4-3
合同練習の全予定は、その後は多少のぎこちなさを残しつつも大きな問題も起きずに終了し、練習が終わったあと、優都や拓斗は中学時代からお互い顔と名前は見知っていても話したことはないような選手たちと言葉を交わしていた。潮は、いつもならそういう交流の場には真っ先に首を突っ込んでいくはずなのに、今日は京や由岐と一緒におとなしくそれを横目に見ていた。途中、優都が、潮が好きだと言っていた選手の前に彼を呼んだときはいつもの陽気でテンションの高い性格を取り繕ってはいたが、だれかを相手にしていないときはやはり感情の読み取りづらい表情を浮かべて、ぼんやりと所在なくどこかを眺めているばかりだ。練習のあいだも、特別調子が悪そうであったり集中を欠いている様子でもなかったけれど、どことなく様子がおかしいことは京以外も察してはいるようで、潮が場を離れたとき、由岐が小さく眉を寄せて、「うっしー、なんか元気ないな」と呟いた。
「いつもがありすぎるって説もあるけど。でもたしかに静かよな」
「京はなんかあったとか聞いてねえの?」
「ない。つーか、あいつはそういうのあっても言わない」
無駄なことはよく喋るけど、と付け加えると、由岐は「なるほど……」と言ってまた潮を見やる。潮は優都の隣で、櫻林の二年生相手にくるくると表情を変えながら派手な身振り手振りを繰り返して笑っている。
挨拶も終わって解散をしたあと、トイレに寄るから先に行っててくれと言った潮に京が便乗したために、二人で他の部員たちから遅れて歩いているあいだも、潮はいつにもまして口数が少なかった。京が話しかければそれなりに返答はするけれど、どの話題もさほど盛り上がらず尻すぼみになってしまう。潮は、自然にしているのか意図的なのかはわからないが、どんなくだらない話でも中途半端に途切れさせずに落としどころを見つけるのがうまい。それを知っているからこそ、不自然に途絶える会話と、言葉のない沈黙がいつも以上に重たかった。潮はそれを取り繕おうともしておらず、ただ校舎裏の砂利道で靴底と硬い石が鳴らす音を聞きながら歩いている。傾きだした日が建物の陰からちょうど目の高さで光り、京もすこし顔を俯けた。再び声をかけるか、あるいは皆のところに戻るまでこのまま放っておくかを京が悩みだしたとき、潮がふいに足を止めた。「うーやん?」と京が言葉を発するよりさきに、「潮?」と知らない声が彼の名前を呼ぶ。潮は、たったいま彼の隣をすれ違おうとした、櫻林の制服を着た男子生徒の顔を返事もせずにただまじまじと見ていた。
「潮だよな? 俺のこと覚えてる?」
「……覚えてるよ。ジュンちゃんだろ」
旧友との再会であろう状況に、潮はにこりともせず、目を伏せて彼の名前を呼んだものの、そこからなにか言葉を繋げることもなしに再び歩き出そうとした。あからさまに逃げるような態度に、ジュンちゃんは一瞬眉をひそめたけれど、「潮」とさらに強い口調でまたその名前を口にした。
「サックス辞めたってほんとなの」
彼は、その一言で潮を引き留めた。潮は、振り返らないまま「そうだよ」と返した。
「なんで」と問うジュンちゃんの声は、初対面の京ですら背筋が凍るほど冷え切っていた。潮が、他人からこれほどの敵意を向けられているさまを、京は見たことがなかった。
「俺がいまどうしてたって俺の勝手だし、ジュンちゃんになんか関係ある?」
潮の口から出た声にも、この四年間で聞いたこともないくらい温度がなかった。
「あのとき、全部勝手にめちゃくちゃにしたくせに、まともな理由も言わねえほうがどうかしてるだろ」
挨拶も思い出話もなしに始まった口論は、京にはほとんどなにもわからない内容だった。声をかけることもできず京は自分の所在を失っていたが、潮をひとり置いてこの場を離れることもできなかった。
「あのとき吹けなくなったのも、いま、吹いてねえのも、ジュンちゃんたちのせいじゃねえけど、――だから、おまえらがどうとか関係なくて、もう吹かないって決めたから」
「理由になってねえよ。俺らが関係ないって言うなら、なんでおまえはあのとき勝手に自滅して、俺らがずっと練習してきた曲を台無しにして、そのままなんも言わねえで吹部からも逃げて、そんでいつの間にか音楽まで辞めてんの? わけわかんねえよ」
ジュンちゃんの言葉が、潮のことをひどく追い詰めているのが傍目にもわかった。潮は、彼の問いには答えなかったけれど、その非難を否定もしなかった。
「ずっと、台に乗るのも、目立つソロも全部おまえで、おまえの邪魔しねえように吹けって言われ続けてて、でもおまえまじで上手かったから仕方ねえって納得してたつもりだったのに、――でかいコンクールで、みんなめっちゃ練習した曲で、おまえが全部ダメにしたんじゃん」
ジュンちゃんの声にも、押し殺しきれない感情が震えとなって浮かび上がっていた。潮はそちらを向かなかった。
「おまえにとっては、必死に練習したっておまえの視界にも入んねえような奴らだったかもしんねえけど。俺たちも練習してたんだよ。いい曲にしたかったんだよ。……なあ潮、才能もセンスもあって、なんでおまえが、音楽から逃げたの」
潮は、肩に担いだ弓を強く握った。名前を呼んで会話を遮ろうかどうか京が悩むあいだに、潮は一度口を開き、「才能か」とだけ短く呟いて唇を噛み、諦めたように息を吐いて喉を震わせた。
「俺には、才能なんてなかったよ。あのまま続けてても、なんにもなれねえ凡人だよ」
静かな声だった。言葉も声色も、潮の表情も、ひとつの装飾も瓦解ももたず、ただその場に投げ出されただけだった。ジュンちゃんが、面食らったように言葉を失ったのが京にもわかった。潮は、目の前にいるジュンちゃんのことも、隣にいる京のことも見ていなかった。
「――宝島だったな。
潮が、自分の内側を、いちばん深いところを言葉にするのを初めて聞いた。それは彼がいつでも、京にさえも見せようとしてこなかった場所だ。内側に抱くその感情を、いつも見せる剽軽な笑顔の後ろに隠してきたなにかを、潮が吐き出すことすら良しとしないくらいに忌んでいることは知っていた。それくらいは、隣でずっと見ていればわかる。けれど、その中身をここに至るまで知らなかった。聞き出そうとすることができていなかった。
「そんなことで、全部諦めたの」
冷静な潮の声とは対称に、ジュンちゃんの声はやはりあからさまに揺れていた。怒りなのか動揺なのかは読み取れなかったものの、たしかに、ままならない感情が浮かぶ声だった。
「そんなこと言ったら、おまえよりずっとへたくそで、ずっと、最初から最後まで一度だっておまえに敵わなくって、おまえがいなくなったあともずっと、おまえのほうが上手かったって比べられ続けてた俺らの立場ってなに。あんだけのものもってて、そんなに簡単に捨てられるなら、おまえの能力も環境も、ぜんぶ俺が欲しいよ」
潮はその問いに答えなかった。ただ、ようやく顔を上げてジュンちゃんの方を見た。今度はジュンちゃんが俯いていた。
「なんにもなれねえからって、あんなガキの頃に、あんだけもってたもの全部諦めて、辞めるとか決めんのわかんねえよ。そんなもん、なれねえ奴のがずっと多くて、それでも、続けてるだろ」
「ジュンちゃん」
絞り出したジュンちゃんの言葉を受けて、潮は静かに彼の名前を呼んだ。ジュンちゃんは眉を寄せて顔を上げ、潮と視線を合わせた。ジュンちゃんの背後から差し込む西日が、潮の顔を逆光に陰らせる。流れてきた薄い雲が一瞬だけその光を遮ったとき、潮は、彼と再会して初めて、名前のつけられる表情を浮かべていた。薄く笑っていた。
「俺は、そのなにかになりたかったんだよ。――なれると思ってたんだよ」
ごめん、と言った潮に、ジュンちゃんはもうそれ以上なにも言葉を返さず、ただ黙って首を横に振った。二人はそれ以上言葉を交わすことを諦めたように、視線を合わせもせず、別れの挨拶もせずに踵を返し、歩き出した。ジュンちゃんが背負った赤い、おそらく楽器のケースが、潮の視線をわずかばかり引いたのが見えたけれど、潮はやはり表情を消していて、そこに込められた感情までは京には読み取れなかった。
ジュンちゃんの足音が聞こえなくなるところまで、潮は後を追う京を振り返りもせず無言で歩き続けた。京がそろそろ声をかけようと口を開きかけたのと同時、彼はふと歩みを止めて、低い声で「ごめん」と呟いた。
「意味わかんねえ喧嘩に付き合わせたわ、ごめんなけーくん。後でなんか奢るよ」
その、虚勢に満ちたへたくそな笑顔とともに向けられた言葉が、どうしても彼の一番深いところに京が触れていくことを拒絶していた。彼が、そういうことに関して相当に意固地であることも知っている。自分自身で引いた線より内側に、他人を入れないということに対して。それは、意志や決意というよりは、恐怖に近いものに起因しているのかもしれないと思った。潮の声は隠しきれないほど震えていた。
「……大丈夫?」
ほとんど会話もないまま校門を抜け、駅に近いバス停のところまで足を進めたところで、潮は歩みを止めて閑散としたそのバス停の椅子に腰を下ろした。真っ青な顔色で俯いてしまった潮は、「大丈夫」とあからさまな嘘をついたあとにゆっくりと息を吐いた。
「ごめん、先に駅戻ってさ、先輩たちに、帰っててくださいって伝えて。お願い」
「でも、なんか具合とか悪いなら――」
「ごめん、けーくん。お願いだから」
懇願するその声はやはり大きく揺れていて、京はそれ以上なにも言えなかった。放っておいて良いとも、そうするべきとも思えなかったけれど、彼に手を差し出す方法がわからなかった。潮を苦しめているものの正体も、その意味も質量も、京が知りうるものではなかった。
「荷物貸して。俺、駅で待ってるから。落ち着いたら一緒に帰ろ」
それだけ声をかけるのが精一杯で、潮も京が自分の荷物を引き受けていく手は拒まなかった。ごめん、とも、ありがとう、とも言わず、ただ表情を隠して背を丸めているだけだった。
小走りで駅に戻る道の途中、駅から逆向きに歩いてくる優都と出くわした。京たちがなかなか合流しないことを心配して、櫻林へ戻ろうとしていたのだろう彼は、京の姿を見るなり焦ったように京の名前を呼んで息をついた。
「なにしてたんだ、心配したよ。……潮は?」
「すみません、あの、うーやんが、なんかちょっといろいろあったみたいで」
帰路での一部始終を優都に話し出すと、彼は皆まで聞かないうちに察するものがあったのか、京が途中で言いよどんだところで「なるほど」と頷いた。
「潮は、京にも話してないんだっけ」
「小学校のときのはなしっすか? 聞いてないですよ」
京の答えに、優都は「そうか……」と呟いて、どう言おうか悩むように視線を迷わせた。潮とは、中学一年で同じクラスになって同じ部に入って以来、おそらく互いにだれよりも一緒にいるし、セットで数えられることも多いくらいだ。潮は人懐こく陽気で悩みのなさそうな見た目の印象に反して、深く付き合う相手はあまり多くない。彼の側から線を引くのだ。そして、その線の存在に気付かせないように相手の目を逸らしながら、そこを踏み越えないし踏み越えさせない。
「――うーやんって、櫻林の出身なんですか」
それを、優都に聞くのは卑怯かもしれないと思ったけれど、純粋な疑問と言うよりは答え合わせだった。先ほどのジュンちゃんとの会話から大体察することのできたその事実は、合同練習が決まってからこの方の潮の態度とも整合する。京の問いに、優都は存外すんなりと「そうだよ」と答えた。
「古賀先輩ってそのこと知ってるんすか。同じ小学校だったってことですよね」
「僕も聞いたことないけど、知らないんじゃないかな。学年もクラブも違ったら、小学校の先輩後輩なんてあんまり接点ないだろ」
優都の言葉には、実感のこもった同意を返した。たしかに、京にとっても、小学校時代の先輩と言われて名前と顔がきちんと思い浮かぶのは、同じバスケクラブに所属していた数人の面々のみだ。「噂くらいは聞いてたかもしれないけどね」と付け加えた優都の言葉が、なにより饒舌に、潮が京には話さないその時期のことを彼が丸ごと知っていることを意味していた。
「優都先輩は、うーやんのその頃のこと知ってるんですよね」
「うん。もちろん直接知ってたわけではないけど、部に入ったばかりのときに聞いたよ」
その線があることに気付いているだけでも、他の友人たちよりは京のほうが潮に近いところにいる。そのことに自覚はあった。けれど、それ以上に、潮にとっては優都があからさまに特別だ。口癖のように世界一尊敬すると繰り返しているのは、きっとさほど大げさな表現でもなくて、潮がその線の内側に招き入れたのは、京の知っている限りではこの先輩だけだ。
「距離を置いてる、とかいうのとはまた別なんだと思うけど」
「それは、大丈夫です。わかってるつもりです」
見せたくないなにかがあるとしても、潮はわりと喜怒哀楽も機嫌の良し悪しも態度に出やすいし、京の前ではそれをあまり取り繕わない。人前でへらへら笑って頭の悪そうな言動をしている以外の顔も知っているし、無理をしていればある程度はわかる自信もある。弱音も聞くし、八つ当たりもされるし、本心からの吐露も何度も聞いてきた。
「いまさら、あいつに信頼されてない、とかは思わないです」
優都は京の言葉にすこしだけ目を丸くしてから、すぐに微笑んで、「そうか」と目を伏せた。
「他人に言いたくないこととか、知ってほしくないこととか、あっていいと思うし、そういうの全部知ってないと本当の友だちじゃないとかは思わないから。――言いたくないことを言わなくていいし、聞かれなくてすむ相手ってのも、いていいかなって思うんです」
「――京は優しいな」
優都が首を傾げて呟いた言葉を、京は声にしないまま口の中だけで反芻した。その形容が腑に落ちていない様子の京に気付いてか、優都は苦笑してまた言葉を探した。
「自分にどうしてほしいかより、相手がどうしてほしいかを、おまえはいつも先に考えるな、と思って」
「……そうですか? 俺、別にそんな性格良くもないですけど」
「京が気付いていなくても、多分潮は気付いてるよ。だから、あいつは京といるのが心地いいんだろうな」
優都先輩こそ、と言いかけた言葉を飲み込んだ。彼の他人の感情への献身を優しさと形容することそのものは、あながち間違いでもないと思う。けれど、それを口に出そうとした途端、名状しがたい違和感が声帯の手前で言葉をせき止めた。優都は、決して自ら相手の内側に踏み込んでいくわけではない。それでも、彼と話をしているうちに、どうしても彼を自分の内側に招き入れたくなる欲求にかられるのは、果たして単に優しさと名付けてよいだけのものなのだろうか。
告解、という言葉が浮かんだ。潮が、優都にできて京にできないのはそれだ。彼は潮にとって、ほとんど神様と同じ場所にいる。
「潮のこと、迎えに行ってくる。他のメンバーは先に戻らせたけど――」
「待ってます。優都先輩も、荷物預かりますよ」
「ありがとう。助かるよ」
一緒に行きます、とは言えなかった。それでも、潮に待ってると伝えた言葉は守りたかった。それを拒まれなかったことは事実だ。彼の引いた線を無遠慮に踏み越えることを友情と取り違えることはしたくなかったけれど、許されるぎりぎりのところまでは歩み寄りたいと思った。優都は首を傾げて微笑んで、肩から降ろした弓と鞄を京に預け、早足で駅の前の道路をバス停に向かって歩いて行った。
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