4-2

「絶対ぼろくそ言われると思ってたけど、案の定だったわ」

 同じ流れを何周か繰り返して最初の休憩が言い渡されたときには、まださほど長い時間弓を引いたわけでもないのにかなり疲労が溜まっていた。櫻林のメンバーはそのまま自主練に移るものも多く、すこし遅れて翠ヶ崎のメンバーの元に戻って来た雅哉は、「使いたかったら的も巻藁も適当に使っていいって」と告げてから、わずかに顔色を翳らせて短い溜息をついた。

「大丈夫?」

「大丈夫、慣れてる。落とされなくてよかったわ」

「それは僕も。緊張するね、この形式」

 優都も途中からは何度か厳しい言葉をかけられつつも、なんとか最後まで一組に残り続け、雅哉の横でほっとしたように息をついていた。ここでの練習は、多人数の中で常に実力に明確な順位を付けられ続けているのと同じだ。顧問が特別に指示を出す以外は、的中数でほぼ機械的に入れ替えを決められる制度には、言い訳も弁明も通用しない。

「これでどこの組にいられるかで、レギュラー争いに組み込めるかとか、そういうの大体決まるから」

「ああ、なるほど……競争原理なんだな」

「ここは学校全体がそういう空気だよ。仲間ってよりも競争相手だし、周りとがんがん競争させて、勝ち続けたやつだけが上に行けるって感じ。強くはなるけどな」

 しんどいよ、と呟いた雅哉の声にはわかりやすく実感が込められていて、彼がこの部を抜ける決意をした理由はそれだけでも察せるような気がした。

「でも、やっぱり言ってもらえることは的確だなって思うし、部外者の身からしたらすごく勉強になるよ。――僕、ちょっと先生に相談してみたいことあるんだけど、だれか一緒に行く?」

「俺行きます。どっちかってと松原さんに話聞きたいんすけど」

「おまえらほんと怖いもんねえな……」

 立ち上がった優都と、それに続いた拓斗はそのまま櫻林の顧問と主将の元へ向かい、それを見ながら雅哉は感嘆するように呟いた。彼は、顧問に話を聞きに行った優都のことをしばらく見守っていたけれど、なにやら熱心に話し込んでいる姿を見て安心したように肩の力を抜いていた。優都は、今日はここ最近の中では調子が良さそうで、松原や拓斗ほどではないものの、同期のトップ選手たちとは十分渡り合えているように見えた。優都は顧問から話を聞いたあと別の選手に声をかけ、休憩が終わるころには彼の周りには先ほど一組で弓を引いていた選手が何人か集まっていた。櫻林の上位層と言えば、中学時代から名が知れていて、都内どころか全国でも通用する選手が何人もいる。優都も拓斗も、そういう環境に身を置くことだってできたはずなのに、彼らはそれを選ばずにいまここにいる。そのことに彼ら自身がなにか意味を感じているのだろうか、というのが、京の頭にもうっすらと浮かぶ疑問だった。


 一度目の休憩から二度目の休憩までのあいだ、拓斗は余裕で一組目に居場所を維持し続けつつ松原と的中数で競り合っており、その横では優都が、ぎりぎりとは言え大きく崩れることはない結果で同じ組にしがみついていた。潮は雅哉と同じ二組目に上がったあと、何度か顧問に厳しい口調で指摘をされつつも、彼はそれをかなり平然とした顔で受け止めて、結局京たちの組に戻ってくることはなかった。京自身も、同じ組の千尋と由岐も、部外者ゆえに多少大目に見られている自覚があったとはいえ、さほど大きな変動もなく練習をこなしている。

 顧問は、二組目までの部員にはひとりひとり頻繁に指摘や叱咤を投げるが、三組目以降の部員には、目に余ってひどい射でない限りはあまり声をかけてこなかった。そういう意味でも、雅哉が口にした櫻林の競争原理の雰囲気は実感として肌に刺さってくる。事実、三組目、四組目に長いこといるのであろう二年生は、上に行こうと休憩時間も弓を引き続け必死に練習している者と、そもそも上に行くことを諦めてしまっているような者とに二分されていた。後者の態度を一瞬露わにした部員に、顧問が吐き捨てるように「やる気がないなら辞めてくれ」と言ったとき、京はその言葉の冷たさに背筋を冷やしたものの、櫻林のメンバーがそれを言われた部員に対して恐ろしく無関心であることにも同じくらいぞくりとしたものを感じた。翠ヶ崎の部員の表情を伺うと、優都はわずかに眉をひそめていて、雅哉はそちらに視線を送らないよう俯いていた。由岐がどこか怯えるように身を竦めていた反面、拓斗は案の定興味のなさそうな顔で明後日の方向を向いている。意外にも、潮も彼とほとんど同じ表情をしていた。この雰囲気に、ひとがひとを見捨てることに、たじろぐところも感じるところもひとつもないといったような無表情だった。

 再び休憩が言い渡されたあと、潮は京たちのほうに寄ってくることもなく、まっすぐ的前に向かって、自ら自主練に入っていった。優都や拓斗、雅哉も休憩は短く切り上げて的に向かっていき、それを見ていた千尋が小さく「よくやるわ」と呟いたのが聞こえた。

「なんか、すごいですよね」と由岐がそれに答える。

「ゆっきーは行かないの? いつもわりと自主練するほうじゃん」

 京が由岐に問うと、由岐はうーん、と悩ましげに声をあげてから、「ちょっと怖くて」

と言った。

「風間はそんな感じしてたけど、優都先輩もうっしーも、あんなにがんがん厳しいこと言われてけろっとしてるのすごいなって思うんだよ。俺そういうの苦手でさ……」

 俺はあっちのグループほど言われてないのにな、と苦笑した由岐は、たしかに、自分ではないだれかが怒鳴られているときもすこし身を竦めるような仕草を見せている。そういう指導に耐えかねて空手を続けることを選べなかった彼が、この雰囲気をあまり素直に飲み込めないであろうことにはたしかに頷ける。

 射場に視線を戻すと、ちょうどいちばん顧問が立っているところに近い的に向かって雅哉が弓を引いていた。先ほどまでは自主練にはほとんど視線を送っていなかった顧問が、雅哉の射をしっかりと見据えているのがわかる。その視線に気付いてか、硬さの目立つ行射で雅哉が放った矢は、軌道を大きく逸らして、狙ったところよりも横の的に近いくらいの位置に突き刺さった。

「なんだそれは」

 顧問がそう口を開いたとき、今度は場の雰囲気が変わったのを察して、これはいつも通りの事態ではないのだということを悟る。射位の近くにいた櫻林のメンバーは一斉に顧問のほうを伺い、その言葉の向かう先にいる雅哉にも視線を集めた。顧問はそのまま、雅哉に対して彼の射の未熟さを言い並べ、「全部今日一度指摘したことじゃねえか、言われたことも直せねえのか」と声を荒げた。

「そんなんだから櫻林うちについてこれなかったんだろ。それとも、翠大附の練習はそんなに甘えのか」

 顧問が響く声で雅哉に放った言葉に、道場が静まり返った。いままでどう怒鳴られても言われるがままだった雅哉は、その言葉には眉を動かして顔をしかめたけれど、言い返す言葉が見つからないのか、あるいは言えないのか、唇を閉じたままだった。それでも、その言葉を肯定もしなかったし、「すみません」と頭を下げることもしなかった。雅哉のその態度に気を悪くしてか、「なんとか言え」と顧問が声を荒げたとき、さすがに止めようとしてか足を踏み出そうとした松原より先に、優都が二人の元にまっすぐ歩み寄って行った。

翠ヶ崎うちの部員が、なにかご無礼をいたしましたか」

 申し訳ありません、と頭を下げた優都は、顔を上げたあとも顧問から目を逸らさなかった。雅哉がすこし驚いたような顔で優都を見ている。もうあなたの生徒ではないのだ、と言外に主張したその言葉は、あからさまな牽制だと思った。

「俺に偉そうな態度をとれるほど、自分が強いつもりか」

 声の矛先が自分に向いても、優都は顔色ひとつ変えずに姿勢を正して立っていて、短い言葉でそれを否定した。

「おまえもそうだろ。主将のくせに後輩に負け続けてて、そうやってすました面して、悔しいと思わないのか」

 その言葉には、優都よりも隣にいた雅哉のほうが眉をひそめた。あいだに割って入ろうかどうか悩むような仕草を見せている松原を京の横にいた千尋が目に留め、小声でなにかを言って彼を引き留めた。いくらかはなれたところでは、拓斗がふいと優都から眼を逸らした。

「――悔しいです」

 優都がそうはっきりと口にしたのを、だれもが初めて聞いた。そう思っていたことは知っていたし、穏やかそうに見えてこのひとがかなりの負けず嫌いであることを、もう四年も一緒にいれば京ですらよくわかっている。それでも、優都はいままで、拓斗の実力が自分より上にあることを認めてはいても、選手としてまったく対等なところで悔しいと言葉にすることはなかった。

「現状、おまえは光暉や風間と競い合えるところにはいないな。去年見たときはまだある程度有望だと思っていたんだが」

 辛辣に宣告されたその言葉に、だれもが息を呑んで優都の反応を窺っていた。松原はじっと優都に視線を送っている。拓斗はあえて見ようともしていないようだったけれど、耳を傾けているだろうことはわかる。

「それでも」

 優都の声はおどろくほどまっすぐ澄んでいた。彼は顧問から視線を外さないままその目を見上げ、迷いなく口を開いた。

「僕は、松原や――風間に、敵わなくたっていいとは思いません。先生にそんな義理がないのはわかっていますが、それでも、今日この場限りでも、ご指導いただきたいです」

 そう言い切って深く頭を下げた優都を見て、雅哉は泣きそうに顔を歪め、黙って優都の隣で頭を下げた。こういうとき、由岐が優都のことを怖いと言った理由がいくらかはわかるような気がした。彼は決して口が上手いわけでもないし、相手を言い負かすことが得意なわけでもないけれど、場を自分の味方につける能力には抜群に優れている。

「――おまえの部と部員に対して失礼な言い方をしたのは悪かった。休憩はあと五分で、練習に戻れ」

「はい。生意気なことを言ってすみませんでした。失礼します」

 顧問が踵を返して道場を離れていくのを、再び頭を下げて見送った優都は、そのあと京たちのもとに戻ってきて、すこし安堵したように息をついた。

「森田、悪いな。他校に対してあんな言うときないんだけど……」と松原が軽く頭を下げる。

「ううん、こっちこそ荒立てちゃってごめん。大丈夫かな」

「大丈夫だと思う。きつい言い方はするけど、完全に無茶苦茶なことはしないひとだから」

「ならいいんだけど。……古賀、大丈夫?」

 優都と一緒に戻って来た雅哉は、壁に寄りかかるように座り込んだまま俯いていた。心配そうに駆け寄った由岐が差し出した水筒を受け取って軽く礼を言うと、雅哉は覗き込んでくる優都と松原のほうに顔を向けて、「悪い」と低い声で言った。

「ごめん、森田。庇わせて。……なんも言えなかった」

「古賀が謝ることないだろ」

「別に、俺がなに言われんのも慣れてるつもりだったからよかったんだけど。……部のことまでああ言われて、すげえ悔しかったのに」

「おまえがそう思ってくれてるだけで僕はうれしいよ」

「――情けねえわ」

 吐き捨てるように言った雅哉は、大きく溜息をついて腕で顔を覆い、「顔洗ってくる」と立ち上がってその場を後にした。

「僕、ちょっとだけ古賀先輩の気持ちわかる気がします」

 雅哉のことをずっと気にかけていた様子の由岐が、おずおずと優都に向かって口を開く。

「中学のとき、監督とか先輩に怒鳴られるのすごい苦手で、言われてる内容とかよりも、怒られてるってことに足が竦んじゃって。いま思うと、僕が悪かったことも絶対あったと思うんですけど、なにが悪かったとか考える余裕もなくて。……いまでも情けないって思います。でも、僕もそれずっと引きずってるから――」

「……部員同士で先輩も後輩もなくひたすら競争させて、実力と能力でふるい落として、残ったやつのこともああやってがんがん叩いて、それでも潰れないやつは、そりゃ強いんだよ」

 雅哉が出ていった扉の方を眺めながら、松原が床に腰を下ろし、ゆっくりと口を開いた。優都は由岐と松原を交互に見て、小さく頷く。

「俺は他人が自分のことどう思うとかあんま興味ねえし、怒鳴られても別に平気だからわりとうまくやってるけど、雅哉は元から、他人を蹴落として自分が上行くとか苦手なんだろうし、そうやって上まで来たとこで、ちょっと調子崩したら先生にも、蹴落とした側のやつらにも叩かれんの、無理だったんだろうなとは思う」

「……潰れなかった選手が強いのはわかるけど、そこで潰された選手が一概に能力が低いとも僕には思えないな」

「それはそうだと思うよ、俺も。雅哉が弱かったとも思わねえし。だけど、なにもかも、ってのも無理だろ。――俺、おまえのことはちょっとだけ羨ましいよ。部員に慕われてて、なんかあったときさっきみたいに一瞬も迷わないで庇いに行けて。かっこいいと思った」

「ありがとう。僕は中学のときから、松原の圧倒的な強さに憧れてたよ。おまえみたいになりたいとは何度も思った」

 優都は微笑んでその言葉を受け止めてから、松原からはすこし逸れたところに目線を向けた。松原はそのことには気付いていないようだった。

「どんなかたちであっても、なにかに潰されたひとは、そのことを僕らの想像よりずっと長く引きずるんだ。――僕はそれを否定してしまうのは、いやだな」

 京だけが追いかけた優都の目線の先には、一切の表情を消したままただぼんやりと立っている京の親友の姿があった。思えば、彼は今日この練習が始まってから、休憩時間であってもほとんど口を開かず、いつもの軽口も剽軽な笑顔もまったく鳴りを潜めてしまっている。潮も優都の視線には気付いていないようで、壁に寄りかかったままぼんやりとどこかを眺めていた。優都もすぐに彼から視線を外し、松原が休憩終了の合図をかけようと腰を上げるのを見上げていた。

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