まばたき

 パシャリ。

 最高のタイミングを見計らって、シャッターを切る。早すぎても遅すぎてもいけない。早く写真を撮りたい気持ちを抑えて、これぞというタイミングに狙いを定める。写真を撮るのは、弓矢を引くことにも似ている。弓道をやったことはないけれど、写真部の先輩がそう言う気持ちは、なぜかよくわかった。

「うーん……」

 お目当ての馬が目の前を通り過ぎ、カメラの液晶を確認する。ピントも角度もなかなかのものだけれど、思っていたのと何かが違った。

「どうしたの、最近調子よくないね。」

 隣でカメラを構えるポッポさんの、目尻の下がった穏やかな顔がこちらに向けられる。ポッポさんというのはハンドルネームで、私たちのように馬の写真を撮ることを目的に競馬場に通うファンは、写真をシェアするSNSのハンドルネームで呼び合うことが多い。

「ベアベア嬢のまぶたのシャッターには、白馬の王子様が焼き付いてますからなあ。」

 ポッポさんと反対側の私の隣に立っている、いつも一言多いくせにく空気を読まないmilkbottle氏が、ハンドルネームの由来だという瓶底メガネをクイッと押し上げながら、訳知り顔で解説を加える。ちなみに、ベアベアというのは私のハンドルネーム。名字が熊谷だからベア。

「ミル坊くん、あんまりそうズケズケとねえ……」

「いいんです、ポッポさん。いつものことですから……」

 ちょっと(というかかなり)言葉を選ばないmilkbottle 氏の毒舌に私が翻弄され、ポッポさんの正義の鉄槌が下る。競馬場のカメラ仲間の、いつものくだらないやりとり。

 ばかばかしくも可笑しいこの日常が毎週末にあることで、私の心はいくらか、救われていた。

 milkbottle 氏の言う「白馬の王子様」というのは、私が初めて好きになった馬だった。今はもう、二度と会えない王子様。


 二年前、関西の大学に進み、高校時代に美術部にいた延長線のような感覚で、私は写真部に入った。そこで競馬好きで馬好きな先輩に出会い、付き合ったりもしながら、競馬場での写真の撮り方を教わった。

 そして、あの猛暑の名残も色濃かった九月のある日曜日の阪神競馬場で、私は運命の出会いを果たした。

「おおっ、あれがウワサの公爵殿ですなぁー!」

 今思い返せば、あの時狂喜して写真を撮りまくっていたのは後に知り合いになるmilkbottle 氏だったけれど、そんなことより(ごめんねmilkbottle 氏)私は、パドックに入ってきた一頭の馬に心を奪われていた。

 後になって聞いたところによると、その馬は年季の入った競馬ファンの間ではデビュー前から話題になっていたらしい。

 スノーデューク。白毛の良血馬。雪の公爵。何でも、数がとても少なくて「名馬」と言われるほどの競争成績をあまり残せた馬がまだいない「白毛」という毛色で、父親がヨーロッパの王者と言われた名馬中の名馬。

 スノーデュークの明るい未来を期待する馬券師も、真っ白なその馬体に魅せられた写真好きも、みんなが待ち望んだデビューだった。

 こんなキレイな生き物を、私は見たことがない。

 パドックの人だかりでは、同じような声がたくさん聞こえてきたけれど、きっと私の思いはその声のうち、どれよりも強かった。そう思えるほど、私ももれなくスノーデュークに魅了されてしまった。まだカメラ自体にも慣れていなかったから、写真を撮るのも忘れてしまっていたくらい。

 人をひとつのカメラに例えるなら、まばたきはシャッターだという詩を読んだことがあるけれど、私はその例え、あまりしっくり来ていない。

 だってパドックでもレースでも、私はまばたきも忘れるほど、文字通りの「白馬の王子様」に魅せられていたのに、私の心のフィルムには、ターフに光る流れ星のように輝きを放ちながらゴールを切る、スノーデュークの勇姿が焼き付いていたから。

 残念ながらそのレースは、スノーデュークと人気を二分していたもう一頭の良血馬が僅かな差で制し、スノーデュークは二着に敗れたけれど、私には結果なんてどうでもよかった。後になって考えてみれば、このレースの結果こそが大切だったのかもしれないとも思うけれど。少なくとも、その時の私には、スノーデュークという世界一美しい馬に出会えたことの方が大切だった。

 その後、私はスノーデュークが出るレースに全て、カメラを携えて応援に行った。そのうち、この世界に私を引っ張り込んだ先輩よりも競馬に詳しくなってしまい、私に良い格好をしたかったらしい彼とは合わなくなって別れた。

 その程度の気持ちで、その程度の関係だったんだと私も割り切ってしまえていたし、今でもそう思っている。あの頃の私は、一時期美大の受験を考えるほど熱心に打ち込んでいた油彩画のキャンバスに向き合うのと同じくらいの情熱で、スノーデュークと向き合っていた。


「またダメだ……。」

 それほどの馬に比べれば、パドックで見て多少キレイだな、と思ったくらいの馬を撮ってみたところで、納得のいく写真が撮れるはずがなかった。

「じゃあ、私は馬場に行くけど、お二人はどうする?」

 パドックから馬たちがレースに向かい、お気に入りの馬が出走するポッポさんは馬場に向かおうとする。

「もちろん、自分も行きますよ!」

 競馬と二次元を愛し、女性には興味がないと言い放つくせに馬には惚れっぽいmilkbottle 氏は嬉々として続く。

「私は……ちょっと早めにお昼にします。」

 特に撮りたい馬がいるわけでもない私は遠慮した。二人も、私の抱える事情はわかってくれているから、無理に連れて行ったり、変に気遣ったりしない。

 私は「じゃ、また後ほど」と二人に手を振り、気分転換と小腹満たしに、フードプラザに向かった。

 阪神競馬場のパドックからフードプラザに向かうには、壁がガラス張りのショースペースになった狭い通路を通る。そこではいつも、過去の名馬や調教師なんかのプチ展覧会が行われていた。

 もし、あのデビュー戦でスノーデュークが勝っていたら。

 競走馬にまつわる様々な事情を知った今だからこそ思えることだけれど、引退後もこうして写真が出回るような馬の存在に触れるたびに、苦い思いがふとよぎる。

 初めて好きになった馬がスノーデュークだったことを私は今でも誇りに思っている。でも、時には引退後も写真や近況が報じられることで、好きな馬に魅了され続けることができる――そういうファンの人が、羨ましくなることがあるのもたしかだった。


 競走馬としてのスノーデュークのキャリアは、正直なところ良くはなかった。

 デビュー戦こそ自らと同じく名馬を父に持つ良血馬との競り合いで惜しい二着に入ったものの、その後に上のクラスへの昇級をかけた未勝利戦では掲示板(五着以内)すら確保できないレースが続いた。そのまま年を越して三歳になった年明けにやっと未勝利を勝ち上がっても、次の500万下でも足踏みが続き。

 やがて陣営も焦りが出たのか、スノーデュークを見るのを楽しみにしていた私でさえ、走らせ過ぎじゃないかと思うほど、あまり間を置かずにレースに出走するようになり……


 ドン!

「へ!?」

 写真に目をやりながら考え込んでしまっていたのか。私は通路の途中に立っていた人に盛大にぶつかってしまった。

「……」

 ぶつかった相手は、背の高い若い男の人――というか男の子というか、大学生くらいの人だった。ちょっと線は細いけれど、私よりずっと背が高いおかげで、私が盛大にぶつかっても、よろめいたり転んだりということはなかったみたいだ。平気そう、というか無気力というか、無感情な顔がこちらを向く。

「す、すみません、ボーッとしちゃって……」

「……」

 感情が感じられない少し眠そうな目が、じっと私を見下ろす。もしかして、ものすごく怒ってる、とか――

「あ、あの、本当にごめ――」

 こんなところで(どんなところでもだけれど)争い事は極力避けたい私は慌てて、ごめんなさい、と頭を下げた。

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秋の夜空のセントウル 鶴岡えり @kate-ella-jean

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