと考えられている。これには事実上服従させた周辺国の人口を含まないが、長きにわたる戦禍の末に国土を荒廃させられた国々の生産力はいずれにしても微々たるものであった。よって、プニエ公国の最大動員兵力は概算して1〜2千人程度であったと推定される。多くは戦時に招集される農兵か傭兵であり、国力の芳しくない時期に彼らを動員する余裕はない。

 そして、より現代的な用語でいうところの士官クラス以上となると、三十人にも満たなかった。彼らの多くは家内騎士とよばれる小領主であり、自前の領地収入で手勢を養っていた。当時は職業軍人の高官といえどもその多くが兼業だったのだ。彼らは国家の一大事ともなれば馳せ参じるが、原則としてレオポルド公ただ一人に動員する権限が付託されており、彼の息子であるジャンは、いってみればそんな家内騎士の一人に過ぎないともいえた。

 よって、ジャンが模擬戦闘を行うと声をかけて集まった兵力は、ようやく100人程度であった。その中には戦闘経験のない限りなくヒラ農民に近い農兵もいたし、十歳の男の子や、果ては八歳の女の子も混じっていた。父親が二日酔いで動けないというのが彼女が派遣された理由だった。

「諸君に集まってもらったのは他でもない。この良き日に、プニエ公国次期当主、このジャン・ローラン・ド・プニエ、自らが、エルミリア大陸における覇権を揺るがなきものへと導くであろう第一歩を踏みしめるときが来た、その宣言を行うためである。つい先日、当領地より一冊の兵法書が発見された。ここに記されていたのは、サッカーと呼ばれる、軍事の一切における必勝の理である。今日、我々はそれを実践すべく、二手に分かれて演習を行う。この兵法の真髄を会得したときこそが、未来永劫に渡るプニエ公国の、いやプニエ帝国の繁栄が約束されたときである」

 大見得を切ったジャンであったが、その発言には聞き咎められたら大逆罪と言われても抗弁のしようがないものが含まれていた。幸いにも、集まった連中の教養がなかったために助かったのだが、ロワイエが肝を冷やしたことは言うまでもない。

 まずは、敵兵力と見立てた十数人を横一列に並べて横陣を組ませた。

「これより『セットプレイに関する考察』の章を子細に検討する。この『FK』を行う際には『壁』、おそらくこれは敵戦力による壁のことだろう、この壁を越えて相手の本陣に脅威を与えることが出来ると記されている。この手法が実用化されたならば、いかなる防御陣形をも無力化できると言うことだ」

 もっともらしい講釈を垂れてジャンが合図を送ると、横陣より数十メートルほど離れて手前に待機していた投石機カタパルト部隊が、横陣越しに投石を開始した。レオポルド公らの開発した投石機は四つの車輪を備えた自走式のもので、車体の全長は5メートル、アームの長さが4メートル超という本格的な代物だった。これは主に攻城戦で威力を発揮し、数百メートルと長大な射程を誇った。彼ら専属部隊の手際は流石に熟練したもので、放たれた石は高い精度で敵の『ゴール』に指定された地点に、次々と着弾していった。

「これは、我が父レオポルド大公が自ら手がけた長射程武器による直接攻撃である。我が国においては既に、かの兵法書に記されていた用兵の一部を実用化していたということになるわけだ。ただし、次の項目にあるところの『ポストプレー』は、未だ実践例がない。本日の主眼は、より先行して敵陣に迫った部隊を介して精度の高い攻撃を行うという、まさに『ポストプレー』が説くところの手法の実践である」

 そう言って合図を送ると、横陣を挟んだ向こう側に数人規模の部隊を送り込んだ。彼らもまた投石機を一台構えて、その場に待機する。

 本来のポストプレーとは本来のサッカーにおいて、前線の選手が一度ボールを受けて、次の選手へパスを供給したりシュートを行うプレーである。一言で言えば攻撃の起点となるプレーを指す。ジャンはそれを、投石機部隊を用いて再現しようというのだ。

 まずジャンが合図を送ると、手前の投石機部隊が横陣越しの投石機部隊に石を送り始めた。これは当然、向こうの投石機部隊を狙った物ではなく、その手前に着弾していく。そして数発を撃った後、いちど手前の部隊からの投石は中止される。次いで奥の部隊が着弾した石を回収し、それを自前の投石機へとセットし、前回よりも遠くに設定された仮想『ゴール』に向かって撃つ。やはりこれも狙ったように着弾していく。

「フム、初めてにしては上出来だな」

 ジャンが得意顔でうなずいた。

 一方のロワイエは、完全に真顔で呆れながらことの顛末を見守っていた。しかし、こういうときのジャンの鼻っ柱をへし折ったりしようものなら、大変面倒くさいことになることは分かっているため、いきなり冷や水を浴びせかけるような真似はしたくない。出来れば目の前で起こっていることがいかにアホらしいか、自身の目で気付いて欲しかった。

 だが、それは一向に治まる徴候を見せなかった。彼らの手際が無駄に洗練されるにつれて、ジャンの得意げな顔もますます鼻につく感じを深めていく。このような勘違いは、ゆくゆくは本人のためにならない。このままでは駄目になる。事実上の教育係として、ロワイエは強い責任を感じていた。これは最後の手段と知りつつも、いよいよ意を決して忠言をすることにした。

「公太子殿下。恐れながら、この不肖ロワイエめに、今ひとたびこの場を預からせては頂けないでしょうか」

「何だロワイエ、お前もやりたくなったのか?」

「さようにございます」

 ややあって、ロワイエが指揮を引き継いだ。まずロワイエは、横陣の向こうに待機させた投石機部隊を引き上げさせ、代わりに機械弓部隊に見立てたおもちゃのスリングショット部隊を向かわせた。これはいわゆるパチンコとも呼ばれる飛び道具で、おもちゃレベルであれば殺傷力はない。このスリングショット部隊には、合図がでるまで茂みに隠れていろと指示を出す。

 次いで、手前の投石機部隊には藁と少量の土を詰めた麻袋を渡した。この時のためにロワイエが用意させたのだ。

「これで、横陣を張った仮想敵部隊を直接攻撃せよ。なに、当たれば多少痛いかも知れないが、死ぬことはない」

 ロワイエが指示を出したとおりに投石機部隊が麻袋を横陣の壁に撃ち始めると、虚を突かれたのか横陣の足並みに乱れが生じた。なおも麻袋を当て続けると、これを阻止しようと横陣部隊の一部がこちらへ向かってくる。

 その瞬間、ロワイエが合図を送る。後ろからスリングショット部隊が現れて、横陣部隊の背後からパチンコ玉を撃ち始めた。横陣部隊の統制はあっけなく崩壊し、ロワイエが止めの合図を送るまで麻袋とパチンコ玉による一方的なリンチが続いた。

 実戦指揮力の差は歴然としていた。戦場を知りぬいた者が導き出した作戦行動には、まるで無駄や仮借といったものがなかった。

「ま、戦場でこの通り行くことはまずありませんがね」

 無慈悲なまでに冷徹に、ロワイエが言った。どうせ冷徹ならついでにと、ジャンの作戦の何が駄目だったのかを逐一列挙して指摘した。

 目立つ投石機部隊が敵に気付かれず横陣の向こう側に回り込めるわけないし、その時点で弾切れを起こしていて味方の投石を拾って再利用するなど聞いたこともない。敵もただ黙って突っ立っていてくれるわけではない。鈍足な投石機部隊がちんたら次弾を装填している隙にも、苦手とする近距離に迫られたら、一瞬で部隊は崩壊する、などなど。

「結局、私が言いたいのは、サッカーとは恐らく兵法に関する類のものではないだろうということであります。どうかお忘れくださいますよう」

「……では、何だというのだ。サッカーとは何なのだ?」

 完全に鼻っ柱をへし折られたジャンが、虚ろな表情でロワイエに問いかける。

「実はあの後も、サッカーに関する理解を深めようと、フレジエ司教と共にかの冊子の精読を続けました」


 先日の三人による冊子の読み合わせの数日後、ロワイエはフレジエ司教に「もしこの冊子が兵法に関する書物でないことが解明された暁には、司教に課されるはずだった軍機に関する守秘義務は全て免除される」と持ちかけたところ、彼は二つ返事で協力に応じた。

 サッカーとは、敵味方それぞれ11部隊ずつに分かれて、敵の本陣へと迫る行為である。しかし、それでも解せない点は多い。それぞれの部隊は、近接した敵部隊に対して何かしら牽制らしき動きは行うが、互いに殲滅させようとは動かないのだ。彼我の戦力差にもよるが、より確実に敵本陣を落とそうと考えるのなら、敵戦力を削ることこそが近道であるはず。しかし実際には『退場』と呼ばれる特殊なシチュエーション以外で部隊が全滅することはない。

 ジャンが立ち会っていた前回は、この冊子が兵法書であることを前提に議論が進んだため、こういった矛盾を深く追求するチャンスに恵まれなかった。だが、ロワイエとフレジエ司教の利害が一致した今、彼ら二人は驚異的な執念を以てそれに迫ろうとしていた。

 彼らが見落としていたのは、『ボール』という概念だった。程なくしてこの『ボール』が実体を持った物理的なオブジェクトであると判明する。『パス』によってそれが受け渡され、『S』や『H』によって敵本陣へと運ばれる。その目的は分からない。ひょっとしたら、盗賊団が財宝を盗み出すためのマニュアルだったのかも知れない。状況的に完全に相手に気付かれており、強盗としか言いようのない手段での搬出になるが。ロワイエにとってはこれが兵法書でなければあとはどうでもいいので、差しあたりこのサッカー=盗賊マニュアル説を押すことに決め、今日の模擬戦に臨んだのだ。


「ま、百聞は一見にしかずですな」

 もうほとんどロワイエにとって興味のないことではあったが、一応新説を唱えた立場から、その検証を行うことにした。

 まずその場にいた人間を11対11に分け、その一人に銅貨の詰まった麻袋を渡した。これを相手に奪われないよう、『パス』などで受け渡しながら『ゴール』に迫ってみよと命じる。こうなると人間とは単純なもので、彼らは我先にと争って麻袋に群がり、取っ組み合いながらゴールを目指すことになった。

 ただ、銅貨の詰まった重い麻袋を、『紀夫ノート』が示すように『センタリング』したり『S』やら『H』するのは大層困難に思えた。ロワイエたちの目の前に繰り広げられたのはいわば壮大な泥仕合で、端から見てこれの何が面白いのかは誰にも分からなかった。

「こっちの方がええベ」

 農兵の一人が、先ほどの演習で使われた藁と土入りの麻袋を手にした。それは確かに手頃な大きさと重さを有しており、蹴り飛ばせばそれなりの距離を飛んでいった。これならば『パス』もスムースに回せるし、『S』も『H』も『ポストプレー』も可能だ。一人、二人とこちらの新ルールの方に農兵たちが群がりはじめた。その様子を見ているだけだった当初の22人以外も、余った藁土入り麻袋を拾い上げて同じことを始めた。最終的には、全員がこちらの新ルールに移行し、この世界における全く新しい遊技に、しばし時間を忘れた。

 この世界のサッカーが、オリジナルのそれに最も近づいた瞬間である。

「下らん!」

 ジャンの怒声が響いた。それは心底からの怒りに震える雷鳴のような声だった。この新しい遊びに熱中していたその場の誰もが、この国で二番目に地位の高い人間の怒声に恐れおののき、凍り付いた。女の子は泣き出してしまった。

「断じてこんなものがサッカーであるはずがない。以降、この国においてこのような馬鹿げた真似は禁ずる。逆らった者は命がないと心得よ」

 ロワイエは、いささかやり過ぎてしまったと顔をしかめた。こうなったら当分、ジャンの機嫌は戻るまい。ただ、これを機にサッカーに関する謎解きが終わってくれることを祈った。大義の前には多少の犠牲は仕方がなく、今回の犠牲がジャンの機嫌であると考えれば、せめてサッカーに関する不毛な喧騒に終止符が打たれこそバランスが取れると言うものだ。

 しかし、その願いは儚い幻と消えた。

「こうなったら、絶対にサッカーの正体を暴き出してやる」

 ロワイエは青ざめた。


 一行は重苦しい空気に包まれたまま、城下へと戻ってきた。ジャンはあれ以来、一言も口を利かなかった。ロワイエから見て、ここまでの不機嫌は近年見られなかったレベルで、もう面倒くさいとかそんな心配をする段階は過ぎていた。

 そこへ、上機嫌のフレジエ司教が通りかかった。ロワイエは本人に聞こえるように舌打ちをしたが、司教はまるでその警告に気付く素振りを見せず、脳天気にも一行へ近づいてきた。

「これはこれは、公太子殿下とロワイエ殿ではござらんか、ヘッヘッヘ、奇遇ですなあ。いや、拙僧は買い物帰りでありまして。今、ちょうど古い友人が来ておるのですよ。何を隠そう、彼は大公殿下とも古くからの顔なじみであるとかいう、交易商のグーブリエ殿であります。こたびは東大陸の方まで出張られたとのことで、大層貴重な品々を持ち帰ってきたようですよ。いずれかの品は大公殿下に献上なさるおつもりではと察しております。うらやましい限りですな。あ、彼のような好事家とは滅多に会えたものではございませんがゆえ、例の『紀夫ノート』をお見せしてみたのですが、ひょっとしたら貴重なヒントをもらえるかも知れません。お二人にはお茶を振る舞いいたすゆえ、是非ともお立ち寄り下さい」

 フレジエ司教にしてみれば気を利かせたつもりであろうが、ロワイエからすれば自殺行為にしか見えない歓待であった。ジャンは不気味な薄ら笑いを浮かべながら、フレジエ司教の誘いを受けると応えた。

 教会の表には数台の荷車が横付けされており、修道僧によって見張られていた。東大陸帰りとあって、相当な戦利品を得てきたようである。どうせまた骨董品の価値の分からぬレオポルド公にケチな品を献上しつつ、引き換えに国内における骨董の独占的販売権を得ようとでもしているのだろう、とロワイエは当たりを付けた。

 応接間へ入ると、そこには先客がいた。件の交易商、グーブリエであった。恰幅がよく上背もそれなりにある壮年で、貧相なフレジエ司教と並ぶとその立派な体躯は一層際立った。明るく闊達な性格で知られていたが、フレジエ司教とは違う意味で気が利かないところがあり、ジャンはさほど面識がないにも関わらずハッキリと苦手にしていた。

「お、これは若殿下ではござらんか。ご立派になられたものだ。ロワイエ殿も久しいのう」

 グーブリエが挨拶をする。ジャンは、ども、と陰気な返事を返す。彼は明らかにこのグーブリエ流の当たりの強さを忌避していた。しかし、グーブリエにはまるで意に介した様子がない。

 フランゴラッシ司祭が人数分のお茶を持って現れた。ハーブティーの豊かな香りが部屋に立ち込める。それぞれが着席し、ジャンとロワイエ以外は思い思いにその香りと味を楽しんだ。

「さて、『紀夫ノート』の件でありますが、グーブリエ殿はどう見ますかな」

 フレジエ司教が早速、今最も敏感な話題に土足で踏み込んだ。ジャンは冷静に振る舞っているように見えたが、その表情から何も読み取れなかった。ただじっと、虚空を睨み据えている。

「中々に興味深い書物と見受けました。言語としてはこれまで見聞きしたもののいずれとも似ても似つかない。東方に行けばより複雑な文字を用いる文化があるとも聞きますが、恐らくそれとも一致してはおらぬでしょうな」

 と、特に当たり障りのない分析を披露して見せた。

「ヘッヘッヘ、さしものグーブリエ殿にも、この謎はまるで手がかりナシと言うわけですか」

 なぜか勝ち誇るようにフレジエ司教が言った。

「いやいや、そうとも限りません。この冊子には多彩な図面が描かれており、それらの一部は特殊な印刷技術で記録されています。紙の種類もエルミリア大陸ではまず見かけないもので、それこそ東洋のそれに最も近いようです。これはこれで珍しい品であることは間違いないでしょうが、今日の本題はそこではないようですな」

 グーブリエが、交易商ならではの鑑定眼を披露する。

「そして肝心の内容ですが、ズバリ鑑定いたします。これはチェスに相違ございません」

 その声は自信に満ちあふれ、一点の曇りもなかった。

 一同は、グーブリエを除いて誰も聞いたことのない、チェスという単語に耳を奪われた。それはロワイエにとっても、一縷の希望に思われた。

 ジャンの虚ろな瞳に、微かな光が差し込んだ。

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