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 二人が帰ってくるまでにどれくらいかかったかはきちんと把握していないが、それなりの長さの会話が交わせるくらいの時間はあっただろう。夕焼けも陰り出し、由岐から届いた「なにかあったの?」というメールにどう返事をしたものか悩みつつ、何度かやり取りを繰り返したところで、優都と潮は並んで駅に戻って来た。潮はやはり俯いていて、京が「おかえり」と声をかけると泣きそうに顔を歪め、「ごめん」とだけ言って京から荷物を受け取った。

 そのあと三人のあいだにほとんど会話もないまま翠ヶ崎に戻り、弓道場で先に帰っていた四人と合流したときには、潮は「迷惑かけてすみません」と謝りつつもいつもの調子で笑っていて、雅哉や由岐に理由を問われれば、「ちょっと途中で腹痛くなっちゃって、でももう全然平気っす」と明るい声で答えていた。

 短いミーティングを終えて解散となったあと、潮は京と二人で駅までの道を歩いているあいだ、またすこし前までのようにほとんど表情のない顔で宙を眺めていた。日が暮れるといくぶん肌寒い秋の夜は、車の走り去る音にも、他の学生がたわいもない話をしながら歩き去る音にも、歩道沿いの店の賑わいにも満ちていたけれど、潮の隣だけがひどく静かだった。

「大丈夫?」

 京がそう問うと、潮はゆっくりと振り向き、「おう」と言って肩を竦めた。

「ごめんな、いろいろ迷惑かけて。もう大体平気」

 そう続けた潮は、よく人前でしているように表情を緩めておどけたような笑みを浮かべて見せた。街灯が横から照らすその笑顔は、京に言わせれば意識して作っているにしてもあまりに下手くそで、潮に一歩近づくなり京はその頬を右手で抓った。

「いって! なにすんだよけーくん、不細工んなるからやめて」

「元から大した顔じゃねえだろ」

「え、待ってひどくね。そりゃ自覚はあるけど。あまりにひどくね。そういうの黙っといてやるのが友情だと俺思うぜ」

 本気の抗議を始めた潮から手を離すと、潮はひとつ溜息をついた。軽口は回るくせに笑うことだけがうまくできていない彼は、再び表情を消すとどこか疲れたような顔色をしていた。

「大丈夫?」

 先ほどと同じ問いを投げた京に、潮は今度は返事をしなかった。しばらく黙りこんだあと、彼はようやく、「よくわかんねえわ」と言った。

「全然昔のこといまだにくっそ引きずってる自分に気付いて、情けねえやら未練がましいのがやんなるやらで、久々にだいぶ落ちてる」

 そう自嘲したあと、彼は今度はわかりやすく嘆息した。歩みが遅くなる潮に歩調を合わせる。

「まじで、いつまでうだうだ言ってんだって感じだけどな」

「わかんねえけどさ。そんだけ引きずるってことは、おまえにとってでかいもんだったんだろ。簡単に片が付くもんじゃないのも当然なんじゃないの」

「ありがと。けーくんまじ優しいよな。今日もめっちゃ振り回したのに」

「別に。つーか、おまえがわりと情緒不安定なのいまさらじゃん」

 人前では悩みなどなさそうにいつも機嫌よく笑っている人間ほど、本質がそうではないというのはありきたりな二面性だし、潮のこともその通り一遍の解釈で片付けてしまうことは簡単だ。けれど、四年も隣にいれば、友人の生き方をそれだけで切って捨ててしまうことに多少の抵抗があるのも当然だとは思う。潮は、へらへらと笑いながら常になにかに怯えて生きているような男だ。その対象がなにであるのかも、大体はわかる。

「別に、言いたくないこと聞く気ないけど、言ったら嫌われるとか思ってんなら、うーやんがめんどくせえのは俺知ってるからいまさら平気だよ」

 潮は、きっと、認められないことをなによりも恐れている。あるコミュニティに居ることや、そこでなんらかの立ち位置を得ることや、自分が期待される役割を果たすことについて。道化を演じるのはそういった意味ではわかりやすい選択ではあると思う。ムードメイカーであるというのは、簡単ではないが集団においてはかなり強力な存在意義だ。

 京の言葉を聞いて、潮はまたすこし表情を歪め、「ごめん」とだけ呟いた。駅の構内につながる階段の前で立ち止まった潮は、しばらくなにを言うべきか悩んだように自分の靴の爪先を眺めたあと、「けーくん」と京の名前を呼んだ。

「……全然家帰りたくないんだけど、付き合ってくれたりする?」

 いまだにそんなことでさえどこか恐る恐る問うてくる潮に、「いいよ」と即答すると、彼はほっとしたように息を吐いた。そのとき浮かべた、縋るように不安げな微笑は、きっと潮の引いた線の内側にいままでずっとあったものだろうと思う。


「うーやんって櫻林出身だったんだな」

 駅前のファミレスでドリンクバーとともにテーブルを陣取り、空きっ腹にコーラを流し込みながら向かいの潮に問うと、潮は何度か瞬きをして、「さすがにわかる?」と聞き返してきた。

「さっき優都先輩に確認したけど」

「なるほど。そうだよ。まあ、最後の一年完全に不登校だったから追い出されたんだけど」

「そっから翠ヶ崎受かんの普通にすげえな」

「学校行かねえで一日中塾入り浸ってたしな」

 やることなくてバカみたいに勉強してたわ、と笑った潮は、運ばれてきたドリアをスプーンの先で何度かつついた。

「――音楽やってて。ちっちゃい頃からずっと。小学校のときは吹奏楽してて、櫻林の吹奏楽部って小中高全部くっそ強いんだけど、俺はまあ結構吹けるほうでさ」

 ジュンちゃんとはそこで一緒で、同じ楽器吹いてた、と付け加えて、潮は一度手に持ったスプーンを置き直す。ジュンちゃんとの会話からある程度は察することができたその事実を、潮の口から聞くのは初めてだった。潮が、音楽を聴くのが好きなことは基本的に周知の事実だ。高そうなヘッドフォンを首にかけているところもよく見ていたし、いつも持っている音楽プレイヤーに入れられている曲数が常人の比じゃないことも知っていた。けれど、その趣味に背景があることを想像したことはなかった。潮が、おそらく、全力でひた隠しにしていたのだ。

「合同練習とかでわかったと思うんだけど、あの学校って、すげえ実力主義っていうか、なんつーか、使えねえやつとか潰れたやつはどんどん置いてって、付いてこれたやつらだけががっつり結果残すみたいな、そういう風潮あるんだよ」

「ああ……松原さんも古賀先輩もそんなこと言ってた」

「だろ。――俺、小六の四月のコンクールで、いちばん目立つソロで、大失敗して。……ジュンちゃんが言うとおり自分勝手な理由だったんだけどさ、立ち直れなくて。そのまま戻れなくなって、学校も行けなくなって、楽器も吹けなくなって、もう全部やり直したいって思って中学入ったんだけど――なんか結局、逃げただけだなってのはいまでも思う。ジュンちゃんたちに、まじで申し訳ねえことしたなってのも、考えるたび思うよ」

 なんも言ってなくてごめん、と潮はまた謝って、誤魔化すように左手のスプーンを口に運んだ。京もそれに倣うように同じドリアを一口飲み込む。

「でも、うーやんは、どうでもいい理由で他人に迷惑かけて、逃げて、平気な顔して開き直ったりはしないだろ。おまえにとって、どうでもよくないことがあったんだろ」

 それは、この四年間潮の隣にいて感じた本心で、それをそのまま言葉にすると潮はなにかを堪えるように言葉を詰まらせ、それから、上擦った声で「うん」とだけ答えた。それ以上はなにも喋らなかったし、京自身も聞き出すつもりはなかった。言えないことがあってもいいと思う。それを無理やり引き出すことは求められていないとも思った。

「ってか、楽器上手かったとか、うーやんのくせになんかかっこいいな。サックスってあれだろ、あの、こういう形の金管楽器」

「けーくんそれサックス吹きの前で言ったら殺されるやつだぜ。サックスは木管楽器」

「え、うそだろ。めっちゃ金色じゃん。あれ木でできてんの?」

「や、全然金属だけど。音の出し方で決まるからな。フルートも木管だぜ」

「えっ、まじで……わりと今月一びびったわ」

「まだ今月始まって三日じゃね? 驚きが安いわ」

 その話題をたわいもないやりとりに落とし込みながら皿を空にして、再びドリンクバーのグラスに取り掛かり始める。部活のあと、寄り道をしてから家に帰るにしても遅い時間になり始めてきたことにはお互い気付いていたものの、いまはそのことから目を背けたかった。

「優都先輩には話してたの?」

「中学入ったときにな。――先輩はすげえ真面目に弓道やってんのに、俺は自分のやってきたことから逃げただけだって負い目が、どうしてもあって」

「あ、おまえそれで弓道部入んのちょっと悩んでたの? やっとわかったわ」

「よく覚えてんな。まあそんな感じ。俺まじであの頃から先輩には一生頭上がんねえからな」

 当時、優都と潮のあいだにどのようなやり取りがあったのかは知らない。けれど、そのときから、潮の中で優都という存在がが特権的な立ち位置についたことだけは間違いないだろう。彼は、他人には窺うことすらできない、京ですらすべては知らない潮の線の向こう側に、ただひとり身体ごと招かれたひとだ。それを特別羨ましいと思うわけではないし、優都にそういう性質があるというのは、言われてみれば納得できるようにも感じてはいる。それは、彼であればどんな言葉でも、感情でも、ひとつひとつおそろかにせず真摯に受け止めて、能う限りその思いに寄り添った言葉を返してくれるという信頼だ。

「うーやんにとって、優都先輩って、なに」

 京のその問いに、潮はいっとき目を丸くして、すこし黙り込んだ。いつものようなふざけた答えが返ってくるかと思いきや、顔を上げた潮の表情はひどく穏やかだった。

「正しいひと」

 そう言った潮の声色を、いままで聞いたことがなかった。正しい、という言葉の意味を考える。正しいひとを必要とする潮が、間違っていると思うものはどこにあるのだろうか。逃げてきた、と言ったことだろうか。それとも。なにを間違っていると思いながら、ここまで来たのだろうか。

「優都先輩なら、絶対正しいの?」

「絶対正しいことなんて、ないじゃん。そんなのはわかってる」

「じゃあ、」

「だけど、いろんなもの見えてて、努力も続けられて、たくさん考えて、あのひとが出した答えより信頼できるもの、いまないから。先輩が正しいって言ってくれて、許してくれたことに、信じてくれてることに、応えられるようになりたい」

 潮の、ここ数年の正しさの規範は、いつでも優都にあったのだとその言葉から実感する。信じるべきものは、自分の内側に求めるよりも他人に求めたほうが楽だ。

「なにかに本気になったら、真摯になればなるほど、――俺らみたいな凡人は、絶対どっかで、努力じゃどうにもなんねえものがあることに気付くんだけどさ。……それでも、それをわかってても、真摯でいることを諦めないっていうのは、すごいことだと思うし、俺にはできなかったから、そういう意味で、俺はあのひとがだれよりもすごいひとだって信じてるんだよ」

 その、熱のこもった言葉に、潮が抱えてきたものが丸ごと含まれているのだろうと思った。言葉だけでは仔細が読み取れないほどに、彼の中心に癒着してしまったその苦しみとともに、この男は毎日バカみたいに笑って生きている。それだけで充分、と思ったことは、京には口に出せなかった。

「優都先輩みたいに生きたいってこと?」

「俺にできる気はしねえけどな。でも、それが正しいんだとは思っていたいよ」

 潮はそう言って、小さく首を傾げたまま微笑んだ。その仕草が、優都がいつもする笑い方によく似ていたことに、潮は気付いているだろうか。それを指摘しようかどうかすこしだけ迷ったけれど、言わないでおくことに決めて、グラスに半分ほど残ったコーラを一息で飲み干した。

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