黎明 ≪3≫

 解読作業が始まった。こういった作業を委託するならばまずは教会を頼るしかなく、礼拝に関して全く不熱心だったジャンを躊躇させることになったが、読み書きの出来ない城の衛兵などが取り合うはずもないので、やむを得ず頭を下げる事態となった。まずは数字の解読が行われた。

 当時のエルミリア大陸における標準数字はルンバ数字と呼ばれ、十進法的な位取りの概念を欠いていた。位取りとは、一桁目には一の位、二桁目には十の位、三桁目には百の位に相当する数字を当てはめて表記する方法で、非常に大きな数を簡便に表記することが可能であり、後の数学の発展に欠かせない手法となった。一方のルンバ数字は、1をГ、5をЖ、10をСなどと表す、いわばローマ数字とほぼ同一の表記法であった。すなわち、例えば2,938を表現しようとした場合、ККДКСССЖГГГとなり、さらに五千以上の数を表記することを想定しておらず、どうしてもそれが必要な場合には大層煩雑になるという弱点を抱えていた。

 解読作業は初っ端から難航を極めた。ようやく明らかに数字を示していると思われる0〜9の文字が同定されたが、冊子の表紙にある2023からしてどのような大きさを持つ数字なのか不明であり、ついでにvol4はvo14と誤読された。この問題を解決に導いたのは、GKゴールキックFKフリーキックCKコーナーキックの数を数える欄の存在だった。ここでは試合中にGKなどを数える際に/を一つ、Xを二つとして便宜的に記載しており、それらを合計したものが隣の欄に記入されるため、ようやくそれぞれの数の大小と二桁以上の数の意味が判明することとなった。

 位取りを行う十進法という概念は、いわば解読作業のもたらした奇貨であった。興奮気味にその有用性を説いた司教に対して、ジャンは「わかった、父上には報告しておこう」などと応えたものの、どうにも興味が乗らなかったためにその案件は永久に放置された。結果として、十進法表記がエルミリア大陸にもたらされるタイミングは数百年遅れることになった。

 解読作業と並行して、紙の材質に関しても調査が行われることとなったが、こちらはより不首尾に終わった。当時、市場に流通していた紙は、南方より時折運ばれてくる目の粗いパピルス紙か、比較的丈夫ではあったが品質により厚さがまちまちでありとにかく高価な獣皮紙であった。いずれも微小な繊維をシート状に膠着させて作る本来の紙の製法とは異なるため、当然これの再現などは可能であるはずもない。

 当初、ジャンはその謎の冊子にこれといった興味を引かれたわけではなかった。学術的な話に関しては元から余り興味はなかったし、上質な紙の製法に関するヒントがあればそれを産業として発展させることは悪いアイディアではないと思ったが、製法を解明するのは自分の仕事ではないと思っていた。そのため、中身をろくに改めたこともなかった。

 風向きが変わり始めたのは、ロワイエがあの冊子が兵法に関する物ではないかと考え始めた辺りからである。すなわち、ゴールシーンにおけるゴールの状況を記録したシートをロワイエらが目の当たりにしたことが、今回の狂騒の直接のきっかけであり、それはとりもなおさずサッカー誕生の契機となったのだ。


「兵法書、と申したな」

 解読作業の進捗報告の際に、ジャンがはじめてその内容に興味を示したことを、ロワイエは見逃さなかった。

「は、仔細は不明ながら、図上演習を記録したもの、ないしは実際の戦闘記録の類ではないかと推察します」

「ふむ、図上演習か」

 ジャンは、狂犬と呼ばれるほどの戦争狂だった時代の父、レオポルド公のことを思い出していた。プニエ公国を列強の地位にまでのし上げた父は、無類の長射程武器狂信家マニアでもあり、徹底した長射程攻撃により、当時エルミリア大陸の主流であった重騎兵戦力に対して戦勝を重ねた。

 レオポルド公は、戦を始める前には必ず念入りに図上演習を行っていた。要は地図の上で駒を動かしながら行う作戦会議であり予行演習シミュレーションであった。これは本人の執着心の強い性向を反映した演習となった。いかに相手が嫌がるかについてとことん考え抜く彼の趣向は、出席者の大半に大公だけには逆らうまいと妙な形での忠誠心を刺激する顛末となった。

 地の利がなければ、長射程武器は輝くことが出来ない。そのことをよく理解していたレオポルド公は、とにかく一方的に敵勢力を蜂の巣にすべく、徹底的に有利な陣取りを追及し続けた。ブービートラップの類も好んで用いられたし、天賦の才としか表現のしようのない火攻めのアイディアも、多くは図上演習のやり取りから生まれた。

 一方、当時はまだ十代前半であったジャンにとって、それはいささか辛い時間帯であった。ジャンには理解しがたい高度な前提知識を要求する作戦会議だったからだ。

「父上の大局観・先見性は、既にこの時点で発揮されていたのだな」

 ジャンがつぶやく。なるほどそういう捉え方もあるのか、とロワイエは感心したが、表立ってはさも以前からそう思っていた風をよそおった。

「御明察であります。大公殿下は図上演習の時点から、常に先読みをされておりました。ジャン公太子殿下におかれましても、大いに参考になる点がありますかと」

「もう少し早く、気付いておきたかったわ」

 例の鹿狩り以来、ジャンはすっかりしおらしくなってしまった。ロワイエにしてみれば、御しやすくなってありがたい限りである。しかしながら、不機嫌をこじらせてもまた面倒なため、適度な息抜きとして件の『紀夫ノート』を見に行かないかと提案した。

「それもそうだな。兵法書とあらば、一国の次期当主として検分しないわけには行くまい」


 教会でジャンら一行を出迎えたのは、フレジエ司教であった。線が細い中年男で、いかにもロザリオより重いものを持ったことがなさそうな風体をしていたが、喋らせると多弁であり、それがジャンの足が礼拝から遠のく原因となっていた。

「これはこれは、ジャン公太子殿下、よくぞおいでくださいました。主になりかわりまして歓迎いたします。ささ、こちらへどうぞ。これ、フランゴラッシ司祭、客人であるぞ、茶を淹れてもてなしなさい。いや、このたびはよくぞおいでくださいました。あと、新数字の件、大公殿下のお耳にお早めにお入れくださいますよう、あ、僭越ながらフレジエ数字として世に広めて頂きましたら、大変語呂が良く覚えやすいかと、ヘッヘッヘ」

 近頃ではフレジエ司教に会う度に、条件反射的にジャンは寡黙になった。そしてジャンが黙れば黙るほど、その空いた時間を埋めるかのようにフレジエが喋り倒すという悪循環が出来上がっていた。かといって、ジャンが何かを話せば、話の腰を折るわ見え透いたおべんちゃらを言うわで疲れるので、結局黙って聞き流す以上の方策は見当たらなかったのである。

 一行は教会裏手にある居間のテーブル席に着き、フランゴラッシ司祭の淹れた紅茶を飲みながら、件の冊子に目を通すこととした。

「いや、ここ数日というもの、私はこの書物の虜同然でありまして、ヘッヘッヘ、まずこちらの表紙をご覧頂きたい。こちらの数字、2,023というのは、我々の表記で書くところのККССГГГとなりまして、これまたとんでもなく大きな数なのであります。さて、この数字の示すところやいかに? まあ、大方サバを読んだ年号の類でありましょう。我が王朝は二千年も続いているのである、てね。こんな数字に驚いているのは素人にでもさせておけばよろしい。本題はこちら、vo14の方であります。私が見立てるところによりますと、同じような冊子があと14冊、いや、これ以外だから13冊か、まあ、ざっとそのくらいはどこかにあるのではないか? とまあ、そんな具合になるわけであります」

「ロワイエ、後で城下に触れを出そう。奇なる冊子を見かけた者は届け出るようにと」

「かしこまりました」

「あ、フレジエ数字のこともよろしくお願いいたしますよ!」

 その後もまくし立てるフレジエ司教の言葉に適当に相づちを打ちながら、ジャンらは冊子のページに指をかけた。

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