黎明 ≪2≫
エルミリア大陸標準歴(大陸歴)756年6月
プニエ公国次期当主、ジャン・ローラン・ド・プニエは、不機嫌な馬に揺られながら獣道を進んでいた。馬上の人もまた不機嫌であった。馬から伝わる神経質な振動や鼻息のせいだけではない。慢性的にジャンを蝕んでいる不景気な感情が、馬の不快な乗り心地によって増幅されているのだ。
戦争が終結して早二年。父レオポルド公はすっかり御隠居のように成り果ててしまった。そこには狂犬と呼ばれた頃の面影はなく、鶏とすり替えられたのではないかと陰口をたたかれる始末だった。
国の方はと言えば、相変わらず兵器庫にしまってある飛び道具だけは未だに近隣諸国に恐れられており、たまに用心棒まがいのことをしたり仲裁役を買って出ることで小銭を稼ぐだけの、何ともせこい国家へと変貌を遂げていた。それだけを見れば一応は大国の役回りと言えなくも無かったが、自らに火の粉が降りかかるのを三手前に察知してこれを避けるような外交姿勢は、やはり当主が
この状況が何とも面白くないジャンであった。生まれてこの方というもの、戦場の最前線に立った経験がないことは、彼に強烈なコンプレックスを抱かせていたのだ。だが、周辺国の小競り合いに介入するのに、まさか大公国の次期当主が陣頭指揮を執るわけにも行かない。代理戦争の基本である。むしろ、狂犬時代のレオポルド公がやっていたのはまさにこの小競り合いの拡大と当事者
かくあって、ジャンとしては磨き上げた弓の腕を振るいたいにも関わらず、その相手は野鹿・野兎などの、罪のない動物たちに限られた。狩りに用いるのに、父親が開発した数多の飛び道具類はもはや
――狩りもまた騎士の嗜みである。
憂さを晴らすに狩りくらいしかやることがないとごねたジャンに対して、父レオポルド公はそう繰り返すばかりだった。脳味噌をオウムとでも交換したかと毒づきたくもなったが、父は手近な相手に対してだけは(主に酔ったときに)未だ狂犬ぶりを発揮するので、ジャンは泣く泣くその言葉を飲み込んだ。
ジャンら一行は、昼過ぎには城から数
「やはり、どうしても剣ではなく、弓矢で止めを刺されるおつもりなのですね?」
従者のロワイエが確認をする。その歳はジャンよりもその父親に近く、42歳。頑強であることを取り柄とし、戦場に赴いては常に父レオポルド公を守り支えた。だが、いざ戦争が終わると、彼の活躍の場は途端に限られた。今ではジャンのお守りをする日々である。
「くどいね、お前も。長射程こそが戦場のロマンなんだよ」
ジャンが、これまでに幾度となく繰り返し用いてきた台詞で応えた。同じ文言を繰り返す辺り血は争えないところだが、残念ながら本人にその自覚はまったくなかった。
この時代・この界隈において、馬上で弓をつがえる者は珍しいというよりまず存在しない。東方に行けば遊牧民が騎射と呼ばれる馬上での弓術を磨いてはいたものの、比較的例外である。いずれにしても、エルミリア大陸における騎士は基本的に馬上で戦うため、戦場に出ればまず弓を使わないのだ。
当時の流行戦術は、人馬ともに重い鎧に身を包んだ重騎兵による突撃戦術だった。歩兵戦力では歯が立たず、比較的威力の弱い弓矢程度の攻撃に対してもかなりの耐性を有したこの戦法は、瞬く間にエルミリア大陸を席巻した。ただ機動力に劣るこの戦法は、飛躍的に破壊力・貫通力を高めた飛び道具にとっては格好のカモであったため、結果として易々とレオポルド公の台頭を許した。そのせいもあって、ジャンには剣やら槍やらを馬鹿にするような、騎士らしからぬ態度が時折垣間見えた。
一方のロワイエは、ジャンに対して「おや、戦場の何たるかを既に熟知しておいででしたか」などと軽口を叩いたりはしない程度にはわきまえていた。だが、仮にもジャンよりは遥かに従軍経験の豊富な彼としてみれば、たまの狩猟の場では弓だけではなく剣技の鍛錬をやって欲しいくらいに思っていて、つい言葉の端々にその思いがにじみ出ることを隠せなかった。指揮官クラスが白兵戦でなすすべもなくやられてしまったのでは困る、飛び道具などはそれ専用の部隊にでも任せておけばよいのだ、という本音が、ことある毎に雑なオブラートからはみ出てしまう。ただ、肝心の父レオポルド公がその件に関してはまるで無関心であり、ロワイエは心労を募らせるのだった。
もちろん当のジャンも、子供の頃から剣技が大嫌いであり、彼の言葉に耳を貸すことはない。そのことを思い知らされ続けた二年間であったので、最近のロワイエはさっさとサジを投げることにしている。
「なるほどロマンですか、結構なことです。では、まあ、ご武運を。あと、くれぐれも誤射だけはなさいませんよう」
「クッソ、俺を誰だと思ってやがるんだ」
鹿は当然に俊敏なので向こうが油断でもしていない限り、まず闇雲に矢を射掛けても当たらない。大概は二時間も追い立てられれば隙を見せるか動きが鈍くなるので、そこを狙うのだ。
ジャンが手にした今日の得物は、父と兵器開発チームの残した最後の傑作、
しかしてその得物、馬上での使用を見越して小型化されてはいたが、その威力は長弓にも劣らず、射手の力さえあれば鹿の体幹を矢で貫通させることも可能だ。
先導する犬の後を追いかけると、一頭の鹿が視界に入ってくる。まだ元気が有り余っており、犬が追い立てると軽快に逃げていく。
まずは鹿を追いつつ、ジャンは自慢の得物の試射することにする。誤射に注意しろと念を押されたばかりなので、十分周囲に注意を払って、目標とは少し距離は開いていたものの撃ってみようと構える。
弦の張りはきつく、力なき者には扱えない。射撃場での練習で、その感覚は十分に掴んでいる。
弓を絞る。引きすぎる必要はない。弓の持ち手を安定させることが重要だ。一発目は狙いの感覚を掴むにとどめる。ここで倒す必要はない。弱らせたり威嚇になれば十分だ。
そんな軽い気持ちで放ったジャンの初撃が、一直線に鹿の胸を貫通した。
猟犬たちが、突如として目標が斃れたため、右往左往し始める。
鹿の逃げ道を塞ぐべく配置されていた狩猟員も、まさかこのタイミングで仕事がなくなるなどとは思わず、呆気にとられる。
何だこの感覚は、とジャンは自らのしでかしたことに震える。
練習では何度も撃ってきた弓だ。当然に、感触は心得ている。どのように狙いをつければ、どのように飛んでいくか。ジャンの手に染み付いた感覚だ。
ただし、的に命中したことは分かっても、的に与えるダメージまでは想像がつかなかった。いや、軌道で矢のおおよその速度は分かるが、それでもリアルな実感はないものだ。
「お見事です。次の獲物を探させますか?」
追いついてきたロワイエがジャンに話しかける。
返事はない。ジャンはただ、馬上で震えているだけだ。果たして馬の震えが伝わっているだけなのか、ジャン自身が震えているのか。ロワイエが量りかねているところに、今度は嗚咽が耳に入ってきた。
間違いない。
ジャンは泣いているのだ。
「これだけの弓があれば、俺も戦場で武功を立てることが出来たのに」
小屋に着くなりジャンは言った。どうにもジャンが泣いていた理由を承知しかねていたロワイエだったが、まだ理解が追いつかないなりにも、実は相当にばかばかしい理由ではないかと疑い始めた。
「ジャン公太子殿下、あなたはなぜお父上であるレオポルド大公殿下がたった一代で、かつては弱小国に過ぎなかったプニエ公国を、北の帝国と比肩する西の列強にまで押し上げることが出来たのか、お分かりになりますか?」
ロワイエが静かに語りかけた。
「父上は狂犬とまで呼ばれた。戦をさせて右に出るものはなく、おびただしい武勲を飾ってきた。それもひとえに、その能力を活かすチャンスに恵まれたからだ」
「しかし、大公殿下は何も剣技や弓術に特に優れていたわけではございません。新しい弓をお作りになるのは好きだったようですが」
「だから、何だというのだ」
不機嫌と言うよりはもはや不貞腐れた態度で、ジャンは言い放った。こうしたジャンの子供のような一面を、ここ二年というものロワイエもある程度は承知していた。それでも泥酔時の狂犬よりは
「ひとえに大公殿下の優れていた点を述べるならば、大局観と先見性に尽きると言えましょう」
ロワイエは、勿体をつけるようにゆっくりと言葉を発した。ジャンは怪訝な表情を作りながらも、次の言葉を待つかのようにロワイエの方を見据えている。その反応に満足したのか、ロワイエの口調はますます勿体をつけた大仰なものへと変化していった。
「大局観とはすなわち、小さな戦場にとらわれず、常に周囲の
ロワイエが話し終えるころには、高揚感に声が上ずっていた。そして、その言葉に確かな手ごたえを感じていた。
よくもこれだけの嘘八百を、理路整然かつ雄弁に並べ立てられたものだ、と。
実際のレオポルド公が戦争を起こすときは、隣国のあれこれが気に入らないであるとか、目先の利益をがっぽりとせしめようといった短絡的動機に基づくものだった。ただ、肝煎りの長射程兵器が思いのほか有効だったために、あまり負けなかっただけのことである。本当に大局観があるのなら、見境無しに焼き討ちにして国土を荒廃させたりはしなかっただろう。
また、長射程兵器にこだわったのは、離れたところから敵をいたぶりながら攻撃することの愉悦に抗いがたい魅力を感じていたからで、これ以外に重騎兵を打ち破る方法はないと、先見性を以って判断したわけではない。むしろ、何が何でも重騎兵の装甲を破れるような長射程兵器を作れと発破をかけた結果であり、それがたまたま上手くいっただけのことであった。
しばしの沈黙の後に、ジャンは小さくつぶやいた。
「なるほどな……。今まで俺は、父上のことを何一つ分かっちゃいなかったって訳か」
効果はロワイエが期待した以上に抜群だった。
こうも単純だと逆に将来が危ぶまれるとか思わなくもなかったが、それは別の機会に直すこととして、ロワイエは浮いた時間をどう片付けようか思案することにした。
如何せん、狩りがあっという間に終わってしまい、ジャンはもうこれ以上鹿を狩る気分ではなさそうである。このまま城に引き返しても駄目なことはないだろうが、往復2時間以上かけて狩り場に赴き、実際の狩を30分で引き上げてくると言うのも何やら間抜けである。
どうしたものかとロワイエがまごまごしていると、小屋のドアをノックする物音が聞こえた。表にいる衛兵か誰かだろう。
「入れ」
ロワイエが声をかけると、衛兵に連れられて一人の身なりの粗末な男が入ってきた。年の頃は30代と思われたが、身なりを整えれば大概は若く見えるものなので、実年齢は20代かも知れない。
これはジャンが直に問いただす案件でもないので、そのままロワイエが用件を尋ねる。
するとその男は、懐から冊子のようなものを取り出した。
「へえ、こだら何やら訳の分からんモンが、土くれの中からぁ出てぇ来よったきに、わては字が読めんとだに、
「大儀であった。鹿を取らせる」
ジャンが投げやりに言った。
思わぬ褒美に驚いたその男は、泣きながら礼を言って鹿を持っていった。
よろしかったのですか? とロワイエが聞くも、ジャンは僅かにうなずいただけである。
ややあって、ロワイエが床に打ち棄てられた土を被った冊子を拾い上げた。
それは一目に、上質な紙で出来ていると分かった。いや、上質どころの話ではない。当時において再現不能な強度・薄さの紙であると、ページをめくる前から判断された。
ロワイエのただならぬ気配を察して、ジャンも遅れてその冊子に目をとめた。
その表紙には『サッカー部活動日誌 2023 vol4:沼渕紀夫』と、ここに居合わせた誰にも読めない言語で記されていた。
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