第四章

4-1

「森田、櫻林と合同練習する気ない?」

 合宿後すぐに行われた個人戦の大会が終わって数週間後、練習終わりに部室で携帯を弄っていた雅哉が優都に声をかけた。着替え終わった直後の優都を彼は自分の元に呼び、携帯の画面を見せる。優都はそれを覗き込みながら何度か瞬きをして、え、と短く声を上げた。

「そうか、おまえ、松原のチームメイトだったんだもんな」

「あいつは中学のときからずば抜けて上手かったわ」

 優都の口から出た名前にはかなりの聞き覚えがあったものの、京には咄嗟にその出所が思い浮かばず、隣にいた潮に視線を向けた。潮は珍しく表情を消して、雅哉と優都のほうをぼんやりと見ていた。京の視線に気づいて、彼ははっとしたように表情を繕い、「けーくんどうかした?」といつもの軽い口調を向けてくる。

「や、先輩らが話してんのだれのことだっけと思って」

「松原さん? 櫻林の超強いひとじゃん。俺らの一個上で、えっと、都個人二位だったひと。風間と最後まで射詰してて――あ、てか今年個人でも団体でもインハイ行ってたぜ」

「あー、わかった、思い出した。あれだろ、髪短くてこの辺刈り上げてるひとだ」

「そうそう」

 潮と小声で話しているうちにも優都と雅哉は二人で携帯に向き合っていて、優都が「櫻林の主将は松原になったのか」と呟いたのが聞こえた。

 雅哉が中学時代所属していた櫻林大学附属中学・高等学校は、都内で一、二を争う弓道の強豪校で、個人、団体ともに都で二枠ずつしかないインターハイや全国選抜の出場枠を毎年のように獲得しており、部員数も多く歴史の長い部だ。優都と千尋が中学で翠ヶ崎の弓道部に入った当時の主将は、高校は櫻林に進学したという話は京にも聞き覚えがある。

「櫻林と練習できるなんて願ってもないけど……」

「じゃあ日程調整しようぜ。光暉こうき、二年連続で翠ヶ崎に都個人獲られたの相当悔しがってるらしくて。おまえとも話してみたいって」

「はは、僕去年のあの時期絶好調だったからな――まぐれだと思われないように気合い入れないと」

 そう言って肩を竦めた優都は、つい数週間前に行われた個人戦の都大会で、あまり思ったような成績が取れなかったことに、あまり表には出さないながら焦りを覚えているようだった。昨年度、見事なまでの全射皆中で一年生にしてその大会を制した優都は、都内でも有数の実力の選手であることはたしかだけれど、今年度に入ってからはあまり目に見えた実績がない。その横で、今年の都個人では、拓斗が櫻林高校の松原光暉という都内トップの選手に競り勝って優勝を決めた。今年二年生にして、都で二枠しかない個人戦のインターハイ出場権をもぎとった松原に勝るとも劣らない実力を持つ拓斗は、インターハイこそ出場枠を取るには至らなかったが、都個人が開催された夏の終わり頃には、まだ高校に上がって半年も経っていないにも関わらず、松原と並んで都の最上位層として知られる存在になっている。

「でも、古賀はいいの? なんというか、いろいろあったんだろ」

「え? ああ、まあ……でも、もう他校だし。同期とはわりと仲良かったし、平気だよ。あっちのメンバーが強いのもそうだけど、うち、ちゃんとした指導者いねえし、強いとこの先生に見てもらえんのも、特におまえとか風間には役に立つだろ」

 ちょっと気難しいじいさんだけど、と笑った雅哉もまた、優都がここのところ、かなり長いこと思うような弓が引けず焦っているのを気遣っているのだろう。それを察してか、優都はすこし間をおいて「ありがとう」と雅哉に言った。彼はそのあとふいに振り返って、ネクタイを結んでいた潮のことを見やった。優都は潮になにを聞くでもなかったけれど、その目線を目ざとく察知した潮は、優都に向かって大げさに肩を竦めて見せた。

「櫻林からお誘いくるなんて、翠ヶ崎も大出世っすね。やっぱ先輩らと風間ってすげえんすね。俺松原さんもすげえと思うけど柏さんの弓もめっちゃ好きなんすよね、あわよくばお近づきになりたいっすわ」

 向こうでやるんですか? と問うた潮に、優都が「そうなるんじゃないかな」と返すと、潮はふいにはっとしたように真面目な顔になり、優都に体ごと向き合った。

「あ、でも、俺の一番は優都先輩っすからね。浮気じゃないんで、そこんとこ勘違いしないでくださいねまじで」

「迷惑かけそうだし置いて行こうかな……」

「えっ、待ってください今日当たり厳しい」

「翠ヶ崎の恥部を晒しそうっすもんね」

「待ってけーくん純粋にひどくない?」

 そう言って派手な身振り手振りで喚く潮を見て、「相変わらず元気だな」と雅哉が笑い、優都もそれに軽く同調する。

「櫻林って弓道もそんな強いんですか?」

 京と潮の横では、由岐が隣にいた千尋と拓斗にこっそりとそう問うていた。「松原とか柏は俺でも知ってるくらいだけど」と千尋が返したのに対して、拓斗は一言、「強えよ」と言い切った。

「インハイも全国選抜も、ここ十年は二枠のうち片方は櫻林だし、松原さんはまじで上手い。あの代では断トツ」

「風間がそれ言うのよっぽどじゃん……。あそこ、空手もかなり強かったし、運動部すごいな」

「あの学校部活に全力だろ」

 大抵の場合他人の弓に対してさほど興味を示さない拓斗が、先日接戦の末に負かした相手を素直に認めるのを聞きながら、凡人には差がわからない次元で相当な実力なのだろうということを実感する。由岐は制服のブレザーを羽織りながら、いくぶん不安げな表情で、「俺大丈夫かな」と呟いた。

「そんな強豪だったら、みんな中学からやってるんだろうな……付いてけるかな」

「別に、平気じゃねえの。人数多いしピンキリだろ」

「いや、ゆっきー、おまえ一年目とは思えねえくらい普通に上手いから自信持てよ」

 特に感情も込めずに答えた拓斗に続いて、潮が由岐に近付いて背中を叩くと、由岐は照れたように笑って「ありがと」と言った。

「櫻林は大所帯だし、僕らとはだいぶ雰囲気も違うだろうから、技術以外にも学べることは多いだろうな。楽しみだよ」

 よろしくな、と雅哉に向かって言った優都に、雅哉は「任せろ」と答え、返信の戻って来たらしい携帯電話にまた向き直った。


*


 雅哉の中学時代の伝手を最大限に使ってセッティングされた櫻林高校との合同練習の当日、それまで優都とともに前面に立っていろいろな調整をしてきていた雅哉は、行きの電車の中で京にでも察せるほど悩ましげな表情を浮かべていた。翠ヶ崎を出発してから、何度目かに優都が聞いた「本当に大丈夫?」の言葉に、雅哉は「大丈夫だけど」の枕詞のあとに、やっとひとつ溜息をついた。

「楽しみかって言われると、そうでもないわ。悪い、行く前にこんなこと言って」

「それはそうだろ、なにもなかったら辞めてないだろうし。いまさら言うことじゃないけど、無理するなよ」

「それは大丈夫なつもり。別に悪口言いたいわけじゃねえよ。光暉とか普通にいいやつだし」

 雅哉と優都の会話を、京の横で由岐も聞いていたようで、雅哉のほうをちらりと見ながら、由岐は「古賀先輩、気まずいだろうな」と呟いた。

「俺たちは今日は部外者だし、一日限りだから気楽だけどさ、古賀先輩はそういう気分ってわけにもいかないだろうし」

「古賀先輩ってなんで中学んとき部活辞めたの? 俺あんまよく知らないんだけど」

「レギュラー争いえげつなかったらしいよ。蹴落とした相手から逆恨みされるし、レギュラーになったらなったで、結果出さないと責められるし、みたいな」

「まじか……ゆっきーのとこもそういうのあった?」

「ある程度は。そこそこ成績あって、人数多いとこだと、どうしても多少はあると思う」

 声を抑えながら会話をする京と由岐の近くで、拓斗は自ら会話の輪に入ることもなく腕を組んでドア横のスペースに寄りかかっており、潮は京たちの会話を聞いているのかいないのか、吊革を両手で掴んで所在なさげに体重をかけていた。拓斗があまり他人や他人の会話に興味を示さず、口数も多くないのはいつものことである反面、潮が静かなのは珍しい。それがどんな場であれ、彼は基本的にはひとりでいるよりは他人のあいだにいることのほうを好む性格だ。ぼんやりと窓の外を眺める潮にふと覚えた違和感は、目的地の最寄り駅の名を繰り返すアナウンスに気を逸らされていつの間にか忘れてしまっていた。


「本日はお招きいただきありがとうございます、翠ヶ崎大附属高校弓道部です。いろいろと勉強させてください、どうぞよろしくお願いいたします」

 櫻林高校の弓道場に案内されたあと、優都は完璧な主将の顔で頭を下げ、それに続いて全員で挨拶をした。優都の半歩後ろで、雅哉はすこしだけ気まずそうに向こうの部員と顧問に視線をやっていた。試合の決勝戦で何度も顔を見たことのある櫻林高校の主将は、「こちらこそ」と切り出して優都に手を差し出した。

「都個人の優勝者が二人もいる部と練習ができるのを楽しみにしてました。よろしくな、森田」

「うん、よろしく、松原」

 優都と握手をしたあと、松原はその横の雅哉にも視線をやり、「久しぶり」と声をかけた。「おう」と短く答えた雅哉は、反応が硬いことを「なに緊張してんだよ」と松原にからかわれて多少表情を緩めていた。


 櫻林の一、二年生と翠ヶ崎の七人を合わせた合同練習は、準備運動を終えたあと、全体を四つのグループに分けて、その中でさらにいくつか立を組み、順に四つ矢を行う形式から始まった。グループをレベル別で組み分け、的中率の良し悪しで随時グループ間を移動させていく形式の練習は、櫻林では昔から定番であったようで、的前に立てない初心者以外の部員にとっては、練習の時間の大半はこの形式に費やされると聞いた。松原は最終的には「わからなかったら雅哉に聞いて」と練習の説明を締めくくった。

「同じくらいの実力になるように組み分けたいんだけど。雅哉、大体わかるだろ。決めて」

「森田と風間は一組でいいだろ。早川は一旦四組で様子見て――矢崎と京は三組かな。坂川は二組でもいいような気するけど、最初はとりあえず三で。俺も二か三入ればいいか」

「おまえは二でいいよ。なんなら上がって来いよ」

「努力するわ。ごめん森田、勝手に決めちゃったけどそれでいい?」

「うん、任せるよ。ありがとう」

 雅哉たちの指示に従ってグループに分かれ、ちらりと後ろに並ぶ四組の様子を窺うと、ひとりだけ知り合いがひとりもいない組に放り込まれた由岐が、不安そうな表情を隠せずにいるのが目についた。今日は櫻林も高等部のメンバーしかいないと聞いていたが、それでもざっと数えただけで部員の数は二学年だけで三十人近い。目の前で並んで弓を引いている一組のメンバーたちは軒並み全国区の実力者なのだと思うと、それだけでどこか現実感のない光景だった。

 道場の端では櫻林の顧問が腕を組んで行射を見ており、その横でマネージャーと思わしき生徒が記録を取っている。仏頂面で部員の射を見続ける顧問の視線のせいか、道場にはどこか張りつめた雰囲気が漂っている。時折低い声で射に指摘が入れられるたび、櫻林の部員が顧問に深く頭を下げて礼を言っている姿が印象的だった。

 拓斗は普段とは違う環境の中でも顔色ひとつ変えず平然と一巡目から皆中を叩きだしていたし、優都も、多少気を張ったような表情を見せてはいたものの、いつも通り整った射形で弓を引いていた。一組目の最後、松原が小気味いい音を立てて的を射貫いた。矢は的のほぼ中心を捉えていたけれど、本人はあまり納得のいく射ではなかったようで微妙な表情を浮かべていた。

「光暉、的当てやってんじゃねえよ」

 射位を退いた松原に向かって顧問が声を飛ばす。松原はその言葉は予期していたように短く返事をして、二組目に交代の指示を出した。隣にいた潮が、「なにが悪かったのか全然わかんねえんだけど」と呟いたのが聞こえた。

 二組目の番になると、顧問の叱責は徐々に声量も数も増してきて、ときおり苛立ちを含んだ怒鳴り声も飛んでくるようになっていた。翠ヶ崎の弓道部には、基本的に声を荒げるということをする人間がいない。顧問が練習内容に関与することがそもそもない上、優都は厳しい口調であっても静かに他人を諭す人間だし、雅哉も指示を通す以外で大声をあげる姿はまず見ない。的前に立っている雅哉は、京にもわかるくらい体勢が崩れていて、放った矢は大きく的を逸れて安土に刺さった。

「雅哉! 俺はそんな足踏み教えてねえぞ」

 顧問の声に、雅哉は一瞬びくりと肩を震わせて、「すみません」と声を張って頭を下げた。そのあとも雅哉は櫻林のメンバーと同じかそれ以上の勢いで怒られ続けていて、京たちが翠ヶ崎との雰囲気の違いに驚いていると、近くにいた櫻林の二年生が「びびらせてごめん」と声をかけてきた。

「古いおっさんだからさ。さすがに他校の一年怒鳴ったりはしないと思うから、それは安心して」

「すみません……いつもこんな厳しいんすか」

「俺らは慣れてるから。にしても、雅哉には当りが強い気もするけどな。大人げないからあのひと……」

 元同期のひとりなのだろう、雅哉のことを知っている口ぶりをそう言った彼は、「直ってねえぞ」と眉を顰める顧問の姿を見ながら、声を抑えて肩を竦めた。

 一組から四組までを二周ほど回したあと、松原がマネージャーから受け取った記録を手に、三、四組の方に近付いてきて、「早川くんってだれだっけ?」と由岐の名前を呼んだ。

「僕です」

「弓道高校からって言ってたのって早川くん?」

「はい、そうです」

「へえ、上手いな。上のグループ上がっていいよ。栄治、おまえ今日雑だぞ。一回下がれ」

 松原はその二人以外にも何組かの交代を指示したあと、今度は四組内の立をすこし組みかえ、二、三組間でも同様にメンバーの入れ替えを言い渡した。顧問は松原の横についてその様子を見ていて、ときどき口を開いてはその指示に修正や追加を加えていた。入れ替えが言い渡されているあいだ、櫻林のメンバーの中には名状しがたい緊張感が漂っていて、こころなしか息苦しくなる。

 京たちのグループに移動してきた由岐を、代わりに落とされた部員が眉を寄せてじっと見ている。由岐はその視線に気づいてか、居心地悪そうに身を竦めて立っていた。

「そうだな……坂川くんも上がって。代わりに――」

「啓太だろ。しょうもねえ弓引きやがって。下がれ」

 松原の指示を引き取って、顧問が冷たく宣告した声が道場に響く。潮は表情を変えないまま短く返事をして、松原と顧問のほうと、元居たグループのメンバーに軽く頭を下げ、雅哉のいる二組に移動していった。

「雅哉、次も同じ弓引いたらおまえも下げるぞ」

 顧問は雅哉にそう言い残して、松原の横を離れ、また道場の端へと戻っていった。一組と二組のあいだでは入れ替えはないようで、立のメンバーだけ何人か組み替えると、松原はマネージャーにノートを返し、二週目を始める指示を出し始めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る