00 序章 下
「ここから出たい?」
僕の耳元で囁かれたその綺麗な声は、薄い毛布と硬い地面に挟まれて、最高とは到底云い難い睡眠状態で寝ている僕を起こすには十分な声量だった。
「おはよう、茜」
茜とこの三メートル四方の白い部屋で一緒に住むこと、約24時間。
時計のないこの部屋では、僕と茜が寝る前にはなかった丸いパンと、水と、木製のチェス盤と駒が時計代わりだった。
ここでは食事は三メートル四方の白い部屋に取り付けられた光を取り入れる為の鉄格子から、光が入って、出ていく間に2回ある。
つまり、1日食事は2回という訳だ。そしてこの丸パンは、僕がここに来てから3回目の食事である、つまり約24時間が経過したと結論づけられる。
「おはよう、しー君。聞いてる?」
僕よりも先に起きていたらしい茜は、部屋の隅に残されたパンと水と駒を木製のチェス盤をお盆代わりにして、僕の目の前まで運んで来た。
「聞いてるよ。おはよう」
昨日までの緊張が時間と共に去っていた朝、僕は昨日より平然な声のトーン話だせた。
「しー君はチェスのルール知ってるよね」
茜は駒ををチェス盤に並べながら、質問した。
「知ってるよ」
質問というよりかは、ただの確認に近かかったのか、茜の僕の返答に軽く頷き駒を一つ動かした。
チャスの戦いは将棋と違い、動きが大きいい。
何故なら、将棋を開発した日本では騎馬戦が多く、動きが小さかったのに対し、チャスを開発した国では、大砲や銃を使用することが一般的だったからだ。
なので僕達の戦いは、時間を待たずに後半戦に入った。
戦況を報告すると、僕は押されていた。
早々にクウィンが殺されキングは独身となり、攻撃に使いたかったナイト達は、善き盾となり朽ちた。
「チック」
そして現在、僕の兵士は生きていることが奇跡のポーン3体と、もう走馬燈を見たであろうルークと、四面楚歌状態のキングのみだった。
ここからの逆転劇を見たいのなら、まずはルールを変える所から始めなければならない。
「・・・・・参りました」
僕は考えることを止めて、体の力を抜いた。
「しー君はここから逃げたい?」
「えっ!」
俯いて盤上を見ていた僕は、反射的に顔を上げた。
茜の云うここから、とは何処だろうか。
茜が云うこことは、この絶命絶命な僕の盤面のことなのか、それとも僕達が閉じ込められている三メートル四方の白い部屋なのか。
僕はその不確かな2択の選択肢の何方かの可能性に頷いた。
「それじゃ、ここから逃げよっか」
茜はおもむろに、チェス盤から僕のキングをつかみ取り、楽しそうに笑った。
そしてその刹那、僕と茜は二人同時に、意識を失った。
***
目を覚ました僕を待っていたのは、初めて見る空間だった。
三メートル四方の白い部屋ではなく、膝立ちをしても痛みを感じない厚手の絨毯。
僕から見える情報はその厚手の絨毯だけだった。
理由は単純明快で、僕たちが机の下に隠れているからだ。
机の下の空間は、机の下にしては広く、隠れ家にしては狭かった。
僕と茜の体が触れあい、体温が交換される。
「起きるのが早いね。もしかして先祖が、キリンさんだったりするのかな」
「ここは?」辺りを見回した所で、これといった情報がなかったので、茜に質問した。
「この施設の情報管理室だよ」
云われてみれば、耳を澄ますとCPUクーラーやハードディスクなどの機械的な回転音が微かに聞こえて来た。
「でもどうして、情報管理室なんかに来たの?」
「勿論、逃げる為だよ」
僕の頷いた可能性は、あの三メートル四方の白い部屋から逃げることだったのだと確信した。
「これからどうするの?」
頷いただけの僕には作戦の片鱗もないので、茜に判断を仰いだ。
「それは簡単だよ。まずこの腕輪は何の為にあるか分かる?」
茜は腕輪をしている腕を僕の目の前に見せつけた。腕輪は白く、これと云って模様のないシンプルな造りで、僕の腕にある物と同じだ。
「飾り」
「平和な思考回路だね。そんな訳ないじゃん。これはね、私達を管理する為の道具なんだよ。研究員が遠隔操作でこの腕輪の内側からランダムな位置に睡眠薬を注射出来る仕組みになっているんだよ。そうやって私達を都合よく眠らせて、コントロールして研究してるの」
軽く馬鹿にされた僕を、少し呆れた顔で、軽くため息をついた。
「なら、どうして僕達はここまで逃げて来られたの?」
眠らせられるのなら、開ける時は僕達を眠らせてから開けるはずだ。
それに茜が寝るのを見た僕には、ここまで逃げて来られた理由の一切に見当が付かなかった。
「それは簡単だよ。まず次の腕派の注射の位置を割り出して、そこにしー君のキングを押し込む。そうやって注射を回避しただけだよ。後は、私達を研究の為に取りに来た研究員を殺して、逃げるだけ。簡単でしょ」
素朴過ぎる方法だったが、幸いにもここで出される全ての料理が素朴な味なことが功を奏したのか、素朴慣れをした僕はこれと云って普通の反応を示した。
「簡単というか、感嘆だよ。如何して殺したの?」
「如何して殺さないの?」
その少女は、即答した。
一点の曇りなく。
一瞬の迷いなく。
心の底から断言した。
「殺すってことは、その人がそれまで積み上げてきた全てを奪うってことだよ」
「それでも殺したよ。眼球に指を二本ぶち込んで、脳みそを掻き混ぜた。私の指の長さでどこまで届いたかは分からないけど、死んだことに変わりはないよ」
それを聞いた僕は、しばらく黙ってしまった。
「この話は一旦止めて、話を戻そう」
今は、そんな議論に時間を使ってられないので、無理矢理黙認して、話を進めた。
「そうだね。早くしないと、追手に見つかって逆戻りだよ」
「なら、逃げよ」
僕は立ち上がろうとしたが、強く腕を引っ張られて机の下に戻された。
「しー君は馬鹿なのかな。何故、私がここに居ると思っているの」
「何故って・・・それは・・・休憩とか」
「カラフルな思考回路だね。そんな訳ないでしょ。私がここにいる理由は、情報管理室は電波遮断室でもあるからだよ。さっきも云ったけど、この腕輪は遠隔操作なの。だからもし、この腕輪が作動されれば死ぬよ。だから、電波が遮断されているこの部屋に逃げ込んだんだよ」
「死ぬって。睡眠薬じゃないの」
「睡眠薬だって、過剰摂取をすれば、特に私達みたいな子供は簡単に死んじゃうんだよ。だから・・・」
茜が話している途中で、僕達が隠れている情報管理室の扉が開く音がした。
僕達は慌てて口を閉じ、静かな空間に響く足音に耳を傾けた。
足音が机の方へ近づいてくる。
銃をリロードする音が聞こえた。
僕は息を呑み、茜の合図を待った。
足音が机の前で止まった。
「出てきなさい」
男性の野太い声が、僕達の耳に届いた。
「もう一度だけ云う。発砲許可が下りている、出てきなさい」
けれど僕達は出なかった。
その刹那。
茜は机をしたから押し上げて、声のがした方向へ倒した。すると銃を構えた警備員は倒れて来た机をかわす為に、後ろに重心を移動させようとした。だが、高速で距離を詰めた茜は、後ろに下げようとした警備員の足のつま先を足で踏み、体制が崩れた習慣に手からサイレンサー付きのハンドガンを奪った。そして倒れる警備員が地面に着く前に、頭に1発銃弾が撃ち込まれた。
人間では有り得ない判断能力と、運動能力だった。
それも茜のような、子供の体では到底、有り得ない。
けれどそれが今、有り得てしまった。
僕の目の前で。
それはつまり、相手が弱すぎたのか、それもと茜が強すぎたのか。
けれど茜を知る人達が、弱い警備員を相手にさせる訳がないので、相手が弱い可能性は薄い。
それならやはり、茜が強いと云うことになる。
それも、人間ではないくらいに。
まるで鬼のように。
「腕を出して。動かないでね」
地面に倒れる警備員から奪った銃を片手に、茜が僕に近づいて来た。
状況に圧巻していた僕は、無意識の内に僕が腕を出すと、茜はその腕輪目掛けて三発銃弾を撃ち込み、玉切れと同時に僕の腕輪が外れた。
「走って」
茜は警備員の着ていた白衣からカードキーを奪いとり、少し開いているドアから走り出た。
情報管理室を出ると、そこには白い廊下と、警備員の足る音が聞こえて来た。
姿は見えない。
走っていると等間隔に部屋があり、その殆どが研究に関する部屋だった。
少し走っていると、下に通じる階段があり、3階程下った所で、とある一室にカードキーを押し当てて中に入った。
部屋の中は真っ暗だったが、ドアのすぐ横のカードキー入れにカードキーを入れると自動で電気が点き、部屋の様子が伺えた。
部屋には壁一面に武器が保管されており、さっきの警備員が持っていたハンドガンと同じ銃や、見覚えのある武器から、伝統を感じられる使い方の分からな武器まで様々なものが一通り揃っていた。
その数ある武器の中から茜は迷わずに、一1本のバタフライナイフを手に取り、慣れた手付きで刃を出した。
そのバタフライナイフは何故か刃が透明で、それ以外はいたって普通だった。
「しー君も、自分の武器を選んで。もしかしたら、守り切れないかもしれないから」
そう云われた僕は、一番近くにあったトカレフを手に取った。
僕は生まれて一度も銃を持ったことがなかったので、見た目のコンパクトさとは裏腹な重みに驚いて、トカレフを持ち上げた腕が地面に吸い込まれる。
そんな僕を尻目に、茜は追手が来てないことを確認して、再び廊下を走りだした。
僕もトカレフを両手で持ち、茜の後に続いた。
「思ってたより、追手が来ないね」
「そうだといいけど」
そう答えると、茜は立ち止まり、バタフライナイフを構えた。
僕達が立ち止まった場所は廊下の最後にある、エントランスホールのような開けた空間だった。
そしてそのホール内には、ライオットシールドを持って待ち構える複数の警備隊と、後ろの廊下からは銃を構える警備隊が待ち構えていた。
僕達は誘導されて、挟み撃ちにあったのだ。
はっきり云ってここからはあまり、記憶にない。
唯々、血が飛び散って。
人が死んで。
茜の白い服が、茜色に染まって。
人が死んで。
それでも不自然なくらい、自然な感じで。
人が死んで。
幼い女の子とは思えない力で、大人の男性に透明なバタフライナイフを突き立てて。
そして、人が死んだ。
その渦中で、僕は、心の底から、本気で、生まれて初めて、不本意ながら綺麗だと思ってしまったのだ。
この悲惨な現状が。
茜の人間離れした動きが。
人の悲鳴や銃声が。
その全てが、綺麗だと思ってしまった。
「しー君、逃げて」
いつの間にかホールと廊下に居た警備員を全員殺し終えた殺人鬼は、僕にそう告げた。
「・・・・嫌だよ」
いつもなら、他人に僕の行動権を委ねるのに、何故かこの時だけ僕は、頑固だった。
「私は絶対に死なないから、逃げて」
茜は、優しい声でいった。
「・・・・・嫌だ」
僕は断った。
「また会えるから」
茜は何処までも優しい声で、答えた。
「・・・・・・・」
僕は分かっていた。
この状況で僕が邪魔であることも、一世一代の脱出を失敗で終わりたくない茜の気持ちも、茜が僕を大切に思う気持ちも、僕が茜を大切に思う気持ちも。
だから僕は、同じ返答を止めて、会話の堂々巡りから抜け出す事を決意した。。
すると僕は、自分が何を話せばいいのかが分からなくなり、言葉の成り損ないが喉で詰まった。
そんな僕の心情を知ってか知らずか、茜は僕から言葉で答えを得ることを諦めて、両手に握ったバタフライナイフを地面に落として、片手を僕の前に差し出して、小指だけを伸ばした。
「ほら、指切りげんまん。しよ」
茜のその言葉に僕は、指切りげんまんをすることを躊躇して、手を出さずにいた。
けれど、自分の位置の定まらない目線が、偶然にも僕の方を見つめる茜の目線と会うと同時に、茜は殺人鬼とは思えないほどに優しく顔を崩して、僕を安心させた。
結局僕は、その笑顔を振り切ることが出来ずに、気が付いた時には小指を差し出していた。
茜と僕は、血の付いた小指を絡めた。
指切りげんまん、嘘ついたら、針千本のます、首切った。
「なら、私行くね」
絡み合った僕と茜の小指は、指切りげんまんの余韻に浸ることなく離れて、茜は僕に背中を見せた。
「ばいばい。またね」
僕も茜に背中を向けて、そういった。
「しー君、大好きだよ」
そう呟いた茜は、殺人鬼となり走り出した僕は、ただの臆病者になった。
僕は無力だ。
そう痛感した。
これが僕、渦裏兎無が、白染茜という殺人鬼とのファーストコンタクトにして、ファストコンタクトだった。
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