3-4

「暑いし、昼はちょっと長めに休憩とろうか。午後は何パターンかメンバーを替えて三人立をやるから、昨日の反省を見直しておけよ。古賀と僕でコメントつけておいたから、参考にして」

 午前の練習が終わったあと、部員を集めて午後の練習を三十分遅らせることを告げた優都は、自分自身は昼食の前後の時間も使って的前に立っていた。昼食後、由岐たちが午後の練習のためにいくらか早めに道場に向かったときには、すでに優都は的前で弓を引いていて、雅哉がそれを後ろから腕を組んで見ていた。優都はいつもの通り背筋を伸ばし、整った型で弓を引き絞り、しっかりと会を持って的を見据え、矢を離した。その一連の動作は淀みなく行われていたように見えたものの、彼の放った矢は的を掠りもせず、優都は射場を退いて雅哉の元に向かったあと、珍しく眉をひそめて溜息をついた。

「別に射型が悪いとも思わねえんだけどな。どうなの、自分の感覚的には」

「なんだろう。違和感はすごいんだけど、よくわからなくて――」

「やりすぎても変な感覚離れなくなるだけだろ。ちょっと本数減らせば?」

「練習してないと不安で余計中らなくなる気がするんだよな……理由もわかってないのに引いても仕方ないのは、そうなんだけど」

 そのあたりまで会話を続けたところで二人は後輩たちが到着しているのに気付いたようで、優都はぱっとこちらを向いて、「早いね、ちゃんと休んだ?」と首を傾げて微笑んだ。

「優都先輩こそ、引き通しじゃねえっすか」

「張り替えたし、数稼ぎたくって」

 潮の言葉に笑みを浮かべたままそう返した優都は、雅哉に「付き合ってくれてありがとう」と頭を下げ、午後の練習が始まるまでのあいだ、潮や由岐の相談に乗ったり射型を見たりとすぐに主将の表情に戻っていた。

 午後の練習は、いろいろな組み合わせで三人立のチームを作り、チーム内で立順などを決めて試合形式を行う、というものだった。午後の練習を始めてからも、優都は納得がいかないという思いが拭いきれないようで、的中率自体がそこまで落ち込んだわけではないにせよ晴れない表情をちらつかせることが増えていた。昼を過ぎて暑さがピークに達した道場では、だれもが目の前のことに精一杯で、必要最低限の声だけが響いてくる。

 何順かを終え、チームごとに休憩と練習の時間を交互にとっていたところで、そのときの由岐のチームは優都と拓斗が一緒だった。他の四人は先ほどの試合の反省と休憩を兼ねて道場を離れているところだ。相変わらず調子の上がらない様子の優都はどことなく険しい表情をしていて、拓斗はいつも通り問われたこと以外はあまり口を開かず黙々と弓を引いている。

 拓斗が翠ヶ崎に入学してきてからまだ四か月ほどではあるものの、この二人の性格があまり相容れないことは部内の暗黙の了解で、公式戦の三人立で二人と同じチームの雅哉が試合のたびに二人の関係に頭を悩ませているということは由岐の耳にも入ってきていた。その気持ちがすこしわかる、と、張りつめた空気の中で息を吐く。由岐からすればどちらもいまのところまったく手の届かない実力を持った選手であり、それぞれ別のベクトルで尊敬に当たる。けれど、近くにいればいるほど、拓斗が優都の実力をさほど認めていないという事実が見えてしまって、彼らのあいだになにひとつ会話がなくとも、視線ひとつで背が冷える。優都自身は拓斗のその態度を身に染みて感じてはいるのだろうが、そのことに対して反論や不満を口にしたことはなかった。

「……森田さん、引き分けのときに肘に頼りすぎじゃねえすか。ちゃんと引き切れてないように見えますけど」

 的前に立っていた優都の射を後ろから見ていた拓斗が、珍しくしびれを切らしたように優都に声をかけた。優都はそれを聞いていたはずが、生返事だけしてその場を離れようとした。拓斗は眉をひそめ、「森田さん?」とすこし語気を強めて彼を呼び止めた。

「え、……ごめん、なんだっけ」

 はっとしたように答えた優都の声はどこか浮ついていて、拓斗は訝しむように彼の肩に手をかけて、顔を覗き込んだ。

「――大丈夫ですか」

 拓斗の問いに返事をする前に、優都の身体はふらりと揺らいだ。危ない、と思う間もなく拓斗が優都の手から弓を取り上げ、優都の身体を片手で支える。そのまま立っていられずしゃがみこんでしまった優都に、拓斗は「それでひとに体調管理がどうとか言えるんですか」と溜息をつき、優都と自分の弓を「立てといて」と駆け寄った由岐に手渡した。優都は一瞬なにかを言おうと口を開いたが、すぐに目を伏せ、「そうだな」とだけ答えた。由岐が拓斗と優都のもとに戻っていったとき、暑さだけでは説明のつかない量の汗が彼の首筋を伝っているのにようやく気が付いた。

「なんか飲むもん出して」と拓斗は由岐に短く声をかける。

 優都は自分ひとりではろくに立ち上がることすらできない様子で拓斗に半ば抱えられていた。拓斗はそのまま彼を壁際まで引きずっていき、壁にもたれかからせた。由岐がジャグからコップに注いだポカリを優都に手渡したとき、優都の手がひどく震えているのがわかった。浅い呼吸をこらえながらコップを口に運ぶ優都の手を支えていると、拓斗が濡らしたタオルを何本か持って戻ってくる。手際よく優都の身体を冷やしながら、「氷は宿舎戻んないとねえか」と拓斗が呟くのが聞こえた。

「どうした、なんかあったか? ……森田?」

 時間になっても呼びに来ないことを訝しんだのか、道場に戻って来た雅哉が異変に気付いて駆け寄ってくると、優都は顔を上げて、雅哉に「ごめん」とだけ言った。

「たぶん、熱中症かなんかだと思います。早川と俺で涼しいとこ連れてって先生に預けてくるんで、古賀先輩あと任せていいすか。説明すんのとかも、見てたやつのほうがいいと思うし」

「――おう、わかった。頼むわ」

「早川、俺先に行って先生に話してくるから、部屋まで森田さん連れて来て。最悪担げる?」

「わかった、大丈夫」

 手早く指示を出して道場を出ていった拓斗を見送って、優都に「歩けますか」と手を貸すと、優都は頷いて、ふらつきつつも自力で立ち上がった。宿舎までの短い道のりは木陰を通ってなんとか歩き通し、建物に入ったところで急に気が抜けたのか、優都は玄関の近くで身をかがめ、そのままうずくまってしまった。「気分悪くないですか」と由岐が問うと、優都は最初こそ首を横に振って「大丈夫」と返していたが、次第に吐き気を抑えるように呼吸が浅くなっていき、まだすこし指が震えたままの手のひらで口元を覆って俯いてしまった。

「吐いちゃって大丈夫ですよ、苦しいですよね」

「……ごめんな、由岐」

「そんな。仕方ないですよ」

「――情けない」

 吐き捨てるように発された言葉は、いままで聞いたことがないほど冷たくて、優都が自分自身にはそういう物言いをするのだということに背筋が冷えた。このひとは、自分自身にあまりに厳しい。彼の弱いところは、きっと、見たことがないのではなくて見せられたことがないだけなのだ。

 拓斗が顧問の先生を連れ、タオルと保冷剤を持って現れたのとほぼ同時に、道場の方からは千尋が姿を見せた。「馬鹿」と言うなり屈みこんで優都の前で溜息をついた千尋は、拓斗から持ち物を受け取って短い言葉で状況を聞くと、顧問と二、三言交わしたのちに、由岐と拓斗に道場に戻るように促した。

「ゆっきー、優都先輩どうしたの」

「熱中症っぽい。気持ち悪そうだったし、ふらふらしてたし」

「大丈夫そう?」

「結構しんどそうだった。意識やばいとかってほどじゃなかったけど……」

 拓斗とともに道場に戻るなり、潮が心配そうな顔で問うてきて、それに答えを返しつつも由岐自身も多少の不安は残っていた。弱り切った優都の姿は、きっと由岐や拓斗どころか、潮や京だってきっと見たことがないのだろう。

「すげえ体温上がってたわけでもねえし、ふらついてたわりに意識はしっかりしてたし、水も自力で飲めてたし、どうにかなるほど重症ではないと思うけど」

 ぶっきらぼうな口調で潮の方は見ずにそう言った拓斗に、雅哉が肩を竦めて「おまえらがすぐ気付いてくれてよかったよ」と声をかけた。

「まあ、とりあえずはおまえらもちょっと休憩しといて。これからどうするか先生に確認とってくるわ。別に練習しててもいいけど、わかってるとは思うが気をつけろよ」

「了解っす」

 後輩たちにそう言い残して雅哉が道場を離れたあと、それぞれがペットボトルやコップに口を付けつつ、しかしなかなか会話は生まれないまま静寂が張りつめていた。いつもであれば真っ先に口火を切る潮も、黙り込んだままタオルに顔を埋めて、しばらくしたあと大きく息を吐いた。

「まじで、優都先輩大丈夫かな。無理してたのかな、先輩そういうのまじ顔に出さねえからな……」

「――あのひとの、そういうところが嫌いなんだよ」

 潮がひとりごちた言葉に切り返したのは、普段あまり自分からものを言わない拓斗の温度の低い声だった。隣でそれを聞きとめた潮は、「どういう意味」と眉を顰める。一瞬で陰を増した雰囲気に、由岐が京の方を見やると、京も困ったように由岐に視線を送ってくる。

「あのひとは、ひとにはいろいろ言うわりに、自分がそれをやらねえし、ひとに無理すんなっつっといて自分が無茶してぶっ倒れる人間が一番信用できねえだろ。見てて腹立つ」

「おまえだってぶっ倒れてたくせによく言うよ。なんなら、優都先輩はおまえと違って周りのことずっと見てたし、気配って仕事もしてたろ。つーか、一番あのひとに面倒かけてんのだれだか自覚ねえのか」

「それこそおまえの言えたことかよ。自分は迷惑かけてねえつもりか」

「はあ? なんで俺がおまえにそれ言われなきゃなんねえわけ?」

 声を荒げることはなくとも苛立ちを隠そうともせず言い合う二人には口を挟むこともできず、そのあいだにも潮と拓斗はいままでに見たこともないくらい感情的なやりとりを続けていた。けれど、優都をだれよりも尊敬している潮が、拓斗が優都のことを好いていないのをわかっていて、こうして拓斗と揉めることがなかったのも、お互いある一定のところで互いに踏み込まず接しようと暗黙の距離を保っていたからなのだろう。

「うーやん、風間、その辺にしといたら」と京が静かに口を挟んだ。

 その言葉に、潮ははっとしたように口をつぐみ、拓斗もそれ以上言葉は続けなかった。

「風間の言いたいことがわかんないわけじゃないんだけどさ、うーやんが、優都先輩のこと悪く言われたら怒るの、風間はわかってて言ったろ。同期四人しかいねえんだし、しなくていい喧嘩すんの俺やだよ」

 京に同意を示そうと由岐が大きく首肯すると、拓斗はすこしだけきまり悪そうに顔を背けて「悪い」と言い、潮も「ごめん」と目を伏せた。

 弓を引く気にもなれずしばらく気まずい空気を持て余していると、雅哉と千尋が何事かを話しながら宿舎の方から近付いてくる物音が聞こえた。しばらくもしないうちに二人は道場に戻ってきて、静まり返っている一年生の姿を眺めながら、千尋が「なんだこの通夜みてえな雰囲気」と呟いた。

「千尋先輩、」

「僕は大丈夫、迷惑かけてごめんなさい、大したことはないから残りの練習しっかりやってくれ。だとさ」

 潮が本題を問う前に優都の口調で答えを返した千尋は、「そんな心配するほどでもねえよ」と続けて、自分の水筒を手に取り、中身を一気に呷った。

「涼しいとこでちょっと休ませたらわりとすぐ元気になってたよ。死ぬほどへこんでたから、まああんまいろいろ言わずに放っといてやって。自分が一番わかってんだろうし」

 千尋の言葉に、先ほど様子を見てきたのだろう雅哉も同意を示し、「気をつけてるつもりでもなるときはなるしな」と言葉を添えた。

 その後雅哉の仕切りに従って午後の練習を終え、優都抜きでミーティングまでを済ませて部屋に布団を敷いているとき、部屋の入口のふすまが何度か叩かれる音が聞こえた。「はい」と近くにいた由岐が返事をすると、「いま大丈夫?」と聞いてきたのは昼間ぶりに聞く声だった。ふすまをゆっくりと開けた優都はすこしばつの悪そうな顔で立っていて、「お疲れさま」と言いながら部屋に上がり、そのまま畳に膝を折って座った。つられて由岐たちも姿勢を正そうとすると、優都は「おまえたちはいいよ」とそれを制した。

「僕が謝りに来ただけだから。――いろいろと迷惑をかけて申し訳ない。なんであれ主将の僕が練習に穴をあけたのは情けないことだし、一番手本にならないところを見せてしまったのも反省してる。自分から言うことでもないんだけど、反面教師にしてほしい。ごめんな」

 そう言って深々と頭を下げた優都に、「そんな謝んないでください」と最初に言ったのはいつも通り潮だった。

「もう平気なんすか? 夕飯食べました?」

「うん、だいぶ休ませてもらったからむしろ元気なくらいだよ。夕飯もさっきいただいたし、大丈夫。心配かけたな」

「ほんとまじで無理しないでくださいね」

 潮の問いに笑って答えた優都は、たしかに顔色もいつも通りで、昼の不調を引きずっている様子もなかった。

「風間、由岐、ありがとう。ちゃんと言えてなかったと思うけど……助けてくれてたよな」

「いや、指示出してくれたの風間ですし……お大事にしてください」

「別に、大したことは。なんともなくてよかったです」

 優都は由岐と拓斗にもう一度軽く礼を言って頭を下げ、「明日、あんまり時間ないから寝る前に荷物直しておけよ」と言って部屋を出ていった。

「優都先輩、大丈夫そうでよかったな」

 京が潮にそう声をかけると、潮も「まじで心配したわ」と安堵の溜息をついた。潮と京は優都が実際倒れたところを見ていないから、余計に不安もあったのだろう。

「なんか、やっぱすごいな」

 由岐がひとりごとのように呟いた言葉は、思いのほか部屋に響いた。単純な尊敬だけではない感情が、ここ数日の優都の姿を見ているとさまざまに渦巻いてくる。

「疲れてるときの態度に性格出るって言うけど、先輩ほんとうにぎりぎりまで顔にも俺たちへの態度にも出さなかったし、なんか、それがいいのか悪いのかは微妙だけど、俺には絶対できないし、すごいなとは思っちゃう」

 うっしーが、先輩のことめちゃめちゃすごいひとだって言うのは結構わかった、と呟いた由岐に、「まあまじで無理はしてほしくねえけどな」と言いつつも潮はどこかうれしそうな表情を見せた。自分の好きなものを、他人にも好きと言われたときの反応だ。そのやりとりを聞いていたであろう拓斗に視線をやると、拓斗は由岐が自分を見ていることに気付いてか、今度はなにかを言うわけではなかったが、わずかに肩を竦めてからふいと目を逸らした。潮は拓斗のそのしぐさに気付いていたようだったけれど、あからさまに視線を向けることはせず、彼に向かってなにかを言うこともなかった。


 翌日、六日目の朝に合宿所をバスで出発したあと、バスの中はものの三十分ほどで寝静まっていた。由岐がしばらくうとうとしたあとぼんやりと眼を覚ますと、拓斗は座席を二席占領して横になっていたし、潮と京はお互いに寄りかかり合うようにして爆睡していた。千尋は頭が窓枠に寄りかかっているのが見えたし、雅哉も、長身の彼の頭が後ろの由岐から見えないということは起きてはいないだろう。優都の姿は由岐の位置からは窺えなかった。欠伸をしながら窓の外を眺めていると、バスはちょうどサービスエリアへの分岐点を曲がるところで、しばらくすると、行きでも利用した規模の大きいサービスエリアに停車した。

 飲み物でも買おうかと由岐がリュックを漁り始めたとき、前の方の席から優都が身を乗り出して後ろを確認したのが見えた。彼は由岐以外全員が目を覚ましもしないことに気付くと軽く苦笑して、顧問と数言話をしたあとバスを降り、その場で由岐が降りてくるのを待っていた。

「お疲れさま。寝てなかったの?」

「お疲れさまです。ついさっき起きたとこです。先輩こそ」

「僕もちょっとうとうとしてたよ。あんまり車で寝るの得意じゃないんだけど」

「僕もです、爆睡はできなくって」

 バスが出るまですこしあるから、建物の中で涼んでいようかという優都の提案に乗って、自販機前のベンチに並んで座る。由岐が買おうとしたペットボトルのお茶は、「由岐には昨日の恩がある」と言い張った優都に押し切られて奢ってもらった。

「先輩、体調平気ですか?」

「うん、心配かけて申し訳ないよ。由岐は大丈夫? 僕らよりもともとの体力はありそうだけど、それにしても、的前に立って数か月でやらせる練習ではなかったような気もしてて。ほんとうに、よく付いてきたよな」

「え、いや、付いてけてた気もしてないんですけど……でも、早く追いつけるようにはなりたいです」

「由岐には期待してるよ。半年も経ってないのにかなりのレベルだし、あと二年でどれくらい伸びるかすごく楽しみだ」

 そう言った優都はほんとうにうれしそうに笑っていて、彼の言葉がお世辞でも空虚な励ましでもないことがはっきりと伝わってくる。魔法のような信頼だと思った。自分のことをまっすぐ見てくれているからこそ出てくる信頼なのだという確信が、あまりに自然に、それに応えたいという思いに共鳴する。「頑張ります」と答えると、優都はまた目を細めて頷いた。

「……僕、優都先輩みたいな先輩に、なりたかったんだと思うんです。中学のとき」

 ずっと頭の隅にあって、言うかどうか悩んでいた言葉は、いつのまにかするりと喉を滑り抜けていた。優都がほのかに目を丸くしたのを見て、思わず「いきなりすみません」と謝ると、優都は首を横に振って、「すごくうれしいけど」と言った。

「そんなふうに思ってもらえてるとは、思わなくって」

「先輩みたいに、後輩の話ちゃんと聞いて、どんなしょうもないことでも絶対馬鹿にしないで一緒に考えてくださって、なにか悩んだり迷ったりしたときに、このひとに相談してみようかなって思えるような先輩に、憧れてたし、俺もそういうふうになりたかったんだなって、優都先輩見てたら思っちゃって。……僕の勝手な理想押し付けてごめんなさい」

 優都に対して覚えていた感情のうち、尊敬と畏怖以外に、わずかにあったものがきっと嫉妬だったのだと合点がいった。自分はこんなふうにはなれないだろうし、事実なれなかった。その思いが、わずかながらこの合宿中ずっと胸の奥に潜んでいた。

「……ありがとう、由岐。僕も、まだまだ駄目だなって思うことはたくさんあるんだけど、それでも、そんなこと言ってくれる後輩がいるなんてものすごく幸せだな」

 優都は、元気が出たよ、と首を傾げてすこし照れたように笑った。その表情が、いつも見ているものより幼く見えて由岐は何度か瞬きをした。いつもは凛とした姿勢と態度を保っている彼は、屈託なく笑うときに限って、同い年の雅哉や千尋に比べてもかなりあどけない表情を見せる。

 「そろそろ戻ろうか」と立ち上がった優都に続いてベンチから腰をあげる。優都が由岐よりもほんの二センチ背が低いことを知っていた。けれど、やはりまっすぐと背を伸ばして歩く彼の姿に、自分の目線の高さとの差を見いだすことは難しく、由岐もこころもち背筋を伸ばして、一歩先を歩く優都の足跡を追いかけた。

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