02

午後の授業を完全に寝て過ごしてしまった僕は、HRの終わりのチャイムで目を覚ました。

 教室には部活の仕度をする人達や、もう既に帰宅して空いた席などがあった。帰宅部の僕は、重たい体を机から起こして、小さな欠伸をした。その時、僕の机におにぎりが置いてある事に気付いた。

 おにぎりには、"子舵より"と書かれていた。

 昼休みに僕が貰うはずだったおにぎりを、子舵さんが横取りしたことを不憫に思ったのだろう。

 流石、生徒会長である。

 僕はそのおにぎりを感謝の気持ちと共に手に持ち、鞄を肩に掛けて教室を出た。

 昇降口を抜けて、真っすぐ歩くと高校には似つかわしい厳重なゲートがあり、僕は5つ出口がある中の中央を選び、機械に僕のDNAを読み込ませた。

 立誠高校は隔離システムを導入しているが、生徒を校舎に隔離すると云う意味ではない。

この高校はただ、生徒の情報管理を徹底的に行っているだけなのである。

 生徒が何時学校を出たか、生徒が何回遅刻したか、そんな当たり前のことを管理しているだけなのだ。しかし、当たり前を徹底管理されているだけなのに、不思議と何処か囚人のような、まるで行動を制限されいるような気持ちに陥ってしまう。

 これがある意味で、囚人のジレンマなのだろうか。

 違うか。

 違うな。

 僕は自分の間違いを自分で訂正して、春の四条大橋を越えた。

 川橋通を横断してすぐに、四条通や花見小路の活気から逃げるようにして、右手にある神社に入り、数人の観光客を尻目に裏道に抜けた。

 京都の家は鰻の寝床と云われるだけあり、奥行きの長い、長方形の形をしている。したがって、地図も掲載されないような裏道が多く存在しているのだ。

 よって地図を見て行動している観光客の人々と裏道で出会うこは殆どない。もし見たのなら、それは迷子なのだと断定出来る。

 僕は一方通行の裏道を何も考えずに右折やら左折やらを数回して、家の側面に囲まれた開けた場所に出た。

 その場所の正確な位置を地図上で探すことは疎か、人に説明出来るような場所ではない。それは地図に載っていないとかではなく、ただ単に僕の通って来た道には明確な目印になる物が一つとしてないからである。勿論僕からすれば、民家の形や傷や、道全体としての雰囲気が目印になっているのだけれど。

 その開けた場所にあるのは、二階建ての廃屋と形容しても差支えないボロアパートだ。

 1階は全て保険会社の事務所となっており、2階の3部屋が居住スペースとなっている。

 2階の居住スペースの3部屋には全て人が住んでおり、僕の部屋は錆びた階段を上がって一番奥の部屋である。

 しかし、僕がこのボロアパートに帰って来た僕が真っ先に向かうのは自分の部屋ではなく、一階の全スペースを占領している保険会社の方である。

 その保険会社の名前は、見知る保険会社。

 僕が働いてる。

 いや。

 働かされている、保険会社である。

 聞き慣れない保険会社だと、僕も初めは思った。

 経営の基本は、知ることを保障する保険会社で、身の回りで起こった知らない現象に対して保険を適応し、その現象の真実を知らせることを生業としている、実に胡散臭い商売である。

 創業者の名前は、折永ミシル。

 彼がどのような人間であるかを説明するとすると、まず挙げられる事実として、彼には経営能力がないとだ。

 何故なら、この胡散臭い保険会社に奇跡的に足を運んで下さったお客さんを、追い返すことが多々あるからだ。

 例えどれだけの大金を積まれたとしても、自分の気分が乗らなければ、直ぐに追い返す。

 それに加えて、自分は殆どこの事務所に居ることはなく、世界の何処かを一人で放浪しているので、一年間にミシルさんと出合う回数は10回くらいが限度である。それが従業員の僕でなく、お客さんとなれば、1回も合えないことは多々あるのだ。

 なので僕の仕事の大半は、ミシルさんからの帰宅の連絡を待ち、連絡が帰って来れば、会員のお客様に連絡を入れることなのである。

 だけど、何故、そんな奇妙な営業スタイルの事務所が存続しているかというと、それもまた営業が下手な所にあると思う。

 ミシルさんは営業が下手なのだ。

 けれど、お客さんは居る。

 つまり、ミシルさんには、他者や他社の介入を許さない、圧倒的な才能があるのだ。

 所謂、天才といわれる人間なのである。

 それも、とびっきりの。

 その才能の内容とは、"全てを知っている"ということ。

 全てである。

 どこかの掲示版の掲げる、今晩のおかずから、ハッキングまででは留まらない。

 本当に全てを知っているのだ。

 証明をした人は居ないけれど。

 少なくとも、僕があの人を見て来た限りでは、そう云える。

 これまでに起こったことも、これから起こることも。

 あの人は全てを既知しているのだ。

 だからあの人は、自分の才能を生かす為に、この保険会社を設立した。

 だから今日も、ミシル保険会社の前には人っ子一人居ない。

 無理もないか。

 ここへ来る目的は、ミシルさんに会うことなのだから。

 僕は心の中でそう呟き、ミシルさんから渡されている合鍵で、古びた木製の右開きドアを開けて中に入った。

 中は夕方にしては暗すぎて、外の明るさに慣れた僕の目には闇同然の暗さだった。

 僕は手探りで事務所の電気探り当てて、電気を点けた。すると、天井の蛍光灯がパチパチと数回音を立てて点灯して、事務所全体を露わにした。

 まず目を引くのは、ブラウン管テレビの数と本棚の数だと僕は思う。

 ブラウン管テレビはこの事務所に23台あり、その全てが1か所に山積みにされている。

 そしてそれののブラウン管テレビのリモコンはない。

 と云うか、必要ないのだ。

 ブラウン管テレビは12チャンネルを制覇しており、常に12台は稼働している。

 なので耳を澄ませば、何層にも重なった人間の声が聞こえて来る。

 そして次に説明すべき物は、この事務所で一番場所を取っているであろう本である。この事務所には本棚がなく、大量の専門書や漫画や一般書や児童書などの書物という書物がジャンルを問わず壁に寄り添う形で積み上げられており、所では天井まで届いている場所まで見受けられる。

 そして、それらの本に取り囲まれた黒い上質のソファーが足の短い椅子を挟んで、向かい合っている。

 これらのソファーにはお客さんが座り、商談や保険の加入などの記述をする時に使われるだけなので、年に数日以外は空席なのである。なので僕がこの事務所に居る時には、大体その黒い上質のソファーに座って、本を読んで過ごしている。

 電気が完全に点灯すると、僕はソファーまで直行した。

 この事務所は時給制を採用しているのだけれど、一々タイムカードを押す必要はない。何故タイムカードがないのかは、説明するまでもなく、ミシルさんが全てを知っていることに起因してる。

 僕が出勤する時間も、退社する時間も全て知っているのだ。

 それもミシルさんだけが成せる技の片鱗。

 僕はミシルさんに畏怖を覚えながら、スクールバッグをソファーの上に置き、事務所の一番奥にある、ミシルさんが座る専用のオフィスチェアーとパソコンのモニターと、仕事のファイルが積まれているホコリが累積した作業台に近づいた。

 作業台に近付くと、ファイルに隠れていたミシルさんの読みかけの本が気になり、ホコリを掃って、ソファーに戻り、本を開いた。

「兎無~居る~?」

 読み始めようとした途端、事務所のドアが少し開いて、その隙間から僕を呼ぶ日葵さんの声が聞こえたので、僕は本を閉じて足の短い机の上に置き、ソファーから立ち上がることなく、顔だけをドアの方へ向けた。

「居るよ。どうぞ、入って」

 僕が声を掛けると、ドアがゆっくりと開いて、制服姿の日葵さんが、首をキョロキョロと縦横無尽に動かしながら、恐る恐る事務所の中に足を踏み入れた。

「お邪魔します~」

「如何してここが分かったの?」

 ミシル保険会社の場所を日葵さんに教えたことはなかったし、ネット上にも、地図上にも載っていないなので、質問のニュアンス的には、場所の漏洩を危惧した質問だった。

「兎無の跡をつけて来たの。ちょっと、知りたいことがあったから」

 僕は成程と、首を頷かせた。

「ようこそ、ミシル保険会社へ。お客さん」

僕はソファーの上で姿勢を正し、口角を上げて、不慣れな笑顔を取り繕った。

「お客さん?もしかして、兎無は、あたしからお金を取ろうとしてるね?」

 正解だったので、僕は黙って、口角を下げた。

「でも残念。今日は、兎無の友達としてこのミシル保険会社に来ただけだから、お金は発生しない。それとも兎無は、この幼気な少女からお金を取る気なの?」

「幼気というより、痛い毛な少女だと思うよ」

 日葵さんをお客さんと認識することを諦めた僕は、声のトーンも、作り上げた表情も、それら全てを通常運転に切り替えて、腰の高さまで積まれた、表紙が木製の洋書の上のコーヒーメーカーを起動させた。

「この髪の色は、あたしのアイデンティティーだから、痛い子呼ばわりはされたくないね」

「少なくとも、日葵さんはアイデンティティーの心配をする必要はないと思うけどね。論文を書かない数学者の肩書きは、不満なの?」

 無個性な僕からすれば、羨ましい限りだ。

「超、不満。論文を書かない数学者なんて、無口な数学好きが論文を書かなければそれで成立するから、面白くないし、馬鹿にされてるみたいじゃん。数学者がどこまでも合理主義者なら、数学的発見を一々論文に纏めたとしても、自分が得をするわけじゃないし。もしかしたら、論文として公開することによって、間違いが発見されるかもしれないし、あたしの論文が誰かの研究を加速させて、数学が前進するかもしれないけど、それは、数学においては無駄なことだと、あたしは思うよ。だってさ、数学の間違いは、他の分野よりも論理的である以上、自分で気付けるし、あたしは数学という学問を前進させる為に数学をしてないから、誰の研究がどうなろう、あたしには関係ない。自分の中で解決すれば、それでいいと思ってる」

 僕は日葵さんの話を聞きながら、コーヒーメーカーに取り付けられたガラス製のポットに、お湯がコーヒー豆のフィルタを通ることで変換されたコーヒーが溜まり、コーヒーメーカーの機械音が消えた。

 僕はマグカップを二つ取り出して、そこにポットに溜まったコーヒーを注いで、日葵さんに渡した。コーヒーを受け取った日葵さんは、足の短い机の上に用意した砂糖とミルクの所まで、僕との会話を続けながら歩き、僕が座るソファーの向かいに座って、鞄を横に付けた。

「つまり、自己中心的だと」

「数学者は自己中であり、ちょっとした詩人でなければ学識豊な数学者にはなれまい。ってね」

「誰の言葉?」

「あたしと、カール・ウィエルシュトラスの言葉。でも、お金に困った時には、懸賞金問題の答えでも、論文に纏めよっかな。本当に、お金に困ったらだけど」

「お金に困っている人なら、ここに居るよ。目の前に」

「あたしに養われたとして、恥はないの?」

「ないよ」

「これだから、最近の若者は・・・・」

 日葵さんは即答した僕に対して、あからさまな溜息をした。

「それで、話は、日葵さんがここに来たところまで戻るけれど。どうして、こんな胡散臭い場所に来たの?何かを知りたいとかっていってたけど」

 日葵(さんは思い出したかのような顔をして、両手で包み込むよに持ったマグカップを、足の短い机に置いた。

「昼休みのクラッカーの件の回答を聞きに来たの。覚えてる?」

「僕の記憶力を何だと思ってるのさ」

 昼休みのことを忘れる程に、僕の記憶力は衰退していないし、もし忘れていたとしても、それは記憶力云々よりも、脳の病気だと診断することが出来るので、何方にせよ、話が進む質問だと僕は思った。

「良かった。じゃあ、早速解説をお願いしたいんだけど」

 その時、ミシル保険会社のドアが外からノックされた。此処、ミシル保険会社にはチャイムもなければ、古風なノッカーもなく、来客は自分の指の第一関節を傷め付けないように注意しながら、木製のドアに手を打ち付けるか、声で呼び出すかの二択を迫られる。

 普通なら、日葵さんのように声で僕を呼び出すのが定石だと思う。第一、会議室やトイレのように、建物の中に設置されたドアはノックする行動が正しいのは分るけれど、家の玄関や事務所の入口をノックするのは非常だと思う。でも、それ以前に、ドアに呼び出し機器の一つも設置していないミシル事務所の方が非常なのかもしれない。

「どうぞ」

 僕がドアに呼びかけると、ドアがゆっくりと開き、一人の男性が入って来た。

 男物の黒いスーツに、ミルクやガムシロップの入れ物を裏返したような黒のミルキーハットと呼ばれる帽子を被り、顔には人間の頭蓋骨を模した、左右で白と黒に別れている気味の悪い仮面をして、顔の一切を隠している、平均的な身長の男性だ。

 日葵さんはその黒い仮面の男性を見ると、驚きを隠せない表情をして慌てて立ち上がり、荷物とコーヒーを持って、僕の隣りに座った。それに続き、黒い仮面の男性は、日葵さんの座っていたソファーへと直行して、僕達と対峙するように座って、話すこともなく、ただ白黒の頭蓋骨の仮面の奥に潜む、黒い目で僕達を見つめた。

「兎無、兎無、兎無!」

 日葵さんは、黒い仮面の男性と目を合わせながら、僕の制服の袖を、乱暴に引っ張った。

「どうしたの?」

「目が合ったんだけど。怖すぎて、動けないよ。助けて」

 僕は要望通りに、日葵さんの恐怖に震える顔に触れて、強引に僕の方へ顔を向けた。僕の方を向いた日葵さんは震えた声で「ありがとう」とお礼をいった。

「大丈夫だよ、怖い人じゃないから」

「どの辺が怖くないの!」

「あの、その・・・・・・ほら!あの仮面には涙骨がないよ。だから、涙骨を忘れるお茶目な部分も兼ね備えている人だと読み取れるよ。だから、怖くない。OK」

「OK」

 そう云うと、日葵さんは再び黒い仮面の男性の方へ、恐る恐る顔を向けた。

「どう?怖くないでしょ」

「兎無!目が合ったんだけど。怖すぎて、動けないよ。助けて」

 僕は再び要望通りに、日葵さんの恐怖に震える顔に触れて、強引に僕の方へ顔を向けた。僕の方を向いた日葵さんは震えた声で「ありがとう」とお礼をいった。

「誰なの?」

 涙をピンクのカーディガンの袖で拭き取った日葵さんは、震えが残る声で、僕に質問した。

「ギャラリーだよ」

「ギャラリー?」

 自分の知っている単語の意味と、僕が使った単語の意味とが衝突し、日葵さんに疑問を作らせた。

「社会の頂点に上り詰めた人間の、成れの果て。この社会を傍観することを生き甲斐にしている、権力者のことだよ。そして今は、ミシル保険会社の大事なお客様」

 恐怖から逃れる為に思考しだした日葵さんは、僕の言葉を理解して口を開く。

「つまり、そのギャラリーと呼ばれる傍観者の方々が、傍観中に起こった不可解な事件の解決を、このミシル保険会社に頼むってわけ?」

「そうだよ。ギャラリーは傍観者であるが故に、自分で行動しないんだ。もし、自分で行動してしまえば、その後に社会で起こる事象には、自分の力が介入してしまって、不規則な動きを見せなくなるからね。それは本当の意味での傍観からずれてしまう」

「ギャラリーは規則的な社会が、嫌いなの?」

 規則的な思考の中で生きる日葵さんには、不規則という言葉が引っかかるだろうと予想していたので、僕の返答の時間はないに等しかった。

「嫌いかは分からないけれど、規則的な社会に飽きていることは確実だといい切れるよ。だってギャラリーの人達は、元々社会に対して絶大な影響力を持っていた人達だから、社会が自分の規則に従うことに慣れている。だからギャラリーは従順に疲れた人達とも云えるね」

 傍観者になる前のギャラリー同士の相互作用によって、社会は予想しにくいものになるかもしれないけれど、社会に対して殆ど無力な僕達からすれば予想は簡単で、規則的と云っても差支えない。

「今の兎無の話しから推測すると、この人はギャラリーと呼ばれる人に雇われた情報伝達係ってことだね」

 ギャラリーが自ら出歩けば、意図せずに社会に影響を与える可能性があるので、僕達の目の前に居る黒い仮面の男性さんがギャラリー本人でないことは簡単に予想出来る。

「ギャラリーは自分で出歩かないからね。それにこの情報伝達係の人も、極力影響を減らす為に、一切話さないよ。だから、それを踏まえて、もう一度、この黒い仮面の男性さんを見てごらんよ。怖くないから」

 僕がそう云うと、日葵さんは僕の言葉を信じて、再び黒い仮面の男性の方へを顔を向ける。首の回転速度は遅い日葵さんだったが、頭の回転速度は早いので、頭の中に描かれた恐怖のイメージを高速で塗り替えことに成功したのか、今度は怖がる素振りを見せることなく、この状況に順応することに成功した。

「それでは、日葵さんもこの状況に慣れたようなので、ギャラリーの要件を聞かせて頂きます」 

 黒い仮面の男性さんは何処からかノートパソコンを取り出して、足の短い机の上に置き、画面のある方を僕達に向けて、エンターキーを叩いた。するとスリープ状態だったノートパソコンは、画面の明暗だけの処理を瞬間的に行い、画面に情報を映し出した。

「クラッカーの事件じゃん」

 モニターに映し出されたのは、クラッカーがSNS上で公開した文章と画像だった。

 文章は勿論〝見ろ、これが俺だ〟の一言のみ。

 画像は、男性の顔に見えなくもない白黒画像。

 僕が昼休みに見た文章と画像だった。

「これで、あたしからお金を取る必要はなくなったね。あたしはただ、兎無とギャラ―が会話している近くに居ただけの、何の変哲もない、唯の女子高生だから」

「そうしておくよ」

 素より、ミシル保険会社の保険料は、月額一千万円からなので、日葵さんからお金を取る気は一切なかった。

「なら、話すよ。まずは日葵さんと黒い仮面の男性さんにお願いがあるのだけれど。まず日葵んからは携帯を貸して欲しいんだよ。黒い仮面の男性さんにはパソコンで、クラッカーの画像が鮮明に加工される前の画像を探して頂きたいのですが、お願い出来まか?」

 僕の言葉に、黒い仮面の男性さんは頷くこをせずに、足の短い机の上に置かれたパソコンを自分の方へ向けて、キーボードを叩き始め、それと同時に日葵さんも自分鞄を膝の上に置いて、中を漁り、携帯を取り出した。

「壊さないでよ」

「最善を尽くすよ」

 日葵さんは僕の差し出した手の上に、携帯を置いた。携帯の重みが、携帯を持たざる僕には新鮮だったので、一瞬、腕に力を入れることを忘れて、自由落下した。けれど直ぐに我に戻ると、肘を曲げて携帯を引き寄せた。

「仮面の人が、あったみたい」

 僕が日葵さんの携帯の画面を慣れない手つきで操作していると、隣りに座る日葵さんが僕の袖を引っ張っり、携帯から注意を逸らして、目の前を見るように指示した。

 目の前の机の上には、クラッカーがSNS上公開した、正方形の画質の荒い男性の横顔の画像が黒い仮面の男性さんのノートパソコンの画面に映し出されていた。

「ありがとうございます」

「何すんの?」

 僕に質問する日葵さんに、僕ととギャラ―が会話している近くに居ただけの、何の変哲もない、唯の女子高生だからと云った言葉は何処に行ったのだろうかと質問をしようか迷ったが、話の脱線は面倒なので諦めた。

 僕は日葵さんの携帯に存在する数多くのアプリケーションの中から一つを探し、起動させた。

 そのアプリケーションとはQRコードを読み込む為のもので、日葵さんの携帯には携帯のレンズ越しに映し出されたクラッカーから送られてきた画像が映し出されていた。


 ―――――QRコードが認識されました。以下のページに移ります。


 驚きの表情を隠せない日葵さんと、表情を隠した黒い仮面の男性さんは、携帯の画面を操作する僕の指に穴を開ける目力で凝視しる。

そんな二人の目力に対抗し、僕は確認ボタンを押して、指定されたページに飛んだ。

 ロード時間は、現代の通信技術の進化を疑うほどに遅く感じた。

 ロードが終わり、ページが開くと、そこには短文が表示された。



 ――――404 not found 前略、おっそい。待ちくたびれた。敬具。by kracker



「どうして・・・・・?」

 日葵さんは自分の携帯を、携帯を握った僕の腕ごと自分の手元に引き込み、画面を見つめた。

 僕は日葵さんのパーソナルスペースに引き込まれた腕を引っ込めて、黒い仮面の男性さんから送られる視線を蹴散らし、説明を始めた。

「気付いたと思うけど、この一件が難解になった理由は、よかれと思って解像度を上げたことにあるんだ。クラッカーから送られて来たこの画像を人の顔と取り違えたことで、QRコードであることに気付けなかったんだ。でも、それがクラッカーの狙いだったの可能性が高いけどね」

「この画像解析ソフトを開発した会社は、クラッカーの被害に遭ったことがあるみたい」

 日葵さんは自分の携帯で、僕の情報の裏付けをしていた。

「それでもさ、それが答えなら、しっくりと来ないっていうか、論理的に答えに辿り着けないじゃん。そこまで有名なクラッカーなら、もっと論理的であれって思うじゃん」

 日葵さんはガッカリした態度を包み隠すことなく、僕と黒い仮面の男性さんに見せた。

「理論的でないのは日葵さんの方だよ」

「ん?」

 日葵さんは、聞きそびれた言葉を聞き返すよに首を傾げた。勿論、僕の隣りに座っている日葵さんに、僕の言葉が届かないわけがないのだけれど、云われた言葉があまりにも意外性に富んでいたらしく、再確認が必要だったらしい。

「いい?もう一度、考え直すよ。まず、この話しはどこから来たの?」

「クラッカーからSNS上に来た」

 日葵さんは携帯の僕の方へ向けて、SNSであることを強調した。

「なら、クラッカーとは?」

「コンピューターに対して、クラッキングを働く人」

 僕は日葵さんの言葉に相槌を打つと、コーヒーを一口飲み、口内を潤した。

「ならそのクラッカーの言葉と画像はSNSに上げられたよね。だから僕達はこの言葉と画像を疑うことなく自分達に向けられて発信されたものだと思っていたけれど、普通に考えてこの言葉と画像は電波に変換たものを、携帯が受け取って再出力して初めて、僕達が受け取る言葉と画像になるものだから、言葉と画像の第一受取人は携帯になる。分かりやすく云うと、僕達は携帯に送られて来た情報を、後から見ているだけの存在に過ぎないってこと。それにさっき日葵さんが云った通り、クラッカーとはコンピューターに対してクラッキングを行う人なのだから、この言葉と画像も、コンピューター、今回の場合はSNSが使用可能な端末に対して送られた言葉と画像なのだと、必然的に限定される。ここまで分かった状態で、もう一度クラッカーの言葉をいってみて、日葵さん」

「見ろ、これが俺だ」

「そう。つまり、ここで云う所の〝見ろ〟はSNSが利用可能な端末全てにだから、その端末の見る行為に当たるのが、カメラ機能。けれど、カメラ機能には目の前の映像を理解することが出来ないから、QRコードを読み取るアプリが必要になる。これが、クラッカー事件の全貌だよ」

 話し終えた僕は、再びコーヒーを一口飲んで、会話に節目を付けた。それに倣い日葵さんも、思考の興奮を冷ます目的で、コーヒーを口に運んだ。

 僕達が時間遅れで解決したこの事件で、利益も損害の得なかったけれど、暇つぶしにはなったと思う。

 暇つぶしは、時間を失う損害と、有意義な時間を同時にくれる変わった特性を持つものだ。

 それだけに、利益も損害もないのだろう。

 僕は自分の腐りかけていた脳を、久しぶりに動かした気がした。

 その所為なのか、軽度の疲労が、心地よい達成感と共に、体を襲う。

「あれ、仮面の人、居ないじゃん」

 日葵さんの言葉に促されて、目を前に向けると、黒い仮面の男性さんとノートパソコンが跡形もなく消えていた。

「目的が達成された途端に帰ることが、世界への影響を最小限にする手立てだからね」

 もっとも、瞬間移動を目の前で披露された僕達への影響は考慮されていないだろうけれど。

「あたしも帰ろっかな」

 そういって日葵さんは、鞄を肩に掛けて、綺麗なきなこ色の金髪に手ぐしを入れソファーから立ち上がった。

「ここから帰れるの?」

 僕の跡を付けてきた日葵さんだったとしても、路地は景色が似ているので帰れる保証はなかった。

「愚問。数学の知識を使えば、帰れるに決まってんじゃん」

 事務所の出口に歩いていた途中の日葵さんは、返答の為に足を止めて、遠心力できなこ色のツインテールを浮かせながら、優しい香りと共に振り返った。

「でも、他連結迷路だよ」

 迷路には右手方といわれる明確な必勝があり、方法は至って簡単で、右手か左手の何方か片方を壁に当てて歩いていけば、自然とゴールに辿り着くのだ。けれどその右手方は全ての迷路に通用する訳ではなく、その例外が他連結迷路なのだ。

 他連結迷路とは、幾つかの迷路が組み合わさって完成された迷路であり、壁伝いに歩いて行っても出口まで出られない可能性があるものを指す。

「関係ないよ。それに最悪の場合でも、道の二倍の長さを歩けば出口にたどり着くし、それ以前に家の壁である以上、何処かに玄関はあるから、迷ったらそこで聞けばいいじゃん」

「それって数学なの?」

「数学の語源は、ギリシャ語のマテーマタから来てんの。意味は学ぶべきこと。だから帰路を見付けることは、あたしにとって、数学でしょ」

 そう告げると、日葵さんはじゃあねと言葉を残して、京都の路地へと姿を消していった。

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渦裏兎無の人間推理学 宮葉 @myaha

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