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夕方、帰宅して玄関に足を踏み入れると、リビングから次兄の吹くトランペットの音色が聴こえてきた。その音の主には視線を向けないようにしながらキッチンに向かい、夕飯の仕込みをしている母に「ただいま」と弁当箱を手渡す。そのまま部屋に戻ろうとすると、母は潮の名前を呼んで息子を呼び止めた。
「学校は楽しい?」
微笑みを張り付けた母の顔にはどこか探るような表情が浮かんでいて、潮は彼女から眼を逸らしたまま、「楽しいよ」と平坦なトーンの声で返した。「そう」と言った母の声にはあからさまな安堵が込められていて、どうにも居心地が悪くなる。自分が嘘をついても彼女がそれに気が付かないことを知っている。この数日、学校が楽しいのは嘘ではないが、それを情感を持って彼女に伝える気もおきなかった。
「お父さんが帰ってきたらごはんにするからね」
「うん、わかった。部屋で宿題やってる」
軽やかに吹き鳴らされるハイトーンが耳に響く。音楽そのものは決して不快ではない。一音の乱れもない、力強く完成された音だ。けれど、その強さも美しさも、直視することはどうしてもできなかった。兄は、潮が帰ってきたことには気付いていただろうに弟に視線をやることも、音を止めて声をかけることもなかった。潮もそれをわかっていて、主題に向かう旋律には背を向けてまっすぐと階段に足を運ぶ。
二階の自室に戻ると、防音加工を施されたドアが兄のトランペットの音色をさえぎって、ようやく息をつくことができた。真新しい制服を脱がないままにベッドに仰向けに寝転がる。知り合いがひとりもいない新しい学校なんかより、この家のほうがよほど窮屈だった。携帯電話を開くと、仲良くしているクラスメイトからメールが数通届いていて、そのすべてが微笑ましくもくだらない内容だった。それを潮を相手に選んで送ってきてくれる相手がいるこということに、呼吸がいくぶん楽になる。そのひとつひとつに、やかましい顔文字と絵文字をふんだんに散りばめながら返信を送る。それなりにうまくはやれている、と自分に言い聞かせたところで、ようやく体を起こしてブレザーを脱いだ。去年の春までは、この制服を着ていることなんて考えもしなかった。
部屋着に着替えてしばらくはまたベッドの上で無為に時間を潰していたが、部屋にたまりこむ静寂に耐えられなくなって、机の上のオーディオに適当なCDを放り込む。最近流行りだというロックバンドは、お世辞にも楽器が上手いとは言い難かったけれど、たしかに若い子どもたちにまっすぐ届く明瞭で装飾のない歌詞を歌っていた。アルバムのリード曲では、キャッチーなメロディが冒頭からすでにもう五回繰り返されている。
音楽を頭の隅に追いやって眼を閉じると、瞼の裏に浮かんでくる姿があった。彼の姿勢の良さと、柔らかくて真摯な言葉と、あのときなによりも正しいと思った弓から放たれる矢の軌跡が、すこしずつ位相をずらしながら繰り返し像を描く。そこに、人生を変えられてしまうと感じるまでの強烈さがあったわけではない。あのとき、彼の弓を見たあとの潮の心はおどろくほどに凪いでいた。なにもかもを踏みにじるような力強さでも、どんな価値にすら勝る凄絶な美しさでもない、穏やかで静かな、それでいて芯を持った正しさ。それが自分のことを打ちのめさないことを知っていたから、あのときあの場でも、なにひとつ変わることなく呼吸ができた。潮がこれまでの十二年間でいっときたりとも手放すことができなかった音という存在を、彼の弓はひとつとして必要としていなかった。あの瞬間を綺麗だと思うことに、音はいらない。その感覚を知ったのも初めてだった。
*
四時間目が終わるチャイムが鳴り、日直の号令で立礼をするとともに一気にざわめきだす教室の雰囲気も、ここ数日間でようやくきちんと思い出すことができてきた。教科書を机にしまい、鞄から弁当箱を取り出すよりも先に、斜め後ろから「うっしー」と自分の愛称を呼ぶ声が聞こえて、軽い返事をしながら振り返る。馴染みになりはじめていたメンバーが教室の一角に机を合わせて集まっていて、そこには潮の分の席がすでに用意されていた。
「今度の日曜さ、俺んち来ないかって話してたんだけど。うっしー暇?」
「え、全然余裕で暇。むしろおまえら部活とかねえの、もう決めてたじゃん?」
「休日練は本入部してからだから、今週はなんも予定ねえの」
「あーね、そりゃいまのうちに遊んどかねえとだな。つーかおまえ家どこだっけ、電車で来てんだっけ?」
淀みなく会話が進んで、あたりまえに話が盛り上がる空間は、なによりも居心地はいいけれど安心しきるにはまだ自信が足りない。グループの中に自分の居場所や立ち位置を見つけることは昔から得意ではあっても、それが些細なことで崩れていくものだということも潮は身に染みて知っていた。必要だと言われたいとまでは望まなくとも、疎まれることだけはどうしても避けてこの場所に居続けたかった。
「あ、てかさ、俺今日当たりそうなとこ全然訳せてねえんだけど。うっしー予習した? ノート見して」
「えっなんで名指し? そんなに俺のことが好きかよ。照れるわ」
「だっておまえ中学受験じゃん、頭いいだろ」
「いやあ、期待してもらっといて悪いんだけど、俺が頭いいように見える? 絶対入試下から数えて何番目とかいうレベルだかんな」
「見えねえけど、多少は期待すんじゃん?」
「即答かよ。頭脳に期待できなくてもうっしーのことは見捨てないでくれよな」
軽口を叩いているうちに、弁当箱の中身は味もよくわからないうちに空になっていた。なにを食べたのかすらろくに思い出せないままそれを片付けて、またどうでもいい会話をいくらか繰り返す。「トイレ行ってくるわ」と潮が席を離れたときには、もう五時間目の授業が始まる十分前になっていた。
「うーやんさあ、結局部活どうするつもりなの?」
六時間目の理科の授業が終わったあと、鞄を担いで潮の席までやってきた京は開口一番そう問うた。あれから京とは何度か一緒に弓道部の活動に足を運んだけれど、潮はいまだに入部の決断を先送りにしていて、気付けば仮入部の期間はあと二日というところまで迫ってきていた。木曜日の今日は弓道部はオフで、活動はない。「悩んでる」と潮が返すと、京は「そっか」と言いながら、空いていた潮の隣の席に腰を下ろした。
「弓道部気に入ってたっぽく見えたけど。他のと迷ってんの?」
「や、そういうわけじゃないんだけど」
潮が他の部活をほとんど覗いていないことは京も知っていただろうが、その曖昧な返事に、彼がそれ以上突っ込んでくることもなかった。「ふうん」とだけ言ってそれを流した京は、相手が口にした以上のことを深く問い詰めることをあまりしない。
「けーくんは? 弓道部どうすんの?」
「入ってもいいなって思うんだけど、うーやんが入んなくて俺ひとりとかになんのはやだなって」
至極まっとうな返事に相槌をうつと、「俺ら以外来てんの見たことないしなあ」と京が呟いた。現在の部員は二人で、三年生はいない。女子部も合わせて数十人の部員を抱える強豪だった時期もあったという話は聞いたが、それももう何年も昔のことで、女子部はだいぶ昔に廃部となり、男子部もいまとなっては中等部がぎりぎり保たれているだけで高等部の方は部員がいなくなって休部状態だということも、いまの主将の優都は隠さずに教えてくれた。そんな瀕死の、しかもさほどメジャーでもない競技の部活をわざわざ選ぶ人間がそうそういないであろうことも想像に難くない。けれど、そのこと自体は潮にとっては大きな問題には思えていなかったし、京のほうも、「めんどくせえ先輩とかいなそうで逆にいいかも」と好意的に捉えてはいるようだった。
「明日には決めるから、もうちょっと悩んでいい? なんかごめんな」
「いいよ、別に。俺帰宅部でもいいし。明日また一緒に行こ」
「ん、ありがと。助かる」
京は、だれにでも気さくで人当たりがいいわりに、いつも他人とのあいだに一定の間隔を持っていて、むやみにひとに踏み込んでいくことをしない。まだ数日の付き合いではあったものの、息苦しさを感じさせない京との会話は心地よかった。へらへら笑って場を盛り上げるのも、にぎやかな輪の中心にいることも、得意だし好きではある。それでも、学校という場所はそもそもが音に溢れすぎている。
今日はこれから初等部からの友人の家に遊びに行くらしい京のことを見送って、教室にひとり取り残されると、開きっぱなしの窓から吹奏楽部の合奏が聴こえてくる。メロディを吹き鳴らすトランペットはあまり上手くもなくて、一番の盛り上がりどころで音を大きく外した。家に帰りたくはなくても、ひとりでこの場所に居続ける気にもなれず、窓も閉めないままただあてもなく鞄を持って教室を後にした。
そのままふらふらと弓道場のほうへ向かったのには明確な理由はなかったけれど、期待だけはすこししていた。校舎を出て体育館の横を通っていくあいだ、運動部の掛け声がいくつも混ざり合って、大きなうねりのようになって鼓膜を揺さぶってくる。あまり気分はよくなかった。静かな場所に行きたい、という思いが潮の足取りを速めていた。決して密室でもない、むしろ外に開かれた建物であるはずのあの場所は、この数日間で潮にとってどこよりも静かな場所だった。
道場の前に辿りつくと、そのひとはちょうどドアに手をかけているところで、潮の気配に気が付いたのかこちらを振り向いた。「あれ」と声をあげた彼は、一瞬目を丸くはしたものの、すぐにいつものように微笑んで、「どうしたの」と潮に問うた。
「もしかして、僕、今日オフだって言い忘れてたっけ」
「あ、いや、聞いてたんですけど――先輩、いるかなって思って。邪魔だったら帰ります、ごめんなさい」
「ううん、構わないよ。どうかした? 相談なら聞こうか」
「ええと、相談っていうか……」
なにから話し出すかを悩む潮を優都は部室の中に押し込んで、部屋の真ん中に据えられた長椅子に座らせ、自分もその隣に腰かけた。優都は、改めて隣に並んでみると、弓を引いていたときのあの存在感とのあいだに違和を覚えてしまうほど小柄で線が細い。いつでも背筋を伸ばしたままはっきりとした言葉を選ぶ彼は、会話をしているとそれだけでいくらか大きく見えてしまう。
「先輩、オフの日なのに練習してるんですか?」
「うん、いつもってわけではないけど、できるときはするようにしてる」
「すごいっすね……大変じゃないんです?」
「やりたくて勝手にやってるだけだから、大丈夫。僕、弓を引くの好きだし」
あっけらかんと言ってのけた優都に、「練習邪魔してすみません」と潮が頭を下げると、優都は眼を細めて「全然」と首を横に振った。
「弓道、興味持ってくれた?」
「先輩の、弓道がきれいだなって思ったのはほんとなんですけど、自分がやるとなると……って、ちょっと悩んでて。矢崎先輩から、森田先輩は都内でもかなりうまい選手だって聞いたし、めっちゃ本気でやってるんだろうなってのも、思いますし」
「本気でやれる自信がなくて迷ってるってこと?」
「そう、っすね。それが嫌とかじゃなくて、なんていうか、入ったらちゃんと真面目にやろうってのは思うし、やりたいとも思うんですけど、……なにかに本気になるのって、簡単なことじゃないって、思うから」
この場所に来るまでうまく消化しきれていなかった思いは、優都の横に座った途端、不格好とはいえ思ったよりもすぐに言葉になった。優都は潮の語ったことを聞き、「そうか……」とすこし考え込むように宙を眺めてしばらく黙り込んだ。クラスにいるときとは違って、優都が言葉を探しているあいだの沈黙には気まずさを感じなかった。あちこちに溢れる音から逃げるようにここにやってきた潮にとって、その静寂はむしろ快かった。
「別に本気になれなくたっていいよとは、僕は言えないけど、なにかに本気になるっていうのは、そんなに劇的だったり、なにか――息苦しいようなものでも、ないんじゃないかとも思うな」
ゆっくりと表現を選んで発された優都の声は、ひどく柔らかい音で潮の鼓膜に届いた。そんなに、という言葉が指すものに、自分の内側を覗きこまれたような心持がしてわずかに肌が熱くなる。
「人生を全部賭けるとか、それを生活の最優先にするとか、そういうのだけが本気になるってことじゃないし、少なくとも、ここに来て弓を握るときだけは、そのことに対して一途であってくれればそれでいいと僕は思ってる」
ドアの隙間から入り込んでくる風の音も人の声も物音も、優都の言葉の邪魔をすることはなかった。世界が変わったような衝撃があったわけではないし、強い驚きや感動を覚えたわけでもない。完全に納得ができるわけでもない。けれど、彼が発した柔らかな言葉に包まれた、たおやかで強い意志はなにに遮られることもなく潮の心臓の中心に届いていた。彼の言葉と、この空間そのものが、優都の引いたあの弓と同じ音をしていた。
「僕から求めるものはそれだけだし、あとは、他にどんな理由があってもなくても関係なく、僕はおまえを歓迎するよ。――潮」
おまえ、という二人称がどこか特別なもののように響いた。いまどきの男子には珍しく、だれに対しても僕という一人称を使う優都は、その印象に違わず強い言葉も口調もほとんど使わないが、その呼び方だけが不自然なまでに力を持っていた。それでも、優都にそう呼ばれることは、威圧的でも支配的でもなく、むしろどこか寄り添うような体温さえもあり、おどろくほどすとんと潮の胸に落ちてきた。
なにひとつうまく言えないままわずかに俯いて座っていた潮に、優都は言葉を急かすことはしなかった。会話を繋げられなくても、笑いを絶やさないでいる努力ができなくても、このひとなら許してくれるという安心感が、ここ数日間絶えず聴こえ続けていた雑音を緩やかに消し去っていく。「森田先輩」とようやく名前を呼ぶと、彼は穏やかに「優都でいいよ」と返した。
「優都先輩の弓を、もう一回、見せてほしいです」
それ以外にいまここでいうべき言葉が見つからなかった。優都は顔を上げた潮にしっかりと視線を合わせたまま、「もちろん」と眼を細め、すこし首を傾げて微笑んだ。
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