はなのゆめ

月嶌ひろり

 

 チロが死んだのは、拾ってきたのと同じ、桜に雨が降る日だった。


 病気でもう長くは生きられないと聞かされてから、毎週末のように夜行バスで実家に帰っていたのに、結局、死に目には会えなかった。

 バイトでひどい失敗をして、落ち込んでいた水曜日の帰り道、おばあちゃんからの電話で知らされたのだった。

「幸せな子だったね」

 私を悲しませないようにしてくれたのだと思う。おばあちゃんが優しい声で言った。

「うん」

 本当にそうだった、と思おうとした。

 私は看取ってやれなかったけれど、優しいおばあちゃんが最期まで面倒を看てくれたのだ。きっと、温かい毛布の上で、ぐっすりと眠るように息を引き取ったと思う。

 その安らかな死に顔を目に浮かべたら、元気だったチロの姿が次々に甦ってきた。


 私の膝の上で眠るのが大好きだったチロ。自分のしっぽを追いかけてくるくると回っていたチロ。私が登校しようとすると、自分も一緒に行くのが当たり前であるような顔をして、自転車のかごで丸まっていたチロ。寒い夜は私の布団にもぐり込んできたチロ……。

 あんなに私を癒やし、楽しませてくれたチロが、もういない。


「週末には帰る」

 とおばあちゃんに伝えて電話を切った後、私はその場にうずくまって泣いた。


   *


「どうしたの?」


 不意に声が聞こえて、私は振り返った。

 高校生くらいだろうか。茶色い髪をした、優しそうな少年が、私を見守るように立っている。どこか懐かしい感じのする声だった。

「すみません、大丈夫です」

 私は、しっかりしなきゃ、と自分に言い聞かせた。人通りが少ないとはいえ、こんな街中で雨の中泣いていたら、どんな目にあったのかと思われてしまう。

「大丈夫ですから、本当に」

 私はもう一度言って、立ち上がった。それでも、少年は心配そうな顔で私を見つめている。

「駅まで送るよ」

「いえ、家はこの近くですから」

「どのあたり?」

「日向一丁目の桜ハイツ」

 初対面の少年をあやしく思わず、住んでいるアパートまで教えてしまったのはなぜだろう。彼の穏やかで優しい声と、屈託のない笑顔のせいかも知れない。


「それなら、僕の家の近くだ。途中まで一緒に帰ろう」

 年下か同年代の子を相手にしているような親しげな口調も、なぜか不快には感じなかった。私も彼に口調を合わせることにした。

「うん。それなら一緒に」

 そう言うと、少年はとても嬉しそうな顔をした。


   *


 二人で傘を並べて歩いた。


「高校生くらいだよね。髪を染めて、叱られない?」

「ああ、これ?」

 と少年は、前髪をつまみながら言った。

「地毛なんだ。生まれつき」

「いいな、きれいな茶色の髪。私は真っ黒だよ」

「ううん。とても素敵だよ」

「ありがとう。でも、猫っ毛なんだ。雨の日はぴんぴんはねちゃう」

「同じだ。僕も猫っ毛」

 二人で顔を見合わせて笑った。


「私、ここの角を曲がっていくから」

 街灯の下で立ち止まって言った。

「じゃあ、ここでお別れだね」

 何となく、このまま少年と別れることが寂しかった。

「もしよかったら、また会わない?」

 と私が言うと、不意に少年が私の髪を触った。

 ドキッとした。


「桜の花びら。髪についてた」


「あ、ありがとう」

 花びらを一枚、私に渡してくれた。

「僕もまた会いたいと思ってた」

「じゃあ、明日の夕方五時に、今日出会った桜の木の下でどう?」

「いいよ」

 それにしても、なんてきれいな目をした少年だろう。透き通る瞳に街灯の光が映っている。

 いつの間にか雨はあがっていた。

「雨、あがったね」

「うん。心の雨もあがった?」

「?」

「さっき、泣いていたから」

「ああ、もう大丈夫。今日は送ってくれて、ありがとう」


 チロが死んだ悲しみも、バイトで失敗したみじめさも、少年と会う前よりもずっと薄らいでいた。

「そういえば、私まだ、君の名前を聞いていなかった。私は花というんだけど」

「花ちゃん。僕の名前は、ちひろ」


   *


 翌日の夕方五時、私は桜の木の下でちひろ君を待っていた。


 天気の良い日で、ふと見上げると、春らしいふんわりとした雲が、夕焼けの色に染まりはじめている。

 昨日の雨が散らしてしまったのだろうか。桜の木には、緑が目立っている。あと数日もすれば、すべて散ってしまいそうだった。


「花ちゃん」

 約束の時間から五分ほど遅れて、ちひろ君は現れた。空色のシャツに白いカーディガン、カーキ色のパンツ。昨夜見たときより、少し大人っぽく見える。

「遅くなってごめん」

「部活だったの?」

「ううん、寝てた」

「こんな時間に?」

「うん。日だまりが気持ちよかったから」

 私は思わず笑ってしまった。少し待たされたことなど、どうでもよくなった。

「夕ごはんの前に、お茶しても大丈夫?」

「うん」

「近くにケーキのおいしいカフェがあるから、一緒に行かない」

「行きたい」

 ちひろ君は、目を丸くして、嬉しそうに言った。


 カフェでは窓際の席に座った。

「好きなものを注文して。今日はごちそうするから」

「でも、僕こういうところは初めてだから、何を頼んでいいか分からないや」

 確かに、男子高校生が来そうにはない店だった。

「私のおすすめはチーズケーキとマロンケーキ。それを半分こしようか」

「うん」

「飲み物はどうする? 私はアップルティーにするけど」

「僕はミルク」

 私はまた笑ってしまった。

「苦いの、苦手だから」

 ちひろ君は恥ずかしそうに頭をかいた。


   *


「あのね、じつは……」


 ミルクを飲みながら、ちひろ君が切り出した。

「花という名前、僕の大好きな人の名前なんだ」

「そうなんだ。ガールフレンド?」

「まあ、そんなとこ」

 少しだけ嫉妬した。

「同級生?」

「ううん。昔はいつも一緒だったけど、今は遠距離」

「寂しいね」

「うん。週末に会って、たくさん遊んだ日は、別れるのがとてもつらかった」

「分かる分かる」


 チーズケーキとマロンケーキが運ばれてきた。私はそれをフォークで半分ずつに切り分けながら、質問を続けた。

「その子、可愛い?」

「うん、とても」

「ふふふ」

「でも……」

 ちひろ君は哀しそうな目をした。

「もうすぐお別れなんだ。遠くへ行くから」

「えっ、ガールフレンドの花ちゃんが?」

「ううん、僕が。遠くへ行かなきゃならないんだ。もうあまり時間がないんだ」


 私は言葉に困って、二本のフォークでケーキをお皿に取り分けることに集中しているふりをした。人の哀しい話を詳しく聞いてしまうのは良くない気がする。

「はい、こっちがちひろ君の分」

「わぁ、おいしそう」

 ちひろ君はケーキに顔を近づけ、においをかぎながら言った。そのとき、鼻の頭にマロンクリームがついてしまったから、私がそれをハンカチで拭いてあげた。

 前にもこんなことがあったような気がする。

「ガールフレンドとは、どこで会ったの?」

「桜の木の下。雨の日だった」

「私たちと同じだね」

「うん」

 ちひろ君は鼻の頭を指でこすって、照れ笑いした。


   *


 金曜日の午後、東京にしては広い芝生のある公園で、ちひろ君ともう一度会った。彼はまだ春休み中らしかった。

 とても暖かい日で、そよ風は新緑のにおいがする。


 今度はちひろ君が先に来ていた。そのかわり、ベンチで気持ちよさそうに眠っていた。

「お待たせ」

「やぁ」

「ごめんね。起こしちゃった」

「ううん、大丈夫」

 ちひろ君はまだ少し眠そうな目をしながら、それでも私を見ると、にっこりと笑った。

「お弁当をつくってきた」

「わぁ、嬉しい」

「唐揚げ好き?」

「うん、大好き」

「良かった」

 私がつくってきた唐揚げと卵焼きとおかかのおにぎりを、ちひろ君はおいしそうに食べてくれた。

「そんなに急いで食べなくても大丈夫。はい、お茶」

 水筒に入れてきた温かい麦茶を注いだ。

「ありがとう。熱いっ」

「そんなに熱かった?」

「僕、猫舌だから」

「ごめん。火傷しなかった?」

「大丈夫」

 私は、ふぅー、ふぅーとお茶を冷ましてから、ちひろ君に渡した。


「ありがとう。ああ、おいしい」


   *


 お弁当を食べ終わると、二人でフリスビーをして遊んだ。


 シャンブレーのシャツを肘まで腕まくりして、ちひろ君が円盤を追う。バスケットボール部にでも入っているのだろうか。ちひろ君はとても運動神経がよく、私が高すぎるところに投げてしまっても、ひょいとジャンプしてキャッチする。

 汗をかいたから、売店でソフトクリームを買って、ベンチに座って食べた。

 頬をなでる風が心地いい。


 ちひろ君が不意に、私の肩に頭をもたせかけてきた。嫌な気持ちはしなかった。

「ずっと、こうしていられたらいいのにね」

「うん」

 空はまだ明るかったけれど、時計は午後四時近くをさしている。その日の夜行バスで、私は実家に帰ることになっていた。

「花ちゃん」

「ん?」

「一つだけお願いを聞いてくれる?」

「うん」

 ちひろ君はまた少し眠そうだった。

「花ちゃんの膝の上で寝たい」

「いいよ」

 私がそう言うと、ちひろ君は私の膝の上に頭を載せた。お弁当の味が残っていたのか、ペロリと舌を出して口の端を舐めると、そのまま、すーすーと寝息をたてはじめた。子どものような寝顔だった。

 私は、ちひろ君の茶色くやわらかい毛をそっとなでた。


 そして、はっとした。


 この感触、この重さ、この温かさ。

 すべてがチロだった。


 そう気づいてみると、光彩の大きいきれいな瞳も、じっと見つめるとそっぽを向く仕草も、クリームのにおいをかぎたがるくせも……。


「花ちゃんに会いに来たんだ」

 目を閉じたまま、ちひろ君が言った。

「チロ?」

「うん。また会えてよかった」

「……」

「泣いてるの?」

 私の頬を伝った涙が、ちひろ君の顔の上に落ちた。


   *


 物心つく前に父が、小学四年のときに母が亡くなった。寂しくて泣いていてばかりいた私のところにやってきてくれたのがチロだった。

 春の雨が降る夕方、桜の木の下で、ダンボール箱に入れられて鳴いていたチロを、私は天国の両親が贈ってくれた友達のように思った。


 それから、いつも一緒だった。

 最初は手のひらに載るくらい小さかったチロ。よちよち歩きで、布団の下などに隠れてしまって、私を困らせたチロ。いたずらが好きで、叱られると耳をぺたんとさせていたチロ。私が学校から帰ると、飛びかかるように駆け寄ってきたチロ。私が風邪で寝込んでいると、心配そうに顔を舐めてくれたチロ。

 あんなに仲良しで、あんなに私のことを好きでいてくれたのに……。


「ごめんね」


 私は大学生になって、上京するためにチロを置き去りにした。たまに実家に帰って、再び東京に戻るとき、チロは「行かないで」と言おうとしているかのような切ない声で鳴いた。

「ごめんね」

 友達が増えて、東京での生活が楽しくなってくると、私はあまり実家に帰らなくなった。チロが病気になるまで、思い出さない日もたくさんあった。

「ごめんね」

 いちばん最後に一緒にいてあげられなかった。

 チロはずっと、私の帰りを待ってくれていたのかも知れない。


「もう泣かないで。僕はとても幸せだった」

 私の膝に頭を載せたまま、腕を伸ばして、指で涙をぬぐってくれた。

 嗚咽が込み上げる。

 声にならない声で、私はようやく言った。


「大好きだよ、チロ」

「僕も。花ちゃんが大好き」


 彼の存在がさっきよりも薄くなったように感じられる。名前を呼んでも、抱きしめても、きっともう、遠くへ行ってしまうチロを引き留めることはできない。

「私、忘れないから。歳をとっても、おばあちゃんになっても、死ぬまでずっと、チロのこと忘れないからね、絶対に」

「僕も忘れない。ずっと、花ちゃんのことを見守ってる」

 チロは猫の姿に戻っていた。それでも、言葉は心に響いてくる。


「ああ、いい気持ち。……僕、このまま眠ってもいい?」

 私は黙ってうなずいた。


 あごの下のやわらかい毛を指先でなでると、チロは膝の上で丸まったまま、気持ち良さそうに目を閉じた。


 指先の感触が春風になって、後には、花びらが一枚残った。


   *


 土曜日の朝、実家に帰り着くと、チロは玄関近くに折りたたんで敷かれた毛布の上に横たわっていた。

「ここなら涼しいから、花が帰ってくるまで、このままにしておこうと思って」

 おばあちゃんが、最期の様子を伝えてくれた。

 何日も寝たきりだったチロが、すっと立ち上がり、玄関まで歩いていったらしい。そこで座ると、遠くの物音も聞き逃すまいとするように、耳をぴんと立てた。

 おばあちゃんが、私の使っていた毛布を折りたたんで玄関に敷いてやると、チロはその上に体を横たえた。眠ったと思ったら、そのまま、目を覚まさなかった。


「花の夢でも見ていたのかねぇ」

 眠っているような安らかな死に顔を見ながら、おばあちゃんが言った。


 私は、チロの体をそっとなでて、

「会いに来てくれてありがとう」

 と言った。


 その日の午後、火葬を終えて陶器の箱に納めると、チロは拾ってきたときと同じくらいの大きさになった。

 火葬場から戻る途中、川沿いにある大きな桜の下を通りかかった。昔、そこでチロと出会った場所だった。

 チロを抱いて、桜を見上げた。花びらが、ひらひらと顔に降りかかってくる。

 青空に、白い雲が微笑むように浮かんでいた。




   (はなのゆめ 終)

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